LOGIN朝倉蓮(あさくら れん)はワイン醸造家だ。 彼は、何をするにも酒造りと同じで、じっくり時間をかけるべきだと信じている。 5年間の恋人生活で、私――高瀬真帆(たかせ まほ)が蓮を必要としたときに、彼が間に合ったことは一度もなかった。 「急がば回れ」は彼の口癖だった。 交際5周年の旅行。彼が空港に現れるのがあまりに遅れたせいで、私が3年も楽しみにしていた北欧のオーロラを見逃した。 婚約の席では、彼がホテルに現れるのがあまりに遅すぎたせいで、すべての段取りが台無しになっていた。 両親は何度も頭を下げ、親戚や友人一人ひとりに謝り続けた。 私が40度の高熱を出したときも、彼の帰宅はあまりに遅すぎた。 医師には、あと少し遅れていたら、脳に一生残る障害が出ていたかもしれないと言われた。 私は、それも彼の職業柄なのだと思っていた。 信号無視によって出された青切符を見るまでは。 どの違反区間も、蓮が水野紗季(みずの さき)の家へ向かうときに必ず通る道だった。 昨日、ワイナリーへ蓮を訪ねたときのことを思い出した。 販売担当の紗季が、首をかしげながら私のそばへ寄ってきた。 「真帆さん、羨ましいです。蓮さんって、本当に優しいですよね。 昨日、うちが停電して一人で怖がってないか心配してくれて、5分で駆けつけてくれたんです…… 10キロもある道のりなのに」 私は切符を見つめた。 胸の奥が引き裂かれていくようだった。 もういい。 彼がそんなつもりなら、私も待つのをやめよう。
View More紗季は重罪人として手錠と足かせをつけられ、刑務官に連れられて法廷へ入ってきた。髪は脂で頭皮に張りつき、顔色は青白い。頬はこけ落ち、頬骨だけがわずかに浮き出ている。目には、もう光もなかった。かつての面影は、どこにも残っていない。法廷の傍聴席は、記者たちで埋め尽くされていた。社会に大きな衝撃を与えた事件だけに、各方面から判決の行方が注目されている。裁判官が立ち上がり、紗季の犯した罪を一つひとつ読み上げていく。そして最後に、判決を言い渡した。「被告人・水野紗季は車両を故意に破壊して人を死亡させた罪により、死刑に処する」「死刑」という言葉を聞いた瞬間、紗季の瞳孔が大きく開いた。親指で、何度も爪の端を引っかいている。刑務官が彼女を連れていこうとした、その瞬間だった。「嫌!死にたくない!」紗季は絶望したように叫び、前へ進もうともがいた。手錠が手首に食い込み、赤い跡がいくつも浮かび上がる。刑務官は彼女の体を力ずくで押さえつけ、そのまま法廷の外へ引きずっていった。私は両親とともに裁判所を出て、遥が生前いちばん好きだったユリの花束を買った。「遥。紗季に死刑判決が下ったよ。あなたを苦しめた人は、ようやく報いを受けたの」私は遥の墓前に花束を供えた。風が吹き抜け、清らかな香りがゆっくりと辺りに広がっていく。私は墓石に刻まれた遥の名前を、そっと撫でた。昔、何度も遥の頭を撫でていたときと同じように。「遥、安らかに眠って。私も、これからはちゃんと前を向いて生きていくから。来世でも、また姉妹になろうね」南川へ戻ると、私の毎日は以前と変わらず、穏やかで静かだった。まるで、あれほどの出来事など何もなかったかのように。「高瀬さん、明日から新しい映画が始まるんですだけど……よかったら一緒に観に行きませんか?」桐生瑛司(きりゅう えいじ)はわずかに喉を動かしながら、私の返事をうかがっていた。断られるのが怖いらしい。「うーん、どうしようかな」私はわざと考え込むふりをした。「そこまで一生懸命誘ってくれるなら、仕方ないわね。付き合ってあげる」瑛司の口元が、抑えきれないように緩んだ。瑛司は、私が南川へ引っ越してきた初日に知り合った隣人だった。荷物が多かった私を見て、彼が運ぶのを手伝
紗季の後を追うように、蓮も警察に連れて行かれた。刑務所に入るのをどうにか免れようと、蓮の両親はあちこちで金を借り始めた。だが、これまで付き合いのあった親戚や友人たちは関わりを持つことを恐れるように、次々と距離を置いていった。蓮の両親は所有する不動産をすべて売り払い、どうにか蓮が私的流用した金を穴埋めした。弁護士によれば、起訴を免れるには、私からの許しを示す書面が必要らしい。朝早く、私は玄関先で蓮の両親に待ち伏せされていた。「真帆さん、お願いだから蓮を許してやって。あの子はあの女に誘惑されただけなのよ。世の中の男なんて、誰だって1度くらい間違いを犯すでしょう?今回だけは、どうか許してあげて」「そうだ。真帆さんだって、いずれはうちの家族になるつもりだったんだろう。ここまで大事になって、蓮も自分が悪かったと分かってるんだ。もう十分だろう。これ以上騒ぎ立てるのはやめてくれ」父親まで、当然のことのように母親の言葉に便乗した。この厚かましい2人を見て、私はようやく分かった。蓮がこんな人間になった理由が。いや……もしかしたら、蓮は最初からこういう人間だったのかもしれない。ただ、今まで隠すのが上手かっただけなのだ。「私と蓮は、とっくに別れています。あの人がどうなろうと、私にはもう関係ありません」「そんな冷たいこと言わないでちょうだい!あなたたちには5年の絆があるのよ!」「結婚したって離婚することはあるでしょう。5年くらい、何だっていうの?もう帰ってください。これ以上ここに居座るなら、警察を呼びますから」私は冷たい目で2人を見つめた。「一体どんな手を使ってワイナリーを奪ったのか知らないけど……あれはもともとうちの息子のものなのよ!」こちらが何を言っても無駄だと分かると、蓮の母親はついに取り繕うのをやめた。そう吐き捨てると、私に向かって手を伸ばしてきた。私は体を横にずらした。勢いのついた彼女は足元がもつれ、そのまま地面に転がった。「警察を呼んで!警察を!この女、私を突き飛ばしたのよ!絶対に刑務所に入れてやる!」蓮の母親は地面に座り込んだまま、大声で喚き散らした。「この人でなし!」蓮の父親も、私の顔を指差しながら罵声を浴びせてきた。そして、私に手を出そう
「必要な資料は、もう全部警察に提出したわ。近いうちに、これまでの報いを受けることになるでしょう」私は蓮をまっすぐ見つめた。冗談でも脅しでもない。その真剣な眼差しを前にして、蓮の顔からようやく余裕が消えた。「俺はワイナリーの経営者として、ちょっと金を融通したくらいで、お前が言うほど大げさなことじゃないだろ。なあ、ここは俺たちだけで話をつけないか?警察まで巻き込む必要なんてない」「そう?私は必要だと思うけどね」そこで我慢できずに口を挟んだのは西村秋(にしむら あき)。私の友人であり、株主の1人でもある。「必要があるよ。そもそも私は、真帆の顔に免じて、あなたがまともな経営者だと見込んでいたからこそこのワイナリーに出資したのよ。まさかあなたが経営者として何年も裏でこんなことやっていたなんて。あなた、本当に最低ね」蓮は私を見ると、必死に取り繕うような笑みを浮かべた。「真帆。俺のことを愛しているだろ?まさか、本気で俺をどうにかするつもりじゃないよな?」蓮は歪んだ笑顔で私に媚びるように近づいてきた。まだ私の中に残っているはずの愛情を、必死に呼び戻そうとしている。けれど、もう何もかも遅かった。私は紗季へ視線を移した。「あなた、蓮のことが大好きなんでしょう?」手の中でボールペンをゆっくり回しながら、私は淡々と問いかけた。「だったら、刑務所まで一緒についていってあげたら?」「何を言ってるんですか?私には何のことかさっぱり分かりません」ここまで追い詰められても、紗季はまだ何も知らないふりを続けていた。まるで、自分が浮気相手だったことも、遥を死なせたことも、すべて知らぬ存ぜぬと言わんばかりに。「じゃあ、もっと分かりやすく説明してあげる。あなたにも、ここにいる全員にもね」私は腕を組み、紗季から目を逸らさなかった。「私、用事がありますので、先に失礼します」紗季はバッグを手に取ると、逃げるように会議室の出口へ向かった。私は目配せして、警備員に彼女を止めさせた。「ちょっと!何のつもり!?こんなの不法監禁よ!訴えるからね!」紗季は顔を真っ赤にして私を怒鳴りつけた。「そんなことより、これを見てもらいましょうか」私はプロジェクターを操作し、ドライブレコーダーから復元した映像
蓮は勢いよく立ち上がり、紗季を鋭く見つめた。「これは、どういうことだ?」紗季は投稿を何度も読み返した。画面をなぞる指が、止めようとしても止まらないほど震えている。真帆が投稿したんだ!間違いない。あの女に決まっている。でも、どうして知ってるの?紗季の頭が、目まぐるしく回転する。真帆には証拠なんてない。そうよ。証拠があるなら、とっくに警察に通報しているはず。わざわざ匿名で投稿する必要なんてない。きっとそういうことだ!そう考えた途端、紗季は少しずつ冷静さを取り戻した。そして、赤く潤んだ目で蓮を見上げる。どうすれば1番弱々しく見えるかを計算するように顔を傾け、蓮に訴えかけた。「蓮さん、見てください。これ、絶対に真帆さんが投稿したんです。私が人を殺したなんて……あまりにも酷すぎます。私が蓮さんを奪ったことをずっと恨んで、仕返ししようとしてるんです。私たちをめちゃくちゃにするつもりなんですよ!」今にも泣き出しそうな紗季を見て、蓮の心が揺らいだ。「ごめん。疑って悪かった。紗季みたいな優しい人が、投稿に書かれてるような人殺しなんてするわけない。明日の株主総会で投資を取り付けたら、あの女とはきっぱり別れる。俺だって、もう何年も我慢してきたんだ」そう言って、蓮は紗季の髪にそっと口づけた。まるで、私の行く末はもう決まったとでも言うように。午前8時。目覚ましが鳴ると、私は目を覚まし、弁護士から送られてきた資料をダウンロードした。遥が誕生日に贈ってくれたハイヒールを履き、ワイナリーへ向かった。「なんで今来たんだ?午後から来いって言っただろ」私を見るなり、蓮はあからさまに不機嫌そうな顔をした。「午前中のほうが、英語は頭に入りやすいから」私は淡々と答えた。「何考えてるんだ?今は大事な話をしてるんだ。さっさと帰れ!」「そうですよ、真帆さん。場所もわきまえないなんて、あまりにも非常識ですよ」紗季は目を伏せ、指先で乱れた髪をそっと耳にかけた。その仕草は妙に上品で、いかにも育ちのいい女性を装っているようだった。2人が息ぴったりに私を追い払おうとするのを見て、私は思わず笑った。蓮の面子を立てるため、私はこれまでワイナリーの細かな経営には、ほとんど口を出さず、すべて