تسجيل الدخول不正は、突然生まれない。
最初は、小さな違和感だった。
金額が少し大きい。
相手先の名前が曖昧。
添付された資料が薄い。
承認が早すぎる。
誰も質問しない。
誰かが目を逸らす。
そして、ある日からそれは会社の空気になる。
ネクストリンクの特別調査委員会が設置されてから、一週間が経った。
第二会議室の窓には、朝からブラインドが下ろされていた。
テーブルの上には、紙資料、ノートパソコン、番号付きファイル、付箋、外付けストレージ、調査メモが並んでいる。
そこはもう会議室ではなかった。
帳簿とログを解剖する、無菌室のような場所だった。
委員長の三枝義人は、老眼鏡をかけ直し、手元の一覧表を見た。
「対象データ、三千八百十二件。そのうち、一次抽出で異常値ありとされたものが二百十七件」
水城莉央が頷いた。
「経費、出張、接待、外注費、研修費、販促費。名目は散っていますが、承認経路に偏りがあります」
大槻沙織が資料をめくる。
「桐谷健吾申請、高瀬美咲承認。この組み合わせが多い。さらに、営業管理課長の西岡大輔、営業第二課長の山城直人、経理課長の小田切修、経理管理課係長の江藤真一。この四名が複数の案件に絡んでいます」
外部公認会計士の榊原徹が、低い声で言った。
「典型的ですね。主犯がいて、承認者がいて、現場側で形を作る人間がいて、経理側で通す人間がいる」
若手会計士の村瀬絢が画面を拡大した。
「K-Bridge Consulting関連だけでなく、接待費の水増し、出張費の目的不明、研修費への付け替えもあります。金額はまだ確定できませんが、現時点の疑義額は少なくとも六千万円台に乗ります」
会議室に、紙をめくる音だけが響いた。
六千万円。
中小企業なら、それだけで資金繰りが傾く金額だ。
ネクストリンクにとっても、軽い金ではない。
社員の給与。
開発費。
サーバー費用。
採用費。
顧客サポートの人件費。
会社の血液として回るはずだった金が、どこかで抜かれていた。
情報システム部長の成瀬葵が、別の画面を開いた。
「メールとチャットログの検索結果も出ています。キーワードは、K-Bridge、調整、別処理、専務確認済み、領収書、差し替え、研修費、接待先未記入。この辺りでかなり引っかかりました」
桐生麻衣がすぐに確認する。
「会社アカウント内のログですね」
「はい。会社貸与端末、会社メール、社内チャット、ワークフローシステム内のコメントです。私物端末には触れていません」
「なら問題ありません。続けてください」
成瀬葵は頷き、画面を会議室の大型モニターへ映した。
最初に表示されたのは、営業管理課長・西岡大輔と桐谷健吾の社内チャットだった。
⸻
桐谷健吾:
この前の会食、人数は六名で出しておいて。西岡大輔:
実際は四名ですよね?桐谷健吾:
先方分を含めて六名。細かいことはいい。西岡大輔:
領収書は一枚です。桐谷健吾:
摘要で調整。専務には話してある。西岡大輔:
了解です。⸻
会議室が沈黙した。
佐伯真琴が腕を組む。
「これは厳しいですね」
大槻沙織は表情を変えずに言った。
「人数水増しの認識があるように見えます」
成瀬葵が次のログを出した。
営業第二課長・山城直人と桐谷健吾のメール。
⸻
件名:K-Bridge納品物について
山城直人:
桐谷さん、K-Bridgeの八月分、成果物がまだ来ていません。 経理から検収資料の提出を求められています。桐谷健吾:
前回の資料をベースに作っておいて。 タイトルだけ変えればいい。山城直人:
こちらで作るんですか?桐谷健吾:
形式だけ必要。中身は後で詰める。 専務承認済みだから問題ない。⸻
黒須怜司が、机を指で軽く叩いた。
「外注成果物を社内で作らせた可能性が高いですね」
榊原徹が続ける。
「検収資料の偽装。支払い根拠の虚偽。外注費の実態がなければ、会社に損害を与えた可能性があります」
三枝義人は、静かに言った。
「次を」
成瀬葵が三つ目を映す。
今度は経理課長・小田切修と経理管理課係長・江藤真一のチャットだった。
⸻
江藤真一:
K-Bridgeの請求書、内容が薄いです。 営業戦略コンサルで800万は高すぎませんか。小田切修:
専務承認。触るな。江藤真一:
監査で聞かれませんか。小田切修:
聞かれたら営業施策で通す。 科目は研修費でもいい。江藤真一:
外注費ではなく?小田切修:
目立たない方で処理。⸻
村瀬絢が息を飲んだ。
「科目変更の指示が残っています」
水城莉央の目が冷たくなった。
「経理がこれをやっていたなら、見逃しでは済みません」
大槻沙織が言った。
「小田切修は経理課長。江藤真一は係長。会社の経理統制を守る側です。疑義を認識したうえで処理しているなら、懲戒対象として重い」
矢島明彦が紙にメモを取った。
「このログは保全済みですね」
成瀬葵が頷く。
「保全済みです。タイムスタンプ、送信者、受信者、メッセージIDも保存しています」
「改ざん防止のため、ハッシュ値も記録してください」
「済んでいます」
会議室の空気は、どんどん重くなっていった。
これはもう、桐谷健吾一人の問題ではない。
高瀬美咲一人の承認ミスでもない。
営業と経理の一部に、細い地下水脈のような不正の流れができていた。
流れを作った者。
流れに乗った者。
流れを見て目を逸らした者。
流れを止めようとして潰されかけた者。
その全てを、これから掘り起こす必要があった。
三枝義人が言った。
「雨宮彩乃主任を呼んでください」
神谷玲奈が立ち上がる。
「はい」
数分後、第二会議室のドアが開いた。
入ってきた女性は、緊張した面持ちで一礼した。
雨宮彩乃。
二十七歳。
経理部経理管理課主任。
紺色のジャケットに、白いブラウス。
派手さはない。
けれど、背筋はまっすぐだった。
彼女は、今回の内部告発者だった。
最初に神谷玲奈へ報告した人物。
高瀬美咲と桐谷健吾の不自然な経費処理に気づき、直属上司に握り潰され、それでも黙らなかった社員。
神谷玲奈が椅子を引く。
「雨宮さん、こちらへ」
「失礼します」
雨宮彩乃は椅子に座った。
手元には、薄いファイルを抱えている。
三枝義人が穏やかに言った。
「雨宮主任。本日は、あなたが過去に把握した経費処理上の違和感、上司への報告、社長秘書室への相談経緯について確認します。あなたを責める場ではありません」
雨宮彩乃の指が、ファイルの端を握った。
「はい」
桐生麻衣が続ける。
「発言は記録されます。ただし、内部通報者保護の観点から、あなたの氏名や内容の取り扱いは厳格に管理します。不利益な取り扱いがあった場合は、すぐに申し出てください」
「ありがとうございます」
声は少し震えていた。
だが、逃げてはいなかった。
三枝義人が尋ねた。
「最初に違和感を覚えたのはいつですか」
雨宮彩乃は少し考え、答えた。
「二年前です。営業本部の接待費精算で、人数と金額のバランスがおかしいものがありました。高級店での会食なのに、相手先名が曖昧で、参加者の記録もありませんでした」
「誰に報告しましたか」
「当時の直属上司である小田切修課長です」
「反応は」
雨宮彩乃はファイルを開いた。
「メールを印刷してきました」
紙が回された。
⸻
雨宮彩乃:
小田切課長、営業本部の接待費について確認です。 相手先名と参加人数の記載が不足しており、規程上確認が必要と思われます。小田切修:
専務承認済み。 営業案件なので深掘り不要。雨宮彩乃:
監査時に説明資料が必要になる可能性があります。小田切修:
君は経理処理だけやっていればいい。 余計な波風を立てるな。⸻
会議室の空気が沈んだ。
佐伯真琴が、怒りを抑えるように息を吐いた。
「これは……典型的な圧力ですね」
雨宮彩乃は俯きそうになり、しかし顔を上げた。
「その後も、似たようなことが続きました。K-Bridge Consultingへの支払いも、最初は普通の外注費だと思っていました。でも、成果物が薄くて、検収資料も後付けに見えました」
榊原徹が尋ねる。
「後付けに見えた理由は」
「請求書の日付より後に、成果物ファイルが作られているものがありました。あと、ファイルの作成者情報が社内アカウントになっているものもありました」
村瀬絢が顔を上げる。
「あなたもメタデータを確認したんですか」
「はい。経理に来る資料はPDF化されていることが多いですが、元ファイルが添付されていた時に、プロパティを見ました。おかしいと思って」
水城莉央が小さく頷いた。
「かなり丁寧に見ていますね」
雨宮彩乃は苦笑した。
「経理なので」
それは小さな言葉だった。
だが、会議室にいる全員が、その重さを理解した。
経理なので。
数字を見る。
記録を見る。
辻褄を見る。
会社の金が正しく流れているかを見る。
本来なら、それが当たり前だった。
だが、その当たり前が邪魔者扱いされていた。
三枝義人が聞いた。
「小田切課長以外に相談しましたか」
「江藤真一係長にも相談しました」
「反応は」
雨宮彩乃は次の紙を出した。
⸻
雨宮彩乃:
江藤係長、K-Bridgeの検収資料ですが、内容が薄すぎませんか。 金額に対して成果物が合っていないと思います。江藤真一:
わかるけど、これは上が通してる。雨宮彩乃:
でも、経理として確認しないと。江藤真一:
雨宮さん、正しいことを言うのはいいけど、相手を見た方がいい。 桐谷さんと専務案件だよ。雨宮彩乃:
だからこそ危ないと思います。江藤真一:
危ないと思うなら、なおさら黙っていた方がいい。⸻
桐生麻衣のペンが止まった。
「黙っていた方がいい、ですか」
雨宮彩乃は頷いた。
「その時、怖くなりました。でも、やっぱりおかしいと思いました」
大槻沙織が静かに聞いた。
「それで神谷玲奈秘書室長に報告した」
「はい」
「なぜ秘書室に?」
「法務に直接行くべきか迷いました。でも、法務に行くと大きくなりすぎると思って……。それに、社長が知らないところで、会社のお金がおかしくなっているなら、社長室に伝えるべきだと思いました」
神谷玲奈は、黙って雨宮彩乃を見ていた。
あの日のことを思い出していた。
雨宮彩乃が秘書室の前に立っていた時、顔は真っ青だった。
声も小さかった。
それでも帰らなかった。
「神谷さん、少しだけお時間をいただけませんか」
そう言った彼女の手には、経費一覧とメールのコピーが握られていた。
神谷玲奈は最初、社内の一般的な経理相談だと思った。
だが、資料を三枚読んだ時点で、空気が変わった。
金額。
承認者。
相手先。
添付資料。
そして、高瀬美咲と桐谷健吾の名前。
神谷玲奈はその場で、雨宮彩乃を小会議室へ案内した。
ドアを閉め、お茶を出し、録音ではなく手書きでメモを取った。
その後、悠真へ報告した。
直接的に不倫を告げたわけではない。
最初は、経費と承認の違和感だった。
ただ、調べるうちに、二人の関係も浮かび上がった。
雨宮彩乃の告発は、家庭の秘密を暴くためではなかった。
会社の金を守るためだった。
三枝義人が言った。
「雨宮主任。あなたが提出した資料は、今回の調査開始の重要な端緒になりました」
雨宮彩乃は唇を噛んだ。
「もっと早く、強く言えばよかったと思っています」
「それは違います」
三枝義人の声は、珍しくはっきりしていた。
「責任は、不正をした者と、それを握り潰した者にあります。あなたではありません」
雨宮彩乃の目が少し赤くなった。
神谷玲奈がそっとティッシュを置いた。
会議室に、誰も茶化す者はいなかった。
正しい人間が、正しいことを言うために、どれほどの勇気を使ったか。
それを理解できない会社なら、もう潰れた方がいい。
午後二時。
調査委員会は、四名の関係者について個別に整理した。
一人目。
営業管理課長、西岡大輔。
三十八歳。
桐谷健吾の側近。
担当は、接待費精算、出張手配、営業部内の予算管理。
疑義内容。
接待人数の水増し。
領収書の摘要調整。
実態不明のタクシー代精算。
顧客名未記載の会食費処理。
疑義額、約九百万円。
二人目。
営業第二課長、山城直人。
三十五歳。
K-Bridge Consultingとの窓口。
疑義内容。
成果物作成の偽装。
会議記録の後付け作成。
外注先との実態不明なやり取り。
検収資料の形式的作成。
疑義額、約一千五百万円。
三人目。
経理課長、小田切修。
四十一歳。
経理部内で支払い処理を止める立場にありながら、専務承認を理由に複数案件を通過させた。
疑義内容。
確認義務の放棄。
部下への圧力。
科目変更の黙認。
場合によっては積極的関与。
四人目。
経理管理課係長、江藤真一。
三十六歳。
実務処理担当。
疑義内容。
支払名目の変更。
接待費から研修費への付け替え。
外注費の摘要修正。
不自然な検収資料の登録。
この四人は、全員が同じ濃さではない。
西岡大輔と山城直人は、桐谷健吾側の実働部隊。
小田切修は、経理側の蓋。
江藤真一は、蓋を閉める手。
それぞれの責任は、調査で切り分けなければならない。
全員を同じ悪として処理すれば、逆に真実がぼやける。
悪事にも階層がある。
命令した者。
考えた者。
乗った者。
黙った者。
怖くて従った者。
会社は、それを冷静に見なければならなかった。
午後三時半。
西岡大輔への初回ヒアリングが行われた。
西岡は、最初から汗をかいていた。
「接待人数の水増しについて、説明してください」
大槻沙織が言う。
西岡は何度もハンカチで額を拭った。
「水増しというか、その、営業活動上の幅を持たせていたというか」
桐生麻衣が聞く。
「実際の参加人数と異なる人数で申請した事実はありますか」
「……桐谷本部長の指示です」
「質問に答えてください。事実はありますか」
西岡は沈黙した。
その沈黙が答えだった。
午後四時。
山城直人。
彼は西岡よりも開き直っていた。
「K-Bridgeの成果物について、あなたが社内で作成した資料が含まれていますね」
山城は腕を組んだ。
「外注先と共同で作っただけです」
成瀬葵がログを示す。
「このファイルは、営業第二課の共有フォルダで作成され、外部送受信履歴がありません。K-Bridgeから納品された形跡もありません」
「それは、担当者が直接持ってきたのかもしれません」
榊原徹が言った。
「担当者とは誰ですか」
「覚えていません」
「八百万円の外注案件の担当者を覚えていない」
「複数案件があるので」
黒須怜司が静かに呟いた。
「苦しいですね」
山城の顔が赤くなった。
午後五時。
小田切修。
経理課長。
彼は最初、落ち着いていた。
「専務承認済みの案件です。経理としては処理するしかありません」
水城莉央が冷たく言った。
「経理は判子を押す機械ではありません」
「しかし、役員承認が」
「規程違反の疑いがあれば確認するのが経理です」
小田切は口を閉じた。
大槻沙織が、雨宮彩乃のメールを提示する。
「雨宮主任から、複数回確認要請を受けていますね」
「若手の過剰反応です」
「過剰反応かどうかを判断するために、あなたは何を確認しましたか」
「……専務に確認しました」
「記録は」
「口頭です」
「便利な口頭ですね」
桐生麻衣の声は柔らかかった。
だからこそ刺さった。
午後六時。
江藤真一。
彼は最初から顔色が悪かった。
「科目変更を指示したのは小田切課長です」
江藤は言った。
「私は言われた通りに処理しただけです」
村瀬絢が資料を出す。
「このチャットでは、あなた自身が『研修費にすれば目立たない』と書いています」
江藤の唇が震えた。
「あれは、小田切課長がそう言っていたから」
「その発言を受けて、あなたは不適切だと思いましたか」
「……思いました」
「では、なぜ処理したのですか」
「逆らえなかったんです」
江藤は俯いた。
「経理で居場所がなくなると思った。小田切課長は専務に近い。専務の後ろには桐谷本部長もいた。自分が騒いでも潰されると思った」
桐生麻衣が静かに聞いた。
「同じように圧力を感じながらも、疑義を記録し続けた社員がいました」
江藤は何も言えなかった。
夜七時。
特別調査委員会は、その日の確認結果をまとめていた。
成瀬葵が新しいログを表示する。
「追加で重要なやり取りが出ました。桐谷健吾と山城直人、さらに西岡大輔のグループチャットです」
⸻
桐谷健吾:
K-Bridgeの件、今月も通す。 山城、資料は前の焼き直しでいい。山城直人:
了解です。 タイトルは変えておきます。西岡大輔:
経理からまた細かい確認が来ています。 雨宮って主任です。桐谷健吾:
小田切に止めさせろ。西岡大輔:
専務にも話します?桐谷健吾:
美咲には俺から言う。 あいつは余計なことをしないようにしておけ。⸻
会議室の空気が凍った。
雨宮彩乃の名前が、そこにあった。
余計なこと。
会社の金を守ろうとした行為を、彼らはそう呼んでいた。
三枝義人の目が、初めて怒りを帯びた。
「雨宮主任への圧力も調査対象に追加します」
宮園千晴が同席していれば、きっと即座に頷いただろう。
この時点で、それは単なる不正経理ではなく、内部通報妨害の疑いを帯び始めていた。
矢島明彦が言った。
「これは人事上も重い。会社として通報者保護を明確に示すべきです」
大槻沙織が頷いた。
「明日、宮園取締役と連携して、雨宮主任の保護措置を正式化します。配置転換ではなく、本人の不利益にならない形で、業務上の接触制限を設ける」
水城莉央が言った。
「小田切と江藤は、経理システムへの権限停止が必要です」
成瀬葵がすぐに答えた。
「準備できます」
三枝義人は決断した。
「本日中に、高瀬社長へ中間報告を行います。西岡大輔、山城直人、小田切修、江藤真一の四名については、職務権限の一時停止と追加調査を提案します」
夜八時。
社長室。
高瀬悠真は、七瀬蒼真、宮園千晴、真壁蓮と営業本部の体制について話していた。
そこへ、三枝義人、水城莉央、大槻沙織、成瀬葵が入ってきた。
全員の顔を見て、悠真は椅子から立った。
「かなり出たようですね」
三枝義人は頷いた。
「はい。桐谷健吾氏、高瀬美咲氏だけではありません。営業部と経理部の課長級、係長級に不正関与または不適切処理の疑いがあります」
大槻沙織が四名の名前を読み上げた。
「営業管理課長、西岡大輔。営業第二課長、山城直人。経理課長、小田切修。経理管理課係長、江藤真一」
真壁蓮の顔が険しくなった。
「西岡さんと山城さん……」
彼にとっては、同じ営業本部の人間だ。
怒りだけではなく、悔しさもある。
宮園千晴も、静かに息を吐いた。
「経理からも二名ですか」
水城莉央が資料を差し出す。
「接待人数の水増し、成果物偽装、科目変更、確認要請の握り潰し。ログもあります。さらに、雨宮彩乃主任への圧力を示すやり取りも出ています」
悠真の目が細くなった。
「雨宮さんへの圧力?」
成瀬葵がログを出した。
悠真はそれを読んだ。
小田切に止めさせろ。
余計なことをしないようにしておけ。
その文字を見た瞬間、悠真の中で何かがさらに冷えた。
怒りは熱ではなかった。
冷気だった。
会社を守ろうとした社員を、彼らは邪魔者として扱った。
それだけは、許してはいけない線だった。
「雨宮さんは」
悠真が聞いた。
神谷玲奈が答える。
「現在、宮園取締役の管理下で保護します。直属ラインからは一時的に切り離し、不利益が出ないようにします」
宮園千晴が頷いた。
「本人の希望も確認します。告発者を孤立させません」
「お願いします」
悠真は短く言った。
それから、三枝義人へ向き直る。
「四名への対応は」
「職務権限の一時停止、自宅待機、会社端末回収、関係データ保全を提案します。処分ではなく、調査のための措置です」
「すぐにやりましょう」
大槻沙織が確認する。
「本日付の業務命令として出します。懲戒処分は調査結果を待ちます」
「それでいい」
真壁蓮が言った。
「営業本部は私が引き継ぎます。西岡さんと山城さんが抜けても、業務は止めません」
悠真は頷いた。
「頼む」
「ただ、現場は動揺します」
「わかっている」
「それでも、膿を残すよりはいい」
真壁蓮の声は、静かに燃えていた。
悠真は、その顔を見て少しだけ救われた。
会社は腐りきっていない。
桐谷がいても、西岡がいても、山城がいても、真壁がいる。
小田切がいても、江藤がいても、雨宮がいる。
腐った枝を切れば、幹はまだ生きている。
夜九時。
四名への自宅待機命令が出された。
西岡大輔は、顔を真っ赤にして抗議した。
「俺だけじゃない! 桐谷さんの指示だ!」
山城直人は、黙って会社PCを差し出した。
目だけが泳いでいた。
小田切修は、最後まで「専務承認だった」と繰り返した。
江藤真一は、椅子に座ったまましばらく立てなかった。
彼らの社内アカウントは停止された。
メールは保全された。
ファイル共有権限は凍結された。
経費システムへのログインは遮断された。
営業と経理の配管から、腐った弁が一つずつ外されていった。
夜十時。
社長室に、青葉総合調査事務所から追加報告が届いた。
神谷玲奈が封筒を持って入ってくる。
「社長」
「今度は何だ」
「K-Bridge Consultingに関する資金移動の追加調査です。公開情報と取得可能な範囲の調査で、代表者周辺の動きが確認されています。詳細な口座情報は、会社側の会計調査と弁護士照会が必要とのことです」
悠真は封筒を開けた。
そこには、K-Bridgeの代表者、取引先、関係者、法人住所、過去の登記変更、関連会社らしき名称が整理されていた。
さらに、調査委員会が会計データから見つけた支払履歴と照合するためのメモがある。
水城莉央も同席し、資料を確認した。
「K-Bridgeから、さらに別会社へ業務委託費が出ている可能性があります」
悠真は聞いた。
「別会社?」
「名前はRaven Works。代表者は桐谷健吾の親族ではありませんが、過去に桐谷氏と同じ会社にいた人物です」
大槻沙織が言った。
「迂回している可能性がありますね」
榊原徹が資料を見ながら言う。
「まだ最終着金先は断定できません。ただ、会社からK-Bridgeへ流れた金が、さらに複数の個人または法人へ移っている可能性がある」
村瀬絢が、会計データの一覧を指した。
「現時点で追跡できる範囲では、約千七百万円分に不自然な再委託・再支払いの痕跡があります」
千七百万円。
悠真は、その数字を見た。
不倫の慰謝料とは別の世界の数字だ。
これは会社の損害だ。
場合によっては、民事だけでは済まない。
背任。
特別背任。
業務上横領。
私文書偽造。
どの罪名が成立するかは、弁護士と捜査機関が判断する。
だが、刑事告訴という言葉が、もう遠くなかった。
矢島明彦が静かに言った。
「社長。現時点では、まだ告訴状を出す段階ではありません。ですが、刑事告訴を視野に入れて証拠を固める段階には入っています」
桐生麻衣も頷いた。
「関係者のヒアリング、ログ、会計資料、契約書、成果物、資金の流れ。これらを整理し、故意と損害、利益の帰属を詰める必要があります」
悠真は、資料を机に置いた。
「わかっています」
その声は、低かった。
「警察に駆け込んで感情を晴らすつもりはありません。告訴するなら、逃げ道を塞いでからです」
七瀬蒼真が横で呟いた。
「本当に社長は怒ると手続きになるんですね」
悠真は少しだけ目を向けた。
「怒っているから、手続きを踏むんだ」
会議室に、誰も笑わなかった。
それは冗談ではなかった。
夜十一時。
ネクストリンクのフロアには、まだいくつかの明かりが残っていた。
経理部の一角では、雨宮彩乃が宮園千晴と面談していた。
「雨宮さん、明日から一時的に私の直轄に入ってもらいます。給与や評価に不利益はありません。業務内容も、あなたの希望を聞いた上で決めます」
雨宮彩乃は少し戸惑った。
「私、経理から外されるんですか」
「外すのではなく、守るためにラインを変えます。小田切課長と江藤係長が調査対象になった以上、同じ指揮系統には置けません」
「……わかりました」
宮園千晴は、柔らかい声で言った。
「あなたは会社を守る行動をしました。それを会社が守れなければ、組織として終わりです」
雨宮彩乃は、少しだけ泣きそうな顔をした。
「私、ずっと怖かったです」
「はい」
「間違っていたらどうしようって。私が大げさに騒いでいるだけだったらどうしようって」
「大げさではありませんでした」
「でも、もっと早く」
「それはもう、三枝監査役にも言われたでしょう」
宮園千晴は、少しだけ微笑んだ。
「責任は、不正をした人にあります」
雨宮彩乃は、何度も頷いた。
その頃、社長室で悠真は一人、雨宮彩乃の提出資料を読んでいた。
小さな違和感を一つずつ記録したメモ。
接待費。
外注費。
研修費。
出張費。
承認者。
疑問点。
上司への相談日。
返答。
どれも地味だった。
派手な告発文ではない。
怒りの文章でもない。
ただ、経理担当者として、会社の金がおかしいと記録し続けた痕跡だった。
悠真は、その資料を閉じた。
不正を暴くのは、社長の怒りだけではできない。
雨宮彩乃のような社員が、怖くても数字を見続けたから、ここまで来られた。
高瀬美咲。
桐谷健吾。
西岡大輔。
山城直人。
小田切修。
江藤真一。
名前が増えた。
腐敗の地図が広がった。
だが同時に、守るべき名前も見えた。
雨宮彩乃。
真壁蓮。
久原美緒。
相馬大地。
神谷玲奈。
宮園千晴。
会社は、人で壊れる。
そして、人で立て直す。
悠真は窓の外を見た。
東京の夜は、ガラスの海のように光っていた。
その下で、どれだけの会社が、同じように帳簿の奥で何かを腐らせているのだろう。
彼は静かに呟いた。
「見て見ぬふりをした者も、同じ穴にいる」
返事はない。
けれど、机の上の資料だけが答えていた。
ログは残る。
数字は残る。
メールは残る。
チャットは残る。
嘘は消えたふりをして、どこかに必ず沈殿する。
ネクストリンクは、その沈殿物をすくい上げ始めた。
不倫で始まった修羅場は、もう家庭の話ではない。
営業部と経理部を巻き込んだ、不正の実態へ変わっていた。
そしてその奥には、刑事告訴という、さらに冷たい扉が見え始めていた。
高瀬凛は、朝から忙しかった。 少なくとも、本人はそう思っている。 父親である高瀬悠真から見れば、同じマンションの中を上下に行ったり来たりしているだけだった。けれど、六歳の凛にとっては、朝から予定の詰まった立派な一日だった。 午前七時。 四十階の自宅で起床する。 白いウサギのぬいぐるみを抱えたままベッドを抜け出し、まだ少し眠そうな顔で洗面所へ向かう。歯磨きを終える頃には目が覚め、今日の予定を自分なりに確認し始める。 午前七時十五分。 三十九階に住む高瀬誠一と高瀬由紀子の部屋へ行き、朝食を食べる。 由紀子が焼いた薄めのトーストへ、凛は自分でイチゴジャムを塗った。以前のように山盛りにしようとして、誠一に無言で見られ、少しだけ量を減らした。「じいじ、これならいい?」「パンが見えているから、今日は合格だな」「きのうも見えてたよ」「昨日は端だけだった」 由紀子が苦笑しながら、凛の前へスクランブルエッグを置いた。「凛ちゃん、卵も食べましょうね」「食べる。りん、今日はいっぱい行くところあるから」「同じ建物の中でしょう」「でも、いそがしいの」 午前七時四十五分。 朝食を終えた凛は、そのまま一階下の三十八階へ向かった。 そこには母方の祖父母である秋山孝之と秋山美津子が暮らしている。 美津子は、凛が来ることを予想していたらしく、冷蔵庫から小さなヨーグルトを出した。「朝ごはんを食べてきたんでしょう」「食べたけど、ヨーグルトはべつ」「別腹を覚えるには早くないか」 孝之が新聞を畳みながら言う。 凛は真剣な顔で首を振った。「ヨーグルトはおなかにいいから、だいじょうぶ」「誰に教わった」「みつこばあば」「
朝のタワーマンションは、街より先に目を覚ます。 地上より少しだけ早く、空の色が変わる。 ガラス張りのリビングに、淡い朝日が落ちていた。 四十階。 高瀬悠真の自宅。 都心湾岸エリアに建つ高級タワーマンション、グランレジデンス月島ベイ。 コンシェルジュ常駐。 地下駐車場。 ゲストラウンジ。 スカイラウンジ。 フィットネスルーム。 プライベートミーティングルーム。 キッズスペース。 宅配ボックスと専用集配導線。 警備員の二十四時間巡回。 そして、居住者専用エレベーター。 もともとは投資用として高瀬悠真が代表を務める不動産管理会社、タカセ・アセットマネジメントが複数フロアを保有していた物件だった。 悠真はIT企業ネクストリンクの創業者であり、同時に不動産にもかなり早い段階から投資していた。 会社経営が軌道に乗る前から、収益の一部を都心不動産へ回していた。 理由は単純だった。 IT企業は伸びる時は伸びる。 しかし、景気や投資環境の影響を受けやすい。 だから、安定した家賃収入の柱が欲しかった。 都内の高級タワーマンションを区分で複数戸。 港区、中央区、品川区、文京区。 さらに法人名義で一棟レジデンスも二棟。 地方では名古屋、大阪、札幌にも収益物件を持っている。 グランレジデンス月島ベイでは、三十六階から四十階の一部住戸をタカセ・アセットマネジメントが保有していた。 多くは賃貸に出している。 外資系企業の役員。 医師。 弁護士。 上場企業の役員。 芸能関係者。 月額家賃は部屋によって七十万円から百八十万円
佐々木茉里は、請求書を作ることが仕事だった。 会社の将来を左右するような、大げさな仕事ではない。 自分がこの会社を動かしているという実感も、ほとんどなかった。 朝、事務所へ来たら、最初に小さな給湯室へ入り、電気ポットの水を替える。入口脇の郵便受けを確認し、届いている封筒を請求書、広告、役所関係の通知に分ける。 留守番電話を聞き、来客予定を確認し、代表取締役である黒川亮介の予定を共有カレンダーへ入力する。 その後は、黒川から届いたメールや、机の上に置かれたメモを見ながら請求書を作成する。 取引先の正式名称。 請求先の住所。 業務内容。 請求金額。 消費税。 支払期限。 振込先口座。 数字や文字に誤りがないかを二度確認し、PDFへ変換してメールで送る。紙での発行を求められている取引先には、印刷した請求書へ角印を押し、三つ折りにして封筒へ入れた。 宛名ラベルを貼り、切手を確認し、帰りに駅前の郵便ポストへ投函する。 それが、佐々木茉里の仕事だった。 勤務先は、Raven Works株式会社。 社員数は少なく、正社員と契約社員を合わせても両手で数えられる程度しかいない。実際には外部の業務委託者が多く、毎日事務所へ出勤してくる社員は、茉里と黒川を含めても数人だった。 代表取締役は黒川亮介。 佐々木茉里は、そこで働く契約社員だった。 二十八歳。 月給は二十二万円。 賞与はない。 入社時には、半年から一年程度で正社員登用を検討す
離婚届そのものは、紙一枚で終わる。 夫と妻がそれぞれ署名し、必要な欄を埋めて役所へ提出すれば、法律上の婚姻関係は解消される。 けれど、その紙一枚へ辿り着くまでには、二人で過ごした年月を何度も振り返らなければならない。 出会った日のこと。 結婚を決めた時のこと。 子どもが生まれた日のこと。 同じ家で重ねた朝と夜。 そして、どこから互いの視線がずれ、何を見落とし、何を壊したのか。 高瀬悠真は、弁護士事務所の応接室で、テーブルの上に置かれた書類を見つめていた。 協議離婚合意書。 親権者の指定。 面会交流の条件。 慰謝料の支払い方法。 財産分与を行わないこと。 悠真から美咲へ養育費を請求しないこと。 会社で締結する契約書に比べれば、記載されている内容は多くない。文字数だけを見れば、取引先との業務委託契約書や株式譲渡契約書よりもずっと短かった。 それでも、一行読むたびに胸の奥が重くなる。 数字と条文で整理された文書の向こうに、悠真、美咲、凛の三人で過ごしてきた時間があった。 相手側の席には、高瀬美咲が座っている。 以前のような、ネクストリンク専務取締役としての気配はなかった。 白いブラウスに、薄いグレーのジャケット。 髪は丁寧に整えられ、化粧もしている。だが、隠し切れない疲労が頬と目元に残っていた。 悠真がよく知っていた美咲は、会議の場で相手を見据え、自分の意見をはっきり口にする女性だった。 今は、机の上に重ねた両手を見つめたまま、ほとんど顔を上げない。 美咲の隣には、彼女の代理人弁護士が座っている。 悠真の隣には、代理人である矢島明彦がいた。 さらに少し離れた席には、双方の両親が座っていた。 悠真の父、高瀬誠一。 六十五歳。 元地方銀行員で、退職するまで企業融資と事業再生に長く携わって
午前五時二十分。 警視庁捜査二課の会議室には、まだ夜の匂いが残っていた。 窓の外は薄暗い。 東京の街は眠っているように見える。 だが、眠っている街の下で、警察はすでに動いていた。 会議室の正面には、三枚の顔写真が貼られている。 桐谷健吾。 元株式会社ネクストリンク営業本部長。 黒川亮介。 Raven Works代表。 青柳拓人。 Blue Mark Partners代表。 その横には、関係図。 ネクストリンク。 K-Bridge Consulting。 Raven Works。 Blue Mark Partners。 合同会社ミナトリサーチ。 S-Connect Holdings。 そして、複数の個人口座。 警視庁捜査二課の望月誠司は、逮捕状の写しを机の上に置いた。 四十六歳。 経済事件を長く追ってきた刑事だった。 怒鳴るタイプではない。 人の嘘より、金の流れを信じる男だった。 その横には、新谷怜奈。 三十一歳。 供述整理が速く、関係者の心理を読むのがうまい。 そして、森脇悠介。 三十五歳。 サイバー担当。 削除メール、端末ログ、クラウド履歴の解析を担当している。 望月が言った。「逮捕状は出た」 会議室が静まり返る。「対象は、桐谷健吾、黒川亮介、青柳拓人。容疑は、まず背任および会社資金流出に関する共犯構成を中心に取る。業務上横領、詐欺的構成、犯罪収益隠匿については押収資料と供述で詰める。特別背任については、高瀬美咲の取締役としての関与が絡む。検察と協議しながら固める」 新谷怜奈が確認する。「西岡大輔と山城直人は任意同行」「そうだ。西岡と山城は崩れかけている。今日
朝は、誰にでも平等に来る。 だが、その朝が何を連れてくるかは、人によって違う。 東京国税局査察部のフロアには、午前五時前から明かりがついていた。 窓の外はまだ暗い。 ビルの谷間に、夜の残りが沈んでいる。 しかし、査察部の中だけはすでに昼のようだった。 机の上には、令状請求資料。 対象先一覧。 押収予定物リスト。 人員配置表。 車両割当表。 銀行口座一覧。 法人登記簿。 税務申告書。 資金移動図。 そして、桐谷健吾、黒川亮介、青柳拓人の写真。 査察官の斎藤修司は、白い紙コップのコーヒーに一度も口をつけず、資料の最終確認をしていた。 班長の大石誠司が、腕時計を見る。「行くぞ」 午前五時二十分。 斎藤修司、小野寺紗季、田丸圭吾、成宮光、早瀬理奈たちは、東京地方裁判所へ向かった。 令状を取るためだった。 強制査察は、気分で行うものではない。 裁判所が認めた令状が必要になる。 どこに入るのか。 何を探すのか。 何の嫌疑があるのか。 任意調査では足りない理由は何か。 それを資料で示さなければならない。 裁判所の一室で、裁判官が資料をめくった。 対象。 桐谷健吾自宅。 黒川亮介自宅。 Raven Works事務所。 Blue Mark Partners事務所。 K-Bridge Consulting事務所。 青柳拓人自宅。 合同会社ミナトリサーチ所在地。 押収対象。 帳簿。 請求書。 契約書。 領収書。 通帳。 キャッシュカード。 印鑑。 パソコン。







