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第二話

Penulis: 八街ヒサシ
last update Tanggal publikasi: 2026-06-06 16:32:34

沙月が案内されたのはビルの二階、『相談室』と呼ばれる応接室だった。

壁は落ち着きのあるアイボリー、窓は広くて部屋の中は明るい。

座り心地を重視した座面の広い応接ソファと、それに揃いの小さなテーブル。

観葉植物もいくつか置かれて癒しを意識した空間だ。

だがソファに座った沙月は、少しも癒されることなどなかった。

手にした薄桃色のバラを所在なく撫で回しながら、ポツリと呟く。

「これ、生花ではないんですね」

手触りでわかる。

その薔薇は防腐処理をされたプリザーブドフラワーだ。

沙月の対面に座る遥子は、相変わらず落ち着きのある笑みを浮かべて答える。

「そうね、誰にも言えずに飲み込んだ言葉は枯れるわけじゃない、ただ日常という花束に紛れて誤魔化されてしまうだけ、だから」

「飲み込んだ言葉、ですか」

「あるでしょ、一つくらい。例えば『お皿くらい洗って』とか、『靴下を裏返しで出さないで』とか」

「いえ、うちの夫は家事は手伝ってくれますし、きちんとした性格なので靴下は表に返して脱ぎますから」

「んもう、そうじゃなくって、例え話よ、これ。そういう、小さい不満を飲み込んで我慢したことがあるでしょって話よ」

「小さな不満……」

沙月は手の中にあるバラに視線を落とす。

思い浮かぶのは、今朝の出来事――

沙月の夫、早坂陽介はトーストを齧りながらなにげなく言った。

「仕事、いつ辞めるんだ」

まるで辞めることが決定事項であるような言い様に、わずかな苛立ちが心中に湧く。

それでも沙月は、(彼に悪気はないんだから)と苛立ちを飲み込んで、にっこりと微笑んだ。

「それは、この間も話したでしょう、辞めるつもりは、今のところないって」

陽介と結婚して二年目、義母からも「赤ちゃんはまだなの」と何度も聞かれている。

生活も落ち着いたし、そろそろ子供を持つことを考え始めてはいるが、だからといって仕事を辞めようとまでは考えていない。

「うちの事務所は小さいけれど、産休制度もしっかりしているし、もし辞めるにしても実際に妊娠してから様子を見て、って話だったでしょ?」

「そうだっけ? あー、そうだったかも」

夫に悪気があるわけではないことはわかっている。

わかってはいるが、真剣味のかけらもなくヘラヘラと笑っている様子に、沙月の苛立ちはさらに募ってゆく。

「でも、どうせ辞めるなら遅いか早いかだけの問題だろ、ウチの母がいうにはさ、仕事を辞めて妊活に集中したほうが“君も楽だろう”っていうんだよ」

言葉だけなら沙月のことを考えているようにも聞こえるが……

「俺には十分な稼ぎがあるから、君が小金を稼ぐための仕事なんかしなくても養ってあげられる、それに、君が辞めたからって職場に迷惑がかかるってわけでもないだろ」

「それでも!」

「大丈夫大丈夫、すぐに結論を出せって話じゃないから、ただ、いつ頃なら辞められそうか、上司と相談くらいはしておいてくれよ」

夫は強引に話を進めるようなことはなかったし、言葉自体は沙月を思いやっているようにも思えた。

だが、はっきりと言語化できない重たい感情が、沙月の心の中に小さく刺さった。

「私……」

確かに棘はある。

言葉として吐き出すことすら必要ないほどの、小さな棘が。

「私なんかが、こんなこと言うの、わがままだと思うんです」

「あら、どうして?」

「だって、私、離婚するほど不幸なわけじゃないから……」

「じゃあ、何も不満はないのね?」

「それは、ないわけじゃないですけど……」

遥子は、沙月を責めることも、肯定することもなかった。

ただ短く「なるほど」と口の中でつぶやいて、すっと立ち上がった。

「ついてらっしゃい」

「どこへ?」

「こっちよ」

遥子は立ち上がり、部屋の奥にある扉を開けた。

「それを持ってこっちにいらっしゃい」

扉を開けると部屋一面を埋め尽くすバラの洪水が視覚を襲った。

色もとりどり、大きさもさまざまなバラが。

よくみるとバラはそれぞれが大きな花瓶にいけられていて、その花瓶には名前を刻んだ金のプレートがかけられていた。

遥子はそっと沙月の手を引いて、彼女をその“薔薇の部屋”へと導いた。

「ここにあるのは、誰かがこっそり飲み込んだ言葉たち」

沙月の前に空の花瓶を引き寄せて、遥子は微笑む。

「女は我慢強いから、自分さえ我慢すれば、って考えて本音を飲み込んじゃうことがよくあるでしょう? そんな時はここに来て、薔薇を」

「なるほど、そうやって心を宥めて生きろってことですか」

「別に、心を宥める必要はないんじゃない?」

「よくわかりませんが」

「ここにあるバラは、記憶の代わり——単なる記録よ」

「そんなことをして、何になるんですか?」

「あら、こうしておけば、“数えること”ができるでしょ」

遥子の指先が、赤い薔薇の花弁を優しくなぞる。

「99本目まではあなたの物語、100本目からは私たちの出番」

だが沙月は、演出感たっぷりの遥子の振る舞いを鼻先で笑った。

「つまり、100本貯まったら離婚しろと?」

「それはあなた次第ね」

「私、本当に離婚するつもりはないんです、夫は収入も安定しているし、義父母とは別居で仲も悪くないし、そう……不幸なわけじゃない」

遥子は怒ることも、怯むこともなかった。

ただ淡々と言葉を返す。

「そうなの?」

「はい、ですから、私にはこのバラは、不要です」

沙月が返そうとした薔薇を、しかし、遥子は受け取らなかった。

「それは持っておきなさい、今日の記念に、ね」

「ですから、不要ですと……」

「本当に不要だと思ったなら、捨てて仕舞えばいいから、ね、一度お持ち帰りください」

「そうですか、じゃあ」

沙月の手の中に、一輪の、薄桃色の薔薇が残された。

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