LOGINそれからしばらく、沙月は穏やかに暮らしていた。
「沙月〜、ちょっときてー」
陽介に呼ばれて洗い物の手を止める。
リビングに行くと、陽介はソファーのクッションをどけて何かを探している様子だった。
「あれさあ、テレビのリモコン、どこに置いた?」
沙月は濡れた手を拭いて、テレビ台の端に置いたリモコンをとってやる。
「使ったらここに戻そうって、こないだ決めたでしょ」
「あー、そうだった、ごめんごめん」
リモコンを受け取った陽介はソファにごろりと寝そべる。
「あ、洗い物の途中だった? 手を止めさせてごめんな」
そう言いながら野球中継をつける陽介を見て、沙月の中に小さな棘が生まれる。
だけど、薔薇一本に値するほどの痛みはない――
ある日、沙月は陽介の親族の集まりに連れてこられた。
名目は“陽介の曽祖母の13回忌”。
沙月にとっては一度も会ったことのない人物だし、集まるのも親戚のごく一部だけという、こじんまりとした食事会だったのだが。
食事会の間中、沙月は“子供の頃から陽介を可愛がっているおじちゃん”にずっと絡まれていた。
「何、陽介ちゃん、こんな美人さんのお嫁さんもらったの!」
酒も入って上機嫌な“おじちゃん”は、大喜びで小さい頃の陽介がいかに可愛かったかを、沙月に延々と語って聞かせた。
それ自体は不快ではない。
むしろ沙月は、陽介がおねしょがなかなか治らなかったことや、初めてカエル取りに行って田んぼに落ちた話などを、微笑ましい気持ちで聞いていた。
さらに酒が進んだおじちゃんは、馴れ馴れしく沙月の肩を叩いて、上機嫌で言った。
「俺から見ても陽介はいいやつでさ、優しいでしょ」
「まあ、そうですね」
「浮気はしない、変な遊びもしない、嫁さんを大事にする男だと思うよ、俺が保証する!」
親戚が集まる宴席で、しかも酔っ払い相手に小さな不満を告げ口しない程度の分別が、沙月にはある。
「そうですね、大事にしてもらっています」
「そうでしょうそうでしょう、どう、ちゃんと仲良くやってるの?」
「ええ、まあ」
「そっか、じゃあ、赤ちゃんも、もうすぐかな」
ちくり。
言語化する必要すらないほどの、小さな小さな棘が沙月の中に生まれる。
「陽介はねー、あれはいいお父さんになるタイプだと思うよー、ほら、今時の親って子供を虐待して死なせちゃったりするじゃない、ああいうことは、うちの陽介は絶対にしないね!」
「ハハ……そうですね」
沙月は、愛想笑いでその場をやり過ごした。
やがてお開きになって、帰りの車の中で、助手席に座る陽介はやたらと上機嫌だった。
「いやー、うちの親戚みんな、君のこと褒めてたよ」
「そう」
「特におじちゃんなんかさ、嫁さんが美人だから、可愛い娘が生まれるぞ、子作り頑張れよーって」
心を突く棘を無視することは、もうできなかった。
「私のいないところで、そんな話をしていたの?」
「ん、なに、どしたの、なんか不機嫌?」
陽介は一瞬だけ驚きに目を見開くが、次の瞬間には何に納得したのか「あー」と声をあげて深く頷いた。
「わかる、こういう話題ってちょっとセクハラっぽいよな、でもおじちゃんには、そういうエロい意図はないと思うぞ」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうことだよ」
「それは……」
棘は確かに心に刺さっている。
だが、それを表す言葉がない。
「それは……」
沙月は口を閉ざした。
そんな沙月を見た陽介は、どうやら機嫌を取ろうと思ったらしい。
ちょっとおどけた口調で言う。
「帰り道にさ、コンビニあっただろ、そこに寄って、何か甘いものでも買おう。今日は俺の奢りってことで、どうよ?」
しかし沙月は、極力平静に聞こえるように声音を取り繕って答えた。
「ううん、大丈夫、ちょっと行きたいところがあるから、まずはあなたを家まで送るわね」
「ええっ、やっぱり不機嫌?」
「違うって、本当に、不機嫌なわけじゃないから、気を遣ってくれてありがとね」
「うん、そう? じゃあいいか」
陽介を自宅の前まで送った沙月は、そのままカウントダウンクラブに向けて車を走らせた。
言語化できない、小さな棘を胸の中に抱えたままで。
外観だけボロボロなビルの三階、“事務室”の幾つかスチールデスクの並ぶ“事務所”の一番奥に座っていた遥子は、入ってきた沙月を見て深く頷く。
彼女は何かを尋ねることも、ましてやここにきた理由を聞くようなこともなかった。
「お茶を用意するわ、あとはケーキがあるんだけど、食べる?」
その態度には、逆に沙月の方が戸惑いを感じるほどだ。
「あの、私……」
「なあに?」
「嫌なことが、あって、その」
「あらあら」
「でも、薔薇を置いていいのかどうかわからなくて……」
「だったらまず、お茶を飲みましょう」
「えっ」
「大丈夫、あなたのお話はちゃんと聞くわ、でも、急いできたから喉が渇いているでしょう?」
「それは……はい」
「さ、こちらへいらっしゃい」
沙月が通されたのは、前回と同じ“相談室”だった。
マダムは沙月と対面に座り静かに微笑む。
だが沙月は、ここにきて「人様に話して聞かせるほどの出来事があっただろうか」と思い始めていた。
“おじちゃん”が話していたことは、どこの親戚の集まりでもありがちな、身内の親しさゆえの言葉ばかりだ。
それに腹を立てている自分の方が狭量なのでは?
沙月はガバッと立ち上がる。
「ごめんなさい、勘違いでした、今回は薔薇はいりません」
だがマダムは、そんな沙月に向かって優雅に片手を掲げて、彼女を引き留める。
「まだよ、まだ帰っちゃだめ」
「え、でも、私の勘違いだったってことで……」
「そうじゃないわ、まだケーキが来ていないでしょ?」
「ケーキ……」
その時、相談室のドアが開いて、ケーキの乗った皿を片手に掲げた若い女性が部屋に入ってきた。
「どもー、ケーキお届けですー」
沙月は、その女性を見た。
化粧っ気のない素朴な顔立ち。
着ているものも洗いざらしたジーンズに簡単なロゴが入ったシンプルなTシャツという素朴さ。
童顔であることもあいまって、一見するとアルバイトの大学生かと思うような、そんな女性である。
だが、遥子は彼女をこう呼んだ。
「先生、よかったら一緒にお茶して行かない?」
「先生? なんの?」
「うちの顧問弁護士の加藤木美沙先生よ、だから先生って呼んでるの」
ケーキの皿を置きながら、先生こと加藤木美沙は軽口を叩く。
「なんすか、マダム、弁護士が必要になるような難しい話するつもりですか」
「違うわよ、彼女と歳が近い“友人”気分で聞いてあげてちょうだい、ほら、私は年上だから」
「私に言わせりゃ、マダムは乙女枠ですけどね」
「ま、お上手。でも、いいから座って」
加藤木を隣に座らせてから、遥子は姿勢を正して沙月を見た。
「まずはあなたの話を聞かせて。私は聞くだけだど、大丈夫、ちゃんと全部聞いてあげるから、落ち着いて話しなさい」
カシュー塗りのセンターテーブルの上には白い生クリームのケーキ。添えられた紅茶はコクの強いアッサム。向かいに座るのは黙って紅茶を飲みながら話を聞いてくれるマダムと、ケーキに夢中ではあるが優秀そうな弁護士先生。沙月の口も軽くなる。「それで、私のいないところで私の体の話を、勝手に話されていたのが嫌だなって、そう思ったんだと思います」親戚の集まりでのできごとを話し終えた沙月は、冷めた紅茶を一息に飲み干した。クセの強い香りが鼻腔から抜けて、思考が冷やされる。途端に恥ずかしさと後悔が込み上げてきた。「あの、でも、私が気にしすぎてるってのもあるんです、“結婚したら赤ちゃん”って、親戚なら普通にする話題だと思うし……」ケーキを食べ終えた美沙が、ふっと口をひらく。「いや、それ、セクハラですね」沙月はますます萎縮する。「そんな大袈裟な話じゃないんです」「や、別にセクハラだから訴えろとか言ってないですよ、定義としてはセクハラにあたりますってだけで」遥子がふんわりと嗜める。「先生、言い方」「イヤ、だって、そのおじさんの言葉は性的な発言にあたるでしょ」「今は法律の話をしているんじゃないわ、そうね……あなたはどう思ったの?」急に話を向けられて、沙月は少し戸惑った。「え、わ、私……多分、嫌だった?」「おじさんの言葉が?」「違う……ような気もします」「じゃあ、旦那さん?」「それも、違うような……」沙月はしばらく考え込んだ後、静かにつぶやいた。「嫌な気持ちになったことは確かですが、だからって、“原因はこれ”って言葉にできるようなものは何もなくて……」「でも、嫌な気持ちになったのでしょう?」「こんなの、ただのわがままですよね」「そんなことはないわ、場の空気を壊さないために、その気持ちを飲み込んで穏便に済ませたのでしょう?」「そんなの、大人として当たり前のことですよ」「ええ、その通りよ、でも……」遥子が片手をあげると、美沙は部屋の隅から花瓶を引っ張り出してきた。そこには色とりどりのバラが。「飲み込んでしまった言葉の代わりに薔薇を。それがここのルール」美沙が花瓶から何本かの薔薇を引き抜いた。「何色にします〜? 私のおすすめは怒りの赤! キモいおっさんなんかぶっ飛ばせですよ!」「先生、それを決めるのは彼女自身、それもここのルールでしょ
それからしばらく、沙月は穏やかに暮らしていた。「沙月〜、ちょっときてー」陽介に呼ばれて洗い物の手を止める。リビングに行くと、陽介はソファーのクッションをどけて何かを探している様子だった。「あれさあ、テレビのリモコン、どこに置いた?」沙月は濡れた手を拭いて、テレビ台の端に置いたリモコンをとってやる。「使ったらここに戻そうって、こないだ決めたでしょ」「あー、そうだった、ごめんごめん」リモコンを受け取った陽介はソファにごろりと寝そべる。「あ、洗い物の途中だった? 手を止めさせてごめんな」そう言いながら野球中継をつける陽介を見て、沙月の中に小さな棘が生まれる。だけど、薔薇一本に値するほどの痛みはない――ある日、沙月は陽介の親族の集まりに連れてこられた。名目は“陽介の曽祖母の13回忌”。沙月にとっては一度も会ったことのない人物だし、集まるのも親戚のごく一部だけという、こじんまりとした食事会だったのだが。食事会の間中、沙月は“子供の頃から陽介を可愛がっているおじちゃん”にずっと絡まれていた。「何、陽介ちゃん、こんな美人さんのお嫁さんもらったの!」酒も入って上機嫌な“おじちゃん”は、大喜びで小さい頃の陽介がいかに可愛かったかを、沙月に延々と語って聞かせた。それ自体は不快ではない。むしろ沙月は、陽介がおねしょがなかなか治らなかったことや、初めてカエル取りに行って田んぼに落ちた話などを、微笑ましい気持ちで聞いていた。さらに酒が進んだおじちゃんは、馴れ馴れしく沙月の肩を叩いて、上機嫌で言った。「俺から見ても陽介はいいやつでさ、優しいでしょ」「まあ、そうですね」「浮気はしない、変な遊びもしない、嫁さんを大事にする男だと思うよ、俺が保証する!」親戚が集まる宴席で、しかも酔っ払い相手に小さな不満を告げ口しない程度の分別が、沙月にはある。「そうですね、大事にしてもらっています」「そうでしょうそうでしょう、どう、ちゃんと仲良くやってるの?」「ええ、まあ」「そっか、じゃあ、赤ちゃんも、もうすぐかな」ちくり。言語化する必要すらないほどの、小さな小さな棘が沙月の中に生まれる。「陽介はねー、あれはいいお父さんになるタイプだと思うよー、ほら、今時の親って子供を虐待して死なせちゃったりするじゃない、ああいうことは、うちの陽介は絶対にしないね!」
“相談室”の奥にある扉を開けると、そこは相変わらず、バラで埋め尽くされていた。誰かの激しい怒りを吸い上げたような真紅の薔薇。恋を弔う祭壇に似た白い薔薇。深い悲しみを抱え込んだみたいに俯く黄色の薔薇。この深い感情の中に、曖昧で不確かなピンクのバラを、果たして置いてもいいものなのか——手の中のバラをくるりと捻りながら佇む沙月に、遥子は静かな声で聞いた。「どうしたの?」「私なんかが、バラを置く資格があるのかなって……」「どうして?」「冷静に考えてみると、夫は別に悪いことなんか一つもしていないんです、私が勝手に苛立っただけで……」「そう、あなたはそう思ったのね」沙月は、ふと目についた花瓶をじっと見つめた。そこには赤いバラがこぼれ落ちそうなほどにいけられている。「……私の結婚は……恵まれている方だと思うんです、だから……」遥子は少しだけ首を傾げる。「それ、誰に言われたの?」「何を……ですか?」「恵まれた結婚生活だって、誰かに言われたんでしょ」「……母に、私の母の方です」「なるほどね、それに、あなた、旦那さんの愚痴を誰かに聞いてもらうと『惚気ですか』って嫌味言われることが多いんじゃなくて?」「なんでわかるんですか」「ふふふ、経験則よ」遥子は、茶目っ気たっぷりにパチンとウインクする。「ねえ、気づいてる? あなた、“不幸じゃない”っていうけれど、“幸せだ”って一回も言っていないのよ」沙月は答えを返すことができなかった。ただ喉の奥で「あっ」と驚きの声をあげるのが精一杯。「それに、不幸じゃないからって痛みがないわけじゃないでしょ?」バラを握る手がわずかに震える。「そうですね……」「じゃあ、バラを置く資格はあるわ、さあ」遥子は空の花瓶の前に、沙月を押しやった。沙月は手の中のバラをキュッと握りしめる。小さな——だが確かな痛みが手のひらの中にあった。「なあに? その痛み、まだ無視するつもり?」言われて沙月は、バラを握りしめていた手をそっと開いた。中指の付け根近く、手のひらの端に小さな傷がついている。「無視しちゃ、ダメですか、やっぱり」「いいえ、そんなことはないわ、それを選ぶのはあなた。自分がしんどくないのならば、無視し続けるのも一つの選択よ」沙月は、ぽろりと涙を一つこぼした。「しんどい……しんどいです。喧嘩をせず
沙月は、持ち帰った薔薇を100円均一で買ったそっけない一輪挿しにいけて、出窓に飾った。夫である陽介は、「へえ、珍しいことをするね」と笑った。悪意からではない。単なる夫婦のコミュニケーションとしての、さりげない会話のつもりだろう。それは沙月もわかっているのだが……「君もようやく女性らしい情緒というものを理解したんだね」「大袈裟ね、花を一輪飾っただけじゃない?」「いやいや、君さあ、花なんて食べられるわけでもないし、資産価値があるわけでもないし、買うだけ無駄だって言ってたじゃない」「ああ、言ったこと、あったかも……」沙月はそっと薔薇に触れる。たった一本残された、あの棘を指先で探す。ちくりと小さな痛みが走った。だが、血が流れるほどじゃない。思えば結婚生活は“お互い様”。時には沙月が彼の棘になることだってあるはずだ。だけど彼も、そうした小さな棘を飲み込んでくれている。円満な家庭とは、そうした思いやりで出来上がってゆくもの――沙月がふと顔を上げると、夫は邪気のない笑みを浮かべていた。「なんか疲れた顔してるなあ、いいよ、今日は手伝うよ、何をすればいい?」そう言ってくれる夫は優しいと思う。ルックスも整っているし、仕事だって大手企業のエリート社員という将来を約束された立場であり、収入も安定している。身持ちが固くて真面目だから、浮気をするようなこともないだろう。だから沙月は、自分は幸せな結婚をしたのだと、常日頃から思っている。少なくとも、世間で見るような“離婚するほど不幸な結婚”をした女性よりもよほど幸せなのだと。だから、多少の痛みは……「そうね、とりあえずお風呂を洗ってきてくれると、助かるかなあ」「よし、任せてくれ、ピカピカにしてやるよ!」陽介は張り切って腕を捲り上げると、風呂場に向かった。沙月はその間に洗濯を取り込み、天日でカラッと乾いた足拭きマットを持って脱衣所に向かう。浴室の扉越しに、少し調子のはずれた鼻歌とシャワーの音が聞こえた。「ねえ、足拭き、持ってきてないでしょ」「ん、あー、忘れた」「ここに置いておくから、ちゃんと足拭いて上がってきてね」「わかったー」この間に食事の支度を済ませてしまおうと、沙月はキッチンに立つ。「豆腐があったわね、麻婆豆腐にしようかしら」レトルト調味料を取り出したところで、お風呂場か
沙月が案内されたのはビルの二階、『相談室』と呼ばれる応接室だった。壁は落ち着きのあるアイボリー、窓は広くて部屋の中は明るい。座り心地を重視した座面の広い応接ソファと、それに揃いの小さなテーブル。観葉植物もいくつか置かれて癒しを意識した空間だ。だがソファに座った沙月は、少しも癒されることなどなかった。手にした薄桃色のバラを所在なく撫で回しながら、ポツリと呟く。「これ、生花ではないんですね」手触りでわかる。その薔薇は防腐処理をされたプリザーブドフラワーだ。沙月の対面に座る遥子は、相変わらず落ち着きのある笑みを浮かべて答える。「そうね、誰にも言えずに飲み込んだ言葉は枯れるわけじゃない、ただ日常という花束に紛れて誤魔化されてしまうだけ、だから」「飲み込んだ言葉、ですか」「あるでしょ、一つくらい。例えば『お皿くらい洗って』とか、『靴下を裏返しで出さないで』とか」「いえ、うちの夫は家事は手伝ってくれますし、きちんとした性格なので靴下は表に返して脱ぎますから」「んもう、そうじゃなくって、例え話よ、これ。そういう、小さい不満を飲み込んで我慢したことがあるでしょって話よ」「小さな不満……」沙月は手の中にあるバラに視線を落とす。思い浮かぶのは、今朝の出来事――沙月の夫、早坂陽介はトーストを齧りながらなにげなく言った。「仕事、いつ辞めるんだ」まるで辞めることが決定事項であるような言い様に、わずかな苛立ちが心中に湧く。それでも沙月は、(彼に悪気はないんだから)と苛立ちを飲み込んで、にっこりと微笑んだ。「それは、この間も話したでしょう、辞めるつもりは、今のところないって」陽介と結婚して二年目、義母からも「赤ちゃんはまだなの」と何度も聞かれている。生活も落ち着いたし、そろそろ子供を持つことを考え始めてはいるが、だからといって仕事を辞めようとまでは考えていない。「うちの事務所は小さいけれど、産休制度もしっかりしているし、もし辞めるにしても実際に妊娠してから様子を見て、って話だったでしょ?」「そうだっけ? あー、そうだったかも」夫に悪気があるわけではないことはわかっている。わかってはいるが、真剣味のかけらもなくヘラヘラと笑っている様子に、沙月の苛立ちはさらに募ってゆく。「でも、どうせ辞めるなら遅いか早いかだけの問題だろ、ウチの母がいうにはさ
………………………………離婚するほど不幸なわけじゃない——そう思って飲み込んだ言葉に、薔薇を一本。九十九本目までは、あなたの物語。百本目からは、私たちの出番。ようこそ、離婚互助会カウントダウンクラブへ。………………………………沙月に“カウントダウンクラブ”のことを教えてくれたのは、離婚経験のある女友達だった。「これ、知ってる? 離婚互助会って呼ばれてるんだけど」そんな言葉と共に手の中に押し込まれたのは、一枚の小さなカード。沙月はそれを押し返そうとした。「でもね、別に私、離婚したいわけじゃないのよ」それでも友人は、小さなカードを引っ込めようとはしない。「わかってる、離婚しろっていってるんじゃないの。でも、ここ、結婚生活の愚痴を聞くだけとかもやってるから、ね」沙月は結局、カードを押し返すことができず、それを受け取ってハンドバッグの底に押し込んだ。それが三ヶ月前――捨てたつもりだった。だけど三ヶ月たったいまも、カードはハンドバッグの底に残っていた。書かれている住所を頼りに訪ねてみれば、そこにあったのは、小さくて古いビルだった。元は雑居ビルだったのか、壁には破れた看板がいくつか張り付いている。沙月は握りしめたカードに目を落とす。「ちょっと、詐欺っぽい……」だが友人は「ここで世話になった」と言っていた。彼女を信じて、せめて中に入るくらいは……そう思って、恐る恐る中に足を踏み入れた沙月は、驚きの声を上げる。「内装には力を入れているのね」一階のエントランスは真新しい真っ白なタイルが貼られて、明るく清潔感に溢れる空間にリフォームされていた。特徴的なのは、エントランスの真ん中に置かれた大きな花瓶のオブジェ。そこには色とりどりのバラが生けられて、無機質なほど真っ白な空間に彩りを添えている。奥にあるエレベーターも、眩しいほど磨き上げられた銀色の扉に傷ひとつない、新しいもの。つまりボロボロなのは仮の姿、中身はすっかり最新式の建物なのがこのビル。「なぜこんな手間を? 一度取り壊して建て替えた方が安く済むでしょうに」壁をまじまじと眺めながらつぶやく沙月の背後で、突如、声がした。「それはね、ここが秘密基地だからよ」「だれっ?」振り向くとそこには、細身のレディススーツに軽いカーディガンを羽織った初老の女性が立っていた。丁寧に手入







