LOGIN佳乃はアクリル板の隙間から手を伸ばし、雅の震える手をギュッと強く握りしめた。「雅。お母様を、許してちょうだい」「……お母様?何を言ってるの?」背筋に冷たいものが走る。嫌な予感しかしない。そして、その予感は最悪の形で的中した。佳乃は涙声を装いながら、最も残酷な宣告を口にしたのだ。「ごめんなさい、雅……お母様とお兄様を許して。白妙山の事件は、あなたがやったと……このまま罪を被ってちょうだい」雅は目を見開いたまま、アクリル板の向こう側にいる母親を驚愕の面持ちで見つめた。今、この人は何と言った?自分の実の娘に向かって?「……お母様、何を言ってるの?白妙山の件を知ってるんでしょう!?なら、あれが私の仕業じゃないことだって分かってるはずじゃない!紗夜さんよ!あの女が私に全部罪を擦り付けたのよ!」必死に身の潔白を訴える雅に対し、佳乃は血走った赤い目で、口唇を震わせながら言った。「雅、鷹司家のために……堪えてちょうだい」「……は?鷹司家のため?」雅は乾いた笑いを漏らし、ぽろぽろと涙をこぼした。「つまり、私を犠牲にする気ね?水琴が決定的な証拠を見つけそうだから?紗夜さんを守るために、実の娘を差し出すって言うの!?」なんて滑稽なのだろう。お母様は私のことを一番に愛してくれている。どんな手を使ってでも助け出してくれるはずだと、本気で信じていた。この地獄のような場所で、何日も何日もボロボロになりながら待ち続けて、ようやく迎えに来てくれたと思ったら――差し出されたのは、蜘蛛の糸ではなく、首を括るためのロープだったのだ。佳乃は娘の涙を見ても、もはや揺らがなかった。背筋をピンと伸ばし、冷酷な決意を込めた瞳で雅を見据える。お腹にいる「跡取り孫」を思えば、娘の涙など安いものだった。「雅、あなたに決定権はないわ。あなたが今できる唯一のことは、白妙山の件をすべて自分の独断だったと自白することよ」「ふざけないで!私がやってないのに、どうして罪を被らなきゃいけないの!?お母様、最低よ……!たかがその女のお腹にいるガキのために、自分の娘を捨てるのね!」雅の瞳から、底知れない絶望と憎悪が迸った。こんなことなら、いっそ会いに来てくれなければよかった。こんなに残酷な言葉を、母親の口から直接聞かされるくらいなら。「雅、聞き
西嶺マーメイド・ランチでの出来事。水琴が無事に助け出された後、激怒した琉里は、水琴が乗っていたあの馬を買い取り……生きたままその皮を剥がさせた。白妙山の事件の後も、手はずを整えていた自分の部下たちを、半殺しになるまで痛めつけている。あんな残酷なマネ、私には絶対に耐えられない……!紗夜はゴシゴシと涙を拭い、スマートフォンをベッドの端に放り投げた。今、彼女が頼れるのはただ一人。夫である臣だけだ。実家に逃げ帰る前、姑の佳乃に向けて「ある物」をわざと目に付く場所に残してきた。そろそろ、彼女が見つける頃合いだろう。鷹司家、ダイニングルーム。夕食の席に、今日一日まったく姿を見せない紗夜のことが気になり、佳乃は臣に尋ねた。「ねえ、紗夜さんはどうしたの?今日は一度も顔を見ていないけれど」臣は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。「……実家に帰ってる」佳乃は臣の顔をじっと見つめ、念を押すように言った。「臣。あなたはちゃんと、紗夜さんを守り抜くのよ?」臣が力なく頷くのを見て、佳乃はひとまず安堵の息を吐いた。食後、リビングへ向かった佳乃は、ふとサイドボードの上に一枚の書類が置かれているのに気がついた。何気なく手に取って開いた瞬間、佳乃の目がカッと見開かれた。それは、紗夜の妊娠健診の報告書だった。しかも、お抱えのプライベートドクターが作成したもので、そこにははっきりと胎児の性別が記されていたのだ。佳乃はたった一目見ただけで、完全に理性を吹き飛ばされた。「臣っ!!」血相を変えて書斎へ駆け込んだ佳乃は、臣の目の前のデスクに、バンッ!と報告書を叩きつけた。「あなた、紗夜さんに冷たく当たったんじゃないでしょうね!?」「母さん?突然何を……俺は別に、そんなことしてないよ」「いいから!今すぐ月城家に行って、紗夜さんを連れ戻してきなさい!」佳乃は興奮で顔を紅潮させ、震える指で報告書をバンバンと叩いた。「あの子のお腹にいるのは……あなたの息子、鷹司家の由緒正しき跡取り孫なんだからね!!」臣は深く眉間を寄せ、重いため息をついた。そして、水琴から突きつけられた事実と、紗夜が泣きながら告白した「真実」を、ゆっくりと佳乃に打ち明けた。それを聞いた佳乃は、雷に打たれたように完全に硬直した。たっぷりと二
茂は観念したように、事の顛末をぽつりぽつりと語り始めた。一言一句すべてとはいかないが、大筋の記憶は鮮明だった。話を聞き終えた水琴は、面白そうに目を細めた。「つまり……息子さんの裕也さんは、紗夜さんのことが好きだったと?」茂は重々しく頷いた。「……誰にも言えない秘密でした。月城の令嬢はすでに鷹司家に嫁いでいますから。世間に知られれば、双方にとって致命的なスキャンダルになります」「それはそうでしょうね。でも、社長。あなたがこんな危険な橋を渡ったのは、本当に紗夜さんのためだけですか?」水琴は決して騙されない。紗夜という小娘一人の色仕掛けだけで、大槻グループという大企業全体を動かせるはずがないのだ。真の黒幕は、まだその後ろに隠れている。水琴の頭の中にはすでに一人の人物が浮かんでいたが、大槻家と音羽琉里がどう繋がっているのか、その確信だけが持てなかった。茂は水琴の鋭い視線から逃れるように目を逸らし、固い声で言った。「……話せることは、これですべてだ。これ以上のことは私には関係ない」水琴は静かに頷いた。これ以上追い詰めても、今は逆効果だろう。大槻グループの本社ビルを出た水琴は、ふっと口角を上げ、コートのポケットからボイスレコーダーを取り出した。先ほどの大槻茂との会話は、一言残らず録音してある。これを持って、重人お兄ちゃんのところへ行こう。一方その頃。第231号幹線道路を、紗夜の運転する車が弾丸のようなスピードで駆け抜けていた。アクセルを踏み込む足が、そしてハンドルを握る両手が、ガタガタと震えている。水琴が大槻社長の元へ向かったという情報は、すでに紗夜の耳にも入っていた。水琴は最初から隠す気などなかったのだ。いや、むしろ紗夜にわざと情報を流し、パニックに陥れることが目的なのだろう。そして事実、紗夜は極度の恐怖に苛まれていた。夫である臣との関係は、最悪とまではいかないまでも、あの告白以来ぎくしゃくしている。今はまだ臣も自分を警察に突き出してはいないが、もし水琴が決定的な証拠を突きつけてきた時、果たして彼が最後まで自分を守り抜いてくれる保証などどこにもない。這々の体で実家である月城邸に逃げ帰ると、両親は「また臣くんと夫婦喧嘩でもしたのだろう」と呑気に構えていた。自室に駆け込み、鍵をかけ
「……臣さん」紗夜の大きな瞳に、みるみるうちに涙が込み上げていく。彼女はひどく傷ついたような、庇護欲をそそる弱々しい表情で臣を見つめた。「まだ、あの事で怒ってるんだよね……」「…………」「分かってる。臣さんが私を責めるのは当然だよ。私が馬鹿な間違いさえしなければ、雅さんも、あんな遠い場所へ行かずに済んだのに……っ」ぽろぽろと涙をこぼし、紗夜はすがりつくように臣の胸に飛び込んだ。華奢な体が腕の中で小刻みに震えている。その可憐で痛々しい姿に、臣の胸の奥で燻っていた怒りや疑念が、急速に萎んでいくのを感じた。「ごめん、俺はただ……」弁解しようとする臣の言葉を遮るように、紗夜は首を振って彼にしがみつく。深く、重いため息を一つ吐き出すと。臣は結局、己の弱さに負けるように、すがりつく紗夜の体をそっと抱きしめ返したのだった。大槻グループ本社ビル。洗練されたオフィスカジュアルに身を包み、ハイブランドの新作バッグを肩にかけた水琴がエントランスに足を踏み入れた。目元を隠す大きなサングラスが、彼女のミステリアスな雰囲気をより一層際立たせている。エレベーターホールへ向かおうとしたその時、慌てた様子の受付嬢が立ち塞がった。「お客様、恐れ入りますがどちら様でしょうか?」水琴はゆっくりとサングラスを外し、誰もが息を呑むような端正な顔立ちを覗かせた。「大槻社長にお会いしたいの」「申し訳ございません。お約束はいただいておりますでしょうか?」水琴は小さく首を横に振った。「今の大槻グループに、飛び込みの来客を断るほどお忙しい用事なんてないはずよ。社長に『静沢水琴が来ている』と伝えてちょうだい。必ず通すはずだから」その名前を聞いた瞬間、受付嬢の顔色が変わった。慌てて内線電話をかけ、数分後にはペコペコと頭を下げながら、水琴を社長室直通のエレベーターへと案内した。重厚な扉を開けて社長室に入ると、執務デスクの向こう側に初老の男が座っていた。大槻グループのトップ、大槻茂(おおつき しげる)だ。息子の裕也が引き起こした数々のトラブルのせいだろう。たった数日見ない間に、彼の側頭部には白髪が目立ち、目の下には濃い疲労の隈が刻み込まれていた。「大槻社長」水琴は形式的に声をかけると、返事も待たずに、来客用の高級ソフ
女がまともな会話を返してきたことに、雅は少しだけ拍子抜けした。ここにも普通の感性を持った人間がいるのか、と思ったその直後だ。女は突然、ガタンッと身を乗り出し、雅のトレーからフォークをひったくった。そして、そのフォークに向かって真剣な顔で囁き始めたのだ。「……おお、我が兄弟よ。恐れることはない、私が助けに来たぞ」女はまるで何かに取り憑かれたように、食堂中を練り歩きながら、他の患者たちのスプーンや箸にも必死に語りかけ始めた。「イカレてる……っ」雅はゾッとして呟いた。そうだ、ここは精神病棟なのだ。一見まともに見える人間こそが、一番狂っている。夕食の時間は、各病室での配膳だった。雅はベッドの端にちょこんと座り、自分のプラスチックの器を所在なく握りしめていた。看護師がドアを開けて入ってきた、その背後。見覚えのある影が、ふらりと病室に滑り込んできた。昼間、食堂でフォークに話しかけていたあの女だった。なんと、同じフロアの患者だったらしい。「出てって!早く私の部屋から出ていきなさいよ!」今はフォークすら持っていないのに、どうして絡んでくるのか。雅は半狂乱で叫んだ。看護師がため息をつきながら女を連れ出したが、雅の心臓は激しく嫌悪に波打っていた。出された夕食に目を落とす。味のしない茹でただけのじゃがいもに、ドロドロに煮込まれた青菜。鷹司家で贅を尽くした食事をしてきた雅にとって、それは人間の食べ物とは思えなかった。こんなもの、どうやって飲み込めというのか。抗議しようと看護師を睨みつけたが、彼女は冷ややかな目を向けるだけで、相手にもしてくれなかった。そして、本当の地獄は夜に訪れた。消灯時間を過ぎ、深夜の零時を回った頃。フロアのどこかの病室から、突如として奇声が上がった。それを合図にしたかのように、あちこちの部屋から次々と、言葉にならない獣のような絶叫や泣き声が連鎖し始めたのだ。「あぁぁぁっ……!」鼓膜を突き破るような不気味な叫び声の合唱に、雅はベッドの上で丸まり、狂ったように両耳を塞いだ。叫び声が頭蓋骨に反響し、頭が割れるように痛い。二時間、三時間……地獄のような大合唱は延々と続き、雅の精神をゴリゴリと削り取っていった。やがて奇声が波のように引いていき、再び不気味な静寂が戻っ
水琴は気怠げに雅を上から下まで見分すると、ゆっくりとした口調で言った。「雅、自分が今どういう状況に置かれているか、誰よりもよく分かっているでしょう。このまま大人しく身代わりになるつもり?」雅は信じられないといった顔で彼女を睨みつけた。「あんたがそんな親切なこと、するわけないじゃない」「実際のところ、あなたと紗夜さんの背後にはもう一人いるはずよね。……琉里さんでしょう?彼女たちを庇い続けて、結局あなたはどうなったの?」水琴は冷ややかな笑みを浮かべる。雅の顔からすっと血の気が引いていくのが分かった。それでも、彼女はまだ強がって言い返した。「あんたに擦り寄ったところで同じよ。一難去ってまた一難、狼の巣から別の狼の巣に落ちるだけじゃない」「無駄話をしている暇はないの」水琴はピシャリと遮った。その瞳の奥に広がる底知れない冷たさに、雅は思わず背筋を凍らせる。「白妙山の件で実際に動いたのが紗夜さんだってことは分かっているわ。もっと詳しい情報が必要なの。さあ、話しなさい」氷のような眼差しに射竦められ、雅は小さく肩を震わせた。頭の中で必死に損得を天秤にかけ、ついに重い口を開く。水琴の言う通りかもしれない。どちらにせよ地獄なら、誰かの身代わりとして終わるのだけは絶対に嫌だった。以前、琉里がどのようにして自分を助け出したのか。そして、どうやって紗夜を琉里に引き合わせたのか。すべてを洗いざらい吐き出すと、水琴の顔に満足げな笑みが浮かんだ。「全部話してくれたのだから、あなたはもう、この拘置所にいるべきじゃないわね」雅の顔が引き攣った。水琴がこんなにあっさりと自分を許すはずがない。案の定、水琴は残酷な宣告を口にした。「ねえ、雅。あの時、自分がどうやって刑を逃れたか覚えている?あなたの精神鑑定書はまだ有効よ。あなたが本来いるべき場所は、精神科の閉鎖病棟でしょう」まるで世間話でもするかのような軽い口調に、雅は顔面を蒼白にさせた。「やめて!そんなこと絶対に許さない!」あんな場所に入れられたら、おかしな人間たちに囲まれて、毎日無理やり薬を飲まされる。絶対に嫌だ。前回は宗一郎お祖父様がなんとか助け出してくれたけれど、今回ばかりはもう、いくら泣きついても助けてはくれないだろう。水琴はすでに席を立ち上がっていた。
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だ
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「また
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず