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第3話

last update publish date: 2026-06-06 16:34:42

沙月は、持ち帰った薔薇を100円均一で買ったそっけない一輪挿しにいけて、出窓に飾った。

夫である陽介は、「へえ、珍しいことをするね」と笑った。

悪意からではない。

単なる夫婦のコミュニケーションとしての、さりげない会話のつもりだろう。

それは沙月もわかっているのだが……

「君もようやく女性らしい情緒というものを理解したんだね」

「大袈裟ね、花を一輪飾っただけじゃない?」

「いやいや、君さあ、花なんて食べられるわけでもないし、資産価値があるわけでもないし、買うだけ無駄だって言ってたじゃない」

「ああ、言ったこと、あったかも……」

沙月はそっと薔薇に触れる。

たった一本残された、あの棘を指先で探す。

ちくりと小さな痛みが走った。

だが、血が流れるほどじゃない。

思えば結婚生活は“お互い様”。

時には沙月が彼の棘になることだってあるはずだ。

だけど彼も、そうした小さな棘を飲み込んでくれている。

円満な家庭とは、そうした思いやりで出来上がってゆくもの――

沙月がふと顔を上げると、夫は邪気のない笑みを浮かべていた。

「なんか疲れた顔してるなあ、いいよ、今日は手伝うよ、何をすればいい?」

そう言ってくれる夫は優しいと思う。

ルックスも整っているし、仕事だって大手企業のエリート社員という将来を約束された立場であり、収入も安定している。

身持ちが固くて真面目だから、浮気をするようなこともないだろう。

だから沙月は、自分は幸せな結婚をしたのだと、常日頃から思っている。

少なくとも、世間で見るような“離婚するほど不幸な結婚”をした女性よりもよほど幸せなのだと。

だから、多少の痛みは……

「そうね、とりあえずお風呂を洗ってきてくれると、助かるかなあ」

「よし、任せてくれ、ピカピカにしてやるよ!」

陽介は張り切って腕を捲り上げると、風呂場に向かった。

沙月はその間に洗濯を取り込み、天日でカラッと乾いた足拭きマットを持って脱衣所に向かう。

浴室の扉越しに、少し調子のはずれた鼻歌とシャワーの音が聞こえた。

「ねえ、足拭き、持ってきてないでしょ」

「ん、あー、忘れた」

「ここに置いておくから、ちゃんと足拭いて上がってきてね」

「わかったー」

この間に食事の支度を済ませてしまおうと、沙月はキッチンに立つ。

「豆腐があったわね、麻婆豆腐にしようかしら」

レトルト調味料を取り出したところで、お風呂場から悲鳴が聞こえた。

「何? どうしたの!」

慌てて飛んでいけば、ドアの向こうからのんびりした声。

「ごめんけど、着替え持ってきてくんない? 転んじゃってさ」

沙月は、自分の眉間に微かに皺がよるのを感じた。

それでも、せっかく手伝ってくれている夫を傷つけるのは忍びなくて、声だけは優しく。

「裸でいいじゃない、体だけ拭いて上がってくれば?」

「いやいや、それはだらしないでしょ」

「だらしなくてもいいじゃない、家の中なんだし」

「それでも気分的にさ。あ、ちゃんとしたのじゃなくていいよ、箪笥の中に古いスエットがあっただろ、あれ、持ってきてよ」

「えー」

不満そうな声を上げながらも、2階に行って箪笥からスエットを引っ張り出して、脱衣所の洗濯機の上に置いて。

「ここにあるから、タオルも一緒においたからね」

「あー、ありがと」

「じゃあ、私、ご飯を作ってくるから」

「あー、ちょっと待って」

「なに?」

「お風呂用の洗剤、残り少ないから気をつけて」

「ふ……」

沙月は静かに目を閉じる。

頭の中に薄桃色の薔薇が思い浮かんだが、それを無視して噛み締めるようにつぶやく。

「大丈夫、私は不幸じゃない」

無理に口角を上げてにこやかな表情を。

声もそれに釣られて半トーン上がる。

「わかったー、明日の帰りに買ってくるねー」

それからしばらくして。出来上がった夕食を食卓に並べているタイミングで、風呂掃除を終えた陽介が戻ってきた。

彼はタオルで頭を拭きながら、チラリと食卓に視線を走らせた。

「あー、また麻婆豆腐? まあ、仕事してると、どうしても簡単なものになるよね、いいよいいよ、気にしないで」

陽介は椅子を引いて座るけれど、その何気ない仕草が沙月の癇に触った。

「いやー、お腹ぺこぺこ。あ、米は大盛りでよそって。あとついでに醤油も持ってきてくれると助かるなあ」

出窓に置かれたピンクのバラが気になって仕方ない。

沙月は大きく深呼吸をする。

(大丈夫、私は不幸じゃない)

ご飯をよそい、醤油を食卓に置いて、椅子に腰を下ろして――箸を手に取ったタイミングで、陽介がさらに一言。

「あ、冷蔵庫にビール入ってただろ、あれ、持ってきてよ」

「……」

「沙月?」

「あ、ごめん」

立って、ビールを冷蔵庫から取り出す。

だが、それを陽介の前に置いたあと、沙月は再び椅子には座らなかった。

「私、洗剤買いに行ってくるね」

「今から? 飯は?」

「いいよ、先に食べてて」

沙月は車のキーとバッグを掴んだ。

ふと、思いついたかのように踵を返し、出窓に置いたバラを手に取る。

彼女はそのまま、振り返りもせずに家を飛び出す。

向かったのはあの、カウントダウンクラブのビル。

二階のオフィスに駆け込むと、一人居残って書類を眺めていたマダムが、ふと顔を上げた。

「あら?」

彼女は沙月が握りしめた薄桃色のバラを見て、にっこりと微笑む。

「お帰りなさい」

沙月は手の中のバラをギュッと握りしめ、顔を上げた。

棘が手のひらに深く刺さり、小さな傷からはわずかに血が滲んでいた。

「最初の一本を、預かってもらってもいいですか?」

「もちろん」

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