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酒は寝かせる、愛は寝かせない

酒は寝かせる、愛は寝かせない

By:  灯月Completed
Language: Japanese
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朝倉蓮(あさくら れん)はワイン醸造家だ。 彼は、何をするにも酒造りと同じで、じっくり時間をかけるべきだと信じている。 5年間の恋人生活で、私――高瀬真帆(たかせ まほ)が蓮を必要としたときに、彼が間に合ったことは一度もなかった。 「急がば回れ」は彼の口癖だった。 交際5周年の旅行。彼が空港に現れるのがあまりに遅れたせいで、私が3年も楽しみにしていた北欧のオーロラを見逃した。 婚約の席では、彼がホテルに現れるのがあまりに遅すぎたせいで、すべての段取りが台無しになっていた。 両親は何度も頭を下げ、親戚や友人一人ひとりに謝り続けた。 私が40度の高熱を出したときも、彼の帰宅はあまりに遅すぎた。 医師には、あと少し遅れていたら、脳に一生残る障害が出ていたかもしれないと言われた。 私は、それも彼の職業柄なのだと思っていた。 信号無視によって出された青切符を見るまでは。 どの違反区間も、蓮が水野紗季(みずの さき)の家へ向かうときに必ず通る道だった。 昨日、ワイナリーへ蓮を訪ねたときのことを思い出した。 販売担当の紗季が、首をかしげながら私のそばへ寄ってきた。 「真帆さん、羨ましいです。蓮さんって、本当に優しいですよね。 昨日、うちが停電して一人で怖がってないか心配してくれて、5分で駆けつけてくれたんです…… 10キロもある道のりなのに」 私は切符を見つめた。 胸の奥が引き裂かれていくようだった。 もういい。 彼がそんなつもりなら、私も待つのをやめよう。

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Chapter 1

第1章

着替えを済ませてクローゼットを出ると、蓮からLINEが届いていた。

【家にある酒造技能検定の資料、持ってきてくれ。紗季が使うから】

【返事は?あまり待たせるんじゃない】

……

わずか1分の間に、蓮から十数件ものメッセージが届いた。

返信しようとしたところで、蓮から電話がかかってきた。

「早く資料を持ってきてくれ。こっちは急いでるんだ。ぐずぐずするな」

私は午後から受ける翻訳資格試験の受験票を握りしめ、唇を噛んだ。

「その試験って、まだ3か月先でしょう?そんなに急ぐ必要あるの?」

「紗季はいつも残業してまで手伝ってくれてるんだ。

時間がないんだよ。それくらいの頼みも、聞けないのか?」

スマホの向こうから聞こえてくる声に、私は一瞬ぼんやりした。

蓮にも、急ぐことがあるんだ。

「……分かった」

電話を切ると、配送代行サービスを探し、資料を紗季の自宅まで届けてもらうよう手配した。

出かける前から言い争うために気力を使いたくなかった。

それに、5年続いた関係に、最後くらいは少しだけ体裁を残しておきたかった。

けれど、そう簡単にはいかなかった。

翻訳資格試験まで、あと1時間。

バッグを手に取り、家を出ようとした。

そのとき、正面から蓮と鉢合わせした。蓮は私を見るなり、怒りをあらわにした。

その後ろには紗季が立っていた。

目には涙を浮かべ、今にも泣き出しそうな顔をしている。

「よくもこんなくだらないマネをやってくれたな」

蓮はそう言って、束になった写真を私の顔に投げつけた。

拾い上げてみると、目を覆いたくなるような卑猥な写真ばかりだった。

写真に写る紗季の顔は、後から合成されたものであることが誰の目にも明らかだった。

私は呆然とした。

「俺が頼んだのは資料を届けることだけだ。

それなのに、どうしてこんな下劣な真似をする?

紗季を侮辱するために、こんな写真を送りつけるなんて」

蓮が私の顔を指差した。

その腕が大きく動いた拍子に、靴箱の上に置いてあった花瓶が倒れた。

ガラスが床に散らばり、その破片が一瞬で私のふくらはぎを切り裂いた。

「違う。私が送ったのは試験の資料だけ」

私は勢いよく顔を上げ、まっすぐ蓮を見つめた。

蓮は私を見て、わずかに目を見開いた。

「うっ……ごめんなさい、真帆さん。

真帆さんが私に不満があるのは分かっています。

蓮さんが私のことを気にかけてくれるのが嫌なんですよね。

でも、いくら嫉妬したからって、こんな写真を送りつけて脅すなんて……」

紗季は下唇を噛み、怯えた子猫のように身を縮めていた。

その姿は、誰が見ても庇いたくなるようなものだった。

紗季は高校時代の後輩だ。

2年前、北原市で男に騙され、持っていた金をすべて奪われたうえ、その男のために3度も中絶させられた。

行き場をなくした紗季を、私は半年以上、自分の家に置いていた。

お金を一銭も取らなかった。

今の仕事だって、私が探してやったものだった。

私はあれだけ親身になって尽くした。

それなのに、返ってきたのがこれだった。

私は乱れそうになる呼吸を整え、紗季へ視線を向けた。

「どうして私だって決めつけるの?証拠はあるの?」

「確かに、写真を封筒に入れるところを直接見たわけじゃありません。

蓮さん、真帆さんが違うって言うなら、もういいじゃないですか」

紗季は俯いたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。

「この荷物を送ったのはお前だろ。他に誰がいる?とにかく、早く紗季に謝れ」

蓮の冷たい目を向けられ、胸が詰まった。

まだ言いたいことはあった。

けれど、時間は刻一刻と過ぎていく。

試験会場へ急がなければならない。

私は玄関のドアを開けた。

次の瞬間、蓮に手首をつかまれた。

強く握られ、振りほどくこともできない。

「紗季に謝らないなら、どこにも行かせないぞ!

さっきの俺のやり方は、確かに少し焦りすぎていたな。

やはりこういうことは、こんな風にゆっくり解決するものなんだ」

蓮は一言一言、噛みしめるように言った。

その声だけが、妙にはっきりと耳に残った。

手首に食い込む指に、さらに力が加わる。

動こうとするたびに痛みが走った。

ふくらはぎの傷と手首の痛みがじわじわと広がり、やがて胸の奥まで届いてくるようだった。

この試験のために、私は半年以上準備してきた。

合格する自信だってあった。

絶対に、このチャンスを失うわけにはいかない。

私はこみ上げてくる涙を必死にこらえた。

「……ごめんなさい、紗季。私が悪かった。どうか許して」

「謝ってくれたなら、もうこの話は終わりにしましょう。

私だって、そんなに心の狭い人間じゃないですから」

紗季はそう言って、私の腕に自分の腕を絡めた。

その口元に浮かんだ笑みを、私は見逃さなかった。

「送っていくよ」

蓮の表情から、わずかに険が取れた。

「いい」

私は腕を引き抜き、バッグを手に玄関へ向かった。

「お前の車なら、もう洗車に出してる。

それにここは郊外だから、タクシーもすぐには捕まらないだろう」

結局、私は2人と一緒に車に乗るしかなかった。

「もっと急げない?遅れちゃう」

時間を計算しながら、私はバッグの持ち手を指先で何度も握り直した。

それでも蓮は、いつもと変わらず焦る様子がない。

「紗季は車に酔いやすいんだ。そんなに飛ばせない。

運転も酒造りも同じだ。急ぐものじゃない」

頭の中に、例の青切符が浮かんだ。

私は突然、吐き気を覚えた。

試験会場に着いたとき、試験監督は淡々と告げた。

「申し訳ございませんが、規定の入室限度時刻を1分過ぎておりますので、これより先の入室・受験は認められません……残念ですが、次回また出直してください」

私は脱いだハイヒールを手にしたまま、目の奥が熱くなるのを感じていた。

スマホを開く。

涙がぽろりと画面に落ち、光が滲んでいく。

私は蓮にメッセージを送った。

【蓮、もう別れよう】

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第1章
着替えを済ませてクローゼットを出ると、蓮からLINEが届いていた。【家にある酒造技能検定の資料、持ってきてくれ。紗季が使うから】【返事は?あまり待たせるんじゃない】……わずか1分の間に、蓮から十数件ものメッセージが届いた。返信しようとしたところで、蓮から電話がかかってきた。「早く資料を持ってきてくれ。こっちは急いでるんだ。ぐずぐずするな」私は午後から受ける翻訳資格試験の受験票を握りしめ、唇を噛んだ。「その試験って、まだ3か月先でしょう?そんなに急ぐ必要あるの?」「紗季はいつも残業してまで手伝ってくれてるんだ。時間がないんだよ。それくらいの頼みも、聞けないのか?」スマホの向こうから聞こえてくる声に、私は一瞬ぼんやりした。蓮にも、急ぐことがあるんだ。「……分かった」電話を切ると、配送代行サービスを探し、資料を紗季の自宅まで届けてもらうよう手配した。出かける前から言い争うために気力を使いたくなかった。それに、5年続いた関係に、最後くらいは少しだけ体裁を残しておきたかった。けれど、そう簡単にはいかなかった。翻訳資格試験まで、あと1時間。バッグを手に取り、家を出ようとした。そのとき、正面から蓮と鉢合わせした。蓮は私を見るなり、怒りをあらわにした。その後ろには紗季が立っていた。目には涙を浮かべ、今にも泣き出しそうな顔をしている。「よくもこんなくだらないマネをやってくれたな」蓮はそう言って、束になった写真を私の顔に投げつけた。拾い上げてみると、目を覆いたくなるような卑猥な写真ばかりだった。写真に写る紗季の顔は、後から合成されたものであることが誰の目にも明らかだった。私は呆然とした。「俺が頼んだのは資料を届けることだけだ。それなのに、どうしてこんな下劣な真似をする?紗季を侮辱するために、こんな写真を送りつけるなんて」蓮が私の顔を指差した。その腕が大きく動いた拍子に、靴箱の上に置いてあった花瓶が倒れた。ガラスが床に散らばり、その破片が一瞬で私のふくらはぎを切り裂いた。「違う。私が送ったのは試験の資料だけ」私は勢いよく顔を上げ、まっすぐ蓮を見つめた。蓮は私を見て、わずかに目を見開いた。「うっ……ごめんなさい、真帆さん。真帆さんが私に不満
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第2章
【別れる?いい歳して、今さらそんなマネするのかよ。そもそも、お前は俺なしじゃ生きていけないだろ】想像できる。このメッセージを送る蓮は、鼻で笑っているだろう。私は彼を相手にしなかった。家に戻ると、荷物をまとめ始めた。そのとき、スマホの画面がふっと明るくなった。紗季がSNSに投稿したものだった。写真に写っていたのは、蓮のワインセラー。そこには赤ワインが整然と並び、全部で52本もあった。投稿には、こう添えられていた。【ただ1人の特別な人に捧げる♡】そのワインには見覚えがあった。カロン・セギュール。ハートの形をしたラベルが特徴のワインだ。蓮は以前、このワインを「愛のワイン」と呼んでいた。揺るぎない愛情と、ただ1人だけを特別に想う気持ちの象徴なのだと。結婚式の日に、私に贈るつもりだと言っていた。でも今、それはもう私のものじゃない。このワインを私が受け取ることも、もうない。それでも、ここだけは蓮のもとを離れる前に1度、行っておかなければならなかった。1年前、妹の高瀬遥(たかせ はるか)が私のために1本のワインを預けてくれた。私が結婚するときに取りに来ればいいと言って。でも、もう結婚することはない。なら、あのワインを預けておく必要もない。スタッフに預かり台帳を見てもらい、しばらく探してもらった。けれど、いくら探しても見つからなかった。「何を探してるんだ?」蓮が紗季を連れて、こちらへ歩いてきた。「遥が私のために預けてくれたワイン。ずっと見つからないの。別の場所に置いてあるのかもしれない」「もう探さなくていい。俺が紗季にやった」蓮は当然のように言った。私の顔を見ることすらなかった。「そんな勝手な!あれは遥が私に残してくれた、最後の形見なのに!」信じられなかった。体が小さく震えた。「真帆さん、ごめんなさい。全部私のせいです。あのワインを1度も飲んだことがなくて、飲んでみたいって言ったから……どうか蓮さんをせめないでください」紗季はみるみる目を赤くした。まるで私が悪者であるようだった。「おおげさだな。たかがワイン1本だろ。それに、遥はもう死んでる。置いておいたって、場所を取るだけだ」蓮の声が低くなる。「ワインならここにいく
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第3章
蓮は丸3日間、家に帰ってこなかった。もう彼のことなどどうでもいい。どうせあと数日もすれば、すべて終わるのだから。私は法律事務所を出ると、南川国際学園の校長に返信した。【必要な手続きはすべて済ませました。来週からよろしくお願いします】家の前まで来たところで、焦げたような匂いが鼻を突いた。これは……まさか、火事?私は慌ててドアを開けた。そこで目に飛び込んできた光景に、目の前が真っ暗になった。蓮と紗季が、1つの箱を燃やしていた。その箱に入っていたのは、すべて遥の遺品だった。遥が最後に私に残してくれた、ほんのわずかな思い出の品だった。双子の妹だった遥とは、幼い頃からずっと仲がよかった。物心ついた頃から、何をするにもいつも一緒だった。私にとって、遥はまさしくもう1人の分身のような存在で、いつしか私の人生から切り離すことのできない、大切な一部になっていた。そんな遥は、去年山間部へ向かう途中、交通事故に遭って突然亡くなった。両親は深い悲しみに暮れ、一晩で髪が白くなったほどだった。私は3日3晩、遥の遺体のそばを離れなかった。泣き続けて、目が潰れてしまうんじゃないかと思うほどだった。そんな私に寄り添ってくれたのが蓮だった。蓮に支えられるうちに、私は少しずつ立ち直っていった。癒えることのない悲しみも、ほんの少しだけ和らいでいった。遥が私の命そのものだと、蓮だって知っていたはずなのに。それなのに、どうして……「何してるのよ!?」私は声が枯れるほど叫んだ。夢中で駆け寄り、2人を押しのけて、必死に火を消そうとした。でも、間に合わなかった。残ったのは、遥の日記帳だけだった。私は炎の中へ手を伸ばした。手の甲がみるみる赤くなっていく。それでも痛みなど構わず、日記帳を火の中から拾い上げた。私は2人を睨みつけた。目に宿った怒りが、そのまま炎になって燃え上がりそうだった。「もういい加減にしろよ」蓮は突然帰ってきた私に、あからさまに苛立っていた。「どの口がいうの?そもそも私の私物を燃やしてるのはあなたたちでしょう?」肩が自分の意思では止められないほど震えていた。それに対し、蓮は淡々と言った。「紗季はお前に突き飛ばされてから、ずっと体調がよくない。占
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第4章
私は床に這いつくばり、半ば取り乱しながら、散らばった破片を1つずつ拾い集めた。灰色の粉が、血の滲んだ指にまとわりつき、たちまち赤く染まっていく。「高校1年のとき、あなたがいじめられていたでしょう。遥が、あなたの代わりにいじめる人たちと喧嘩して、最後は学校から処分まで受けた。高校3年のときは、両親が離婚して誰もあなたの面倒を見てくれなかった。そんなあなたに、遥は毎日お弁当を届けていた。3年前、あなたは前の男に酷い目に遭わされて、流産して死にかけた。そのとき、真夜中にあなたを病院へ連れて行ったのも遥だった。それなのに、どうして……」喉が詰まり、声にならなかった。紗季は爪を弄びながら、まるで他人事のような顔で私を見た。「真帆さん、私だってわざとやったわけじゃないですよ。ちゃんと受け取れなかったそちらが悪いんじゃないですか?蓮さん、真帆さんが私に罪悪感を押しつけようとしてるんです。私の命って、そんなに軽いものなんですか?亡くなった人よりも大切にしてもらえないなんて……」紗季は、いかにも傷ついたような顔をした。「もういい、真帆。いい加減にしろよ!」蓮は眉をひそめた。2人の白々しい顔を見ているうちに、突然、息が苦しくなった。次の瞬間、心臓が激しく脈打った。何年も抑え込んできた喘息が、再び発作を起こしたようだ。「蓮……病院に連れていって。喘息が……発作が出てる……」私は両手を床につき、激しく肩を震わせた。「真帆さん。まさか、そんなに演技が上手だったなんて」紗季は勝ち誇ったように笑い、私を見下ろした。「紗季、行こう。こいつがそんなに芝居が好きなら、1人で好きなだけやってればいい」蓮は襟元を整えると、死にかけている私を冷たい目で一瞥した。そして紗季を連れて、そのまま出ていった。息ができない。どんどん呼吸が苦しくなり、意識が遠のいていく。頭の中では、ただ耳鳴りのような音だけが鳴り響いていた。そして、意識が完全に途切れた。目を開けると、頭上には淡いベージュ色の天井があった。周囲には、消毒液の匂いが充満している。意識を失う直前、私はスマートウォッチの緊急通報ボタンを押していた。そのあと、警察が私を病院まで運んでくれたらしい。起き上がろうとしたそ
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第5章
蓮は勢いよく立ち上がり、紗季を鋭く見つめた。「これは、どういうことだ?」紗季は投稿を何度も読み返した。画面をなぞる指が、止めようとしても止まらないほど震えている。真帆が投稿したんだ!間違いない。あの女に決まっている。でも、どうして知ってるの?紗季の頭が、目まぐるしく回転する。真帆には証拠なんてない。そうよ。証拠があるなら、とっくに警察に通報しているはず。わざわざ匿名で投稿する必要なんてない。きっとそういうことだ!そう考えた途端、紗季は少しずつ冷静さを取り戻した。そして、赤く潤んだ目で蓮を見上げる。どうすれば1番弱々しく見えるかを計算するように顔を傾け、蓮に訴えかけた。「蓮さん、見てください。これ、絶対に真帆さんが投稿したんです。私が人を殺したなんて……あまりにも酷すぎます。私が蓮さんを奪ったことをずっと恨んで、仕返ししようとしてるんです。私たちをめちゃくちゃにするつもりなんですよ!」今にも泣き出しそうな紗季を見て、蓮の心が揺らいだ。「ごめん。疑って悪かった。紗季みたいな優しい人が、投稿に書かれてるような人殺しなんてするわけない。明日の株主総会で投資を取り付けたら、あの女とはきっぱり別れる。俺だって、もう何年も我慢してきたんだ」そう言って、蓮は紗季の髪にそっと口づけた。まるで、私の行く末はもう決まったとでも言うように。午前8時。目覚ましが鳴ると、私は目を覚まし、弁護士から送られてきた資料をダウンロードした。遥が誕生日に贈ってくれたハイヒールを履き、ワイナリーへ向かった。「なんで今来たんだ?午後から来いって言っただろ」私を見るなり、蓮はあからさまに不機嫌そうな顔をした。「午前中のほうが、英語は頭に入りやすいから」私は淡々と答えた。「何考えてるんだ?今は大事な話をしてるんだ。さっさと帰れ!」「そうですよ、真帆さん。場所もわきまえないなんて、あまりにも非常識ですよ」紗季は目を伏せ、指先で乱れた髪をそっと耳にかけた。その仕草は妙に上品で、いかにも育ちのいい女性を装っているようだった。2人が息ぴったりに私を追い払おうとするのを見て、私は思わず笑った。蓮の面子を立てるため、私はこれまでワイナリーの細かな経営には、ほとんど口を出さず、すべて
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第6章
「必要な資料は、もう全部警察に提出したわ。近いうちに、これまでの報いを受けることになるでしょう」私は蓮をまっすぐ見つめた。冗談でも脅しでもない。その真剣な眼差しを前にして、蓮の顔からようやく余裕が消えた。「俺はワイナリーの経営者として、ちょっと金を融通したくらいで、お前が言うほど大げさなことじゃないだろ。なあ、ここは俺たちだけで話をつけないか?警察まで巻き込む必要なんてない」「そう?私は必要だと思うけどね」そこで我慢できずに口を挟んだのは西村秋(にしむら あき)。私の友人であり、株主の1人でもある。「必要があるよ。そもそも私は、真帆の顔に免じて、あなたがまともな経営者だと見込んでいたからこそこのワイナリーに出資したのよ。まさかあなたが経営者として何年も裏でこんなことやっていたなんて。あなた、本当に最低ね」蓮は私を見ると、必死に取り繕うような笑みを浮かべた。「真帆。俺のことを愛しているだろ?まさか、本気で俺をどうにかするつもりじゃないよな?」蓮は歪んだ笑顔で私に媚びるように近づいてきた。まだ私の中に残っているはずの愛情を、必死に呼び戻そうとしている。けれど、もう何もかも遅かった。私は紗季へ視線を移した。「あなた、蓮のことが大好きなんでしょう?」手の中でボールペンをゆっくり回しながら、私は淡々と問いかけた。「だったら、刑務所まで一緒についていってあげたら?」「何を言ってるんですか?私には何のことかさっぱり分かりません」ここまで追い詰められても、紗季はまだ何も知らないふりを続けていた。まるで、自分が浮気相手だったことも、遥を死なせたことも、すべて知らぬ存ぜぬと言わんばかりに。「じゃあ、もっと分かりやすく説明してあげる。あなたにも、ここにいる全員にもね」私は腕を組み、紗季から目を逸らさなかった。「私、用事がありますので、先に失礼します」紗季はバッグを手に取ると、逃げるように会議室の出口へ向かった。私は目配せして、警備員に彼女を止めさせた。「ちょっと!何のつもり!?こんなの不法監禁よ!訴えるからね!」紗季は顔を真っ赤にして私を怒鳴りつけた。「そんなことより、これを見てもらいましょうか」私はプロジェクターを操作し、ドライブレコーダーから復元した映像
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第7章
紗季の後を追うように、蓮も警察に連れて行かれた。刑務所に入るのをどうにか免れようと、蓮の両親はあちこちで金を借り始めた。だが、これまで付き合いのあった親戚や友人たちは関わりを持つことを恐れるように、次々と距離を置いていった。蓮の両親は所有する不動産をすべて売り払い、どうにか蓮が私的流用した金を穴埋めした。弁護士によれば、起訴を免れるには、私からの許しを示す書面が必要らしい。朝早く、私は玄関先で蓮の両親に待ち伏せされていた。「真帆さん、お願いだから蓮を許してやって。あの子はあの女に誘惑されただけなのよ。世の中の男なんて、誰だって1度くらい間違いを犯すでしょう?今回だけは、どうか許してあげて」「そうだ。真帆さんだって、いずれはうちの家族になるつもりだったんだろう。ここまで大事になって、蓮も自分が悪かったと分かってるんだ。もう十分だろう。これ以上騒ぎ立てるのはやめてくれ」父親まで、当然のことのように母親の言葉に便乗した。この厚かましい2人を見て、私はようやく分かった。蓮がこんな人間になった理由が。いや……もしかしたら、蓮は最初からこういう人間だったのかもしれない。ただ、今まで隠すのが上手かっただけなのだ。「私と蓮は、とっくに別れています。あの人がどうなろうと、私にはもう関係ありません」「そんな冷たいこと言わないでちょうだい!あなたたちには5年の絆があるのよ!」「結婚したって離婚することはあるでしょう。5年くらい、何だっていうの?もう帰ってください。これ以上ここに居座るなら、警察を呼びますから」私は冷たい目で2人を見つめた。「一体どんな手を使ってワイナリーを奪ったのか知らないけど……あれはもともとうちの息子のものなのよ!」こちらが何を言っても無駄だと分かると、蓮の母親はついに取り繕うのをやめた。そう吐き捨てると、私に向かって手を伸ばしてきた。私は体を横にずらした。勢いのついた彼女は足元がもつれ、そのまま地面に転がった。「警察を呼んで!警察を!この女、私を突き飛ばしたのよ!絶対に刑務所に入れてやる!」蓮の母親は地面に座り込んだまま、大声で喚き散らした。「この人でなし!」蓮の父親も、私の顔を指差しながら罵声を浴びせてきた。そして、私に手を出そう
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第8章
紗季は重罪人として手錠と足かせをつけられ、刑務官に連れられて法廷へ入ってきた。髪は脂で頭皮に張りつき、顔色は青白い。頬はこけ落ち、頬骨だけがわずかに浮き出ている。目には、もう光もなかった。かつての面影は、どこにも残っていない。法廷の傍聴席は、記者たちで埋め尽くされていた。社会に大きな衝撃を与えた事件だけに、各方面から判決の行方が注目されている。裁判官が立ち上がり、紗季の犯した罪を一つひとつ読み上げていく。そして最後に、判決を言い渡した。「被告人・水野紗季は車両を故意に破壊して人を死亡させた罪により、死刑に処する」「死刑」という言葉を聞いた瞬間、紗季の瞳孔が大きく開いた。親指で、何度も爪の端を引っかいている。刑務官が彼女を連れていこうとした、その瞬間だった。「嫌!死にたくない!」紗季は絶望したように叫び、前へ進もうともがいた。手錠が手首に食い込み、赤い跡がいくつも浮かび上がる。刑務官は彼女の体を力ずくで押さえつけ、そのまま法廷の外へ引きずっていった。私は両親とともに裁判所を出て、遥が生前いちばん好きだったユリの花束を買った。「遥。紗季に死刑判決が下ったよ。あなたを苦しめた人は、ようやく報いを受けたの」私は遥の墓前に花束を供えた。風が吹き抜け、清らかな香りがゆっくりと辺りに広がっていく。私は墓石に刻まれた遥の名前を、そっと撫でた。昔、何度も遥の頭を撫でていたときと同じように。「遥、安らかに眠って。私も、これからはちゃんと前を向いて生きていくから。来世でも、また姉妹になろうね」南川へ戻ると、私の毎日は以前と変わらず、穏やかで静かだった。まるで、あれほどの出来事など何もなかったかのように。「高瀬さん、明日から新しい映画が始まるんですだけど……よかったら一緒に観に行きませんか?」桐生瑛司(きりゅう えいじ)はわずかに喉を動かしながら、私の返事をうかがっていた。断られるのが怖いらしい。「うーん、どうしようかな」私はわざと考え込むふりをした。「そこまで一生懸命誘ってくれるなら、仕方ないわね。付き合ってあげる」瑛司の口元が、抑えきれないように緩んだ。瑛司は、私が南川へ引っ越してきた初日に知り合った隣人だった。荷物が多かった私を見て、彼が運ぶのを手伝
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