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高瀬悠真は、怒鳴らない男だった。
それは優しいからではない。
怒鳴る前に、数字を見るからだ。
東京都千代田区。
丸の内の高層ビル群を見下ろす二十七階に、株式会社ネクストリンクの本社はあった。
法人向けクラウド管理システム、営業支援AI、企業内データ連携プラットフォーム。
十年前、六畳一間の古いマンションで始めた会社は、いまでは従業員三百十二名、年商百八億円の中堅IT企業になっていた。
上場準備にも入っている。
銀行も、監査法人も、証券会社も、ネクストリンクを「次に伸びる企業」と見ていた。
その会社の創業社長が、高瀬悠真だった。
三十五歳。
黒髪を短く整え、余計な装飾を嫌い、いつも白いシャツに濃紺のスーツを着ている。
派手な経営者ではない。
メディアで夢を語るより、契約書の一文を直す方を好む男だった。
そして、ネクストリンクの議決権の七十八%を保有する、絶対的なオーナーでもあった。
その日も、悠真は朝七時半には出社していた。
役員フロアの社長室。
ガラス越しに見える東京の朝は、妙に澄んでいた。
机の上には、三つの資料が並んでいる。
一つは、月次売上報告書。
一つは、上場準備に関する監査法人からの確認事項。
そしてもう一つは、封をされた茶色の調査報告書だった。
差出人は、青葉総合調査事務所。
悠真が二週間前に正式契約した、探偵事務所である。
悠真はその封筒にはまだ触れなかった。
先に売上報告書を開いた。
第一事業部、前年比一二八%。
第二事業部、前年比一一六%。
営業本部、新規案件獲得数は多い。
だが、利益率が落ちていた。
特に営業本部長である桐谷健吾が決裁した案件に、妙な接待費と旅費交通費が増えている。
偶然ならいい。
だが、偶然が同じ方向に三度続けば、それは数字の悲鳴だ。
悠真は赤ペンで資料の端に小さく丸をつけた。
その時、社長室のドアが控えめにノックされた。
「社長、よろしいでしょうか」
入ってきたのは、秘書室長の神谷玲奈だった。
三十二歳。
長い髪を後ろでまとめ、薄いグレーのジャケットを着ている。
秘書という肩書きだが、実質的には社長室の番人だった。
予定管理、社外調整、役員会資料の確認、株主対応の下準備までこなす。
悠真が創業五年目に採用した人材で、会社の裏側を誰よりも冷静に見ている。
「神谷さん。ちょうどよかった」
「青葉総合調査事務所からの報告書、届いておりますね」
「ああ。まだ開けていない」
神谷玲奈は一瞬だけ目を伏せた。
その仕草で、悠真は中身を察した。
悪い報告は、封筒を開ける前から重い。
「確認しますか」
「する」
悠真は、そこで初めて茶封筒に手を伸ばした。
封を切る音が、やけに大きく響いた。
中には、調査報告書、写真資料、宿泊施設の出入り記録、車両移動記録、時系列表が入っていた。
悠真は一枚目をめくった。
最初に出てきた写真は、夜のホテル前だった。
港区。
高級ホテルの地下駐車場出入口。
そこに写っていたのは、妻の高瀬美咲だった。
三十四歳。
ネクストリンク専務取締役。
財務と人事を管掌する役員。
そして、悠真の妻。
写真の中の美咲は、黒いワンピースに白いコートを羽織り、隣の男の腕に自然に手を添えていた。
男は、桐谷健吾。
三十七歳。
営業本部長。
創業初期からネクストリンクにいた幹部の一人だ。
二人は周囲を気にしながらも、笑っていた。
次の写真。
ホテルのロビー。
次の写真。
エレベーター前。
次の写真。
翌朝、同じホテルから出てくる二人。
時刻は午前七時十二分。
美咲は髪を軽く結び、桐谷は前日のネクタイを少し緩めていた。
悠真は無言でページをめくった。
神谷玲奈は何も言わなかった。
社長室の空気だけが、ゆっくり凍っていく。
報告書には、感情的な言葉は一つもなかった。
調査日時。
場所。
対象者。
行動内容。
撮影番号。
確認事項。
それだけだ。
だからこそ、逃げ道がなかった。
ホテルへの入退館は三回。
地方出張時の同宿疑いが二回。
深夜の密会が四回。
会食名目での二人きりの移動が六回。
報告書の文章は淡々としていた。
まるで機械が人間の裏切りを分類しているようだった。
「……確定か」
悠真が言った。
声は揺れていなかった。
神谷玲奈は小さく頷いた。
「調査会社の担当者からは、民事上の不貞行為を主張する材料としては十分な可能性が高い、と説明を受けています。ただ、最終判断は弁護士に確認すべきとのことです」
「そうだな。探偵は事実を集める仕事で、法的評価は弁護士の仕事だ」
悠真は次の資料を手に取った。
そこには、さらに厄介なものが入っていた。
経費精算の一覧。
ホテル代。
高級旅館。
地方出張費。
接待費。
役員交際費。
そして、それらのいくつかに、美咲と桐谷の動きが重なっていた。
もちろん、経費精算があるだけで即違法とは言えない。
会社の役員や営業本部長が、接待や出張をすること自体は普通にある。
問題は、その実態だ。
業務との関連性が薄い支出。
同席者の記載が曖昧な会食。
存在しない顧客名。
宿泊先の部屋数と人数の矛盾。
日程表にない前泊。
悠真は、報告書の中で赤い付箋が貼られた箇所を見た。
青葉総合調査事務所は、さすがに会計監査まではしていない。
だが、調査中に判明した移動実態と会社資料に齟齬がある、と注記していた。
そこから先は、会社の法務と監査の領域だった。
「神谷さん」
「はい」
「今日の十五時に、矢島先生を呼んでくれ」
「顧問弁護士の矢島明彦先生ですね」
「ああ。それと常勤監査役の三枝さん、法務部長の大槻さん、経理部長の坂井さん。全員、社長室ではなく第二会議室に集める」
「専務には」
「伝えなくていい」
神谷玲奈は表情を変えなかった。
ただ、返事だけが少し低くなった。
「承知しました」
彼女が出ていこうとした時、悠真は言った。
「神谷さん」
「はい」
「この件を最初に報告した社員は、誰だ」
神谷玲奈はすぐには答えなかった。
「名前を出す必要がありますか」
「今はない。ただ、守る必要がある」
「営業管理部の若手と経理部の若手です。経費精算の確認中に不自然な点を見つけ、最初は上長に相談しましたが、握り潰されそうになったため、私のところへ来ました」
「その社員に不利益が出ないようにしてくれ」
「はい」
「内部告発者を潰す会社に、未来はない」
神谷玲奈の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「その言葉、本人に伝えてもよろしいですか」
「いや。伝えなくていい。守った結果だけ見せればいい」
「承知しました」
ドアが閉まった。
悠真は一人になった。
写真の中の美咲は笑っている。
桐谷も笑っている。
その笑顔を見ても、不思議と涙は出なかった。
胸の奥で、何かが静かに焼き切れただけだった。
十年前。
まだ会社が小さかった頃、美咲は経理を手伝ってくれた。
請求書を作り、銀行へ行き、深夜の事務所でコンビニ弁当を食べた。
あの頃の美咲は、確かに隣にいた。
同じ会社を見ていた。
同じ未来を信じていた。
だが、いま写真の中にいる美咲は違う。
彼女が裏切ったのは、夫だけではない。
会社だった。
社員だった。
この十年に積み上げた信用だった。
悠真は写真を封筒に戻した。
そして、売上報告書の上に置いた。
「家庭の話で終わらせるつもりだったなら、まだ可愛げがあったんだけどな」
誰もいない社長室で、悠真はそう呟いた。
午後三時。
第二会議室には六人が集まった。
高瀬悠真。
秘書室長の神谷玲奈。
顧問弁護士の矢島明彦。
常勤監査役の三枝義人。
法務部長の大槻沙織。
経理部長の坂井誠。
会議室のブラインドは下ろされ、テーブルの上には紙資料が並べられている。
電子データもあるが、この場では不用意に共有しない。
情報漏洩を避けるためだった。
矢島明彦は五十代半ばの弁護士で、企業法務に強い。
派手な訴訟屋ではない。
契約書と取締役会運営を淡々と固める、地味だが信頼できる男だった。
三枝義人は六十二歳。
元銀行員で、ネクストリンクの常勤監査役。
穏やかな顔をしているが、不正な支出を見る目は刃物のように鋭い。
法務部長の大槻沙織は四十歳。
元大手法律事務所勤務。
社内規程の整備を進め、上場準備の土台を作ってきた人物だ。
経理部長の坂井誠は四十五歳。
無口だが、数字の違和感にだけは異常に敏感だった。
悠真は全員を見た。
「今日の内容は、現時点では極秘です。対象者は専務取締役の高瀬美咲と、営業本部長の桐谷健吾。まず、探偵事務所による調査報告を共有します」
会議室に、紙の擦れる音だけが響いた。
矢島明彦は写真を確認しても、眉一つ動かさなかった。
大槻沙織は口元を引き締めた。
三枝義人は経費精算の一覧で手を止めた。
坂井誠は、ほとんど瞬きをしなくなった。
全員が資料に目を通した後、悠真は言った。
「まず、私生活上の不貞行為については離婚と慰謝料請求の問題になる。これは私個人の問題です。だが、会社経費の流用疑い、利益相反、虚偽精算、職務上の信用失墜については会社の問題です。分けて考えたい」
矢島明彦が頷いた。
「その整理でいいと思います。社長個人の離婚問題と、会社としての役員・従業員対応は混ぜない方がいい。特に上場準備中ですから、手続きの透明性が重要です」
「美咲は専務取締役です。解任は可能ですか」
「取締役の解任自体は、株主総会決議事項です。御社の場合、定款や機関設計の確認は必要ですが、原則として株主総会で解任決議を行うことになります。社長が議決権の七十八%を保有している以上、決議自体は通せる可能性が高い。ただし、正当な理由なく任期途中で解任した場合、損害賠償請求を受ける可能性があります」
「正当な理由の有無が問題になる」
「はい。ですから、感情的な離婚理由ではなく、役員としての善管注意義務違反、忠実義務違反、会社資産の私的利用疑い、社内規程違反など、会社側の事情を丁寧に積む必要があります」
大槻沙織が資料をめくった。
「専務は財務と人事を管掌しています。経費承認権限も一部持っています。もし私的な宿泊や移動を業務経費として処理していた場合、社内規程違反は明確に問えます。ただ、いきなり断定するのではなく、まず特別調査という形にした方がいいです」
三枝義人が低い声で言った。
「監査役としても、この経費一覧は見過ごせません。接待先の実在確認、同席者確認、出張目的の確認、領収書原本の確認を行うべきです」
坂井誠が、ようやく口を開いた。
「経理部としても、怪しい支出はいくつか把握していました。ただ、承認者が専務と営業本部長で、業務上の接待と言われると止めきれない部分がありました」
「坂井さんを責める場ではありません」
悠真は即座に言った。
「ただし、これからは全部出してください」
「はい」
「桐谷についてはどうですか」
大槻沙織が答えた。
「桐谷健吾は取締役ではなく、従業員兼執行役員扱いです。雇用契約と役職任用の関係になります。懲戒解雇まで行くには、就業規則上の根拠、弁明の機会、事実認定が必要です。いきなり明日付で懲戒解雇というのは危険です」
「では」
「まずは自宅待機命令、業務用端末と社用携帯の保全、アクセス権限の停止、調査委員会による事情聴取。そのうえで、懲戒処分を検討する流れが自然です」
矢島明彦も頷いた。
「証拠隠滅防止のため、権限停止は早い方がいい。ただし、本人に何を告げるかは慎重に。名誉毀損や不当処分と言われないよう、調査中の措置として扱うべきです」
「刑事は」
「業務上横領や背任の可能性はあります。ただ、刑事告訴をするなら、会社資産の私的利用がどこまで明確か、金額はいくらか、本人たちに故意があるか、そこを固める必要があります。現時点では、刑事よりも社内調査と民事請求の準備が先です」
悠真は黙って聞いていた。
怒りを法に変換する。
それは簡単ではない。
感情は火だ。
法務は水路だ。
水路を間違えれば、火は会社を焼く。
「株式の買い取りは」
悠真が尋ねた。
矢島明彦は少し考えた。
「美咲さんが五%、桐谷さんが二%を保有している件ですね。株主であること自体は、不貞や社内不正疑いだけで当然に奪えるものではありません。強制的に買い取れるかは、株主間契約、譲渡制限、退職時の買戻条項などの有無によります」
大槻沙織が補足した。
「創業期の株主間契約があります。退職・解任・重大な信用毀損行為があった場合、会社または指定株主が一定の算定式で買い取れる条項は入っています。ただ、発動条件と価格算定は慎重に確認が必要です」
「つまり、やれる可能性はあるが、手続きが必要」
「はい」
「なら手続きを踏む」
悠真は即答した。
彼の声は冷えていた。
会議室にいる全員が、その冷たさを感じた。
怒鳴るより怖い声だった。
「私は二人を感情で追い出したいわけではありません。会社を守りたい。だから、不自然な処理は一つもしたくない」
矢島明彦が頷いた。
「その姿勢が一番重要です」
「明日、臨時取締役会を開きます」
大槻沙織が顔を上げた。
「議題はどうしますか」
「第一に、専務取締役・高瀬美咲に関する特別調査委員会の設置。第二に、調査期間中の職務権限停止。第三に、営業本部長・桐谷健吾に関する社内調査と自宅待機命令。第四に、関連する経費精算、契約、稟議、電子データの保全。第五に、必要に応じた株主総会招集の準備」
三枝義人が目を細めた。
「解任決議そのものは、明日の取締役会ではなく株主総会ですね」
「そうです。明日は、解任のための事実整理と調査開始です」
「冷静ですね」
「冷静でないと負けます」
悠真はそう言った。
家庭では、もう負けている。
妻には裏切られた。
結婚生活は壊れた。
だが会社まで壊されるつもりはなかった。
そこには、三百十二人の生活がある。
取引先がある。
信用がある。
十年分の契約書と請求書と失敗と徹夜がある。
不倫の修羅場に、会社を巻き込ませるわけにはいかない。
「探偵事務所とは追加契約します」
悠真は言った。
「私生活の不貞証拠については、離婚担当の弁護士にも引き継ぐ。ただし、会社経費に関する部分は、社内調査と監査で裏を取る。青葉総合調査事務所には、今後の接触や証拠隠滅の動きがないか、合法的な範囲で継続調査を依頼します」
矢島明彦が少しだけ口角を上げた。
「合法的な範囲で、という言葉が出るなら安心です。違法な盗聴や不正アクセスは絶対に避けてください。裁判で不利になるだけです」
「わかっています。こちらが汚れたら、相手を追及する資格を失う」
「その通りです」
会議は一時間半続いた。
結論は明確だった。
感情で断罪しない。
証拠を固める。
調査手続きを作る。
権限を止める。
会社の資産と情報を守る。
必要なら株主総会で解任する。
株式は契約に従って買い取りを請求する。
損害が確定すれば、会社として損害賠償を求める。
そして、悠真個人としては、離婚と慰謝料請求を進める。
全部、別々の刃にする。
一つの怒りで殴るのではない。
七本の刃で、逃げ道を切る。
会議が終わる頃には、外は暗くなっていた。
神谷玲奈が資料を回収し、番号ごとに封筒へ戻す。
矢島明彦は帰り際、悠真に言った。
「高瀬社長」
「はい」
「明日から、相手は泣くか、怒るか、被害者のふりをするかもしれません」
「でしょうね」
「しかし、絶対に会議室で怒鳴らないでください。脅さない。人格攻撃をしない。事実と手続きだけで進める。それが一番強い」
「心得ています」
「離婚の怒りを会社に持ち込んだ、と言われたら面倒ですから」
「逆に言えば、会社の問題を家庭の喧嘩に矮小化させない」
矢島明彦は深く頷いた。
「その通りです」
悠真は会議室を出た。
廊下の向こうでは、社員たちがまだ働いている。
営業資料を作る者。
システム障害の対応をする者。
カスタマーサポートの問い合わせに追われる者。
誰もまだ知らない。
会社の中心で、静かな戦争が始まっていることを。
午後九時過ぎ。
悠真は自宅マンションへ戻った。
港区のタワーマンション。
結婚して三年目に買った部屋だ。
リビングには、まだ二人で選んだソファがある。
キッチンには、美咲が好きだった白いコーヒーメーカーがある。
壁には、軽井沢で撮った写真が飾られている。
笑っている二人。
その写真を見て、悠真はようやく少しだけ息を吐いた。
過去が嘘だったとは思わない。
だが、今が嘘なら、過去の価値も変わってしまう。
十時四十分。
玄関のロックが開いた。
「ただいま」
高瀬美咲の声がした。
悠真はリビングのソファに座っていた。
テーブルの上には、何も置いていない。
報告書も写真もない。
問い詰めるつもりはなかった。
今夜ここを家庭裁判所にする気はない。
「遅かったな」
「うん、ごめんね。桐谷さんと明日の営業会議の準備してて。上場前って本当にやること多いね」
美咲は自然に笑った。
自然すぎて、見事だった。
悠真はその顔を見た。
この人は、こんなふうに嘘をつける人だったのか。
そう思った。
「夕飯は」
「外で軽く食べてきた」
「そうか」
「悠真は?」
「会社で済ませた」
「そっか。最近忙しいね」
「ああ」
美咲はコートを脱ぎ、寝室へ向かった。
その後ろ姿を、悠真は黙って見送った。
今ここで言えば、どんな顔をするだろう。
泣くのか。
怒るのか。
「違う」と言うのか。
「寂しかった」と言うのか。
「あなたにも悪いところがあった」と言うのか。
想像はできた。
だが、どれも今は必要なかった。
必要なのは、明日の取締役会だった。
美咲がシャワーを浴びている間、悠真は自分の書斎に入った。
ノートパソコンを開く。
神谷玲奈から、明日の臨時取締役会資料の最終版が届いていた。
議案名は慎重に整えられている。
第一号議案。
高瀬美咲専務取締役に関する特別調査委員会設置の件。
第二号議案。
調査期間中における一部職務権限停止の件。
第三号議案。
営業本部長桐谷健吾に関する社内調査および自宅待機命令の件。
第四号議案。
関連資料および電子データ保全の件。
第五号議案。
臨時株主総会招集準備の件。
完璧ではない。
だが、戦える形だった。
悠真は一つ一つ確認し、最後に短い返信を打った。
「この内容で進めてください。明朝八時、最終確認」
送信。
画面が暗く反射し、そこに自分の顔が映った。
疲れた顔だった。
夫として傷ついた男の顔。
だが同時に、会社を守る社長の顔でもあった。
悠真は椅子にもたれた。
そして、小さく呟いた。
「美咲」
名前を呼んでも、答えはない。
もう夫婦として話し合う時間は、過ぎてしまったのかもしれない。
翌朝。
高瀬悠真はいつも通り、七時半に出社した。
昨夜と同じ白いシャツ。
濃紺のスーツ。
ただし、ネクタイだけは黒に近いグレーだった。
社長室には、すでに神谷玲奈がいた。
「おはようございます」
「おはよう」
「資料、全て準備できています。矢島先生も九時半には到着予定です。三枝監査役、大槻部長、坂井部長も待機します」
「美咲と桐谷は」
「通常通り出社予定です。専務は十時から役員会、桐谷本部長は九時四十五分に営業会議を入れていましたが、こちらで調整しました」
「ありがとう」
神谷玲奈は一枚の書類を差し出した。
臨時取締役会招集通知。
悠真はそれを手に取った。
紙の重さは軽い。
だが、そこに書かれている文字は、人の人生を変える。
役職。
報酬。
信用。
株式。
婚姻。
未来。
全部、今日から動き出す。
悠真はペンを取った。
署名欄に、自分の名前を書く。
高瀬悠真。
インクが紙に沈む。
それは、開戦の合図に似ていた。
神谷玲奈が書類を受け取る。
「では、通知を回します」
「ああ」
彼女が出ていこうとした時、悠真は窓の外を見た。
東京の朝は、昨日と同じように明るかった。
人も車も動いている。
世界は誰かの離婚で止まらない。
会社も、社長の傷心で止めてはいけない。
悠真は静かに言った。
「始めよう」
神谷玲奈が振り返る。
悠真は続けた。
「家庭の話は、もう終わりだ」
その声に、怒鳴り声はなかった。
涙もなかった。
ただ、刃物のような静けさだけがあった。
「ここからは、会社の話をする」
午前十時。
ネクストリンク本社、役員会議室。
ガラス張りの会議室に、役員たちが集まり始める。
高瀬美咲は、いつも通り美しい笑顔で入ってきた。
桐谷健吾も、いつも通り自信に満ちた顔で席についた。
二人はまだ知らない。
この会議室が、家庭の修羅場ではなく、企業法務の処刑台になることを。
高瀬悠真は議長席に座り、資料を開いた。
そして、静かに告げた。
「それでは、臨時取締役会を開始します」
ページをめくる音がした。
修羅場は、もう始まっていた。
あれから、さらに二年が経った。 上場の鐘が鳴った日から、八年。 沖縄の海辺で高瀬悠真と高瀬玲奈が結婚し、凛が初めて「玲奈ママ」と呼んだ日からも、八年が過ぎていた。 けれど、時間は過去を消すものではなかった。 ただ、上から新しい日々を積んでいく。 楽しい日も。 苦しい日も。 働いた日も。 泣いた日も。 子どもが生まれた日も。 誰かが返済表を見つめた夜も。 全部が積み重なって、今になっていた。 ネクストリンクホールディングス本社ビルは、東京湾を望む再開発地区の一角に建っていた。 かつての本社よりも広く、高く、そして明るい。 エントランスの壁には、銀色の文字で社名が刻まれている。 NEXT LINK HOLDINGS 人を繋ぐ会社。 その言葉は、もうただの企業理念ではなかった。 八年前、東証グロース市場に上場したネクストリンクは、その後、東証プライム市場へ移行した。 グループ会社は三十一社。 国内外の社員数は九千二百名。 売上高は二千億円に近づき、営業利益は二百八十億円を超えた。 AI。 クラウド。 セキュリティ。 自治体DX。 福祉事業。 介護事業。 シニアワークス。 地方創生。 ゲーム。 アニメ。
六年という時間は、会社を変えるには十分すぎるほど長かった。 だが、人の罪を消すには、短すぎた。 東京の朝は、相変わらず忙しい。 駅のホームには人が流れ、オフィス街のビルはガラスの壁に空を映し、道路には配送車とタクシーが列を作っていた。その中で、ネクストリンクホールディングス本社ビルは、六年前よりもさらに高く、さらに大きく見えるようになっていた。 かつては中堅IT企業だった会社。 不正と不倫と横領で揺れた会社。 内部通報から始まり、裁判、上場、福祉事業、介護事業、地方創生、ゲーム、アニメ、AI、クラウド、セキュリティ、海外展開へと広がった会社。 今のネクストリンクホールディングスは、東証プライム市場に移行し、グループ会社は二十六社、社員数は国内外合わせて六千八百名を超えていた。 売上高は千三百億円台。 営業利益は百七十億円を超えた。 上場時、初値四千二百円だった株価は、途中で株式分割を二度挟み、現在は分割後ベースで三千二百円前後。分割前換算なら一万九千円を超えていた。 時価総額は、六年前には誰も本気で想像していなかった規模になっている。 だが、高瀬悠真にとって、その数字は目的ではなかった。 数字は結果だ。 会社を続けるための体温計であり、社会からの評価であり、投資家から預かった期待の形でしかない。 午前八時二十分。 高瀬悠真は、本社四十五階の役員フロアに入った。 四十一歳になった悠真は、六年前よりも経営者らしい落ち着きを身につけていた。 受付前で、神谷玲奈だった頃の名残を持つ女性が待っている。 高瀬玲奈。 社長室長兼秘書室長であり、悠真の妻。 六年前の沖縄で、凛から「玲奈ママ」と呼ばれた日から、彼女は少しずつ変わった。 仕事の速さは変わらない。 予定管理の正確さも変わらない。 役員たちが恐
結婚式の翌朝、沖縄の空はまだ静かだった。 海沿いの大型リゾートホテル《琉青ガーデン・リゾート》のスイートルームには、カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。東京の高層ビルの窓から見る、輪郭の鋭い白い朝とは違う。淡く青みを帯び、窓を少し開ければ潮の匂いまで運んでくるような光だった。 高瀬悠真は、午前六時二十分に目を覚ました。 長年の習慣だった。 社長になってから、彼の朝は早い。 未読メールを確認する。 夜間に発生したシステム障害や重大事故がないかを見る。 海外投資家から届いた問い合わせに目を通し、各支社の前日速報値を確認する。 上場後はさらに、適時開示に関係する案件、証券会社からの連絡、機関投資家との面談予定、取締役会資料まで増えた。 朝起きてスマートフォンを確認することは、もはや仕事というより反射に近かった。 だから結婚式の翌朝であっても、悠真の右手は無意識にベッドサイドへ伸びた。 指先がスマートフォンへ触れる。 その瞬間だった。「悠真さん」 隣から静かな声がした。 悠真の手が止まる。「……はい」 隣で、高瀬玲奈が半身を起こしていた。 戸籍上は、昨日から高瀬玲奈。 ただし、社内では取引先や社員の混乱を避けるため、当面は旧姓の神谷を業務上使用することにしている。名刺もメールアドレスも、しばらくは神谷玲奈のままだ。 けれど今は会社ではない。 白い寝間着に薄手のカーディガンを羽織り、長い髪を少し乱した彼女は、社長室長でも秘書室長でもなかった。 昨日、高瀬悠真と結婚したばかりの妻だった。 ただし。 悠真を見る目だけは、秘書室長時代と何も変わっていない。「何をしようとしましたか」「時間を確認しようかと」「スマートフォンの側面ボタンへ
沖縄の海は、東京の空とは違う青をしていた。 冬の東京で上場の鐘が鳴った日から、半年が過ぎていた。 ネクストリンクホールディングスは、上場後も忙しかった。 投資家説明会。 四半期決算。 福祉事業所の増設。 介護施設の追加買収。 地方創生プロジェクト。 ゲーム・アニメIPの海外展開。 東証グロース市場へ上場した会社は、祝福だけを受け取っていればよい存在ではなかった。市場は毎日会社を見ている。数字を見ている。失敗を見ている。期待を見ている。 だから、高瀬悠真は相変わらず忙しかった。 神谷玲奈も相変わらず忙しかった。 結婚式の準備でさえ、最初は神谷玲奈がスケジュール表にして管理していた。 式場候補。 招待客一覧。 親族宿泊手配。 社員代表選定。 支社長移動手段。 福祉・介護事業代表の出席確認。 沖縄現地の天候予備案。 披露宴進行。 凛のリングガール練習。 まるで新規上場審査の補足資料のような厚さだった。 それを見た七瀬蒼真は、真顔で言った。「神谷さん、結婚式まで内部統制するんですか」 神谷玲奈は即答した。「当然です。人生の重要行事です」 水城莉央が隣で頷いた。「予算管理も必要です」 七瀬蒼真は、妻となった水城莉央を見た。「莉央、そこは乗らなくてもいいんじゃないか」「私たちの結婚式も、あなたが直前まで何も決めなかったので私が管理しました」「はい。助かりました」「二度と同じことを繰り返さないよう、社長には早めに決めていただくべきです」「夫婦で社長を追い込む形になってる」 高瀬悠真は、
朝の東京は、澄みきっていた。 冬の空は青く、ビルの窓には白い光が刺さっている。道路を走る車の音も、駅へ向かう人々の足音も、いつもと同じはずだった。 けれど、その朝のネクストリンク本社は違った。 午前七時五十分。 まだ始業前にもかかわらず、本社二十七階の上場準備室には灯りがついていた。 水城莉央は、すでに自席でメールを確認していた。 専務取締役兼CFO。 この数か月、彼女の机の上から数字が消えた日はなかった。 資本政策。 監査対応。 関連当事者取引。 タカセ・アセットマネジメントとの契約確認。 介護事業の人件費改定。 福祉事業の工賃設計。 ゲーム、アニメ事業の収益予測。 支社別予算。 返済回収計画。 そして、上場申請資料。 数字は冷たい。 だが、その冷たい数字の先に、人がいた。 働く社員。 福祉事業所の利用者。 介護施設の職員。 商店街の人々。 投資家。 取引先。 そして、会社を信じてくれる人たち。 水城莉央は、画面に届いた一通のメールを見た。 東洋キャピタル証券、早乙女圭介からだった。 件名。 上場承認に関する正式連絡。 水城莉央は、一瞬だけ呼吸を止めた。 開封する。 本文を読む。 その目が、わずかに揺れた。「……来た」 声は小さかった。 けれど、その一言で、上場準備室にいた坂井誠が顔を上げた。「水城専務?」 水城莉央は、いつものように落ち着いた声を出そうとして、少しだけ失敗した。
年が明けた。 東京の空は、冬らしく高かった。 雲は薄く、ビルの硝子に朝日が跳ね、舗道を歩く人々の息が白くほどけていく。寒さは厳しい。けれど、ネクストリンク本社の中は、季節とは別の熱を帯びていた。 上場準備室。 IR部。 経理財務本部。 法務本部。 内部統制推進部。 コンプライアンス部。 各支社。 福祉事業本部。 介護事業統括室。 ゲーム・アニメ事業本部。 すべてが、同じ方向を向いていた。 上場へ。 その二文字が、社内の空気をぴんと張らせていた。 ネクストリンク本社二十七階。 大会議室には、朝八時半の時点で、すでに資料が積み上げられていた。 高瀬悠真は、黒いスーツの袖を整えながら席へ着いた。 代表取締役社長CEO。 会社の顔であり、上場審査では最も見られる人間だった。 隣には、社長室長兼秘書室長の神谷玲奈が立っている。 今日の神谷玲奈は、いつも以上に隙がなかった。 髪はきっちりまとめ、淡いグレーのスーツに、細いシルバーの腕時計。手元のタブレットには、午前八時半から午後九時までの予定が一分単位で並んでいる。 悠真が資料へ手を伸ばす前に、神谷玲奈が小さく言った。「社長、その資料は午後の東証追加質問用です。今見るのは主幹事証券向けの最終版です」 悠真の指が止まった。「……よく分かりましたね」「社長の右手が、間違った山に伸びました」「右手まで監視されていますか」「社長室長兼秘書室長ですので」「その言葉、最近さらに強くなってませんか」「社長が忙しさで雑になるほど、強くなります」 悠真は苦笑した。「気をつ