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第4話

Author: くまちゃんは必ず輝く
後ろから執事の声がした。雪乃は驚き、同時に、先ほどまで賑やかだったダイニングルームも静まり返った。

雪乃の姿を認めた瞬間、冴子の顔から笑みが凍りついた。不機嫌な視線を雪乃に注ぎながら、肩にかけたミンクのショールを、いかにも尊大に引き寄せた。「入ってこないの?」

雪乃は重い足取りで中に入り、恐る恐る声をかけた。「お義母さん……」

冴子はその呼び名を聞き、さらに顔を歪めた。「書斎に来なさい!」

そばでは使用人が新しい椅子を追加しようとしていた。怜司が指先でテーブルを軽く叩き、ゆっくりと言った。「部外者のために、椅子を追加する必要がどこにある?」

その言葉は、疑いようもなく、雪乃の面目を丸潰れにさせるものだった。

顔が火照るのを感じながらも、雪乃は使用人に向かって無理に笑顔を作った。「結構だ。ありがとう」

そう言って、雪乃は階上へと向かった。

書斎の中、冴子は暗い顔で紫檀の椅子に座り、雪乃はその反対側に立っていた。

「跪きなさい!」

冴子の声には有無を言わせぬ響きがあった。もし以前の雪乃なら、きっと恐怖に足が震えていただろう。

あの頃は高遠家から追い出されること、怜司を失うことを恐れていたからだ。

だが、今はもう怖くない。

雪乃は初めて、冴子を真っ直ぐに見上げ、その瞳には屈しない光が宿っていた。「なぜ?」

冴子は少し驚き、一瞬、気勢が弱まった。「よくも聞けたものね?この前、あなたが若葉ちゃんを拉致させたせいで、高遠家はスキャンダルに巻き込まれ、株価が下落した。

もし若葉ちゃんが寛大にも事を荒立てず、自ら釈明して高遠会社の損失を下げようと努めてくれなければ、あなたは今頃、刑務所の中よ!

高遠家の家法はよく知っているでしょう。手のひらを鞭で十回。二度と過ちを犯させないための戒めよ!」

言うが早いか、雪乃の後ろから二人の使用人が現れ、雪乃を動けないように押さえつけた。使用人が雪乃の膝裏を強く蹴ると、雪乃は膝から崩れ落ち、床に跪いた。

間髪を入れず、鞭が空を切る鋭い音が走った。

一回目。手のひらは瞬く間に赤く腫れた。

二回目。皮膚が破れ開いて、肉が裂けた。

三回目。血が手首を伝って流れ落ちた。

……

十回目。両の手のひらは無惨に裂け、もはや血と肉が入り混じった塊のようだった。

使用人が手を離すと、雪乃は痛みでその場に崩れ落ちた。灼けるような痛みに思わず息を詰まらせた。無数の細かな棘の破片が、まだ裂けた肉に食い込んでいる。

冴子はその無様な姿を一瞥すると、冷たく鼻を鳴らした。「今後またこのような破廉恥な真似で高遠家の名を汚すようなら、その時は自ら進んで罰を受けに来なさい!」

そう言い残し、冴子は立ち去り、雪乃だけが書斎に残された。

雪乃は笑った。涙が出るほどに。

もう二度とこんなことはしない。愚かで、みっともない。

数分後、執事が救急箱を手に書斎へ現れ、雪乃の傷の手当てを始めた。消毒液が裂けた皮膚に染みわたる瞬間、骨の髄まで突き刺すような激痛が走った。だが雪乃は、声一つ上げず、その全ての苦痛をぐっと飲み込んだ。

痛い方がいい。

再び階下へ降りると、若葉が怜司の腕の中でイチゴを食べさせてもらっているのが見えた。

怜司は顔面蒼白の雪乃を見て、揶揄うような視線を向けた。「階上で話をしただけで、そんなに冷や汗をかくほど怖かったのか?」

若葉も笑った。「雪乃、女って一日中家に籠ってばかりじゃダメだよ。年長者のお説教でそんなに汗だくになるなんて、恥ずかしいじゃない」

雪乃は二人が固く握り合っている手を見やり、痛みをこらえて冷笑した。「そうかしら。私は、女として一番大切なのは、他人の家庭に踏み込まないことだと思うけれど」

痛いところを突かれ、若葉の整った顔が瞬時に青ざめた。

若葉が反論するより早く、横から皿が飛んできた。皿は雪乃の顔をすれすれでかすめ、数センチ横の壁に激突。耳を突き刺すような甲高い音を立てて砕け散った。

皿が髪をかすめて飛んでいくのをはっきりと感じた。あと数センチずれていれば、額に直撃していただろう。

遅れてきた恐怖が雪乃の頭を支配し、その場に凍りついたように立ち尽くし、呼吸さえ忘れた。

怜司は手を下ろし、嘲笑を浮かべた。「お前にそんなことを言う資格があるのか?」

そうだ。二人はとっくに離婚している。新婚の翌日に。

なんて皮肉だろう。

雪乃はうつむき、長い髪が彼女の悲しげな表情を隠した。

先ほどの皿が砕ける音がまだ耳にこびりついている。雪乃は鈍い足取りで階下へ降り、まるで抜け殻のように車に戻った。

手が痛んでハンドルを握れず、スマホで代行運転を呼ぶしかなかった。

怜司は螺旋階段の上の破片を見つめながら、心になぜか説明のつかない苦しさと罪悪感がこみ上げてくるのを感じていた。

だが、なぜ自分が苦しみ、罪悪感を抱くのか、怜司にはわからなかった。

その時、執事が血のついた鞭を持って、洗うために階下へ降りてきた。階段の上の破片を見ると、後ろの二人の使用人に片付けるよう指示した。

怜司はその鞭に見覚えがあった。子供の頃、怜司が過ちを犯すと、弦蔵がいつもこれで彼を叩いた。一発で半月は痛みが続いたものだ。

怜司は微かな違和感を覚え、若葉の手を振りほどいて執事のそばへ寄った。「誰か罰を受けたのか?」

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