LOGIN紗夜の言葉は自責の念に溢れ、その顔はシーツと同じくらい蒼白だった。涙に濡れた痛々しい姿を見た瞬間――臣の胸の奥で、冷酷に徹しようとしていたはずの決意が脆くも崩れ去った。彼女は妊娠しているんだぞ……こんなに弱り切って、必死に謝っているじゃないか。かつての愛した女性の面影が重なり、どうしようもない甘さが顔を出す。彼は無意識のうちにベッドの縁に腰掛け、すっかり毒気を抜かれたように声を和らげた。「……もう泣かないでくれ、紗夜。俺は君を嫌いになったりしない。……俺が悪かった」その甘く優しい声を聞いた瞬間、紗夜は弾かれたように臣の胸に飛び込み、すがりつくように強く抱きしめた。彼の体温から、残された最後の温もりを貪るように。怖い……っ。もしこのまま刑務所に送られ、前科者になってしまったら。そうなれば、臣はもう二度と自分を愛してはくれないのではないか。その恐怖が、紗夜の心をどす黒く塗り潰していた。その時、病室の外から騒がしい足音と怒鳴り声が聞こえてきた。臣は慌てて紗夜の背中を支え、起き上がるのを手伝う。紗夜も急いで目元の涙を拭った。バンッと乱暴にドアが開けられ、血相を変えた月城雅彦と裕子がなだれ込んでくる。裕子は真っ直ぐベッドに駆け寄ると、邪魔だと言わんばかりに臣を力強く突き飛ばした。「紗夜!ああ、可哀想な私の娘!身重の妻を刑務所に放り込もうとするなんて、あんたの夫は血も涙もないのかしら!」裕子は紗夜を抱きしめながら、親の仇を見るような目で臣をキッと睨みつけた。続いて、雅彦が鉄のように冷たい顔で佳乃に向き直る。「佳乃さん。これは一体どういうことか、説明していただけますかな?なぜ健康だった私の娘が、突然腹痛を訴えて病院に運び込まれたのか。そして……入り口に張り付いているあの警察官どもは何の真似です?」佳乃がバツの悪そうな顔をして言葉に詰まっているのを見て、臣がすかさず間に入った。「お義父さん、お義母さん。警察が鷹司家までやって来て、逮捕状を突きつけてきたんです。容疑は……教唆および実行。これは重罪です」「お母さん、違うの!私、本当に何もやってない!」紗夜は裕子の手を必死に握りしめ、首を横に振った。「誰かを唆して犯罪を犯させるなんて、そんなことするわけないじゃない!本当に私じゃないの!」
二人がそんな話をしていると、個室のドアが開き、七緒と鹿耶が戻ってきた。二人の顔は揃ってほんのりと赤く上気している。「あら?」水琴は意味ありげな視線を二人へと向けた。「どうしたの、その顔。何かあった?」七緒はもう誤魔化すつもりはないのか、鹿耶の手をぎゅっと握りしめたまま、少し照れくさそうに宣言した。「水琴さん。オレと鹿耶、付き合うことになったッス!」「付き合うって……いくらなんでも展開が早すぎない?」水琴は目を丸くしてからかった。部屋を出てからまだ三十分も経っていないのに、一体どんな魔法を使えば急に恋人同士になるというのだろう。冗談めかして笑いながらも、水琴の瞳の奥には微かな懸念が過っていた。鹿耶はとても純粋で、真っ直ぐな子だ。対する七緒とは、こうして何度か顔を合わせているものの、彼の過去や本当の素性まで深く知っているわけではない。彼女がまた傷つくようなことにならないか、どうしても心配してしまう。鹿耶は恥ずかしそうにもじもじしながら水琴の隣に座ると、大人しく先ほどの薬膳スープの器を手に取り、口に運ぼうとした。「あっ、ダメッスよ」すかさず七緒がその手を止める。「もうすっかり冷めちゃってるッス。今、オレが新しいのを熱々で作ってくるから、ちょっと待ってて」そう言って、七緒は器を取り上げると、嬉しそうに足早に部屋を出て行った。残された鹿耶は水琴の方を向き、照れ隠しのようにえへへと笑った。「実はね、さっき……」――三十分前。休憩室で七緒に退路を塞がれた鹿耶は、ポツリポツリと本音をこぼした。「……何が怖いんだよ」問い詰められた彼女は、首を横に振って叫ぶように言ったのだ。「だって!もしあんたのこと好きになっても、あんたがあたしのこと好きじゃなかったら、あたしすっごく惨めじゃん!だから、念のために距離を置こうと思って……っ」その言葉を聞いた瞬間、七緒は肩の力を抜いて、ふきだすように笑い声を上げた。「ばーか」彼は大きな手で鹿耶の頭をぽんぽんと撫で、いつものおどけた調子ではなく、甘く低い声で囁いた。「それなら、オレと付き合ってみるか?」その言葉に、鹿耶はまるで魔法にかけられたように、コクンと頷いてしまったのだという。隣で幸せそうに先ほどの出来事を語る親友の横顔を見つめな
器の中を覗き込んだ鹿耶は、それが身体を温める生姜とナツメをじっくり煮込んだ特製の甘い薬膳スープだと気づいた。「……いらない」鹿耶は俯き、ぼそりと呟く。だが七緒は引き下がらず、器をさらに彼女の手元へと押しやった。「残しちゃダメッス。オレからの絶対命令ッスからね」「なによそれ……」二人の間に漂うただならぬ気配と、ぎこちなくも甘い押し問答。事情を察している水琴は、口元を手で隠しながらくすりと楽しげに笑いを漏らした。いつの間にか合流していた重人も、面白そうに目を細めて口を開く。「なんだか賑やかだな。七緒くん、腕を振るってくれた後はこっちに座って一緒に食べたらどうだ?」「遠慮しとくッス!」「無理!」重人のからかい混じりの提案に、七緒と鹿耶の声が見事なまでにぴったりと重なった。息の合いすぎた拒絶に、今度は重人まで肩を揺らして笑いだす。すべての料理を配膳し終えた後、七緒は立ち去り際に鹿耶をじっと見つめ、低く言った。「鹿耶、ちょっと来てほしいッス。渡したいものがあるんスよ」「え……?」不審に思いつつも、鹿耶は大人しく立ち上がり、彼の後をついていく。案内されたのは、エグゼクティブシェフである七緒専用の休憩室だった。一流ホテルの最高級スイートルームと何ら変わらない豪奢で静かな空間に、鹿耶は入り口で足を止めてしまう。「……ここでいいでしょ。何をくれるの?」「中に入ってこないと、渡せないッスよ」七緒に促され、おずおずと足を踏み入れた瞬間――背後でバタンと音を立てて扉が閉められ、鹿耶の身体はそのまま強い力で壁へと押し付けられた。ドン、と壁に手をつかれ、逃げ場を塞がれる。「……っ!」「あの日、なんで黙って逃げたんだよ」頭上から降ってきたのは、いつものおどけたような軽さは微塵もない、激しい感情を押し殺すような低い男の生声だった。七緒の瞳には、飄々とした少年のような面影はなく、焦燥と苛立ちが剥き出しになっていた。「あたし、は……」鹿耶の脳裏に、あの朝の光景が鮮明に蘇る。急にやってきた重い生理痛に苦しむ彼女のために、七緒は早くからキッチンに立っていた。痛みを和らげる特製の生姜湯を煮出すためだ。トントンとまな板を叩く規則正しい音を聞きながら、鹿耶の心は千々に乱れていた。昨
佳乃は必死に首を横に振った。「留守です!ここにはいません、早く帰ってください!」「鷹司夫人。我々はここへ来るまでの防犯カメラの映像を全て確認しています。彼女がご主人と共にオークション会場から真っ直ぐ帰宅したことは分かっているんです。どうか捜査に協力してください」「……紗夜さんが何をしたって言うんですか!」「教唆および実行の容疑です。署まで同行を願います」警察官の厳しい声に、佳乃は青ざめながらも言い募った。「あり得ません!誰かの罠です、絶対に何かの間違いよ!」「証拠と逮捕状がなければ、我々もここまでは来ません。隠避行動はご自身の不利益になりますよ」佳乃がなおも食い下がろうとしたその時、臣が無言で地下室の隠し扉を蹴り開けた。「……ここにいます」「臣っ!?」佳乃の悲鳴をよそに、警察官たちが即座に地下室へ降りていく。数分後、両脇を抱えられて引きずり出された紗夜は、顔面を蒼白にし、ガタガタと激しく震えていた。「臣さん……っ、助けて、臣さん!」狂ったようにすがりつこうとする紗夜を、臣は氷点下の目で見下ろした。「……知っていることを、全て洗いざらい吐いてこい」臣に見捨てられたと悟った紗夜は、絶望の叫びを上げて佳乃の方を見た。「お義母さん!助けて……!」佳乃はパニックになりながら警察官たちにすがりついた。「乱暴しないで!その子は妊娠しているのよ!もしお腹の跡取りに何かあったら、あなたたち責任取れるの!?」その言葉を聞いた瞬間、玄関の敷居を跨ごうとしていた紗夜が、ピタリと足を止めてうずくまった。「あ、ああ……っ!お腹が、痛い……!」臣は眉間に皺を寄せ、警察官たちを突き飛ばすようにして紗夜を抱き起した。「どうした!?」「臣さん……助けて、お腹が……っ!」紗夜の顔からは完全に血の気が引き、今にも意識を失いそうだった。額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。警察官たちは顔を見合わせ、舌打ちをした。「……救急車を呼べ!」……帰りの車内。水琴がカーオーディオの再生ボタンを押すと、軽快なポップスが車内に響き渡った。後部座席では、鹿耶が音楽に合わせて楽しげに体を揺らしている。「あーっ、もう最高!まさかこんなに上手くいくなんて思わなかったわ!」鹿耶は興奮冷めやらぬ様子
「別に?他人に危害を加えた犯罪者が、相応の報いを受ける。ただそれだけのことでしょう?」琉里は心底楽しそうに鼻で笑った。「私に……身代わりになれって言うの!?」紗夜の額から、滝のような冷や汗が噴き出した。どうして忘れていたの……!あの日、水琴から「あの事件」の証拠を突きつけられたことを、馬鹿正直にこの女に報告してしまったじゃないか。水琴が本気で自分の首を取りに来ていると知った琉里が、この土壇場で自分を守るためにどう動くか。答えは一つしかない。かつて雅をスケープゴートにして切り捨てたように、今度は自分を「真犯人」として差し出す気なのだ。「身代わり?ふふっ、紗夜さん、あんた記憶喪失にでもなったの?」琉里はわざとらしく小首を傾げた。「最初から罪を犯したのはあんたじゃない。最初から最後まで、全てあんたが一人で計画して実行したこと。私はなぁんにも知らないわ」「あなたっ……!」「紗夜さん、せいぜい立派な捨て駒になってちょうだいね」琉里は優雅な微笑みを浮かべたまま、気品すら漂う足取りで悠然と会場を去っていった。地下駐車場に降りると、臣が乗った車がエンジンをかけたまま停まっていた。紗夜が後部座席に逃げ込むように乗り込むと、運転席の臣がルームミラー越しに殺気立った目を向けてきた。「……お前、松霧島の秘密を知っていたんじゃないのか」その冷たい響きに、紗夜の心臓がヒュッと縮み上がった。私が一番頼りにしている夫まで……私を疑っているの?「知らないわよ!本当に知らなかったの!」紗夜は必死に身を乗り出して訴えた。「最初から、水琴さんは半月島を狙っているって私に言ったのよ!気づかなかったの!?あの女は私だけじゃなく、琉里さんのことも完全に騙して弄んだのよ!」臣は険しい顔のまま、低く唸るように問い詰めた。「……それで?さっき、あの女はお前に何を言った」紗夜の胸の奥で、恐怖が爆発した。「臣さん……お願い、私を助けて!」言葉を発するより先に、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。「実は、あの日……あなたに全部は話していなかったの。雅さんの車を運転したのは確かに私よ。でも、あの計画を考えたのは私じゃない!全部、琉里さんが仕組んだことなの!私、あの時は魔が差してしまって……あなたがまだ水琴さんに未練
残された琉里と紗夜は、水琴の背中を憎悪に満ちた目で睨みつけていた。南鳥市でもトップクラスの自分たちが、この小娘一人にいいように手玉に取られたという事実が、どうしても受け入れられない。水琴と重人が踵を返して出口へ向かおうとしたその時、背後からヒステリックな声が飛んだ。「待ちなさいよ!」琉里が血相を変えて叫んだ。「水琴さん!」水琴はゆっくりと振り返り、面倒くさそうに小首を傾げた。「琉里さん、まだ何かご用ですか?オークションはもうとっくに終わりましたけれど」「言われなくてもわかってるわよ!……でも、まさかあなたがここまで陰湿な策略家だとは思わなかったわ。私を完全に手玉に取った手腕は褒めてあげる。でも一つだけ教えてちょうだい。松霧島の秘密……一体誰から聞いたの?」琉里の目が、獲物を狙う猛禽のように鋭く吊り上がる。そして、すぐそばに立つ灼也をチラリと横目で睨んだ。「……灼也が教えたの?」この南鳥市で、国家機密レベルの情報にアクセスできる人間なんて、高遠灼也の他にいるはずがない。宝生会長のルートは不明だが、水琴に情報を流したのは絶対に灼也だと、琉里は確信していた。「琉里さん、それは質問のつもり?それとも尋問?」水琴はクスリと自嘲気味に笑い、相手を小馬鹿にするように首を傾げた。「どちらにせよ、私があなたに教える義理なんてどこにもないわ」そして、取り乱す琉里を無視して、視線をその奥にいる紗夜へと移した。水琴はゆっくりと、最高に意味深な微笑みを浮かべて口を開く。「紗夜さん……今回は本当に『いい取引』だったわね。協力してくれてありがとう」「なっ……!?」琉里が猛然と紗夜を振り返る。同時に、臣も眉間に深い皺を刻み、隣に立つ妻を氷のように冷たい目で見下ろした。琉里が再び水琴に食ってかかろうとした時には、すでに水琴は重人と鹿耶を引き連れ、優雅な足取りで会場を後にした後だった。憎悪に顔を歪めた琉里は、すぐそばに立つ灼也に作り笑いを向けた。「灼也……私、この女にちょっと聞きたいことがあるの。あなたは先に帰ってて。私のことは待たなくていいわ」そう言ってから、今度は臣に視線を移す。「鷹司さん。奥様と、少しだけ二人でお話しさせていただいてもよろしいかしら?」「臣さん、ダメ……!」紗夜は恐怖に
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかっ
臣が呆然としていると、温かい手がそっと彼の手を握った。隣に座る紗夜が、心配そうに顔を覗き込んでいる。「臣さん、どうしたの?胃の調子でも悪いのかしら。スープでもいただく?」臣は力なく首を横に振った。水琴は宗一郎に笑顔で応えると、臣と紗夜のやり取りなどまるで存在しないかのように、静かに椅子を引いて腰を下ろした。その傍らで宗一郎が、見せつけるような二人の親密さに、侮蔑を込めてフンと鼻を鳴らした。鷹司家の食卓は、食事中の私語を許さない厳格な家風がある。水琴に食欲などあるはずもなく、ただ宗一郎の手前、仕方なく箸をつけただけだった。やがて食事が終わると、宗一郎が水琴を引き留めた。「臣と
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だ