INICIAR SESIÓN結婚式当日、私――水野初音(みずの はつね)は、朝の4時からヘアメイクさんを待っていた。 しかし、7時になっても、誰一人として現れなかった。 焦った私は、親友の清原美咲(きよはら みさき)に電話をかける。 すると、電話の向こうから笑い声が聞こえた。 「初音ちゃん、ほんと抜けてるよね。 昨日の夜、挙式の予定が急に変わったの。みんなもう会場に向かってるって」 私はウェディングドレスを抱え、急いで会場へ向かった。 汗だくになりながら到着した会場には、誰もいなかった。 その時、美咲から再び電話がかかってきた。彼女は笑いをこらえながら尋ねた。 「まさか、本当に会場まで行ったの?嘘でしょ、ただの冗談なのに! 今はリゾート婚が流行りでしょ? 式はとっくに白ヶ島に変更したの。みんな空港で待ってるわよ」 私は重たいドレスバッグを引きずりながら、第1ターミナルから第2ターミナルへと走り回った。 出発ロビーを何度も探しても、見知った顔なんて一つもない。 その時、美咲からビデオ通話が届いた。画面の中の美咲は、笑いすぎて肩を震わせていた。 「初音ちゃん、遅すぎ!もう先に出発しちゃった! ……なんてね。そもそも、リゾート婚なんて嘘だよ。私たちはただ白ヶ島に一週間遊びに行くだけ。式なんて、帰ってから後で挙げればいいじゃん」 画面が切り替わる。 そこには、私の婚約者である神谷湊(かみや みなと)が、美咲の荷物を持って歩いている姿が映っていた。 その二人のすぐ後ろには、父の水野修一(みずの しゅういち)と母の水野恵(みずの めぐみ)が立ち、家族写真を撮った時よりも楽しそうに笑っていた。 青ざめる私を見て、母は不快そうに眉をひそめた。 「ただの冗談だったのに。 やっぱり美咲ちゃんは気が利いて楽しいわね。初音は昔から真面目すぎるのよ。何でも深刻に考えすぎなの」 湊は美咲の肩に自分の上着をかけ、画面越しの私を見た。 「初音、先に帰って待ってて。 旅行が終わったら、ちゃんと戻って結婚してやるから」 画面に映るみんなの笑顔を見つめながら、私はもう、何かを言う気力さえ失っていた。 怒りも、悲しみもない。ただ、心の中が空っぽになっていく。 その場で、式場へキャンセルの連絡を入れた。 もう、この茶番に付き合うつもりはなかった。
Ver másその後、両親は半月ほどロンドンに滞在した。二人は毎日のように会社の前まで来ていたが、もう私を呼び止めることはなかった。雨の日には、父が傘を差して通りの向こう側に立っていた。私が同僚たちと笑いながら話しているのを見ると、何度かこちらへ歩き出そうとして、結局その場に立ち止まった。二人もようやくわかったのだ。償うというのは、もう一度私の人生に踏み込んで、今さら差し出した愛情を受け取れと迫ることではない。母は十数通の手紙を、会社の受付に預けていった。そこには、かつて母が見過ごしてきた小さな出来事が、いくつも綴られていた。家に戻ってから、アルバムを片っ端から見返したという。そこで初めて気づいた。高校生になってからの私には、一人で写っている写真が一枚もなかったことに。家族で写真を撮るたび、カメラを持って両親と美咲を撮っていたのは、いつも私だったから。どの手紙にも、許してほしいとは一言も書かれていなかった。ただ、何度も同じ言葉が綴られていた。【初音、ごめんなさい】父は仕事を辞め、カウンセリングを受けるようになった。私を突き飛ばしたあの手は、その後もずっと父を苦しめ続けた。カウンセリングの中で、父はこう認めたという。あの「冗談」が私を傷つけることくらい、本当はずっと前からわかっていた。けれど、周りがみんな笑っているのを見ているうちに、私一人の気持ちくらい犠牲にしても構わないと思うようになっていた、と。そして最後には、まだ生まれてもいなかったあの子まで、その犠牲になった。そこで初めて父は、取り返しのつかない傷があることを知ったのだ。二人は老後のために用意していた家を売り、そのお金を賠償として私に振り込んできた。私はそのまま送り返した。二人が私に返すべきものは、最初からお金ではなかった。それに私はもう、二人がどれほど後悔しているかで、自分が愛される価値のある人間だったと確かめる必要もなかった。両親がロンドンを離れる日、母は遠くから長いこと私を見つめていた。飛行機が離陸する前、最後のメッセージが届いた。【もう「家に帰ってきて」なんて言わない。初音がいる場所が、初音の家だから】私は返事をしなかった。けれど、そのメッセージを消すこともしなかった。帰国したあと、両親は美咲をもう娘のように扱うことはなかった。それ
両親は結局、スタッフに支えられながらホテルへ戻っていった。けれど、湊だけはずっと雨の中に立っていた。私が目の前まで歩いていったとき、湊の目はひどく赤くなっていた。「初音、無理に連れ戻そうと思って来たんじゃない。動画はもう削除された。ネットで広まったことについても、全部訂正した。初音が失った仕事も、治療にかかった費用も、俺が全部償う。俺たちの子のことだって……」そこまで言ったところで、湊の声は完全に詰まった。涙が次々と頬を伝っていく。「……ごめん。あの日、初音が俺の服を掴んだとき……お腹が痛いって言ってたの、ちゃんと聞こえてた。俺が一度でも振り返ってれば、あの子は助かったかもしれない」湊は婚約指輪を掌に載せた。もう、それを私の指にはめようとはしなかった。「ごめんなんて言ったところで、何も戻ってこないのはわかってる。それでも……ここにいさせてもらえないか。せめて、ただの知り合いからでもいい。もう一度だけ……」目の前にいる、7年間愛し続けた人を見つめた。不思議なほど、胸は痛まなかった。私はずっと、湊も美咲に騙されていただけなのだと思っていた。いつかすべてが明らかになれば、雨の中、私を背負って病院まで連れていってくれたあの頃の湊に戻ってくれる。そう信じていた。でも、ようやくわかった。私を守ってくれた湊も、本物だった。美咲のために、何度も私を傷つけた湊も、本物だった。相手の優しさだけを都合よく愛して、傷つけられるたびに、その痛みにまで言い訳を与えていいわけじゃない。「訂正も、賠償も、本来あなたが負うべき責任。私に振り向いてもらうための切り札じゃない」湊の手が大きく震えた。私は続けた。「やり直せないかって聞いたよね。でも、湊を見るだけで思い出すの。空港で、私の代わりにドレスが座っていたあの席も。消してもらえなかったあの動画も。生まれてくることのできなかった、あの子のことも。もう一度、湊を信じるだけの力は、私には残ってない」湊は俯いた。涙が一滴、また一滴と、掌の婚約指輪に落ちていった。長い沈黙のあと、掠れた声が返ってきた。「……わかった。今度は、無理強いしない」湊はようやく、私の決めたことを尊重することを覚えた。けれど、それが私たちの最後の別れになった。
湊が私の姿を見つけたのは、会社の公式サイトだった。掲載されていた写真の私は、すっきりと仕立てられたスーツを身にまとい、プロジェクトの発表会場の中央に立っていた。穏やかに、何の気負いもなく笑っていた。湊にとっては、もう長いこと見ていなかった私の笑顔だった。誰かの顔色を窺うこともない。笑ったあとに、周りが気を悪くしていないか確かめることもない。湊は一番早い便の航空券を取り、ロンドンへ飛んできた。それを知った両親も、あとを追うようにやってきた。発表会が終わった日。会場を出た私は、雨の中に立つ三人の姿にすぐ気づいた。湊はずいぶん痩せていた。その手には、私が置いてきた婚約指輪が握られていた。母は私を見るなり、涙をこぼした。足早にこちらへ近づいてくる。けれど、あと二歩というところで、ぴたりと足を止めた。「初音……お母さん、触らないから……怖がらなくていいのよ」それだけ言うと、母はもう言葉を続けられなくなった。母のすぐ後ろに立つ父は、いつもまっすぐだった背中が、急に何歳も老け込んだように丸く見えた。「あの日……初音を突き飛ばしたのは、お父さんだ。毎晩、夢に見るんだ。初音が目の前に倒れてるのに……お父さんは一度も振り返らなかった」そう言って、父は自分の頬を思いきり叩いた。「殴ってもいい。罵ってくれてもいい。だから……もう一度だけ、お父さんって呼んでくれないか」私はただ、静かに二人を見つめた。「大学入試のとき、私はもう少しで試験に間に合わないところだったよね。あのときも、美咲は私の緊張をほぐそうとしただけだって言った。卒業の年には、お父さんが事故に遭ったなんて嘘までついて、私を呼び戻した。新幹線の中でずっと泣いてた私に、せっかくなのに空気を悪くするなって言ったよね。だから、そのうち泣かなくなった。何も聞かなくなったし、信じてほしいとも言わなくなった。今になって、やっと私の言うことを信じてくれた。でも、もういらないの」母は何度も首を横に振った。泣き崩れそうになりながら、それでも必死に言葉を絞り出す。「違うの……お母さんは初音を愛してる。私たちはただ、美咲ちゃんに騙されていただけで……」「二人が美咲ちゃんに騙されてた。それは事実」私は静かに母の言葉を遮った。「でも、そのたびに美咲ちゃん
飛行機が着陸しても、すぐに新しい生活を始められたわけではなかった。長時間のフライトで、残っていた体力まで使い果たしていた。到着ロビーで意識を失った私は、空港のスタッフに病院へ運ばれ、そのまま一週間入院することになった。そばには両親も、湊もいなかった。それでも、痛みで眠れない夜に、そっと毛布をもう一枚掛けてくれる看護師がいた。隣のベッドには、皮を剥いたリンゴを半分分けてくれる、親切なおばさんもいた。見ず知らずの人たちから向けられる、ほんのささやかな優しさ。それに触れるたび、私は結婚式の日のことを思い出した。私が欲しかったものなんて、最初から大したものではなかったのだ。なのに、この7年間。そんなわずかな優しささえ、我慢して、笑って、相手の機嫌を取らなければ手に入らないと思っていた。半年前、取引のあった海外企業から、「ロンドン拠点のチームに来てほしい」と引き抜きのオファーを受けていた。あの頃は結婚式を間近に控えていて、私は迷うことさえなく断った。入院して3日目。私はもう一度、その会社の担当者にメールを送った。相手はネットで騒ぎになった一件について、何一つ聞かなかった。返ってきたのは、たった一言だった。【私たちが評価しているのは、水野さんご自身の実力です。ポジションは今も空けてあります】その一文を見つめながら、私は泣いた。生まれて初めて、誰かに選ばれたことで涙を零した。退院後、小さなアパートに引っ越した。窓の外に、見慣れた街並みはない。部屋の中にも、私が合わせなければならない誰かの生活習慣はなかった。最初の数か月は、それでも夜中に何度も目を覚ました。夢の中ではいつも、誰かが笑いながら言うのだ。結婚式の場所が変わったから、早く来て、と。私は何度も何度も、息が切れるまで走った。そして目を覚ますたびに気づく。もう、追いかけなくていいのだと。私はカウンセリングを受けるようになり、定期的に診察にも通った。3年間ほとんど使っていなかったSNSも、また開くようになった。朝の霧や、仕事帰りに見かけた街の灯りを、ときどき写真に残した。無理に今すぐ過去を手放そうとはしなかった。ただ、これまで湊を待つために使っていた時間を、少しずつ自分のために取り戻していった。半年後。私が担当した新しいプロジェク
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