LOGIN「卑怯者!意気地なし!」彼が口を開くより早く、鹿耶はたまらず声を荒げた。「なんであの時、あたしの質問に答えてくれなかったのよ!」怒鳴った拍子に、彼女の目尻がうっすらと赤く染まる。あの日からずっと、彼の本当の気持ちが分からなくて、ぐるぐると同じことばかり考えていた。今日も一日中ぼんやりしていて、気付けば無意識のうちに車を走らせ、ここまで来てしまっていたのだ。「鹿耶……違うんスよ。答えたくなかったわけじゃなくて、なんて言えばいいか分からなかっただけで……」七緒はしゅんと肩を落とすと、空のグラスを引き寄せ、温かいお湯を注いで彼女の前にそっと置いた。鹿耶は湯気を立てるグラスを睨みつけ、さらに追及した。「じゃあ、なんであの日、突然現れて『別れろ』なんて言ったの?」七緒の指先がピクリと震える。彼はグラスから手を離し、視線を泳がせながら言った。「だって、オレたちもう……あんな風に、その……」しどろもどろになりながらも、彼は絞り出すように続ける。「オレたち、もうそういう関係になったじゃないッスか。お前はオレのもので、オレもお前のものってことだろ……?」「……それって、あたしのことが好きだから?」その直球すぎる問いに、七緒はハッと顔を上げ、言葉を失ったように彼女を見つめ返した。またしても押し黙ってしまった彼を見て、鹿耶は小さく首を振った。「あの時と同じよ。責任を取りたいからそう言ってるの?それとも……あたしを好きだから?」長い沈黙が落ちた。ああ、やっぱりダメなんだ。鹿耶が胸の奥で諦めの息を吐き、席を立とうとしたその時――彼が急に口を開いた。「待って、鹿耶、行かないでくれ!」七緒は身を乗り出し、切羽詰まった声で言った。「オレ……正直、これが『好き』って感情なのか、よく分かんねえんス。でも、お前の顔が見えないと、今何してるかなってずっと気になって……夜も眠れないくらい、お前のことばっか考えてて。それなのに、いざこうして目の前にすると、頭ん中でぐるぐる考えてた言葉が全部吹っ飛んじまうんスよ!」必死な彼の顔を見て、鹿耶は思わずコクンと頷いた。彼の不器用な思いは、痛いほど伝わってきた。すると、七緒は真っ直ぐに鹿耶の瞳を見つめ返し、いつものおどけた響きを一切捨て去ると、いつになく真剣な低い声で告げ
「……みーちゃん」灼也はふいっと水琴から目を逸らし、どこか苦しげな声で言った。「俺は、知らないよ」灼也のその痛ましげな表情を見ただけで、水琴には大半の事情が読めてしまった。彼がこれ以上何も語ろうとしないこと自体が、何よりの「真実」なのだ。彼が話したくないのなら、水琴もこれ以上無理に問い詰める気はなかった。「……答えたくないなら、もう聞かないわ。でもね、高遠さん。私は絶対に諦めないから」真っ直ぐに彼を見据え、毅然とした声でそう告げる。前回の写真の件といい、今回のブレスレットの件といい、水琴はすでに自分の記憶に対して深刻な疑念を抱いていた。だが、灼也は絶対に教えてくれないだろう。であれば、突破口はもう一人しか残されていない。紗音だ。後日。水琴は紗音の元を訪れ、例のブレスレットを見せた。しかし、紗音にとってもそれは全く見覚えのない代物だった。「水琴お姉ちゃん、それって店員さんの勘違いじゃないかな?だって、名前の苗字しか聞いてないんでしょ?高級ブランドの店員さんが、そう簡単に個人情報を教えてくれるなんておかしいよ」水琴は小さく頷いた。確かに紗音の言う通りだ。水琴自身も、その可能性は考えていた。だが、ここ最近自分の身の回りで起きている奇妙な出来事は、それだけではない。ぐちゃぐちゃに欠落した記憶。重人お兄ちゃんや灼也の不自然な反応。さらに言えば、あの琉里でさえ、私が忘れている「何か」を知っている素振りを見せていた。私だけが深い森の奥で、濃霧に包まれて迷子になっている。真実を知りたくて必死にロウソクに火を灯そうとするのに、いつも誰かに横からふっと息を吹きかけられ、消されてしまうのだ。「水琴お姉ちゃん、あんまり過去のことばっかり気にしちゃダメだよ。はっきりとした証拠が出るまでは、どれもただの推測でしかないんだから。……この前、わたしの潜在意識の中でお姉ちゃんと兄様がデートしてたのだって、ただの幻かもしれないじゃない?」不安げな水琴を、紗音は優しく慰めてくれた。水琴はふっと微笑み、紗音の前髪を愛おしげに撫でた。「紗音ちゃんったら、なんだかすごく理性的ね。いつもの紗音ちゃんらしくないわ」「えっへん! わたしはいつだってしっかり者だよ!」誇らしげに胸を張る紗音を見て、水琴はふと思いついたように
店長の提案など、今の水琴の頭には入ってこなかった。彼女の全神経は「灼也がこのブレスレットを買った」という事実に支配されている。「……いいわよ。でも、今は急用があるから一度持ち帰らせて。数日後にまた持ってくるわ」「かしこまりました!誠にありがとうございます、お客様!」店長が深々と頭を下げるのを背に、水琴はブレスレットを握りしめたまま、逃げるようにブティックを後にした。高遠グループ本社ビル。エントランスの受付で用件を伝えた水琴は、ロビーの来客用ソファに腰を下ろして灼也が降りてくるのを待っていた。今回は、いつものように強引に彼に会おうとはしなかった。今、彼女の頭の中はぐちゃぐちゃに混乱しており、どうやってこのブレスレットのことを切り出せばいいのか、自分でも整理がついていなかったからだ。五分も経たないうちに、専用エレベーターの扉が開き、灼也が足早にロビーへ姿を現した。グループのトップである彼が自ら一階まで迎えに降りてきたことに、受付のスタッフたちは「あのお客はいったい何者だ」と意味深な視線を水琴に向けている。社長室へ向かう道中、灼也と水琴の間には、冷え切ったよそよそしい空気が流れていた。気まずい沈黙を破ったのは、灼也の方だった。「急にどうしたんだ?」「……聞きたいことがあるの」水琴は前を向いたまま、氷のように冷たい声で短く答えた。灼也の後ろに続いて社長室のエリアに入ったその時だ。「灼也、どうして会議の途中で急に出て行っちゃったの?遠野さんがまだお待ちになってるわよ」甘ったるい声と共に、琉里が奥から姿を現した。しかし、灼也の後ろにいる水琴の姿を認めた瞬間、琉里の顔がぴたりと強張った。すぐに貼り付けたような愛想笑いを浮かべる。「あら、水琴さん。どうしてあなたがこんな所に?」水琴は冷ややかな目で琉里を一瞥すると、ゆっくりと口を開いた。「どうして私がいては駄目なの?ここは高遠グループのオフィスで、私は高遠さんに用があって来ただけよ。まさか、あなたにいちいち許可を取る必要があるのかしら?」「っ……!」琉里の顔から笑顔が剥がれ落ち、屈辱に歪んだ。これまで大人しい女だと思っていたのに、まさかこんなに鋭く言い返してくるとは思わなかったのだろう。灼也は氷点下の眼差しを琉里に向けた。
温かな記憶が蘇るたびに、胸を抉られるような痛みがシルクの糸のように絡みつき、彼女を締め上げた。このドアを開ける限り、一生あの幸せだった過去の幻影に囚われ続けてしまう。水琴は逃げるように部屋を飛び出し、痛みを閉じ込めるようにドアを固く閉ざした。気を取り直して、自分の部屋へと向かう。前回は本に挟まっていた写真を見つけた後、本棚中の本をすべて振って確かめたが、二枚目は出てこなかった。今回はクローゼットの奥を探る。そこには、昔両親からプレゼントされた豪奢なジュエリーボックスが隠されていた。中には、母親から譲り受けたジュエリーの数々が眠っている。ふたを開けると、アンティークのバングルやネックレスが並んでいた。その一番下の引き出しを開けた時――水琴は、見覚えのない奇妙なブレスレットを見つけた。カルティエのロゴが刻印されたそれは、ところどころメッキが剥がれ落ちていた。この手の高級ジュエリーは、こまめに手入れをしなければすぐに本来の輝きを失ってしまう。冷たく暗いジュエリーボックスの中で、三年もの間放置されていたのだから無理もない。だが、水琴にはこのブレスレットに見覚えが全くなかった。……待って。突然、水琴は大きく目を見開いた。何故だろう。何か、とても重要なことを見落としている気がする。私は一体、何を忘れている?――そうだ。頭の中に閃いたのは、灼也の顔だった。彼も以前、水琴にカルティエのブレスレットを贈ってくれたことがあった。トレジャーホテルで初めて食事をした時だ。私の記憶が確かなら、このブランドのブレスレットを贈ってくれた人間は、高遠灼也ただ一人のはず。水琴はその色褪せたブレスレットをそっと拾い上げると、バッグの奥底にしまい込んだ。南鳥市へ持ち帰るためだ。一枚の写真の出所を追跡するのは雲を掴むような話だが、高級ブランドのブレスレットなら話は別だ。カルティエの最大の特長は、すべてのジュエリーに固有のシリアルナンバーが刻まれており、購入者の「身分証」のような役割を果たしていること。もちろん、この手のハイブランドは顧客のプライバシー保護を徹底している。正規のルートで問い合わせたところで、あっさりと顧客情報を教えてくれるはずがない。……情報を引き出すには、少し「裏の手段」を使う必要がありそうね。カルティ
佳乃はアクリル板の隙間から手を伸ばし、雅の震える手をギュッと強く握りしめた。「雅。お母様を、許してちょうだい」「……お母様?何を言ってるの?」背筋に冷たいものが走る。嫌な予感しかしない。そして、その予感は最悪の形で的中した。佳乃は涙声を装いながら、最も残酷な宣告を口にしたのだ。「ごめんなさい、雅……お母様とお兄様を許して。白妙山の事件は、あなたがやったと……このまま罪を被ってちょうだい」雅は目を見開いたまま、アクリル板の向こう側にいる母親を驚愕の面持ちで見つめた。今、この人は何と言った?自分の実の娘に向かって?「……お母様、何を言ってるの?白妙山の件を知ってるんでしょう!?なら、あれが私の仕業じゃないことだって分かってるはずじゃない!紗夜さんよ!あの女が私に全部罪を擦り付けたのよ!」必死に身の潔白を訴える雅に対し、佳乃は血走った赤い目で、口唇を震わせながら言った。「雅、鷹司家のために……堪えてちょうだい」「……は?鷹司家のため?」雅は乾いた笑いを漏らし、ぽろぽろと涙をこぼした。「つまり、私を犠牲にする気ね?水琴が決定的な証拠を見つけそうだから?紗夜さんを守るために、実の娘を差し出すって言うの!?」なんて滑稽なのだろう。お母様は私のことを一番に愛してくれている。どんな手を使ってでも助け出してくれるはずだと、本気で信じていた。この地獄のような場所で、何日も何日もボロボロになりながら待ち続けて、ようやく迎えに来てくれたと思ったら――差し出されたのは、蜘蛛の糸ではなく、首を括るためのロープだったのだ。佳乃は娘の涙を見ても、もはや揺らがなかった。背筋をピンと伸ばし、冷酷な決意を込めた瞳で雅を見据える。お腹にいる「跡取り孫」を思えば、娘の涙など安いものだった。「雅、あなたに決定権はないわ。あなたが今できる唯一のことは、白妙山の件をすべて自分の独断だったと自白することよ」「ふざけないで!私がやってないのに、どうして罪を被らなきゃいけないの!?お母様、最低よ……!たかがその女のお腹にいるガキのために、自分の娘を捨てるのね!」雅の瞳から、底知れない絶望と憎悪が迸った。こんなことなら、いっそ会いに来てくれなければよかった。こんなに残酷な言葉を、母親の口から直接聞かされるくらいなら。「雅、聞き
西嶺マーメイド・ランチでの出来事。水琴が無事に助け出された後、激怒した琉里は、水琴が乗っていたあの馬を買い取り……生きたままその皮を剥がさせた。白妙山の事件の後も、手はずを整えていた自分の部下たちを、半殺しになるまで痛めつけている。あんな残酷なマネ、私には絶対に耐えられない……!紗夜はゴシゴシと涙を拭い、スマートフォンをベッドの端に放り投げた。今、彼女が頼れるのはただ一人。夫である臣だけだ。実家に逃げ帰る前、姑の佳乃に向けて「ある物」をわざと目に付く場所に残してきた。そろそろ、彼女が見つける頃合いだろう。鷹司家、ダイニングルーム。夕食の席に、今日一日まったく姿を見せない紗夜のことが気になり、佳乃は臣に尋ねた。「ねえ、紗夜さんはどうしたの?今日は一度も顔を見ていないけれど」臣は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。「……実家に帰ってる」佳乃は臣の顔をじっと見つめ、念を押すように言った。「臣。あなたはちゃんと、紗夜さんを守り抜くのよ?」臣が力なく頷くのを見て、佳乃はひとまず安堵の息を吐いた。食後、リビングへ向かった佳乃は、ふとサイドボードの上に一枚の書類が置かれているのに気がついた。何気なく手に取って開いた瞬間、佳乃の目がカッと見開かれた。それは、紗夜の妊娠健診の報告書だった。しかも、お抱えのプライベートドクターが作成したもので、そこにははっきりと胎児の性別が記されていたのだ。佳乃はたった一目見ただけで、完全に理性を吹き飛ばされた。「臣っ!!」血相を変えて書斎へ駆け込んだ佳乃は、臣の目の前のデスクに、バンッ!と報告書を叩きつけた。「あなた、紗夜さんに冷たく当たったんじゃないでしょうね!?」「母さん?突然何を……俺は別に、そんなことしてないよ」「いいから!今すぐ月城家に行って、紗夜さんを連れ戻してきなさい!」佳乃は興奮で顔を紅潮させ、震える指で報告書をバンバンと叩いた。「あの子のお腹にいるのは……あなたの息子、鷹司家の由緒正しき跡取り孫なんだからね!!」臣は深く眉間を寄せ、重いため息をついた。そして、水琴から突きつけられた事実と、紗夜が泣きながら告白した「真実」を、ゆっくりと佳乃に打ち明けた。それを聞いた佳乃は、雷に打たれたように完全に硬直した。たっぷりと二
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「また
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し







