INICIAR SESIÓN「……まさか、俺たちに流した情報は、本命から目を逸らすためのブラフだったってことか?」重人の問いに、水琴は静かに頷く。「ええ。彼が最初から狙っていたのは、松霧島ただ一つよ」あの老人がどうやってその国家機密レベルの報告書を手に入れたのかは分からないが、並々ならぬ執念だ。「だが、その松霧島は、どこの馬の骨とも分からない女に落札されてしまったじゃないか。惜しいことをしたな」と重人は少し残念そうに言った。しかし、水琴はクスリと笑って首を横に振った。「全然惜しくないわ」……オークションが終了し、参加者の大半が会場を後にし始めた頃。席を立とうとした水琴と重人の元へ、先ほど松霧島を落札した「会場の隅の女」がツカツカと歩み寄ってきた。彼女が顔を覆っていたマスクと大きめのサングラスをバサリと外す。重人は目を丸くして固まった。そこにいたのは、鹿耶だったのだ。「ミコト、さっきのあたしの演技、完璧だったでしょ?予算は百六十億までって言われてたけど、百四十億で落としてやったわよ。とびっきり豪華なディナー、奢りなさいよね!」得意げに胸を張る鹿耶に、水琴は優しく微笑み返した。「ええ、もちろんよ」その光景を後ろの席で見ていた琉里は、ガタッと音を立てて立ち上がり、愕然としていた。そんな……嘘でしょ!?少し離れた席では、同じく全てを悟った宝生会長が、氷のように冷たい目で水琴たちを睨みつけている。臣と紗夜もまた、顔面を蒼白にして立ち尽くしていた。この南鳥市のトップが集う大舞台で、自分たちが水琴の手のひらの上で踊らされるだけの滑稽なピエロだったのだと、今更ながらに思い知らされたのだ。中でも琉里が受けた衝撃は計り知れない。松霧島の競り合いが起きていたあの時、彼女は自分が半月島を手に入れたという勝利の余韻と、かすかな違和感の中で思考を停止させていたのだ。今の琉里の心境を例えるなら――垂れ下がってきた一筋の蜘蛛の糸にすがりつき、必死に登りきってようやく天国にたどり着いたと思ったら、足元で誰かが「ここは地獄だ」と囁いてきたようなものだ。この圧倒的な落差。完璧に愚弄されたという屈辱。琉里は今すぐにでも水琴に飛びかかり、その余裕めいた美しい顔をズタズタに引き裂いてやりたいほどの憎悪に駆られていた。だがその時、レ
しかし、琉里にはそんな番狂わせに構っている余裕はなかった。彼女の頭の中は、未だに先ほどの半月島のことでいっぱいだった。わからない……水琴が急に引いた理由はわからないけれど、でも、これで半月島は完全に私のものになった。それだけは事実よ……「百四十億、三回……決定です!松霧島はそちらのお客様に落札されました」三度目の小槌が鳴り響き、誰も見向きもしないはずだったあの小島は、会場の隅に座る女のものとなった。臣はいぶかしげに振り返り、その女の姿を目で追った。あの声……どこかで聞いたことがある気がするが……?記憶の糸をたぐるが、どうしても答えには結びつかなかった。オークションが閉幕に向かう中、水琴は静かに席を立ち、レストルームへと向かった。手洗い場で蛇口をひねり、冷たい水で手を洗っていると、背後からヒステリックな声が飛んできた。「どうして急に手を引いたのよ!おかげで私が翡翠島を高値で掴まされる羽目になったじゃない!私はあなたのために、あの島を釣り上げようとしたのに!」血相を変えた紗夜が、鏡越しに水琴を睨みつけている。水琴はふっと鼻で笑い、ペーパータオルで優雅に手を拭きながら振り返った。「紗夜さん、私があなたの立場なら、恥ずかしくてそんなセリフ吐けないわね。私が琉里さんに『翡翠島を狙っている』と伝えるように言ったはずだけど……あなた、本当にそう伝えたの?」「わ、私は……もちろんそう伝えたわよ」図星を突かれたのか、紗夜は明らかに動揺して一歩後ずさった「嘘ね。前の件があったから、少しは賢くなって私と協力する道を選ぶかと思ったけれど……どうやら、あなたを買い被りすぎていたみたい」水琴の表情がスッと冷たくなり、氷のような視線を浴びせる。そのまま相手にする価値もないとばかりに、背を向けて立ち去ろうとした。「待ってよ!じゃあ、あの翡翠島はどうすればいいの!?」納得のいかない紗夜が、すがりつくように水琴の腕を引っ張る。「笑わせないで。自分で落札しておいて、私にどうしろって言うの?私には一ミリも関係ないことよ」水琴は虫でも払うかのように、冷酷にその手を振り払った。「あなた……っ!」激しい怒りと屈辱で、紗夜はよろめき、その場に崩れ落ちそうになった。レストルームを出た水琴を待ち受けていたの
さすがの宝生会長も、この異常な高値にはお手上げだというように、ふうっとため息をついて首を振った。眉をひそめた重人が対抗しようとパドルに手を伸ばす。しかし、水琴はその手をそっと押さえ込んだ。「動かないで」重人は一瞬怪訝そうな顔をしたが、従妹を信じて黙ってパドルを下ろし、背もたれに寄りかかった。「百五十億、一回!」「百五十億、二回!」「百五十億、三回……落札です!」小槌が打ち鳴らされ、半月島の所有権は琉里の手に渡った。紗夜は目を剥いて水琴の背中を凝視した。ようやく、決定的な違和感に気づいたのだ。おかしい……もし水琴の言っていた通り、本当に新ルートが通るのが半月島なら、どうして彼女はあんなにあっさり引き下がったの?その違和感に気づいたのは、落札者である琉里も同じだった。小槌の音が響き渡り、勝利を手にしたはずなのに、じわじわと嫌な予感が胸に広がっていく。彼女は真っ先に隣の灼也を見たが、彼は何事もなかったかのように平然としている。違う……!私、何か重大なことを見落としてる!なぜ、水琴の顔に悔しがる素振りがない?なぜ、彼女は最後までこの土地を奪い合わなかった?たかが百五十億円。半月島は翡翠島の倍の面積がある。もし本当にここが新ルートの要所なら、あの女がたったこれだけの金額で諦めるはずがないのに――!「続きまして、松霧島(まつぎりとう)。スタート価格は六十億円、レイズは四億円となります」司会者の声に応じるように、宝生会長が真っ先にパドルを挙げた。「六十四億」紗夜はちらりと宝生会長を盗み見た。あの爺さん、しぶといわね。最初から手当たり次第に入札しては他人に持って行かれているのに、こんなちっぽけな島まで狙うなんて。一方の琉里は、未だに先ほどの異様な空気から抜け出せずにいた。なぜ……?どうして水琴は半月島をあっさり諦めたの?その思考のループから抜け出せない。紗夜も同じだった。水琴が絶対に半月島を落とすと言っていたはずなのに、どうして土壇場で引いたのか、まったく見当がつかない。「七十億!」会場の隅から、見知らぬ女性の声が響いた。宝生会長も負けじと声を張る。「七十二億」しかし、その女も引く気はないようだ。「七十六億!」二人の応酬が始まっても、会場の大半は気にも
琉里への復讐心に駆られた紗夜は、自分もその罠に加担しようとパドルを握りしめた。「もうやめろ」隣に座る臣が険しい顔で制止したが、紗夜の耳には届かない。水琴のターゲットはあくまで琉里だ。だから自分がここでレイズして煽れば、琉里は絶対にムキになってさらに高値を被ってくるはず――そう勝手に確信していた。紗夜は高々とパドルを掲げ、自信満々に叫んだ。「百二十四億!」その金額は、すでに翡翠島が持つ本来の価値を大きく通り越している。しかし、紗夜はそれに気づかないまま、琉里か水琴がさらに高値を叫ぶのを勝ち誇った顔で待っていた。ところが――水琴も、そして最前列の琉里でさえも、ピタリと動きを止め、それ以上パドルを挙げようとはしなかった。「百二十四億、一回!」「百二十四億、二回!」紗夜の額から、じっとりと冷や汗が吹き出した。嘘でしょ……?どうして?なぜ誰もコールしないの?「百二十四億、三回!決定です。おめでとうございます、鷹司夫人。翡翠島はあなたのものです」「え……?」司会者の声が響いても、紗夜はまだ事態を呑み込めず、頭の中が真っ白になっていた。わけもわからないまま、大赤字確定の不良物件を超高額で買わされてしまったのだ。「なんで……?」隣に座る臣がその場で激怒して席を立たなかったのは、せめてもの世間体に対する配慮だったのだろう。彼の横顔は怒りで引きつっていた。事態を察し、屈辱と怒りで顔を真っ赤にした紗夜が、水琴の背中を睨みつける。すると、水琴がゆっくりと振り返った。彼女の瞳には、冷たく、けれど心底おかしそうな嘲笑が浮かんでいた。ゾクッと、紗夜の背筋に氷のような悪寒が走る。――ハメられた。翡翠島の狂騒が終わり、オークション会場は嘘のように静まり返った。続く三つの土地――南西郊外の区画、凌東島、バートン島――は、それぞれ百億円、四十億円、九十億円で淡々と落札されていく。そして、次はいよいよ本命の半月島だ。少し弛緩していた会場の空気が、再びピンと張り詰めるのを水琴は肌で感じ取った。「集中しろよ」隣に座る重人が、水琴の耳元で小さく囁く。水琴は静かに頷き、最前列に座る琉里の背中へ視線を投げた。琉里も背筋を伸ばし、明らかに本気で競り落とす構えを見せている。水琴の胸の奥
彼は車の助手席から茶封筒を取り出し、水琴に差し出した。「これ、君に」「何、これ?」いぶかしげに受け取った水琴が封を切ろうとすると、灼也の大きな手が慌ててそれを遮った。「家に入ってから開けてくれ」その重々しい声のトーンと真剣な眼差しから、封筒の中身が極めて機密性の高いものだと察する。水琴は大人しく手を止め、そのまま無言で彼の横を通り過ぎようとした。しかし、数歩歩いたところでふと足を止める。振り返り、灼也の背中越しに短く告げた。「……半月島よ」その唐突な三文字を聞いて、灼也はわずかに眉をひそめた。「半月島?」「ええ」それ以上の説明は不要だった。これだけヒントを与えれば、あとは彼の明晰な頭脳が勝手に答えを導き出すはずだ。水琴は踵を返し、振り返ることなくマンションの奥へと消えていった。自室に戻るなり、ドアの鍵をしっかりと掛けた。灼也から渡された茶封筒の封を切り、中から慎重に書類を取り出す。その内容に目を通した瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれ、手先がかすかに震えた。これは……?土地競売の当日。華やかなドレスに身を包んだ水琴は、重人と共に会場へと足を踏み入れた。今日集まった人間の中で、本当に価値が跳ね上がるのが半月島であると知っている者が果たしてどれだけいるかは分からない。だが、静沢家としては何としてでもあの島を手に入れなければならなかった。今回のオークションでは、目玉である翡翠島や半月島の他にも、大小十数区画の土地が競りにかけられる。招待されているのは、南鳥市の経済界を牛耳る重鎮ばかりだ。座席は市内の勢力図をそのまま反映したような配置になっており、最前列には灼也と琉里がすでに腰を下ろしていた。水琴と重人はその後ろ、二列目の席へと案内される。すぐ後ろの三列目には、臣と紗夜の姿があった。席に着く際、水琴は紗夜と意味ありげに視線を交わした。最初に競りにかけられたのは長年放置されていた廃れた土地で、スタート価格も低く、たった一億円であっさりと落札された。そこから三つの土地が続いたが、水琴は一切見向きもしなかった。彼女の狙いは、最初からただ一つだけだ。やがて、スクリーンに『翡翠島』の文字が映し出されると、会場内にどよめきが走った。少し離れた席に座る宝生会長が、穏
土地の競売を明日に控え、水琴は紗夜と顔を合わせていた。前回の対峙を経て、紗夜の態度は一変していた。水琴に対する怯えはすっかり消え失せている。腹を割って全てを吐き出した今、最悪でも刑務所送りになるだけだと、妙な開き直りを見せていた。カフェの席に着くや否や、紗夜がアイスコーヒーを注文しようとしたため、水琴はすかさずそれを制止した。「妊娠中なら、冷たいカフェインは控えた方がいいわ。お水にしておきなさい」「……ありがとう」予想外の気遣いだったのか、紗夜は少しだけ目を丸くした。紗夜の目に映る水琴の瞳は、どこまでも澄み切っていて、かつての憎悪やわだかまりは微塵も感じられない。「私、水琴さんのこと誤解してたみたい」「何が?」今度は水琴がわずかに眉をひそめる番だった。「臣さんへのあの冷たい態度は、ただの強がりだと思ってたの。雅さんやお義母さんから、あなたの話はよく聞いていたから。臣さんのことを誰よりも深く愛していて、そう簡単に諦めきれるはずがないって。だから、どんなに冷たく突き放していても、あなたの心の中にはまだ彼の居場所が残っているんだって……そう思い込んでいた。でも、どうやら私の勘違いだったみたいね」紗夜はそう言って、自嘲気味にふっと笑った。その感傷的な言葉に、水琴は一切同調しなかった。そもそも、彼女と女子会のようなおしゃべりを楽しむためにここへ来たわけではない。無駄話をバッサリと切り捨て、単刀直入に本題へと切り込む。「明日のオークション、あなたと臣も参加するのよね?」紗夜は少し考え込む素振りを見せた後、静かに頷いた。「ええ。水琴さんも、どこか狙っている土地があるの?」水琴は短く肯定した。「翡翠島よ」「それもそうよね。今、南鳥市中の人間が、あの翡翠島を手に入れようと血眼になっているもの。聞いてるわ、宝生会長は今回、故意に地価を吊り上げるどころか、逆に想定価格から五パーセントも引き下げたそうじゃない。本当に、利益に執着しないお方なのね」紗夜は感心したようにため息をついた。水琴の瞳の奥で、鋭く冷たい光が瞬いた。「へえ。臣も翡翠島を狙っているのね」「ええ。新しい開発ルートがその島を通るって専らの噂よ」紗夜はうなずき、真剣な顔で説明を続ける。「もし翡翠島を落札できれば
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかっ
臣が呆然としていると、温かい手がそっと彼の手を握った。隣に座る紗夜が、心配そうに顔を覗き込んでいる。「臣さん、どうしたの?胃の調子でも悪いのかしら。スープでもいただく?」臣は力なく首を横に振った。水琴は宗一郎に笑顔で応えると、臣と紗夜のやり取りなどまるで存在しないかのように、静かに椅子を引いて腰を下ろした。その傍らで宗一郎が、見せつけるような二人の親密さに、侮蔑を込めてフンと鼻を鳴らした。鷹司家の食卓は、食事中の私語を許さない厳格な家風がある。水琴に食欲などあるはずもなく、ただ宗一郎の手前、仕方なく箸をつけただけだった。やがて食事が終わると、宗一郎が水琴を引き留めた。「臣と







