Compartir

第2話 取締役会

last update Fecha de publicación: 2026-07-15 18:00:00

「それでは、臨時取締役会を開始します」

 高瀬悠真の声が、役員会議室に落ちた。

 午前十時。

 株式会社ネクストリンク本社、二十七階。

 普段なら新規事業や上場準備、採用計画、資金調達、主要顧客との契約更新などを話し合う場所だった。

 だが、今日だけは違う。

 会議室の空気が、妙に重い。

 ガラス張りの壁の向こうには、いつも通り東京の街が広がっている。

 車は流れ、人は歩き、ビルの窓は光を返していた。

 世界は何も知らない顔で動いている。

 その一方で、ネクストリンクの中枢では、会社の内臓に刃を入れる会議が始まろうとしていた。

 長い楕円形のテーブル。

 議長席には、高瀬悠真。

 その右隣に、副社長の七瀬蒼真。

 二十九歳。

 悠真より六歳若い。

 創業五年目に入社した天才肌のプロダクト責任者で、現在は開発・事業戦略を管掌している。

 黒いジャケットに白いシャツ。

 表情は柔らかいが、目は鋭い。

 悠真が外部交渉と経営全体を見るなら、七瀬蒼真は会社の製品を未来へ引っ張るエンジンだった。

 その隣には、取締役CFOの水城莉央。

 三十一歳。

 元外資系投資銀行。

 上場準備、資金繰り、銀行交渉、資本政策を担う女性取締役だ。

 数字に強く、余計な情緒を嫌う。

 美咲が財務・人事管掌の専務として社内管理を見ていた一方、水城莉央は資本市場と金融機関に向き合う役割を担っていた。

 左側には、専務取締役の高瀬美咲。

 今日も美しかった。

 白いブラウスに淡いベージュのジャケット。

 落ち着いた髪。

 役員としての笑顔。

 十年近く、会社の顔の一人として振る舞ってきた女の顔だった。

 悠真はその横顔を見ても、何も言わなかった。

 そのさらに隣に、取締役CHROの宮園千晴。

 三十三歳。

 人事制度、採用、教育、組織開発を担当する女性取締役。

 社員からの信頼が厚く、ネクストリンクが急成長しても組織崩壊しなかったのは、宮園千晴の制度設計があったからだ。

 続いて、取締役CTOの篠原航。

 三十四歳。

 技術部門の責任者。

 創業初期からコードを書き続けた男で、いまでも障害対応になると真っ先に現場へ降りる。

 反対側には、取締役COOの白石琴音。

 三十歳。

 事業運営、カスタマーサクセス、導入支援、業務改善を担う。

 営業が取ってきた案件を実際に利益へ変える仕組みを作った人物だ。

 その隣には、取締役CLOの大槻沙織。

 四十歳。

 法務部長を兼任する取締役。

 契約審査、コンプライアンス、社内規程、上場準備に関する法務対応を一手に担っている。

 さらに、取締役CMOの一条拓海。

 三十二歳。

 マーケティングと広報を担当する男。

 派手に見えるが、数字管理は細かい。

 広告費の回収率を日次で見るタイプだった。

 最後に、社外取締役が二名。

 元大手SaaS企業役員の佐伯真琴。

 三十八歳。

 女性。

 事業成長とガバナンスの両面を見られる、上場準備企業には欠かせない人材だった。

 もう一人は、公認会計士出身の黒須怜司。

 三十九歳。

 監査法人勤務を経てベンチャー支援に転じた男で、内部統制と会計処理には特に厳しい。

 取締役は全部で十名。

 男性五名。

 女性五名。

 平均年齢は三十四歳前後。

 古い会社のように、六十代の重役が椅子に沈んでいる会議室ではない。

 若く、速く、しかし未熟ではない。

 ネクストリンクは、そういう会社として作られてきた。

 そして今日、その若い取締役たちは、会社の急所を見せられる。

 テーブルの後方には、常勤監査役の三枝義人。

 社外監査役の相沢芽衣。

 社外監査役の藤堂圭介。

 さらに顧問弁護士の矢島明彦が同席していた。

 矢島は取締役ではない。

 議決権もない。

 だが、手続きの適正性を確保するために、悠真が同席を求めた。

 秘書室長の神谷玲奈は、議事録作成補助として壁際に座っている。

 その手元には、番号付きの資料。

 配布済み資料。

 回収予定資料。

 閲覧制限資料。

 全てが厳密に管理されていた。

 美咲が軽く笑った。

「悠真、臨時って聞いたけど、そんなに急ぎの案件?」

 いつも通りの声だった。

 夫に話しかける声ではない。

 役員会議で社長に確認する、専務取締役の声だ。

 悠真は目を向けた。

「急ぎです」

「上場準備の件?」

「違います」

「では、何の件かしら」

 美咲の声に、わずかな警戒が混じった。

 悠真は資料の一枚目を開いた。

「本日の議題は、役員および幹部社員による経費使用、職務権限、利益相反の疑義に関する調査体制の設置です」

 会議室の空気が変わった。

 七瀬蒼真が表情を消した。

 水城莉央はすぐに資料へ視線を落とした。

 宮園千晴の指が止まる。

 篠原航が、眉をひそめた。

 白石琴音は、ゆっくり背筋を伸ばす。

 大槻沙織だけは、すでに内容を知っているため、淡々と手元の資料を確認していた。

 美咲の笑みが、ほんの少しだけ固まった。

「経費使用? それ、どこの部署の話?」

 悠真は答えた。

「対象には、専務取締役である高瀬美咲、営業本部長である桐谷健吾が含まれます」

 その瞬間、会議室の時間が一秒だけ止まった。

 美咲の目がわずかに開かれる。

「私?」

「はい」

「どういう意味?」

「順を追って説明します」

 悠真は、資料の表紙をめくった。

 そこには、第一号議案と印字されていた。

 第一号議案。

 特別調査委員会設置の件。

 悠真は淡々と読み上げた。

「当社において、一部役員および幹部社員による経費使用、出張申請、接待費精算、外注先選定に関して、業務関連性および社内規程上の適正性に疑義が生じています。このため、当社として特別調査委員会を設置し、事実関係を確認します」

 美咲はすぐに口を挟んだ。

「待って。疑義って何? 私が何か不正をしたみたいな言い方じゃない」

 悠真は美咲を見た。

「現時点では、疑義です。だから調査します」

「それなら、普通に私に確認すればいいでしょ」

「確認はします。ただし、個別の口頭確認だけで済ませる段階ではありません」

「どうして?」

 悠真は資料の二枚目を開いた。

 そこには、経費精算の一覧があった。

 ただし、全てではない。

 外部調査で得た写真や詳細な時系列は、まだ出していない。

 見せるのは最低限。

 相手が何を知っているか、こちらから全て教える必要はなかった。

「こちらは、過去六か月のうち、専務承認または営業本部長申請で処理された出張費、接待費、宿泊費の一部です」

 水城莉央が資料を見て、目を細めた。

「……金額が大きいですね」

 黒須怜司もページをめくる。

「接待先の記載が曖昧なものがある。相手先名が部署名だけ、担当者名なし。これは上場準備中の会社としてはかなり厳しい」

 美咲が反論した。

「営業現場ではよくあることでしょう。相手先の都合で名前を残せない場合もあるわ」

 大槻沙織が静かに言った。

「その場合でも、社内の確認資料には残す運用です。少なくとも当社の交際費管理規程では、接待目的、相手先、人数、業務関連性を記録する必要があります」

「大槻さん、私がそれを知らないとでも?」

「知っているはずです。だから確認が必要です」

 美咲の眉が動いた。

 会議室の温度が一段下がった。

 悠真は続けた。

「第二号議案に移ります」

 第二号議案。

 調査期間中における一部職務権限停止の件。

 美咲が椅子を引いた。

「ちょっと待って。私の権限を停止するってこと?」

「財務、人事、経費承認、契約承認、営業本部に関連する一部決裁権限について、調査完了まで一時停止します」

「そんなこと、取締役会で簡単に決められると思っているの?」

 矢島明彦が、そこで初めて口を開いた。

「高瀬専務。取締役としての地位そのものの解任は株主総会決議事項になります。しかし、社内の業務分掌や担当職務の変更、個別権限の一時停止については、会社の業務執行体制の問題として取締役会で決定する余地があります。本件では、調査の公正性と証拠保全の必要性があるため、議案として上程されています」

 美咲は矢島を睨んだ。

「矢島先生まで、私が不正をした前提で話すんですか」

「前提ではありません。疑義があるから、調査できる体制にするという話です」

 七瀬蒼真が資料を見たまま言った。

「社長。桐谷さんは今日、この会議に呼ばれていないんですか」

「呼んでいません。桐谷健吾は取締役ではありません。取締役会の構成員ではないため、この場で議決に参加する立場にありません」

「処分対象者だから、呼ばない?」

 七瀬の声は慎重だった。

「事情聴取は別途行います。今日の議題は、会社として調査を始めるか、権限停止や証拠保全を行うかです」

 大槻沙織が補足した。

「本人への聴取前に電子データや書類の保全を行わなければ、後から記録が消える可能性があります。本人に弁明の機会を与えることと、証拠保全は分けるべきです」

 宮園千晴が頷いた。

「人事側としても、懲戒処分をするなら弁明機会は必要です。ただ、調査期間中の自宅待機や職務停止は、会社の安全確保としてあり得ます」

 白石琴音が腕を組んだ。

「営業案件に影響は?」

 悠真は答えた。

「桐谷の担当案件は、白石さんと一条さんで一時管理してください。営業本部の現場責任者には別途指示を出します。顧客に不安を与えないよう、表向きは業務体制の一時変更として扱う」

 一条拓海が短く息を吐く。

「広報対応は?」

「現時点で社外公表はしません。上場準備に関わる関係者には、必要最小限の範囲で説明する。外部漏洩が起きた場合の想定問答は、一条さんと大槻さんで作成してください」

「わかりました」

 美咲がテーブルに手を置いた。

「待ってよ。私の話なのに、私を置いてどんどん決めないで」

 悠真は、そこで初めて少し長く美咲を見た。

「置いていません。あなたは取締役として、この場にいます」

「だったら説明して。何が疑義なの? 誰が何を言ったの?」

「内部通報がありました」

 会議室がまた静かになった。

 宮園千晴の顔色が変わる。

 CHROとして、内部通報という言葉の重さを知っているからだ。

「通報者は?」

 美咲が聞いた。

「明かしません」

「私には知る権利があるでしょう」

「ありません」

 悠真の声は、鋼のように硬かった。

「内部通報者の保護を最優先します。報復や圧力の可能性があるため、名前は開示しません」

「報復なんてするわけないでしょう!」

「それを確認するためにも、調査が必要です」

 美咲の唇が震えた。

 怒りか。

 恐怖か。

 それとも、演技か。

 悠真にはもう判別できなかった。

 水城莉央が資料をめくった。

「社長。経費の疑義だけでなく、外注先選定も入っていますね。これは?」

「第三号議案以降で扱います」

 悠真は次の資料を開いた。

 第三号議案。

 営業本部長桐谷健吾に関する社内調査および自宅待機命令の件。

 桐谷はこの場にいない。

 だが、名前だけで会議室の空気を汚すには十分だった。

「営業本部長桐谷健吾について、経費精算、接待費、出張申請、外注先選定に関する疑義があります。調査期間中は、業務命令として自宅待機を命じ、社内システムへのアクセス権限を停止します。社用PC、社用スマートフォン、会社貸与端末は速やかに回収します」

 篠原航がすぐに口を開いた。

「システム側は対応できます。アカウント停止、メールボックス保全、クラウドストレージの凍結、ログ退避。個人端末への転送があるかも確認します。ただ、本人に通知する前にやった方がいい」

 大槻沙織が頷いた。

「はい。通知前に保全する必要があります。ただし、私物端末の中身を勝手に見ることはできません。会社管理の端末、会社アカウント、会社データの範囲で行います」

「了解」

 篠原航はすぐに自分のノートにメモした。

 技術屋らしい手つきだった。

 白石琴音が言った。

「営業本部の現場にはどう伝えますか。桐谷さんが突然消えたら混乱します」

 宮園千晴が答えた。

「体制変更として人事通達を出します。調査という言葉は必要最小限にする。ただ、直接の部下には業務引き継ぎが必要ですね」

 一条拓海が顔をしかめる。

「桐谷さん、外面はいいからな。社外に先に何か言われると面倒です」

「そのために、今日中に主要顧客には別担当から連絡を入れる」

 悠真は淡々と指示した。

「営業本部の暫定統括は白石さん。対外説明は一条さん。法務監修は大槻さん。技術的な権限停止は篠原さん。人事通達は宮園さん。財務面の取引確認は水城さん。副社長の七瀬さんは全体調整をお願いします」

 七瀬蒼真が頷いた。

「わかりました」

 美咲が低い声で言った。

「桐谷さんは、何をしたというの」

 悠真は答えなかった。

 代わりに、神谷玲奈へ視線を向けた。

 神谷は番号付き封筒から、一枚の資料を取り出した。

 それは、桐谷健吾の経費精算一覧だった。

 全てではない。

 一部だ。

 しかし、それだけでも十分だった。

 高級ホテル。

 地方出張。

 接待費。

 同じ日付。

 同じ地域。

 同じ承認経路。

 美咲の顔から、血の気が引いた。

「これは……営業活動の一環です」

「そう主張するなら、調査で説明してください」

「今ここで説明できるわ」

「今ここは事情聴取の場ではありません」

「悠真」

 美咲が、初めて夫の名前を呼んだ。

 役員としてではなく、妻として。

 会議室の中で、それは最悪の手だった。

 悠真の目が冷たくなる。

「高瀬専務」

 その一言で、美咲の表情が崩れた。

「この場では、役職で呼んでください」

 会議室の誰もが黙った。

 夫婦の終わりを、今この瞬間に見たからだ。

 高瀬美咲は専務取締役。

 高瀬悠真は代表取締役社長。

 いま、この会議室に夫婦はいない。

 いるのは、会社を守る者と、調査対象となった役員だけだった。

 悠真は第四号議案へ進んだ。

 第四号議案。

 関連資料および電子データ保全の件。

「本議案は、対象となる経費精算、出張申請、接待記録、稟議書、契約書、外注先選定資料、メール、チャットログ、ファイル共有履歴、アクセスログを保全するものです。対象範囲は、会社の業務データに限ります」

 黒須怜司が資料を見ながら言った。

「これは必要ですね。上場準備中の会社で、経費や外注先選定に疑義があるなら、内部統制上も放置できない」

 佐伯真琴も頷いた。

「社外取締役としても、調査体制の設置には賛成です。ただし、社長と専務が夫婦であることから、社長の私的感情による処分と見られないよう、調査委員会の独立性を確保すべきです」

「そのため、委員長は三枝監査役に依頼します」

 三枝義人が顔を上げた。

「私でよろしければ」

「委員には、大槻取締役、水城取締役、社外取締役の黒須さん、必要に応じて外部弁護士と外部会計士を入れます。私は委員には入りません」

 美咲が反射的に言った。

「あなたが入らない?」

「入りません。私は利害関係があります」

 矢島明彦が静かに頷いた。

「適切です。社長は報告を受ける立場に留め、調査実務からは距離を置いた方がいい」

 美咲は何かを言おうとして、言葉を失った。

 悠真が怒りに任せて自分を追い詰めている。

 そう言えれば、美咲はまだ戦えた。

 だが、悠真は逆だった。

 自分自身を調査委員会から外した。

 私怨ではない。

 少なくとも形の上では、会社としての調査体制を作っている。

 その手続きの冷たさが、美咲を追い詰めていた。

 第五号議案。

 臨時株主総会招集準備の件。

 この文字が出た瞬間、美咲の肩が揺れた。

「株主総会……?」

 悠真は言った。

「調査結果によっては、取締役の解任、損害賠償請求、株主間契約に基づく株式買い取り請求を検討する必要があります。そのため、臨時株主総会の招集準備を進めます」

「まだ調査もしていないのに?」

「準備です。決議ではありません」

「私を解任するつもりなの?」

「調査結果次第です」

 美咲の目が潤んだ。

 それを見て、宮園千晴がわずかに顔を伏せた。

 人事を扱う彼女は、人が壊れる瞬間を何度も見てきた。

 だが、今日のこれは別だった。

 泣けば済む話ではない。

 会社の金と権限が絡んでいる。

 涙は証拠を消せない。

 水城莉央が冷静に言った。

「株式について確認します。高瀬専務が五%、桐谷本部長が二%。株主間契約に退職・解任・重大な信用毀損行為時の譲渡義務条項がありますよね」

 大槻沙織が答えた。

「あります。ただし、発動には条件確認が必要です。価格算定式も、直近決算、純資産、類似会社比準、場合によっては第三者評価が絡みます。乱暴に安く買い叩くと紛争になります」

 悠真は頷いた。

「安く買い叩くつもりはありません。契約通りに処理します」

 七瀬蒼真が小さく笑った。

 楽しい笑いではない。

 呆れたような、痛ましいような笑いだった。

「社長らしいですね。怒ってるのに、契約通り」

「契約は、怒っている時のためにある」

 悠真は言った。

 その言葉に、会議室の誰も反論しなかった。

 議論はさらに続いた。

 調査委員会の権限。

 対象期間。

 資料保全の範囲。

 営業本部の暫定体制。

 専務権限の移管先。

 社内通達の文言。

 情報漏洩時の対応。

 内部通報者保護。

 顧客対応。

 監査法人への説明方針。

 主幹事証券への報告タイミング。

 その全てが、家庭の修羅場とは無縁の言葉で構成されていた。

 けれど、中心にあるのは裏切りだった。

 不倫。

 経費流用疑い。

 職務権限の濫用疑い。

 会社への背信。

 美咲は途中から、明らかに黙り込んだ。

 桐谷の名前が出るたびに、指先が動く。

 スマートフォンに触れようとした瞬間、神谷玲奈が静かに言った。

「高瀬専務。会議中の私的連絡はお控えください」

 美咲の手が止まった。

「私的連絡じゃありません」

「では、会議後にお願いします」

 神谷玲奈の声は丁寧だった。

 だが、そこには一歩も引かない圧があった。

 悠真は何も言わなかった。

 美咲はスマートフォンから手を離した。

 午前十一時二十分。

 全ての議論が終わった。

 悠真は議案書を揃えた。

「それでは、第一号議案、特別調査委員会設置の件について採決します」

 議決権は、取締役会の一人一票。

 株主総会とは違う。

 悠真が七十八%の株式を持っているからといって、取締役会を一人で押し切れるわけではない。

 だからこそ、手続きが重要だった。

 社外取締役にも納得できる材料を示し、監査役にも関与させ、法務にも確認させる。

 私怨ではなく、会社の合理的判断として進める必要がある。

 悠真が言った。

「賛成の方は挙手を」

 最初に手を挙げたのは、三枝義人ではなく、社外取締役の佐伯真琴だった。

 続いて黒須怜司。

 水城莉央。

 七瀬蒼真。

 宮園千晴。

 篠原航。

 白石琴音。

 大槻沙織。

 一条拓海。

 悠真自身。

 美咲だけが手を挙げなかった。

「賛成九、反対一。可決します」

 美咲が小さく息を飲んだ。

 そこから先も同じだった。

 第二号議案。

 調査期間中における高瀬美咲専務取締役の一部職務権限停止。

 賛成九、反対一。

 可決。

 第三号議案。

 営業本部長桐谷健吾に関する社内調査および自宅待機命令。

 賛成十。

 可決。

 美咲は反対しなかった。

 いや、できなかった。

 桐谷を守るために反対すれば、関係を疑われる。

 関係がなければ反対する理由が薄い。

 会議室の網は、もう彼女の足元にかかっていた。

 第四号議案。

 関連資料および電子データ保全。

 賛成十。

 可決。

 第五号議案。

 臨時株主総会招集準備。

 賛成九、反対一。

 可決。

 悠真はペンを置いた。

「以上で、本日の議案は全て可決されました」

 その瞬間、会議室の外で動きが始まった。

 篠原航が社内チャットで事前に待機させていた情報システム部の責任者へ指示を送る。

 桐谷健吾の社内アカウントが停止される。

 メールボックスが保全される。

 ファイル共有権限が凍結される。

 営業管理システムへのアクセスが遮断される。

 会社貸与のノートPCと社用スマートフォンの回収指示が出る。

 白石琴音は営業本部の暫定体制表を開く。

 一条拓海は主要顧客向けの説明文案を作り始める。

 宮園千晴は人事通達の文面を確認する。

 水城莉央は経費と外注先支払いの一時確認フローを組む。

 大槻沙織は調査委員会の設置通知と証拠保全指示を整える。

 会社は生き物だ。

 臓器が一つ腐りかけても、他の臓器が動けば生き延びる。

 悠真は、そのために役員を育ててきた。

 若いが、ちゃんと仕事ができる取締役たちを。

 会議終了後、美咲は立ち上がらなかった。

 他の取締役が次々に退出する。

 七瀬蒼真は悠真の横で足を止めた。

「社長」

「何だ」

「桐谷さん、暴れると思います」

「わかっている」

「美咲さんも」

「わかっている」

 七瀬は一瞬だけ、悠真を見た。

「大丈夫ですか」

 悠真は少しだけ黙った。

「会社は大丈夫にする」

「社長個人は?」

「今は後回しだ」

 七瀬蒼真は、それ以上聞かなかった。

「わかりました。全体調整、入ります」

「ああ。頼む」

 七瀬が出ていく。

 会議室には、悠真と美咲だけが残った。

 いや、正確には壁際に神谷玲奈がいた。

 議事録補助として、まだ席を外していない。

 それを見て、美咲が小さく言った。

「神谷さん、少し外して」

 神谷玲奈は悠真を見た。

 悠真は首を横に振った。

「外さなくていい」

「悠真」

「高瀬専務」

 美咲の顔が歪んだ。

「本気で言ってるの?」

「この場では」

「夫婦でしょ」

「会議室では違う」

「ひどい」

 悠真は、そこで初めて苦笑した。

 薄く、冷たい笑みだった。

「ひどい、か」

「私の話も聞かずに、こんな」

「調査で聞く」

「そうじゃなくて」

「何が違う」

 美咲は言葉に詰まった。

 悠真は静かに続けた。

「昨日の夜、君は桐谷と営業会議の準備をしていたと言った」

 美咲の目が揺れた。

「それは」

「その話は、今ここではしない」

「じゃあ何で」

「会社の問題だからだ」

 悠真は立ち上がった。

「君が私を裏切ったことと、会社の経費や権限をどう扱ったかは、別の問題だ。前者は離婚で話す。後者は会社で調査する」

「離婚……」

 美咲の声が掠れた。

「それも弁護士を通す」

「待って。待ってよ。そんな、いきなり」

「いきなりではない」

 悠真はドアの方へ歩き出した。

「証拠はそろっている」

 美咲が椅子を鳴らして立ち上がった。

「悠真!」

 悠真は振り返らなかった。

「高瀬専務。午後から調査委員会による初回ヒアリングがあります。それまでに、会社貸与端末を提出してください」

 神谷玲奈が、静かに書類を差し出した。

「こちらが提出物一覧です」

 美咲はそれを見た。

 社用PC。

 社用スマートフォン。

 会社貸与タブレット。

 経費精算に関する手元資料。

 承認済み稟議の控え。

 出張関連資料。

 会社名義のクレジットカード。

 役員用入退館カードの一時権限変更。

 その一覧が、彼女の立場を剥がしていく。

 専務取締役という鎧が、金属音を立てて床に落ちていく。

 悠真は会議室を出た。

 廊下には、白石琴音が待っていた。

「社長。桐谷さん、営業本部の会議室にいます。情報システム部がアカウントを止めた直後、かなり焦っているようです」

「本人への通知は」

「宮園さんと大槻さんが向かっています。警備も一応近くに」

「暴力沙汰にはするな」

「もちろんです」

 悠真は頷いた。

 その時、廊下の向こうから声が響いた。

「どういうことだよ!」

 桐谷健吾の声だった。

 営業本部側の会議室から、怒鳴り声が漏れている。

「俺のアカウントが使えない! 誰が止めた!」

 社員たちがざわつく。

 しかし、事前に配置された管理職が周囲を落ち着かせていた。

 悠真は足を止めなかった。

 白石琴音が少し驚く。

「行かないんですか」

「行かない」

「社長が直接言った方が早いのでは」

「感情のぶつけ合いになる」

 悠真は言った。

「彼は取締役ではない。人事と法務が業務命令として通知する。それでいい」

 白石琴音は、少しだけ笑った。

「怖いですね、社長」

「そうか」

「怒鳴らないのが一番怖いです」

「怒鳴ったら、こっちの負けだ」

 その時、神谷玲奈が足早に近づいてきた。

「社長」

「どうした」

「青葉総合調査事務所から、追加報告が入りました」

 悠真の目が細くなる。

「今朝か」

「はい。昨夜から今朝にかけて、桐谷健吾氏に動きがあったようです」

「どんな動きだ」

 神谷玲奈は封筒を差し出した。

「桐谷氏の関係会社と思われる法人についてです」

 悠真は封筒を受け取った。

 表面には、青葉総合調査事務所の名刺がクリップで留められている。

 中身を開く。

 法人登記情報。

 取引履歴の一部。

 外注費一覧。

 会社名。

 株式会社K-Bridge Consulting。

 代表者。

 桐谷健吾の大学時代の後輩。

 所在地。

 バーチャルオフィス。

 事業内容。

 営業コンサルティング、マーケティング支援、業務改善支援。

 ネクストリンクからの支払い実績。

 過去一年で四千八百万円。

 悠真は資料を一枚ずつ見た。

 桐谷が営業本部長として承認した外注案件。

 美咲が役員承認した支払い。

 成果物の記録は薄い。

 報告書はテンプレートのようなものが数枚。

 実態のあるコンサルティングかどうか、極めて怪しい。

 不倫だけではなかった。

 むしろ不倫は、入口だった。

 その奥に、会社の金の流れがある。

 悠真は静かに息を吐いた。

 白石琴音が資料を覗き込み、顔をしかめた。

「これは……外注費ですか?」

「そうらしい」

「営業本部の予算から?」

「ああ」

「桐谷さん、何してるんですか」

「それを調べる」

 神谷玲奈が言った。

「青葉総合調査事務所は、現時点では関係性の確認までです。金銭の還流やキックバックの有無は、会社側の会計調査が必要とのことです」

「当然だ」

 悠真は資料を閉じた。

「三枝監査役と水城さん、大槻さんに共有。調査委員会の対象にK-Bridge Consultingを追加する」

「承知しました」

 廊下の向こうでは、まだ桐谷の声がしていた。

「俺は営業本部長だぞ! 勝手に止められるわけないだろ!」

 その声を聞きながら、悠真は思った。

 役職は椅子だ。

 椅子は会社が用意する。

 会社が引けば、人は床に落ちる。

 それを桐谷は知らなかった。

 いや、知っていたはずなのに、自分だけは落ちないと思っていた。

 高瀬美咲も同じだ。

 専務という椅子。

 妻という椅子。

 株主という椅子。

 その全てが、自分を守ると思っていた。

 だが違う。

 会社に背を向けた者を、会社の椅子は守らない。

 悠真は資料を神谷に戻した。

「神谷さん」

「はい」

「次の会議を設定してくれ。十五時、特別調査委員会の初回会合」

「場所は」

「第二会議室。資料は紙で。電子共有は最小限」

「承知しました」

「それと、矢島先生に伝えてくれ」

 悠真は、廊下の先を見た。

 騒ぎは少しずつ収まりつつあった。

 桐谷の声が遠くなる。

 会社は、もう彼を中心に回っていない。

「不倫だけの案件ではなくなった」

 神谷玲奈は静かに頷いた。

「はい」

 悠真は歩き出した。

 社長室へ戻るために。

 今日、取締役会は終わった。

 だが、本当の戦争はここからだった。

 会社の帳簿には、人間の欲が残る。

 領収書。

 稟議書。

 契約書。

 送金記録。

 メール。

 チャット。

 ログ。

 人は嘘をつく。

 だが、数字は嘘をつく時、必ず歪む。

 悠真は、その歪みを見つけるつもりだった。

 妻の裏切りを泣いて終わらせる気はない。

 会社の金を吸った者を、愛だの寂しさだのという言葉で逃がす気もない。

 社長室の扉の前で、悠真は足を止めた。

 窓の外には、いつもと同じ東京がある。

 だが、彼の会社の中では、すでに何かが剥がれ落ちていた。

 家庭の修羅場は終わった。

 取締役会の戦場も終わった。

 次は、帳簿の奥だ。

 悠真は静かに呟いた。

「なるほど」

 その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

「不倫だけじゃなかったか」

 社長室の扉が閉まる。

 ネクストリンクの中で、二つ目の刃が抜かれた。

Continúa leyendo este libro gratis
Escanea el código para descargar la App

Último capítulo

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第38話 明日へ

    あれから、さらに二年が経った。 上場の鐘が鳴った日から、八年。 沖縄の海辺で高瀬悠真と高瀬玲奈が結婚し、凛が初めて「玲奈ママ」と呼んだ日からも、八年が過ぎていた。 けれど、時間は過去を消すものではなかった。 ただ、上から新しい日々を積んでいく。 楽しい日も。 苦しい日も。 働いた日も。 泣いた日も。 子どもが生まれた日も。 誰かが返済表を見つめた夜も。 全部が積み重なって、今になっていた。 ネクストリンクホールディングス本社ビルは、東京湾を望む再開発地区の一角に建っていた。 かつての本社よりも広く、高く、そして明るい。 エントランスの壁には、銀色の文字で社名が刻まれている。 NEXT LINK HOLDINGS 人を繋ぐ会社。 その言葉は、もうただの企業理念ではなかった。 八年前、東証グロース市場に上場したネクストリンクは、その後、東証プライム市場へ移行した。 グループ会社は三十一社。 国内外の社員数は九千二百名。 売上高は二千億円に近づき、営業利益は二百八十億円を超えた。 AI。 クラウド。 セキュリティ。 自治体DX。 福祉事業。 介護事業。 シニアワークス。 地方創生。 ゲーム。 アニメ。

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第37話 それでも人生は続く

     六年という時間は、会社を変えるには十分すぎるほど長かった。 だが、人の罪を消すには、短すぎた。 東京の朝は、相変わらず忙しい。 駅のホームには人が流れ、オフィス街のビルはガラスの壁に空を映し、道路には配送車とタクシーが列を作っていた。その中で、ネクストリンクホールディングス本社ビルは、六年前よりもさらに高く、さらに大きく見えるようになっていた。 かつては中堅IT企業だった会社。 不正と不倫と横領で揺れた会社。 内部通報から始まり、裁判、上場、福祉事業、介護事業、地方創生、ゲーム、アニメ、AI、クラウド、セキュリティ、海外展開へと広がった会社。 今のネクストリンクホールディングスは、東証プライム市場に移行し、グループ会社は二十六社、社員数は国内外合わせて六千八百名を超えていた。 売上高は千三百億円台。 営業利益は百七十億円を超えた。 上場時、初値四千二百円だった株価は、途中で株式分割を二度挟み、現在は分割後ベースで三千二百円前後。分割前換算なら一万九千円を超えていた。 時価総額は、六年前には誰も本気で想像していなかった規模になっている。 だが、高瀬悠真にとって、その数字は目的ではなかった。 数字は結果だ。 会社を続けるための体温計であり、社会からの評価であり、投資家から預かった期待の形でしかない。 午前八時二十分。 高瀬悠真は、本社四十五階の役員フロアに入った。 四十一歳になった悠真は、六年前よりも経営者らしい落ち着きを身につけていた。 受付前で、神谷玲奈だった頃の名残を持つ女性が待っている。 高瀬玲奈。 社長室長兼秘書室長であり、悠真の妻。 六年前の沖縄で、凛から「玲奈ママ」と呼ばれた日から、彼女は少しずつ変わった。 仕事の速さは変わらない。 予定管理の正確さも変わらない。 役員たちが恐

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第36.5話 南の島の家族旅行

     結婚式の翌朝、沖縄の空はまだ静かだった。 海沿いの大型リゾートホテル《琉青ガーデン・リゾート》のスイートルームには、カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。東京の高層ビルの窓から見る、輪郭の鋭い白い朝とは違う。淡く青みを帯び、窓を少し開ければ潮の匂いまで運んでくるような光だった。 高瀬悠真は、午前六時二十分に目を覚ました。 長年の習慣だった。 社長になってから、彼の朝は早い。 未読メールを確認する。 夜間に発生したシステム障害や重大事故がないかを見る。 海外投資家から届いた問い合わせに目を通し、各支社の前日速報値を確認する。 上場後はさらに、適時開示に関係する案件、証券会社からの連絡、機関投資家との面談予定、取締役会資料まで増えた。 朝起きてスマートフォンを確認することは、もはや仕事というより反射に近かった。 だから結婚式の翌朝であっても、悠真の右手は無意識にベッドサイドへ伸びた。 指先がスマートフォンへ触れる。 その瞬間だった。「悠真さん」 隣から静かな声がした。 悠真の手が止まる。「……はい」 隣で、高瀬玲奈が半身を起こしていた。 戸籍上は、昨日から高瀬玲奈。 ただし、社内では取引先や社員の混乱を避けるため、当面は旧姓の神谷を業務上使用することにしている。名刺もメールアドレスも、しばらくは神谷玲奈のままだ。 けれど今は会社ではない。 白い寝間着に薄手のカーディガンを羽織り、長い髪を少し乱した彼女は、社長室長でも秘書室長でもなかった。 昨日、高瀬悠真と結婚したばかりの妻だった。 ただし。 悠真を見る目だけは、秘書室長時代と何も変わっていない。「何をしようとしましたか」「時間を確認しようかと」「スマートフォンの側面ボタンへ

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第36話 祝福の日

     沖縄の海は、東京の空とは違う青をしていた。 冬の東京で上場の鐘が鳴った日から、半年が過ぎていた。 ネクストリンクホールディングスは、上場後も忙しかった。 投資家説明会。 四半期決算。 福祉事業所の増設。 介護施設の追加買収。 地方創生プロジェクト。 ゲーム・アニメIPの海外展開。 東証グロース市場へ上場した会社は、祝福だけを受け取っていればよい存在ではなかった。市場は毎日会社を見ている。数字を見ている。失敗を見ている。期待を見ている。 だから、高瀬悠真は相変わらず忙しかった。 神谷玲奈も相変わらず忙しかった。 結婚式の準備でさえ、最初は神谷玲奈がスケジュール表にして管理していた。 式場候補。 招待客一覧。 親族宿泊手配。 社員代表選定。 支社長移動手段。 福祉・介護事業代表の出席確認。 沖縄現地の天候予備案。 披露宴進行。 凛のリングガール練習。 まるで新規上場審査の補足資料のような厚さだった。 それを見た七瀬蒼真は、真顔で言った。「神谷さん、結婚式まで内部統制するんですか」 神谷玲奈は即答した。「当然です。人生の重要行事です」 水城莉央が隣で頷いた。「予算管理も必要です」 七瀬蒼真は、妻となった水城莉央を見た。「莉央、そこは乗らなくてもいいんじゃないか」「私たちの結婚式も、あなたが直前まで何も決めなかったので私が管理しました」「はい。助かりました」「二度と同じことを繰り返さないよう、社長には早めに決めていただくべきです」「夫婦で社長を追い込む形になってる」 高瀬悠真は、

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第35話 鐘が鳴る日

     朝の東京は、澄みきっていた。 冬の空は青く、ビルの窓には白い光が刺さっている。道路を走る車の音も、駅へ向かう人々の足音も、いつもと同じはずだった。 けれど、その朝のネクストリンク本社は違った。 午前七時五十分。 まだ始業前にもかかわらず、本社二十七階の上場準備室には灯りがついていた。 水城莉央は、すでに自席でメールを確認していた。 専務取締役兼CFO。 この数か月、彼女の机の上から数字が消えた日はなかった。 資本政策。 監査対応。 関連当事者取引。 タカセ・アセットマネジメントとの契約確認。 介護事業の人件費改定。 福祉事業の工賃設計。 ゲーム、アニメ事業の収益予測。 支社別予算。 返済回収計画。 そして、上場申請資料。 数字は冷たい。 だが、その冷たい数字の先に、人がいた。 働く社員。 福祉事業所の利用者。 介護施設の職員。 商店街の人々。 投資家。 取引先。 そして、会社を信じてくれる人たち。 水城莉央は、画面に届いた一通のメールを見た。 東洋キャピタル証券、早乙女圭介からだった。 件名。 上場承認に関する正式連絡。 水城莉央は、一瞬だけ呼吸を止めた。 開封する。 本文を読む。 その目が、わずかに揺れた。「……来た」 声は小さかった。 けれど、その一言で、上場準備室にいた坂井誠が顔を上げた。「水城専務?」 水城莉央は、いつものように落ち着いた声を出そうとして、少しだけ失敗した。

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第34話 上場へ

     年が明けた。 東京の空は、冬らしく高かった。 雲は薄く、ビルの硝子に朝日が跳ね、舗道を歩く人々の息が白くほどけていく。寒さは厳しい。けれど、ネクストリンク本社の中は、季節とは別の熱を帯びていた。 上場準備室。 IR部。 経理財務本部。 法務本部。 内部統制推進部。 コンプライアンス部。 各支社。 福祉事業本部。 介護事業統括室。 ゲーム・アニメ事業本部。 すべてが、同じ方向を向いていた。 上場へ。 その二文字が、社内の空気をぴんと張らせていた。 ネクストリンク本社二十七階。 大会議室には、朝八時半の時点で、すでに資料が積み上げられていた。 高瀬悠真は、黒いスーツの袖を整えながら席へ着いた。 代表取締役社長CEO。 会社の顔であり、上場審査では最も見られる人間だった。 隣には、社長室長兼秘書室長の神谷玲奈が立っている。 今日の神谷玲奈は、いつも以上に隙がなかった。 髪はきっちりまとめ、淡いグレーのスーツに、細いシルバーの腕時計。手元のタブレットには、午前八時半から午後九時までの予定が一分単位で並んでいる。 悠真が資料へ手を伸ばす前に、神谷玲奈が小さく言った。「社長、その資料は午後の東証追加質問用です。今見るのは主幹事証券向けの最終版です」 悠真の指が止まった。「……よく分かりましたね」「社長の右手が、間違った山に伸びました」「右手まで監視されていますか」「社長室長兼秘書室長ですので」「その言葉、最近さらに強くなってませんか」「社長が忙しさで雑になるほど、強くなります」 悠真は苦笑した。「気をつ

Más capítulos
Explora y lee buenas novelas gratis
Acceso gratuito a una gran cantidad de buenas novelas en la app GoodNovel. Descarga los libros que te gusten y léelos donde y cuando quieras.
Lee libros gratis en la app
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status