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離婚したので会社ごと追い出しました。
離婚したので会社ごと追い出しました。
작가: 桃神かぐら

第1話 証拠はそろった

last update 게시일: 2026-07-14 13:43:10

 高瀬悠真は、怒鳴らない男だった。

 それは優しいからではない。

 怒鳴る前に、数字を見るからだ。

 東京都千代田区。

 丸の内の高層ビル群を見下ろす二十七階に、株式会社ネクストリンクの本社はあった。

 法人向けクラウド管理システム、営業支援AI、企業内データ連携プラットフォーム。

 十年前、六畳一間の古いマンションで始めた会社は、いまでは従業員三百十二名、年商百八億円の中堅IT企業になっていた。

 上場準備にも入っている。

 銀行も、監査法人も、証券会社も、ネクストリンクを「次に伸びる企業」と見ていた。

 その会社の創業社長が、高瀬悠真だった。

 三十五歳。

 黒髪を短く整え、余計な装飾を嫌い、いつも白いシャツに濃紺のスーツを着ている。

 派手な経営者ではない。

 メディアで夢を語るより、契約書の一文を直す方を好む男だった。

 そして、ネクストリンクの議決権の七十八%を保有する、絶対的なオーナーでもあった。

 その日も、悠真は朝七時半には出社していた。

 役員フロアの社長室。

 ガラス越しに見える東京の朝は、妙に澄んでいた。

 机の上には、三つの資料が並んでいる。

 一つは、月次売上報告書。

 一つは、上場準備に関する監査法人からの確認事項。

 そしてもう一つは、封をされた茶色の調査報告書だった。

 差出人は、青葉総合調査事務所。

 悠真が二週間前に正式契約した、探偵事務所である。

 悠真はその封筒にはまだ触れなかった。

 先に売上報告書を開いた。

 第一事業部、前年比一二八%。

 第二事業部、前年比一一六%。

 営業本部、新規案件獲得数は多い。

 だが、利益率が落ちていた。

 特に営業本部長である桐谷健吾が決裁した案件に、妙な接待費と旅費交通費が増えている。

 偶然ならいい。

 だが、偶然が同じ方向に三度続けば、それは数字の悲鳴だ。

 悠真は赤ペンで資料の端に小さく丸をつけた。

 その時、社長室のドアが控えめにノックされた。

「社長、よろしいでしょうか」

 入ってきたのは、秘書室長の神谷玲奈だった。

 三十二歳。

 長い髪を後ろでまとめ、薄いグレーのジャケットを着ている。

 秘書という肩書きだが、実質的には社長室の番人だった。

 予定管理、社外調整、役員会資料の確認、株主対応の下準備までこなす。

 悠真が創業五年目に採用した人材で、会社の裏側を誰よりも冷静に見ている。

「神谷さん。ちょうどよかった」

「青葉総合調査事務所からの報告書、届いておりますね」

「ああ。まだ開けていない」

 神谷玲奈は一瞬だけ目を伏せた。

 その仕草で、悠真は中身を察した。

 悪い報告は、封筒を開ける前から重い。

「確認しますか」

「する」

 悠真は、そこで初めて茶封筒に手を伸ばした。

 封を切る音が、やけに大きく響いた。

 中には、調査報告書、写真資料、宿泊施設の出入り記録、車両移動記録、時系列表が入っていた。

 悠真は一枚目をめくった。

 最初に出てきた写真は、夜のホテル前だった。

 港区。

 高級ホテルの地下駐車場出入口。

 そこに写っていたのは、妻の高瀬美咲だった。

 三十四歳。

 ネクストリンク専務取締役。

 財務と人事を管掌する役員。

 そして、悠真の妻。

 写真の中の美咲は、黒いワンピースに白いコートを羽織り、隣の男の腕に自然に手を添えていた。

 男は、桐谷健吾。

 三十七歳。

 営業本部長。

 創業初期からネクストリンクにいた幹部の一人だ。

 二人は周囲を気にしながらも、笑っていた。

 次の写真。

 ホテルのロビー。

 次の写真。

 エレベーター前。

 次の写真。

 翌朝、同じホテルから出てくる二人。

 時刻は午前七時十二分。

 美咲は髪を軽く結び、桐谷は前日のネクタイを少し緩めていた。

 悠真は無言でページをめくった。

 神谷玲奈は何も言わなかった。

 社長室の空気だけが、ゆっくり凍っていく。

 報告書には、感情的な言葉は一つもなかった。

 調査日時。

 場所。

 対象者。

 行動内容。

 撮影番号。

 確認事項。

 それだけだ。

 だからこそ、逃げ道がなかった。

 ホテルへの入退館は三回。

 地方出張時の同宿疑いが二回。

 深夜の密会が四回。

 会食名目での二人きりの移動が六回。

 報告書の文章は淡々としていた。

 まるで機械が人間の裏切りを分類しているようだった。

「……確定か」

 悠真が言った。

 声は揺れていなかった。

 神谷玲奈は小さく頷いた。

「調査会社の担当者からは、民事上の不貞行為を主張する材料としては十分な可能性が高い、と説明を受けています。ただ、最終判断は弁護士に確認すべきとのことです」

「そうだな。探偵は事実を集める仕事で、法的評価は弁護士の仕事だ」

 悠真は次の資料を手に取った。

 そこには、さらに厄介なものが入っていた。

 経費精算の一覧。

 ホテル代。

 高級旅館。

 地方出張費。

 接待費。

 役員交際費。

 そして、それらのいくつかに、美咲と桐谷の動きが重なっていた。

 もちろん、経費精算があるだけで即違法とは言えない。

 会社の役員や営業本部長が、接待や出張をすること自体は普通にある。

 問題は、その実態だ。

 業務との関連性が薄い支出。

 同席者の記載が曖昧な会食。

 存在しない顧客名。

 宿泊先の部屋数と人数の矛盾。

 日程表にない前泊。

 悠真は、報告書の中で赤い付箋が貼られた箇所を見た。

 青葉総合調査事務所は、さすがに会計監査まではしていない。

 だが、調査中に判明した移動実態と会社資料に齟齬がある、と注記していた。

 そこから先は、会社の法務と監査の領域だった。

「神谷さん」

「はい」

「今日の十五時に、矢島先生を呼んでくれ」

「顧問弁護士の矢島明彦先生ですね」

「ああ。それと常勤監査役の三枝さん、法務部長の大槻さん、経理部長の坂井さん。全員、社長室ではなく第二会議室に集める」

「専務には」

「伝えなくていい」

 神谷玲奈は表情を変えなかった。

 ただ、返事だけが少し低くなった。

「承知しました」

 彼女が出ていこうとした時、悠真は言った。

「神谷さん」

「はい」

「この件を最初に報告した社員は、誰だ」

 神谷玲奈はすぐには答えなかった。

「名前を出す必要がありますか」

「今はない。ただ、守る必要がある」

「営業管理部の若手と経理部の若手です。経費精算の確認中に不自然な点を見つけ、最初は上長に相談しましたが、握り潰されそうになったため、私のところへ来ました」

「その社員に不利益が出ないようにしてくれ」

「はい」

「内部告発者を潰す会社に、未来はない」

 神谷玲奈の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

「その言葉、本人に伝えてもよろしいですか」

「いや。伝えなくていい。守った結果だけ見せればいい」

「承知しました」

 ドアが閉まった。

 悠真は一人になった。

 写真の中の美咲は笑っている。

 桐谷も笑っている。

 その笑顔を見ても、不思議と涙は出なかった。

 胸の奥で、何かが静かに焼き切れただけだった。

 十年前。

 まだ会社が小さかった頃、美咲は経理を手伝ってくれた。

 請求書を作り、銀行へ行き、深夜の事務所でコンビニ弁当を食べた。

 あの頃の美咲は、確かに隣にいた。

 同じ会社を見ていた。

 同じ未来を信じていた。

 だが、いま写真の中にいる美咲は違う。

 彼女が裏切ったのは、夫だけではない。

 会社だった。

 社員だった。

 この十年に積み上げた信用だった。

 悠真は写真を封筒に戻した。

 そして、売上報告書の上に置いた。

「家庭の話で終わらせるつもりだったなら、まだ可愛げがあったんだけどな」

 誰もいない社長室で、悠真はそう呟いた。

 午後三時。

 第二会議室には六人が集まった。

 高瀬悠真。

 秘書室長の神谷玲奈。

 顧問弁護士の矢島明彦。

 常勤監査役の三枝義人。

 法務部長の大槻沙織。

 経理部長の坂井誠。

 会議室のブラインドは下ろされ、テーブルの上には紙資料が並べられている。

 電子データもあるが、この場では不用意に共有しない。

 情報漏洩を避けるためだった。

 矢島明彦は五十代半ばの弁護士で、企業法務に強い。

 派手な訴訟屋ではない。

 契約書と取締役会運営を淡々と固める、地味だが信頼できる男だった。

 三枝義人は六十二歳。

 元銀行員で、ネクストリンクの常勤監査役。

 穏やかな顔をしているが、不正な支出を見る目は刃物のように鋭い。

 法務部長の大槻沙織は四十歳。

 元大手法律事務所勤務。

 社内規程の整備を進め、上場準備の土台を作ってきた人物だ。

 経理部長の坂井誠は四十五歳。

 無口だが、数字の違和感にだけは異常に敏感だった。

 悠真は全員を見た。

「今日の内容は、現時点では極秘です。対象者は専務取締役の高瀬美咲と、営業本部長の桐谷健吾。まず、探偵事務所による調査報告を共有します」

 会議室に、紙の擦れる音だけが響いた。

 矢島明彦は写真を確認しても、眉一つ動かさなかった。

 大槻沙織は口元を引き締めた。

 三枝義人は経費精算の一覧で手を止めた。

 坂井誠は、ほとんど瞬きをしなくなった。

 全員が資料に目を通した後、悠真は言った。

「まず、私生活上の不貞行為については離婚と慰謝料請求の問題になる。これは私個人の問題です。だが、会社経費の流用疑い、利益相反、虚偽精算、職務上の信用失墜については会社の問題です。分けて考えたい」

 矢島明彦が頷いた。

「その整理でいいと思います。社長個人の離婚問題と、会社としての役員・従業員対応は混ぜない方がいい。特に上場準備中ですから、手続きの透明性が重要です」

「美咲は専務取締役です。解任は可能ですか」

「取締役の解任自体は、株主総会決議事項です。御社の場合、定款や機関設計の確認は必要ですが、原則として株主総会で解任決議を行うことになります。社長が議決権の七十八%を保有している以上、決議自体は通せる可能性が高い。ただし、正当な理由なく任期途中で解任した場合、損害賠償請求を受ける可能性があります」

「正当な理由の有無が問題になる」

「はい。ですから、感情的な離婚理由ではなく、役員としての善管注意義務違反、忠実義務違反、会社資産の私的利用疑い、社内規程違反など、会社側の事情を丁寧に積む必要があります」

 大槻沙織が資料をめくった。

「専務は財務と人事を管掌しています。経費承認権限も一部持っています。もし私的な宿泊や移動を業務経費として処理していた場合、社内規程違反は明確に問えます。ただ、いきなり断定するのではなく、まず特別調査という形にした方がいいです」

 三枝義人が低い声で言った。

「監査役としても、この経費一覧は見過ごせません。接待先の実在確認、同席者確認、出張目的の確認、領収書原本の確認を行うべきです」

 坂井誠が、ようやく口を開いた。

「経理部としても、怪しい支出はいくつか把握していました。ただ、承認者が専務と営業本部長で、業務上の接待と言われると止めきれない部分がありました」

「坂井さんを責める場ではありません」

 悠真は即座に言った。

「ただし、これからは全部出してください」

「はい」

「桐谷についてはどうですか」

 大槻沙織が答えた。

「桐谷健吾は取締役ではなく、従業員兼執行役員扱いです。雇用契約と役職任用の関係になります。懲戒解雇まで行くには、就業規則上の根拠、弁明の機会、事実認定が必要です。いきなり明日付で懲戒解雇というのは危険です」

「では」

「まずは自宅待機命令、業務用端末と社用携帯の保全、アクセス権限の停止、調査委員会による事情聴取。そのうえで、懲戒処分を検討する流れが自然です」

 矢島明彦も頷いた。

「証拠隠滅防止のため、権限停止は早い方がいい。ただし、本人に何を告げるかは慎重に。名誉毀損や不当処分と言われないよう、調査中の措置として扱うべきです」

「刑事は」

「業務上横領や背任の可能性はあります。ただ、刑事告訴をするなら、会社資産の私的利用がどこまで明確か、金額はいくらか、本人たちに故意があるか、そこを固める必要があります。現時点では、刑事よりも社内調査と民事請求の準備が先です」

 悠真は黙って聞いていた。

 怒りを法に変換する。

 それは簡単ではない。

 感情は火だ。

 法務は水路だ。

 水路を間違えれば、火は会社を焼く。

「株式の買い取りは」

 悠真が尋ねた。

 矢島明彦は少し考えた。

「美咲さんが五%、桐谷さんが二%を保有している件ですね。株主であること自体は、不貞や社内不正疑いだけで当然に奪えるものではありません。強制的に買い取れるかは、株主間契約、譲渡制限、退職時の買戻条項などの有無によります」

 大槻沙織が補足した。

「創業期の株主間契約があります。退職・解任・重大な信用毀損行為があった場合、会社または指定株主が一定の算定式で買い取れる条項は入っています。ただ、発動条件と価格算定は慎重に確認が必要です」

「つまり、やれる可能性はあるが、手続きが必要」

「はい」

「なら手続きを踏む」

 悠真は即答した。

 彼の声は冷えていた。

 会議室にいる全員が、その冷たさを感じた。

 怒鳴るより怖い声だった。

「私は二人を感情で追い出したいわけではありません。会社を守りたい。だから、不自然な処理は一つもしたくない」

 矢島明彦が頷いた。

「その姿勢が一番重要です」

「明日、臨時取締役会を開きます」

 大槻沙織が顔を上げた。

「議題はどうしますか」

「第一に、専務取締役・高瀬美咲に関する特別調査委員会の設置。第二に、調査期間中の職務権限停止。第三に、営業本部長・桐谷健吾に関する社内調査と自宅待機命令。第四に、関連する経費精算、契約、稟議、電子データの保全。第五に、必要に応じた株主総会招集の準備」

 三枝義人が目を細めた。

「解任決議そのものは、明日の取締役会ではなく株主総会ですね」

「そうです。明日は、解任のための事実整理と調査開始です」

「冷静ですね」

「冷静でないと負けます」

 悠真はそう言った。

 家庭では、もう負けている。

 妻には裏切られた。

 結婚生活は壊れた。

 だが会社まで壊されるつもりはなかった。

 そこには、三百十二人の生活がある。

 取引先がある。

 信用がある。

 十年分の契約書と請求書と失敗と徹夜がある。

 不倫の修羅場に、会社を巻き込ませるわけにはいかない。

「探偵事務所とは追加契約します」

 悠真は言った。

「私生活の不貞証拠については、離婚担当の弁護士にも引き継ぐ。ただし、会社経費に関する部分は、社内調査と監査で裏を取る。青葉総合調査事務所には、今後の接触や証拠隠滅の動きがないか、合法的な範囲で継続調査を依頼します」

 矢島明彦が少しだけ口角を上げた。

「合法的な範囲で、という言葉が出るなら安心です。違法な盗聴や不正アクセスは絶対に避けてください。裁判で不利になるだけです」

「わかっています。こちらが汚れたら、相手を追及する資格を失う」

「その通りです」

 会議は一時間半続いた。

 結論は明確だった。

 感情で断罪しない。

 証拠を固める。

 調査手続きを作る。

 権限を止める。

 会社の資産と情報を守る。

 必要なら株主総会で解任する。

 株式は契約に従って買い取りを請求する。

 損害が確定すれば、会社として損害賠償を求める。

 そして、悠真個人としては、離婚と慰謝料請求を進める。

 全部、別々の刃にする。

 一つの怒りで殴るのではない。

 七本の刃で、逃げ道を切る。

 会議が終わる頃には、外は暗くなっていた。

 神谷玲奈が資料を回収し、番号ごとに封筒へ戻す。

 矢島明彦は帰り際、悠真に言った。

「高瀬社長」

「はい」

「明日から、相手は泣くか、怒るか、被害者のふりをするかもしれません」

「でしょうね」

「しかし、絶対に会議室で怒鳴らないでください。脅さない。人格攻撃をしない。事実と手続きだけで進める。それが一番強い」

「心得ています」

「離婚の怒りを会社に持ち込んだ、と言われたら面倒ですから」

「逆に言えば、会社の問題を家庭の喧嘩に矮小化させない」

 矢島明彦は深く頷いた。

「その通りです」

 悠真は会議室を出た。

 廊下の向こうでは、社員たちがまだ働いている。

 営業資料を作る者。

 システム障害の対応をする者。

 カスタマーサポートの問い合わせに追われる者。

 誰もまだ知らない。

 会社の中心で、静かな戦争が始まっていることを。

 午後九時過ぎ。

 悠真は自宅マンションへ戻った。

 港区のタワーマンション。

 結婚して三年目に買った部屋だ。

 リビングには、まだ二人で選んだソファがある。

 キッチンには、美咲が好きだった白いコーヒーメーカーがある。

 壁には、軽井沢で撮った写真が飾られている。

 笑っている二人。

 その写真を見て、悠真はようやく少しだけ息を吐いた。

 過去が嘘だったとは思わない。

 だが、今が嘘なら、過去の価値も変わってしまう。

 十時四十分。

 玄関のロックが開いた。

「ただいま」

 高瀬美咲の声がした。

 悠真はリビングのソファに座っていた。

 テーブルの上には、何も置いていない。

 報告書も写真もない。

 問い詰めるつもりはなかった。

 今夜ここを家庭裁判所にする気はない。

「遅かったな」

「うん、ごめんね。桐谷さんと明日の営業会議の準備してて。上場前って本当にやること多いね」

 美咲は自然に笑った。

 自然すぎて、見事だった。

 悠真はその顔を見た。

 この人は、こんなふうに嘘をつける人だったのか。

 そう思った。

「夕飯は」

「外で軽く食べてきた」

「そうか」

「悠真は?」

「会社で済ませた」

「そっか。最近忙しいね」

「ああ」

 美咲はコートを脱ぎ、寝室へ向かった。

 その後ろ姿を、悠真は黙って見送った。

 今ここで言えば、どんな顔をするだろう。

 泣くのか。

 怒るのか。

 「違う」と言うのか。

 「寂しかった」と言うのか。

 「あなたにも悪いところがあった」と言うのか。

 想像はできた。

 だが、どれも今は必要なかった。

 必要なのは、明日の取締役会だった。

 美咲がシャワーを浴びている間、悠真は自分の書斎に入った。

 ノートパソコンを開く。

 神谷玲奈から、明日の臨時取締役会資料の最終版が届いていた。

 議案名は慎重に整えられている。

 第一号議案。

 高瀬美咲専務取締役に関する特別調査委員会設置の件。

 第二号議案。

 調査期間中における一部職務権限停止の件。

 第三号議案。

 営業本部長桐谷健吾に関する社内調査および自宅待機命令の件。

 第四号議案。

 関連資料および電子データ保全の件。

 第五号議案。

 臨時株主総会招集準備の件。

 完璧ではない。

 だが、戦える形だった。

 悠真は一つ一つ確認し、最後に短い返信を打った。

「この内容で進めてください。明朝八時、最終確認」

 送信。

 画面が暗く反射し、そこに自分の顔が映った。

 疲れた顔だった。

 夫として傷ついた男の顔。

 だが同時に、会社を守る社長の顔でもあった。

 悠真は椅子にもたれた。

 そして、小さく呟いた。

「美咲」

 名前を呼んでも、答えはない。

 もう夫婦として話し合う時間は、過ぎてしまったのかもしれない。

 翌朝。

 高瀬悠真はいつも通り、七時半に出社した。

 昨夜と同じ白いシャツ。

 濃紺のスーツ。

 ただし、ネクタイだけは黒に近いグレーだった。

 社長室には、すでに神谷玲奈がいた。

「おはようございます」

「おはよう」

「資料、全て準備できています。矢島先生も九時半には到着予定です。三枝監査役、大槻部長、坂井部長も待機します」

「美咲と桐谷は」

「通常通り出社予定です。専務は十時から役員会、桐谷本部長は九時四十五分に営業会議を入れていましたが、こちらで調整しました」

「ありがとう」

 神谷玲奈は一枚の書類を差し出した。

 臨時取締役会招集通知。

 悠真はそれを手に取った。

 紙の重さは軽い。

 だが、そこに書かれている文字は、人の人生を変える。

 役職。

 報酬。

 信用。

 株式。

 婚姻。

 未来。

 全部、今日から動き出す。

 悠真はペンを取った。

 署名欄に、自分の名前を書く。

 高瀬悠真。

 インクが紙に沈む。

 それは、開戦の合図に似ていた。

 神谷玲奈が書類を受け取る。

「では、通知を回します」

「ああ」

 彼女が出ていこうとした時、悠真は窓の外を見た。

 東京の朝は、昨日と同じように明るかった。

 人も車も動いている。

 世界は誰かの離婚で止まらない。

 会社も、社長の傷心で止めてはいけない。

 悠真は静かに言った。

「始めよう」

 神谷玲奈が振り返る。

 悠真は続けた。

「家庭の話は、もう終わりだ」

 その声に、怒鳴り声はなかった。

 涙もなかった。

 ただ、刃物のような静けさだけがあった。

「ここからは、会社の話をする」

 午前十時。

 ネクストリンク本社、役員会議室。

 ガラス張りの会議室に、役員たちが集まり始める。

 高瀬美咲は、いつも通り美しい笑顔で入ってきた。

 桐谷健吾も、いつも通り自信に満ちた顔で席についた。

 二人はまだ知らない。

 この会議室が、家庭の修羅場ではなく、企業法務の処刑台になることを。

 高瀬悠真は議長席に座り、資料を開いた。

 そして、静かに告げた。

「それでは、臨時取締役会を開始します」

 ページをめくる音がした。

 修羅場は、もう始まっていた。

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     午前五時二十分。 警視庁捜査二課の会議室には、まだ夜の匂いが残っていた。 窓の外は薄暗い。 東京の街は眠っているように見える。 だが、眠っている街の下で、警察はすでに動いていた。 会議室の正面には、三枚の顔写真が貼られている。 桐谷健吾。 元株式会社ネクストリンク営業本部長。 黒川亮介。 Raven Works代表。 青柳拓人。 Blue Mark Partners代表。 その横には、関係図。 ネクストリンク。 K-Bridge Consulting。 Raven Works。 Blue Mark Partners。 合同会社ミナトリサーチ。 S-Connect Holdings。 そして、複数の個人口座。 警視庁捜査二課の望月誠司は、逮捕状の写しを机の上に置いた。 四十六歳。 経済事件を長く追ってきた刑事だった。 怒鳴るタイプではない。 人の嘘より、金の流れを信じる男だった。 その横には、新谷怜奈。 三十一歳。 供述整理が速く、関係者の心理を読むのがうまい。 そして、森脇悠介。 三十五歳。 サイバー担当。 削除メール、端末ログ、クラウド履歴の解析を担当している。 望月が言った。「逮捕状は出た」 会議室が静まり返る。「対象は、桐谷健吾、黒川亮介、青柳拓人。容疑は、まず背任および会社資金流出に関する共犯構成を中心に取る。業務上横領、詐欺的構成、犯罪収益隠匿については押収資料と供述で詰める。特別背任については、高瀬美咲の取締役としての関与が絡む。検察と協議しながら固める」 新谷怜奈が確認する。「西岡大輔と山城直人は任意同行」「そうだ。西岡と山城は崩れかけている。今日

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第14話 強制査察

     朝は、誰にでも平等に来る。 だが、その朝が何を連れてくるかは、人によって違う。 東京国税局査察部のフロアには、午前五時前から明かりがついていた。 窓の外はまだ暗い。 ビルの谷間に、夜の残りが沈んでいる。 しかし、査察部の中だけはすでに昼のようだった。 机の上には、令状請求資料。 対象先一覧。 押収予定物リスト。 人員配置表。 車両割当表。 銀行口座一覧。 法人登記簿。 税務申告書。 資金移動図。 そして、桐谷健吾、黒川亮介、青柳拓人の写真。 査察官の斎藤修司は、白い紙コップのコーヒーに一度も口をつけず、資料の最終確認をしていた。 班長の大石誠司が、腕時計を見る。「行くぞ」 午前五時二十分。 斎藤修司、小野寺紗季、田丸圭吾、成宮光、早瀬理奈たちは、東京地方裁判所へ向かった。 令状を取るためだった。 強制査察は、気分で行うものではない。 裁判所が認めた令状が必要になる。 どこに入るのか。 何を探すのか。 何の嫌疑があるのか。 任意調査では足りない理由は何か。 それを資料で示さなければならない。 裁判所の一室で、裁判官が資料をめくった。 対象。 桐谷健吾自宅。 黒川亮介自宅。 Raven Works事務所。 Blue Mark Partners事務所。 K-Bridge Consulting事務所。 青柳拓人自宅。 合同会社ミナトリサーチ所在地。 押収対象。 帳簿。 請求書。 契約書。 領収書。 通帳。 キャッシュカード。 印鑑。 パソコン。

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第13話 査察前夜

     東京国税局査察部の朝は、静かだった。 だが、その静けさは穏やかではない。 紙の擦れる音。 キーボードを叩く音。 コピー機が吐き出す資料の音。 電話口で短く確認する声。 それらが重なり合い、部屋全体が巨大な計算機のように動いていた。 東京国税局査察部。 通称、マルサ。 脱税を見つけるだけの部署ではない。 隠された金の通り道を掘り起こし、帳簿の裏に潜った意図を見つける部署だった。 午前八時二十分。 査察官の斎藤修司は、自席の上に並んだ資料を見ていた。 四十五歳。 無駄な動きが少ない男だった。 声を荒げない。 笑わないわけではないが、仕事中は感情を表に出さない。 数字を見る時、彼の目は人間を見る時より少し冷たくなる。 机の上には、数枚の関係図があった。 桐谷健吾。 元ネクストリンク営業本部長。 年収一千百万円。 懲戒解雇。 退職金不支給。 損害賠償請求対象。 刑事告訴対象。 K-Bridge Consulting。 営業支援コンサル名目。 ネクストリンクから四千八百万円受領。 Raven Works。 代表、黒川亮介。 四十歳。 桐谷健吾の前職時代の同僚。 K-Bridgeから二千二百万円受領。 Blue Mark Partners。 代表、青柳拓人。 三十九歳。 桐谷健吾の大学時代の友人。 Raven Worksから複数回入金。 さらに桐谷健吾の親族名義口座、桐谷本人の個人口座、現金引き出し、証券口座、クレジットカード決済へ流れている。 斎藤修司は、赤鉛筆で一本の線を引いた。 K-Bridge。 Rav

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