登入沙月が案内されたのはビルの二階、『相談室』と呼ばれる応接室だった。
壁は落ち着きのあるアイボリー、窓は広くて部屋の中は明るい。
座り心地を重視した座面の広い応接ソファと、それに揃いの小さなテーブル。
観葉植物もいくつか置かれて癒しを意識した空間だ。
だが、沙月は居心地の悪い思いで、ソファにちんまりと座っていた。
「あの、本当に、離婚するつもりは、ないんですよ、私」
彼女の向かいに座るマダムこと福重遥子は、沙月の言葉を聞いて楽しそうに笑い声を上げた。
「ああ、もしかしてウチが“離婚互助会”なんて呼ばれているから、誤解してる?」
「誤解なんですか?」
「ええ、誤解。まあ実際に離婚ですよってなったら、いろんなサポートはするし、そのための人材も揃っているし、実績もあるしで、周りが勝手に呼び始めたのよね、離婚互助会って」
「じゃあ、本当はここ、何をするところなんですか?」
「そうね、簡単にいうと、結婚生活の愚痴を聞いてあげようっていう、お節介おばさんによる癒しのサロン、かしら?」
「それって、運営費はどこから出ているんですか?」
沙月の返しに、遥子が楽しげに目を細める。
「あら、あらあら、面白いことを言うわね」
「面白くありません、職業柄、収支の見えない組織は警戒して然るべき、だと思うんです」
「なんのお仕事をなさっているの?」
「会計事務所で働いています」
「つまり、会計士さん?」
「いえ、税理士補助です」
「だからお金の話になるのね」
遥子は楽しそうに――本当に心底楽しそうに目をキラキラさせて沙月を見た。
「いいわ、とてもいい、あなた、うちのスタッフとして働いてくれない?」
「はい?」
「ああ、ごめんなさい、それはあまりにも唐突よね、とりあえず、お近づきの印に」
遥子がテーブルの上にあった花瓶から薔薇を一輪、引き抜く。
「初回特典よ、これ、どうぞ」
受け取った沙月は、それが
「生花ではないんですね」
「そうね、誰にも言えずに飲み込んだ言葉は枯れるわけじゃない、ただ日常という花束に紛れて誤魔化されてしまうだけ、だから」
「飲み込んだ言葉、ですか」
「あるでしょ、一つくらい。例えば『お皿くらい洗って』とか、『靴下を裏返しで出さないで』とか」
「いえ、うちの夫は家事は手伝ってくれますし、きちんとした性格なので靴下は表に返して脱ぎますから」
「んもう、そうじゃなくって、例え話よ、これ。そういう、小さい不満を飲み込んで我慢したことがあるでしょって話よ」
「小さな不満……」
沙月は手の中にあるバラに視線を落とす。
それはほんのり恥じらう乙女のような、薄桃色をしたバラだった。
何気なく茎をなぞれば、指先にちくりと小さな痛みが触れた。
「あっ」
よく見ると棘が一つだけ――おそらくわざとだろう、一つだけ残されている。
「ごめんなさいね」
遥子がくすりと笑う。
「棘のない薔薇なんて偽物みたいでしょう、だからよ」
遥子は立ち上がり、部屋の奥にある扉を開けた。
「それを持ってこっちにいらっしゃい」
扉を開けると部屋一面を埋め尽くすバラの洪水が視覚を襲った。
色もとりどり、大きさもさまざまなバラが。
よくみるとバラはそれぞれが大きな花瓶にいけられていて、その花瓶には名前を刻んだ金のプレートがかけられていた。
遥子はそっと沙月の手を引いて、彼女をその“薔薇の部屋”へと導いた。
「ここにあるのは、誰かがこっそり飲み込んだ言葉たち」
沙月の前に空の花瓶を引き寄せて、遥子は微笑む。
「女は我慢強いから、自分さえ我慢すれば、って考えて本音を飲み込んじゃうことがよくあるでしょう? そんな時はここに来て、薔薇を」
「なるほど、そうやって心を宥めて生きろってことですか」
「別に、心を宥める必要はないんじゃない?」
「よくわかりませんが」
「そうね、例えば……」
遥子は思いついたかのように、両手で抱えるほど薔薇をいけた花瓶をいくつか引き寄せた。
「この方はね、腹の立つことがあった日は、ここに来て、怒りの赤い薔薇を一本入れていくの。あ、こっちの方なんかはね、旦那さんに嫌味を言われた時に、その嫌味の数だけ薔薇を、言われて悲しかった時は黄色い薔薇、腹が立った時は赤薔薇をって決めてるらしいわ」
花瓶からこぼれそうな薔薇を丁寧に整えながら、遥子は言葉を続ける。
「ここにあるバラは、記憶の代わり――単なる記録よ」
「そんなことをして、何になるんですか?」
「あら、こうしておけば、“数えること”ができるでしょ」
遥子の指先が、赤い薔薇の花弁を優しくなぞる。
だが沙月は、演出感たっぷりの遥子の振る舞いを鼻先で笑った。
「やっぱり、ただの慰めじゃないですか」
詐欺ではなさそうだ、だが自分には必要ない――と沙月は考えた。
「私、慰めてもらうほど不幸じゃないんです、夫は収入も安定しているし、義父母とは別居で仲も悪くないし、そう……不幸なわけじゃない」
遥子は怒ることも、怯むこともなかった。
ただ淡々と言葉を返す。
「そうなの?」
「はい、ですから、私にはこのバラは、不要です」
沙月が返そうとした薔薇を、しかし、遥子は受け取らなかった。
「それは持っておきなさい、今日の記念に、ね」
「ですから、不要ですと……」
「本当に不要だと思ったなら、捨てて仕舞えばいいから、ね、一度お持ち帰りください」
「そうですか、じゃあ」
沙月の手の中に、一輪の、薄桃色の薔薇が残された。
沙月は、持ち帰った薔薇を100円均一で買ったそっけない一輪挿しにいけて、出窓に飾った。夫である陽介は、「へえ、珍しいことをするね」と笑った。悪意からではない。単なる夫婦のコミュニケーションとしての、さりげない会話のつもりだろう。それは沙月もわかっているのだが……「君もようやく女性らしい情緒というものを理解したんだね」「大袈裟ね、花を一輪飾っただけじゃない?」「いやいや、君さあ、花なんて食べられるわけでもないし、資産価値があるわけでもないし、買うだけ無駄だって言ってたじゃない」「ああ、言ったこと、あったかも……」沙月はそっと薔薇に触れる。たった一本残された、あの棘を指先で探す。ちくりと小さな痛みが走った。だが、血が流れるほどじゃない。思えば結婚生活は“お互い様”。時には沙月が彼の棘になることだってあるはずだ。だけど彼も、そうした小さな棘を飲み込んでくれている。円満な家庭とは、そうした思いやりで出来上がってゆくもの――沙月がふと顔を上げると、夫は邪気のない笑みを浮かべていた。「なんか疲れた顔してるなあ、いいよ、今日は手伝うよ、何をすればいい?」そう言ってくれる夫は優しいと思う。ルックスも整っているし、仕事だって大手企業のエリート社員という将来を約束された立場であり、収入も安定している。身持ちが固くて真面目だから、浮気をするようなこともないだろう。だから沙月は、自分は幸せな結婚をしたのだと、常日頃から思っている。少なくとも、世間で見るような“離婚するほど不幸な結婚”をした女性よりもよほど幸せなのだと。だから、多少の痛みは……「そうね、とりあえずお風呂を洗ってきてくれると、助かるかなあ」「よし、任せてくれ、ピカピカにしてやるよ!」陽介は張り切って腕を捲り上げると、風呂場に向かった。沙月はその間に洗濯を取り込み、天日でカラッと乾いた足拭きマットを持って脱衣所に向かう。浴室の扉越しに、少し調子のはずれた鼻歌とシャワーの音が聞こえた。「ねえ、足拭き、持ってきてないでしょ」「ん、あー、忘れた」「ここに置いておくから、ちゃんと足拭いて上がってきてね」「わかったー」この間に食事の支度を済ませてしまおうと、沙月はキッチンに立つ。「豆腐があったわね、麻婆豆腐にしようかしら」レトルト調味料を取り出したところで、お風呂場
沙月が案内されたのはビルの二階、『相談室』と呼ばれる応接室だった。壁は落ち着きのあるアイボリー、窓は広くて部屋の中は明るい。座り心地を重視した座面の広い応接ソファと、それに揃いの小さなテーブル。観葉植物もいくつか置かれて癒しを意識した空間だ。だが、沙月は居心地の悪い思いで、ソファにちんまりと座っていた。「あの、本当に、離婚するつもりは、ないんですよ、私」彼女の向かいに座るマダムこと福重遥子は、沙月の言葉を聞いて楽しそうに笑い声を上げた。「ああ、もしかしてウチが“離婚互助会”なんて呼ばれているから、誤解してる?」「誤解なんですか?」「ええ、誤解。まあ実際に離婚ですよってなったら、いろんなサポートはするし、そのための人材も揃っているし、実績もあるしで、周りが勝手に呼び始めたのよね、離婚互助会って」「じゃあ、本当はここ、何をするところなんですか?」「そうね、簡単にいうと、結婚生活の愚痴を聞いてあげようっていう、お節介おばさんによる癒しのサロン、かしら?」「それって、運営費はどこから出ているんですか?」沙月の返しに、遥子が楽しげに目を細める。「あら、あらあら、面白いことを言うわね」「面白くありません、職業柄、収支の見えない組織は警戒して然るべき、だと思うんです」「なんのお仕事をなさっているの?」「会計事務所で働いています」「つまり、会計士さん?」「いえ、税理士補助です」「だからお金の話になるのね」遥子は楽しそうに――本当に心底楽しそうに目をキラキラさせて沙月を見た。「いいわ、とてもいい、あなた、うちのスタッフとして働いてくれない?」「はい?」「ああ、ごめんなさい、それはあまりにも唐突よね、とりあえず、お近づきの印に」遥子がテーブルの上にあった花瓶から薔薇を一輪、引き抜く。「初回特典よ、これ、どうぞ」受け取った沙月は、それが加工花であることに気づいた。「生花ではないんですね」「そうね、誰にも言えずに飲み込んだ言葉は枯れるわけじゃない、ただ日常という花束に紛れて誤魔化されてしまうだけ、だから」「飲み込んだ言葉、ですか」「あるでしょ、一つくらい。例えば『お皿くらい洗って』とか、『靴下を裏返しで出さないで』とか」「いえ、うちの夫は家事は手伝ってくれますし、きちんとした性格なので靴下は表に返し
………………………………離婚するほど不幸なわけじゃない——そう思って飲み込んだ言葉に、薔薇を一本。九十九本目までは、あなたの物語。百本目からは、私たちの出番。ようこそ、離婚互助会カウントダウンクラブへ。………………………………沙月に“カウントダウンクラブ”のことを教えてくれたのは、離婚経験のある女友達だった。「いいから、一度行ってみなさいよ」手の中に押し込まれたのは小さなカード。書かれているのは箔押しの薔薇で飾られた“カウントダウンクラブ”のロゴ、それに住所だけ。沙月はそれを押し返そうとした。それでも友人は、小さなカードを引っ込めようとはしない。「大丈夫、変なところじゃないから。別名“離婚互助会”、本当に真っ当な女性向けの相談サロンだから、詐欺とかじゃないから」「なんか、すごく怪しく聞こえるんだけど」「怪しくないよ、私も離婚する時、ここにお世話になったのよ」「そっか、でもね、離婚したいわけじゃないのよ」「わかってる、離婚しろっていってるんじゃないの。でも、ここ、結婚生活の愚痴を聞くだけとかもやってるから、ね」沙月は結局、カードを押し返すことができず、それを受け取ってハンドバッグの底に押し込んだ。それが三ヶ月前のこと——今日になって、そのカードのことを思い出したのは、朝食の席で夫に言われた一言がきっかけだったのかもしれない。沙月の夫——早坂陽介はトーストを齧りながらなにげなく言った。「仕事、いつ辞めるんだ」まるで辞めることが決定事項であるような言い様に、わずかな苛立ちが心中に湧く。それでも沙月は、(彼に悪気はないんだから)と苛立ちを飲み込んで、にっこりと微笑んだ。「それは、この間も話したでしょう、辞めるつもりは、今のところないって」陽介と結婚して二年目、義母からも「赤ちゃんはまだなの」と何度も聞かれている。生活も落ち着いたし、そろそろ子供を持つことを考え始めてはいるが、だからといって仕事を辞めようとまでは考えていない。「うちの事務所は小さいけれど、産休制度もしっかりしているし、もし辞めるにしても実際に妊娠してから様子を見て、って話だったでしょ?」「そうだっけ? あー、そうだったかも」夫に悪気があるわけではないことはわかっている。わかってはいるが、真剣味のかけらもなくヘラヘラと笑っている様子に、沙月の苛立ち







