Masukネクストリンクは、止まらなかった。
翌朝八時。
高瀬悠真は、いつも通り本社二十七階の社長室にいた。
昨日、臨時取締役会で専務取締役・高瀬美咲の一部職務権限停止が可決された。
営業本部長・桐谷健吾には自宅待機命令が出された。
社用端末は回収。
会社アカウントは停止。
経費精算、契約、外注先選定、出張申請、チャットログ、メールボックス、ファイル共有履歴は保全された。
普通なら、会社中が凍る。
だが、会社は生き物だ。
誰かが倒れた瞬間、血流を別の道へ逃がさなければ、全身が腐る。
悠真は、社長室のモニターに表示された全社向けメッセージを確認していた。
文面は短い。
余計な感情はない。
だが、社員が一番知りたいことだけは入れてある。
⸻
社員各位
昨日開催された臨時取締役会において、一部役員および幹部社員に関する調査体制の設置を決議しました。
調査の公平性と事業継続を確保するため、当面の間、一部業務分掌と権限を変更します。
顧客対応、開発、導入支援、サポート、採用、給与支払い、取引先支払いに影響はありません。
社員の皆さんには、不確かな情報に基づく憶測や個人攻撃を避け、通常業務を継続してください。
内部通報者、関係社員、調査協力者への不利益取り扱いは一切認めません。
会社は、事実に基づき、適正な手続きで対応します。
代表取締役社長
高瀬悠真⸻
悠真は最後まで読み、神谷玲奈へ視線を向けた。
「これで出してくれ」
「承知しました」
秘書室長の神谷玲奈は、すぐに配信予約を入れた。
八時十五分。
全社員にメール。
社内ポータルに掲示。
管理職向けには、別途説明資料。
顧客対応部署には想定問答。
人事部には相談窓口の増設。
情報システム部には問い合わせ対応。
広報には外部問い合わせ時の一次回答。
全てが、昨日の夜のうちに準備されていた。
神谷玲奈が言った。
「八時三十分から緊急経営会議です」
「出席者は」
「七瀬副社長、水城取締役、白石取締役、宮園取締役、篠原取締役、一条取締役、大槻取締役、佐伯社外取締役、黒須社外取締役。監査役の三枝さんも同席します」
「美咲は」
「本日は調査対象者として、経営会議には出席させません」
「それでいい」
悠真は席を立った。
社長室の窓から見える東京は、今日も無関心に明るかった。
誰かの結婚が壊れても、電車は動く。
誰かの役職が剥がれても、請求書は届く。
だから経営者は、泣く順番さえ選ばなければならない。
八時三十分。
第二会議室。
昨日とは違い、今日は戦場というより手術室だった。
患者は会社。
切るべき患部はある。
だが、手を震わせれば正常な組織まで傷つける。
悠真が席につくと、七瀬蒼真がすぐに口を開いた。
「社長、最初に空席対応ですね」
「ああ」
七瀬蒼真は二十九歳。
副社長。
昨日までは開発・事業戦略の色が強かった。
だが、今日からはそれだけでは足りない。
会社の中枢に空いた穴を、誰かが埋めなければならない。
悠真は資料を開いた。
「本日付で、業務分掌を一時変更する。正式な役職変更ではなく、調査期間中の職務代行と権限移管だ。ただし、実務上は即時に動かす」
水城莉央が頷いた。
「登記が絡む役職変更や取締役選任ではなく、社内の担当職務変更ですね」
「そうだ。専務取締役を新しく選ぶわけではない。高瀬美咲は取締役としては在任している。ただし、専務として担当していた財務・人事・経費承認・一部契約承認から外す」
大槻沙織が補足した。
「取締役としての地位そのものは株主総会の領域です。ただ、業務執行上の担当や決裁権限は、取締役会の決定や社内規程に基づき変更できます。昨日の決議を受けて、今日は実務に落とし込む場です」
佐伯真琴が言った。
「外から見ると、ここを曖昧にすると危ないです。専務を止めたのに、誰がその仕事をするのか決まっていない会社は、金融機関にも監査法人にも不安を与えます」
「だから、今日決める」
悠真は、最初の紙をテーブルに置いた。
「七瀬蒼真。副社長兼最高執行責任者代行として、全社業務の統括を頼む」
七瀬蒼真は一瞬だけ目を伏せた。
それから顔を上げる。
「受けます」
声は軽くない。
昨日までより、少し低い。
「ただし条件があります」
「言ってくれ」
「社長が一人で抱えないこと。調査、離婚、株主対応、上場準備、全部を一人で持つと、会社の判断が遅れます。僕がオペレーションを見るので、社長は最終判断と対外信用の維持に集中してください」
悠真は少しだけ笑った。
「歳下に叱られるとはな」
「副社長なので」
「わかった。任せる」
七瀬蒼真は頷いた。
その瞬間、会議室の空気がわずかに安定した。
若いが、頼れる。
それが七瀬蒼真だった。
悠真は次の資料を見た。
「水城莉央。専務代行を頼む」
水城莉央は表情を変えなかった。
だが、周囲の視線が彼女に集まった。
「専務代行、ですか」
「正式な専務取締役への選定ではない。調査期間中、財務、資本政策、銀行対応、上場準備、経費承認フローの暫定統括を担ってもらう。美咲が持っていた権限のうち、財務・支払い・資本政策に関わるものは水城さんへ移す」
「人事は」
「宮園さんに移す」
宮園千晴が静かに頷いた。
「受けます」
悠真は続けた。
「水城さんには、銀行と監査法人への説明も担当してもらう。私は同席するが、実務説明はあなたがいい」
水城莉央は資料を一枚めくった。
「わかりました。ただし、経費承認については一人に集中させない方がいいです。一定額以上は私と大槻さんの二重確認、外注費は白石さんまたは七瀬さんの業務実態確認を挟むべきです」
「その案でいこう」
「それと、専務代行という呼称を社内に出すなら、説明を丁寧にした方がいいです。高瀬専務の後任と受け取られると、解任前提に見えます」
大槻沙織が頷く。
「社内文書では『財務・資本政策担当役員代行』とし、口頭や経営会議内で専務代行と呼ぶ程度が安全です」
悠真は即断した。
「わかった。社内公表は財務・資本政策担当役員代行。実務上は専務代行として扱う」
水城莉央は短く頷いた。
「受けます」
次は営業本部だった。
会議室の空気が少し硬くなる。
営業本部はネクストリンクの売上の三割以上を握っている。
桐谷健吾は問題のある男だったが、数字を作る力はあった。
だからこそ厄介だった。
悪い人材が無能とは限らない。
有能な人間が不正をすると、会社への被害は深くなる。
白石琴音が言った。
「営業本部長代行、外から入れる余裕はありません。現場から上げるべきです」
「同意見だ」
悠真は資料を開いた。
「真壁蓮を呼んである」
一条拓海が眉を上げた。
「営業第一部長の真壁さんですか」
「ああ」
「桐谷さんの直属ですよね」
「直属だが、桐谷派ではない」
白石琴音が頷いた。
「真壁さんなら現場は納得します。数字も見ているし、顧客からの評判もいい。派手さはないけど、契約後のトラブルが少ない」
宮園千晴も言った。
「人事評価でも安定しています。部下の離職率が低い。営業の中では珍しく、怒鳴らないタイプです」
「営業で怒鳴らないのは貴重だな」
七瀬蒼真が冗談めかして言った。
少しだけ会議室の空気が緩んだ。
悠真は神谷玲奈に目を向ける。
「真壁を入れてくれ」
「はい」
数分後、第二会議室のドアが開いた。
入ってきたのは、真壁蓮だった。
三十二歳。
営業第一部長。
背は高いが、威圧感はない。
濃いグレーのスーツに、少し古い革靴。
現場で顧客の話を聞いてきた人間の顔をしていた。
「失礼します」
真壁蓮は会議室の顔ぶれを見て、わずかに緊張した。
無理もない。
社長、副社長、取締役、監査役、社外取締役が揃っている。
普通の部長なら胃に穴が開く。
悠真は前置きをしなかった。
「真壁さん。今日付で営業本部長代行を頼みたい」
真壁蓮は、一拍だけ固まった。
「……私が、ですか」
「そうだ」
「桐谷本部長は」
「調査期間中、自宅待機だ。職務権限は停止されている」
真壁蓮は唇を結んだ。
驚いてはいる。
だが、騒がない。
そこがいい。
「営業本部の業務を止めるわけにはいかない。主要顧客対応、案件管理、受注予測、見積承認、部内統制を引き継いでほしい」
「正式な本部長ではなく、代行ですね」
「そうだ。正式人事は調査結果と取締役会で改めて判断する。ただし、実務上は今日からあなたが営業本部をまとめる」
真壁蓮は深く息を吸った。
「受けます」
即答だった。
「ただし、お願いがあります」
「言ってくれ」
「営業本部内で、桐谷さんに近い管理職が数名います。彼らを一気に外すと混乱しますが、そのままにすると情報が漏れる可能性があります。案件情報と経費承認権限だけでも、今日中に切り分けたいです」
白石琴音が頷いた。
「現場感ありますね」
真壁蓮は少しだけ苦笑した。
「現場にいたので」
「必要な人員は」
「営業管理部の久原美緒を私の補佐に。第二営業部の相馬大地は大型案件に強いので、顧客対応に回したいです。あと、桐谷さんが直接見ていた案件は、白石取締役の確認を入れてから進めたい」
白石琴音がすぐに答えた。
「いいです。私が見る」
悠真は言った。
「久原美緒と相馬大地の配置変更を認める。人事は宮園さんと調整してくれ」
宮園千晴がメモを取る。
「今日中に辞令ではなく、業務命令として出します。正式な人事発令は週明けに整理します」
真壁蓮は深く頭を下げた。
「会社を止めないようにします」
悠真は静かに言った。
「止めないだけでは足りない」
真壁蓮が顔を上げる。
「桐谷が作った数字の中には、歪んだものがあるかもしれない。無理な契約、過剰な値引き、架空の見込み、不要な外注。全部洗ってくれ」
「わかりました」
「営業本部を守ってほしい。桐谷を守る必要はない」
真壁蓮の目が、少しだけ鋭くなった。
「承知しました」
彼が退出した後、会議室の空気は明らかに変わっていた。
空席が埋まり始めたからだ。
人は、空白を恐れる。
社長が何も決めなければ、噂が埋める。
不安が埋める。
派閥が埋める。
だから、早く、しかし雑ではなく決める必要があった。
悠真は続けて人事を固めた。
人事・組織領域は宮園千晴へ完全移管。
内部通報窓口は、宮園千晴と大槻沙織の共同管理。
情報システム部には、篠原航の直轄で証拠保全チームを設置。
広報・顧客説明は一条拓海。
営業オペレーションと顧客影響管理は白石琴音。
財務・支払い・銀行・監査法人対応は水城莉央。
全社統括は七瀬蒼真。
悠真は代表として、最終決裁と株主・金融機関・主要取引先への信用維持を担う。
役割が線で結ばれていく。
会社という迷路に、避難経路が描かれていく。
十時。
全社ポータルに、業務分掌変更のお知らせが掲示された。
高瀬美咲の名前は、そこにほとんど出てこない。
ただし、彼女の担当業務が別の取締役へ移管されたことは明記された。
社員たちはざわついた。
だが、同時に安心もした。
給与は出る。
顧客対応は続く。
案件は止まらない。
問い合わせ先もある。
会社は動いている。
それが何より重要だった。
午後一時。
特別調査委員会の初回会合が開かれた。
場所は、役員フロア奥の第二会議室。
出席者は十名。
委員長は、常勤監査役の三枝義人。
元銀行員。
数字の匂いを嗅ぎ分ける老犬のような男だった。
委員の一人目は、水城莉央。
取締役CFO。
財務と資本政策の責任者。
二人目は、大槻沙織。
取締役CLO。
法務とコンプライアンスの責任者。
三人目は、黒須怜司。
社外取締役。
公認会計士出身。
四人目は、佐伯真琴。
社外取締役。
事業成長とガバナンスの専門家。
五人目は、外部弁護士の矢島明彦。
顧問弁護士ではあるが、調査実務の適法性を確認する役割で入る。
六人目は、外部弁護士の桐生麻衣。
労務・不正調査に強い弁護士。
今回、矢島の法律事務所とは別ルートで急遽参加した。
七人目は、外部公認会計士の榊原徹。
不正会計調査を専門とする会計士。
八人目は、外部公認会計士の村瀬絢。
内部統制と経費監査に強い若手会計士。
九人目は、社内経理部長の坂井誠。
支払いデータ、経費精算、会計システムの実務を知る者として参加。
十人目は、情報システム部長の成瀬葵。
証拠保全、アクセスログ、メール・ファイル履歴の確認担当だ。
高瀬悠真は、委員ではない。
会議冒頭だけ出席し、すぐに退席する予定だった。
利害関係者だからだ。
高瀬美咲は妻であり、調査対象者。
桐谷健吾は不倫相手であり、会社幹部。
悠真が調査委員会を直接指揮すれば、私怨だと言われる。
だから、悠真は調査の刃を握らない。
刃を作るだけだ。
三枝義人が開会を告げた。
「それでは、特別調査委員会の初回会合を開始します。本委員会は、当社における経費使用、外注先選定、出張申請、接待費精算、役職者による職務権限行使の適正性を調査するものです」
声は静かだった。
しかし、重い。
悠真は席を立つ前に言った。
「私は利害関係者です。調査実務には入りません。必要な資料提供には全面的に協力します。会社として必要な権限、予算、人員は出します」
三枝義人が頷いた。
「承知しました」
「一つだけお願いします」
「何でしょう」
「事実だけを見てください。私に都合のいい結論はいりません。会社に必要な結論を出してください」
会議室の十名が、悠真を見た。
悠真は続けた。
「高瀬美咲が無実なら、その結論でいい。桐谷健吾が無実なら、それでいい。逆に不正があるなら、どこまでも掘ってください」
矢島明彦が静かに言った。
「それでこそ調査委員会です」
悠真は頷き、会議室を出た。
扉が閉まる。
そこから先は、会社の医師たちの仕事だった。
三枝義人は資料を開いた。
「まず調査対象期間を決めます。暫定として過去三年。必要に応じて五年まで遡る。対象は高瀬美咲専務、桐谷健吾営業本部長の承認・申請・関与した経費、外注費、出張費、接待費、稟議、契約です」
榊原徹が頷いた。
「三年でいいでしょう。まずは金額上位、頻度上位、承認経路が偏っているものから抽出します」
村瀬絢がノートパソコンを開いた。
「経費精算システムのデータをCSVで出せますか」
坂井誠が答えた。
「出せます。ただ、昨日から保全済みのコピーを使います。原本データには触らないようにします」
成瀬葵が言った。
「メール、チャット、ファイル共有、ワークフロー承認ログも保全済みです。検索用コピーを作成し、閲覧権限は委員会メンバーに限定します」
桐生麻衣が確認する。
「私物端末は対象外ですね」
大槻沙織が答えた。
「はい。会社貸与端末、会社アカウント、会社データのみです。私物端末の提出は任意協力を求めることになりますが、現時点では踏み込みません」
「適切です。労務上の問題にしないためにも、範囲を明確にしましょう」
黒須怜司が紙資料を見ながら言った。
「K-Bridge Consultingへの支払いが目立ちます。過去一年で四千八百万円。営業コンサルとしてはなくはない金額ですが、成果物が薄い」
佐伯真琴が資料に目を落とす。
「実態があるかですね。会議記録、納品物、参加者、提案内容、成果への寄与。そこが出なければ、かなり厳しい」
水城莉央が言った。
「支払い承認フローを見ると、桐谷申請、美咲承認が複数あります。金額によっては財務側の確認も入っているはずですが、専務承認で通っているものがある」
坂井誠の顔が曇った。
「正直、気になっていました。ただ、営業戦略案件で役員承認済みと言われると、経理では止めづらい」
三枝義人は責めなかった。
「だから仕組みで止める必要があります。個人の勇気に依存する内部統制は、内部統制ではありません」
その言葉に、村瀬絢が小さく頷いた。
調査は三本に分けられた。
第一班。
経費・出張・接待費の精査。
担当は村瀬絢、坂井誠、水城莉央。
第二班。
外注先・契約・稟議の精査。
担当は榊原徹、黒須怜司、大槻沙織。
第三班。
メール・チャット・ログ・証拠保全。
担当は成瀬葵、桐生麻衣、矢島明彦。
三枝義人と佐伯真琴は全体監督。
調査の骨組みができると、会議室の空気は一気に実務へ変わった。
感情は邪魔になる。
ここでは怒りより、検索条件の方が強い。
名前。
日付。
金額。
承認者。
支払先。
添付ファイル。
宿泊先。
タクシー利用履歴。
会議室予約。
社内チャット。
稟議番号。
人間の欲望は、最後にはデータベースのどこかに指紋を残す。
午後二時半。
別室では、高瀬美咲への初回ヒアリングが始まった。
出席者は、大槻沙織、桐生麻衣、三枝義人。
議事録担当として神谷玲奈。
美咲は、淡いグレーのスーツを着ていた。
昨日よりも顔色は悪い。
だが、まだ崩れてはいなかった。
大槻沙織が言った。
「本日は、経費使用および外注先承認に関する事実確認です。現時点で処分を決定する場ではありません。発言は記録されます」
美咲は唇を引き結んだ。
「わかっています」
「まず、こちらの接待費について説明してください」
大槻沙織が資料を差し出す。
日付。
高級レストラン。
金額十八万六千円。
目的。
新規顧客開拓に関する会食。
同席者。
営業本部長桐谷健吾、他二名。
美咲は資料を見た。
「営業活動です」
「顧客名は」
「……守秘義務があるので」
桐生麻衣が静かに言った。
「社外に公開する話ではありません。社内調査です。相手先名を確認できない場合、業務関連性が確認できません」
「覚えていません」
大槻沙織のペンが止まった。
「では、この会食に実在の顧客が同席していたかどうかも覚えていない、ということですか」
「そういう意味では」
「どういう意味でしょう」
美咲は答えなかった。
次の資料。
地方出張。
宿泊費二名分。
出張目的。
地方銀行向け提案準備。
しかし、その地方銀行との面談記録はない。
社内カレンダーにも予定なし。
宿泊先は温泉旅館。
美咲は言った。
「現地視察です」
大槻沙織が聞く。
「誰と視察しましたか」
「桐谷さんです」
「顧客は」
「後日会う予定でした」
「実際に会いましたか」
「日程が流れました」
「その報告は残っていますか」
「……確認しないとわかりません」
三枝義人は黙って聞いていた。
老いた銀行員の目で、嘘の利息を見ていた。
嘘は一度なら小さい。
だが、重なると複利で膨らむ。
一方、営業本部では真壁蓮が動き始めていた。
午後三時。
営業本部の大会議室。
集められたのは、部長、課長、主要メンバー。
桐谷健吾の席は空いている。
真壁蓮は前に立った。
「今日付で、営業本部長代行を務めます。真壁です」
ざわつきが走る。
真壁は声を荒げなかった。
「桐谷本部長については、会社から正式な説明があるまで、憶測で話さないでください。顧客にも言わない。SNSにも書かない。社内チャットでも面白半分に扱わない」
若手営業の一人が手を挙げた。
「案件はどうなるんですか」
「止めません。ただし、今日から見積承認、値引き承認、外注利用、接待費申請は全て新フローに変わります」
真壁は資料を映した。
営業本部の新体制。
第一営業部。
第二営業部。
営業管理部。
大型案件管理チーム。
顧客引き継ぎ班。
久原美緒が営業管理部から本部長代行補佐に入る。
相馬大地が大型案件管理チームを率いる。
接待費は原則事前申請。
相手先、人数、目的必須。
出張は日程表添付。
外注は成果物定義と検収記録必須。
営業の顔色が変わる。
面倒になるからだ。
だが、真壁は言った。
「面倒になる。でも、会社を守るためです。ちゃんとした営業は困らない。困るのは、説明できない金を使っていた人だけです」
会議室が静かになった。
久原美緒が後ろで頷いていた。
二十八歳。
営業管理部の実務屋。
数字と契約の整合性を見るのが得意な女性社員だ。
彼女は桐谷の派手な営業が苦手だった。
けれど、それを口に出せる立場ではなかった。
今日から違う。
真壁蓮が続けた。
「顧客への対応は、これまで以上に丁寧にやります。桐谷本部長が担当していた案件は、私、白石取締役、相馬で確認します。絶対に顧客を不安にさせない」
相馬大地が言った。
「了解です」
三十一歳。
第二営業部のエース。
派手な契約を取るより、顧客の現場に入り込むタイプだった。
真壁は最後に言った。
「この会社は、誰か一人の会社じゃない。営業本部も、誰か一人の城じゃない。今日から立て直します」
その言葉は、若い営業たちの中に落ちた。
派手な演説ではない。
だが、足場になる言葉だった。
午後五時。
特別調査委員会の第一班が、最初の異常値を抽出した。
村瀬絢が画面を見ながら言った。
「これ、見てください」
坂井誠が隣から覗き込む。
「K-Bridgeですか」
「はい。請求書番号KB-2211-08。金額八百万円。内容は営業戦略コンサルティング」
「成果物は」
「添付ファイルがあります」
村瀬絢がファイルを開く。
A4三枚。
タイトル。
次世代SaaS市場における営業戦略提案。
中身は、どこにでもあるような一般論だった。
市場は拡大傾向。
顧客課題を把握する。
提案力を強化する。
継続的な関係構築が重要。
八百万円。
A4三枚。
坂井誠が、低く呟いた。
「冗談だろ」
水城莉央がファイルを見て、表情を消した。
「冗談ならよかったですね」
村瀬絢は続ける。
「しかも、このファイルの作成日時が請求日の前日です。作成者名は、社内PCの桐谷健吾アカウントになっています」
坂井誠が固まった。
「つまり、外注先の成果物のはずなのに、桐谷さんの社内PCで作られている?」
「メタデータ上はそう見えます。ただし、断定前に保全済みデータで再確認します」
水城莉央はすぐに三枝義人を呼んだ。
数分後、三枝、黒須、榊原、大槻、成瀬が集まった。
成瀬葵がファイルのメタデータを確認する。
「作成者はKiritani_Kengo。最終更新者も同じ。保存場所は営業本部共有フォルダの一時領域。外部から納品された形跡は、今のところ見当たりません」
榊原徹が腕を組んだ。
「外注先へ八百万円支払った成果物を、社内の本人が作った可能性があるわけですね」
黒須怜司の声が低くなる。
「これは監査案件というより、不正調査案件ですね」
三枝義人は紙を手に取った。
A4三枚の薄さが、八百万円の重さを逆に際立たせていた。
「この支払いの承認者は」
坂井誠が答える。
「申請者、桐谷健吾。一次承認、営業本部長として桐谷本人。役員承認、高瀬美咲専務。支払い承認も専務決裁です」
大槻沙織が目を閉じた。
「自己承認に近い形ですね。少なくとも内部統制上はかなり問題です」
村瀬絢がさらに言った。
「K-Bridgeへの支払いは一件ではありません。同様の薄い成果物が複数あります。合計で四千八百万円。まだ確認中ですが、成果物の作成者情報に桐谷氏のアカウントが残っているものが他にもあります」
会議室が沈黙した。
外では、社員たちが普通に働いている。
顧客へ電話し、コードを書き、請求書を処理し、サポート対応をしている。
だが、この部屋では会社の血管から吸われた金の痕跡が見つかっていた。
三枝義人が、ゆっくりと資料を置いた。
「調査対象を拡大します」
大槻沙織が頷く。
「K-Bridgeとの契約、請求、納品、検収、支払いを全件確認します。必要なら相手先への照会も検討します」
桐生麻衣が言った。
「桐谷氏と高瀬専務へのヒアリング項目にも追加します。ただし、先にこちらの証拠を固めましょう」
矢島明彦も同意した。
「今すぐ問い詰めると、言い訳を作る時間を与えるだけです。記録、金額、承認経路、成果物、ログを固めてからです」
水城莉央は立ち上がった。
「社長に中間報告します。ただし、結論ではなく、発見事項として」
三枝義人が頷いた。
「お願いします」
午後六時二十分。
社長室。
高瀬悠真は、七瀬蒼真と主要顧客への対応状況を確認していた。
そこへ、水城莉央と三枝義人が入ってきた。
悠真は二人の顔を見て、すぐに察した。
「出たか」
三枝義人は資料を置いた。
「まだ断定はしません。ただ、重大な疑義があります」
水城莉央が説明する。
「K-Bridge Consultingへの八百万円の支払いです。成果物はA4三枚。ファイルの作成者情報に、桐谷健吾の社内アカウントが残っています」
七瀬蒼真が呆れたように言った。
「外注先の成果物を、発注した本人が社内PCで作った?」
「現時点では、その可能性があります」
悠真は資料を見た。
紙は薄い。
中身も薄い。
だが、そこに乗っている金は軽くない。
八百万円。
社員一人の年収より多い。
その金が、こんな紙三枚で流れている。
「美咲の承認は」
「あります」
水城莉央が答えた。
「桐谷申請。美咲承認。支払い済み」
悠真はしばらく黙った。
不倫の写真を見た時よりも、胸の奥が冷たくなった。
妻が別の男とホテルに入る。
それは個人としての裏切りだ。
だが、会社の金を流す。
それは、社員全員への裏切りだ。
「調査を続けてください」
悠真は言った。
「遠慮はいらない」
三枝義人が頷いた。
「承知しました」
「それと、真壁の営業本部長代行は正式に支えてください。営業側の資料が必要になる」
七瀬蒼真が言った。
「僕からもバックアップします」
水城莉央は資料を閉じた。
「社長」
「何だ」
「これ、まだ入口かもしれません」
「だろうな」
悠真は窓の外を見た。
東京の夕暮れが、ビルの窓を赤く染めている。
まるで街全体が、薄く出血しているようだった。
悠真は静かに言った。
「人事は固めた。会社は止めない」
誰も口を挟まなかった。
「次は、帳簿を開く番だ」
その夜。
ネクストリンクの二十七階には、まだ明かりが残っていた。
営業本部では、真壁蓮が顧客引き継ぎ表を作っていた。
宮園千晴は内部通報窓口の強化案を書いていた。
篠原航と成瀬葵は、ログ保全の確認を続けていた。
大槻沙織と桐生麻衣は、ヒアリング項目を詰めていた。
水城莉央、村瀬絢、坂井誠は、経費データの海に潜っていた。
七瀬蒼真は全体タスクを整理し、各部門の詰まりを取っていた。
そして悠真は、社長室で一枚の紙を見ていた。
K-Bridge Consulting。
四千八百万円。
桐谷健吾。
高瀬美咲。
名前が、数字で結ばれている。
愛ではない。
欲だ。
その線を、これから一本ずつ切っていく。
悠真は紙を机に置いた。
そして、誰に言うでもなく呟いた。
「不倫なら、離婚で済んだ」
部屋は静かだった。
「会社の金に触ったなら、話は別だ」
窓の外で、東京の夜が深くなる。
ネクストリンクは止まらない。
代行の椅子は埋まった。
調査委員会は動き出した。
そして帳簿の奥から、最初の腐臭が立ち上がった。
あれから、さらに二年が経った。 上場の鐘が鳴った日から、八年。 沖縄の海辺で高瀬悠真と高瀬玲奈が結婚し、凛が初めて「玲奈ママ」と呼んだ日からも、八年が過ぎていた。 けれど、時間は過去を消すものではなかった。 ただ、上から新しい日々を積んでいく。 楽しい日も。 苦しい日も。 働いた日も。 泣いた日も。 子どもが生まれた日も。 誰かが返済表を見つめた夜も。 全部が積み重なって、今になっていた。 ネクストリンクホールディングス本社ビルは、東京湾を望む再開発地区の一角に建っていた。 かつての本社よりも広く、高く、そして明るい。 エントランスの壁には、銀色の文字で社名が刻まれている。 NEXT LINK HOLDINGS 人を繋ぐ会社。 その言葉は、もうただの企業理念ではなかった。 八年前、東証グロース市場に上場したネクストリンクは、その後、東証プライム市場へ移行した。 グループ会社は三十一社。 国内外の社員数は九千二百名。 売上高は二千億円に近づき、営業利益は二百八十億円を超えた。 AI。 クラウド。 セキュリティ。 自治体DX。 福祉事業。 介護事業。 シニアワークス。 地方創生。 ゲーム。 アニメ。
六年という時間は、会社を変えるには十分すぎるほど長かった。 だが、人の罪を消すには、短すぎた。 東京の朝は、相変わらず忙しい。 駅のホームには人が流れ、オフィス街のビルはガラスの壁に空を映し、道路には配送車とタクシーが列を作っていた。その中で、ネクストリンクホールディングス本社ビルは、六年前よりもさらに高く、さらに大きく見えるようになっていた。 かつては中堅IT企業だった会社。 不正と不倫と横領で揺れた会社。 内部通報から始まり、裁判、上場、福祉事業、介護事業、地方創生、ゲーム、アニメ、AI、クラウド、セキュリティ、海外展開へと広がった会社。 今のネクストリンクホールディングスは、東証プライム市場に移行し、グループ会社は二十六社、社員数は国内外合わせて六千八百名を超えていた。 売上高は千三百億円台。 営業利益は百七十億円を超えた。 上場時、初値四千二百円だった株価は、途中で株式分割を二度挟み、現在は分割後ベースで三千二百円前後。分割前換算なら一万九千円を超えていた。 時価総額は、六年前には誰も本気で想像していなかった規模になっている。 だが、高瀬悠真にとって、その数字は目的ではなかった。 数字は結果だ。 会社を続けるための体温計であり、社会からの評価であり、投資家から預かった期待の形でしかない。 午前八時二十分。 高瀬悠真は、本社四十五階の役員フロアに入った。 四十一歳になった悠真は、六年前よりも経営者らしい落ち着きを身につけていた。 受付前で、神谷玲奈だった頃の名残を持つ女性が待っている。 高瀬玲奈。 社長室長兼秘書室長であり、悠真の妻。 六年前の沖縄で、凛から「玲奈ママ」と呼ばれた日から、彼女は少しずつ変わった。 仕事の速さは変わらない。 予定管理の正確さも変わらない。 役員たちが恐
結婚式の翌朝、沖縄の空はまだ静かだった。 海沿いの大型リゾートホテル《琉青ガーデン・リゾート》のスイートルームには、カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。東京の高層ビルの窓から見る、輪郭の鋭い白い朝とは違う。淡く青みを帯び、窓を少し開ければ潮の匂いまで運んでくるような光だった。 高瀬悠真は、午前六時二十分に目を覚ました。 長年の習慣だった。 社長になってから、彼の朝は早い。 未読メールを確認する。 夜間に発生したシステム障害や重大事故がないかを見る。 海外投資家から届いた問い合わせに目を通し、各支社の前日速報値を確認する。 上場後はさらに、適時開示に関係する案件、証券会社からの連絡、機関投資家との面談予定、取締役会資料まで増えた。 朝起きてスマートフォンを確認することは、もはや仕事というより反射に近かった。 だから結婚式の翌朝であっても、悠真の右手は無意識にベッドサイドへ伸びた。 指先がスマートフォンへ触れる。 その瞬間だった。「悠真さん」 隣から静かな声がした。 悠真の手が止まる。「……はい」 隣で、高瀬玲奈が半身を起こしていた。 戸籍上は、昨日から高瀬玲奈。 ただし、社内では取引先や社員の混乱を避けるため、当面は旧姓の神谷を業務上使用することにしている。名刺もメールアドレスも、しばらくは神谷玲奈のままだ。 けれど今は会社ではない。 白い寝間着に薄手のカーディガンを羽織り、長い髪を少し乱した彼女は、社長室長でも秘書室長でもなかった。 昨日、高瀬悠真と結婚したばかりの妻だった。 ただし。 悠真を見る目だけは、秘書室長時代と何も変わっていない。「何をしようとしましたか」「時間を確認しようかと」「スマートフォンの側面ボタンへ
沖縄の海は、東京の空とは違う青をしていた。 冬の東京で上場の鐘が鳴った日から、半年が過ぎていた。 ネクストリンクホールディングスは、上場後も忙しかった。 投資家説明会。 四半期決算。 福祉事業所の増設。 介護施設の追加買収。 地方創生プロジェクト。 ゲーム・アニメIPの海外展開。 東証グロース市場へ上場した会社は、祝福だけを受け取っていればよい存在ではなかった。市場は毎日会社を見ている。数字を見ている。失敗を見ている。期待を見ている。 だから、高瀬悠真は相変わらず忙しかった。 神谷玲奈も相変わらず忙しかった。 結婚式の準備でさえ、最初は神谷玲奈がスケジュール表にして管理していた。 式場候補。 招待客一覧。 親族宿泊手配。 社員代表選定。 支社長移動手段。 福祉・介護事業代表の出席確認。 沖縄現地の天候予備案。 披露宴進行。 凛のリングガール練習。 まるで新規上場審査の補足資料のような厚さだった。 それを見た七瀬蒼真は、真顔で言った。「神谷さん、結婚式まで内部統制するんですか」 神谷玲奈は即答した。「当然です。人生の重要行事です」 水城莉央が隣で頷いた。「予算管理も必要です」 七瀬蒼真は、妻となった水城莉央を見た。「莉央、そこは乗らなくてもいいんじゃないか」「私たちの結婚式も、あなたが直前まで何も決めなかったので私が管理しました」「はい。助かりました」「二度と同じことを繰り返さないよう、社長には早めに決めていただくべきです」「夫婦で社長を追い込む形になってる」 高瀬悠真は、
朝の東京は、澄みきっていた。 冬の空は青く、ビルの窓には白い光が刺さっている。道路を走る車の音も、駅へ向かう人々の足音も、いつもと同じはずだった。 けれど、その朝のネクストリンク本社は違った。 午前七時五十分。 まだ始業前にもかかわらず、本社二十七階の上場準備室には灯りがついていた。 水城莉央は、すでに自席でメールを確認していた。 専務取締役兼CFO。 この数か月、彼女の机の上から数字が消えた日はなかった。 資本政策。 監査対応。 関連当事者取引。 タカセ・アセットマネジメントとの契約確認。 介護事業の人件費改定。 福祉事業の工賃設計。 ゲーム、アニメ事業の収益予測。 支社別予算。 返済回収計画。 そして、上場申請資料。 数字は冷たい。 だが、その冷たい数字の先に、人がいた。 働く社員。 福祉事業所の利用者。 介護施設の職員。 商店街の人々。 投資家。 取引先。 そして、会社を信じてくれる人たち。 水城莉央は、画面に届いた一通のメールを見た。 東洋キャピタル証券、早乙女圭介からだった。 件名。 上場承認に関する正式連絡。 水城莉央は、一瞬だけ呼吸を止めた。 開封する。 本文を読む。 その目が、わずかに揺れた。「……来た」 声は小さかった。 けれど、その一言で、上場準備室にいた坂井誠が顔を上げた。「水城専務?」 水城莉央は、いつものように落ち着いた声を出そうとして、少しだけ失敗した。
年が明けた。 東京の空は、冬らしく高かった。 雲は薄く、ビルの硝子に朝日が跳ね、舗道を歩く人々の息が白くほどけていく。寒さは厳しい。けれど、ネクストリンク本社の中は、季節とは別の熱を帯びていた。 上場準備室。 IR部。 経理財務本部。 法務本部。 内部統制推進部。 コンプライアンス部。 各支社。 福祉事業本部。 介護事業統括室。 ゲーム・アニメ事業本部。 すべてが、同じ方向を向いていた。 上場へ。 その二文字が、社内の空気をぴんと張らせていた。 ネクストリンク本社二十七階。 大会議室には、朝八時半の時点で、すでに資料が積み上げられていた。 高瀬悠真は、黒いスーツの袖を整えながら席へ着いた。 代表取締役社長CEO。 会社の顔であり、上場審査では最も見られる人間だった。 隣には、社長室長兼秘書室長の神谷玲奈が立っている。 今日の神谷玲奈は、いつも以上に隙がなかった。 髪はきっちりまとめ、淡いグレーのスーツに、細いシルバーの腕時計。手元のタブレットには、午前八時半から午後九時までの予定が一分単位で並んでいる。 悠真が資料へ手を伸ばす前に、神谷玲奈が小さく言った。「社長、その資料は午後の東証追加質問用です。今見るのは主幹事証券向けの最終版です」 悠真の指が止まった。「……よく分かりましたね」「社長の右手が、間違った山に伸びました」「右手まで監視されていますか」「社長室長兼秘書室長ですので」「その言葉、最近さらに強くなってませんか」「社長が忙しさで雑になるほど、強くなります」 悠真は苦笑した。「気をつ







