LOGIN器の中を覗き込んだ鹿耶は、それが身体を温める生姜とナツメをじっくり煮込んだ特製の甘い薬膳スープだと気づいた。「……いらない」鹿耶は俯き、ぼそりと呟く。だが七緒は引き下がらず、器をさらに彼女の手元へと押しやった。「残しちゃダメッス。オレからの絶対命令ッスからね」「なによそれ……」二人の間に漂うただならぬ気配と、ぎこちなくも甘い押し問答。事情を察している水琴は、口元を手で隠しながらくすりと楽しげに笑いを漏らした。いつの間にか合流していた重人も、面白そうに目を細めて口を開く。「なんだか賑やかだな。七緒くん、腕を振るってくれた後はこっちに座って一緒に食べたらどうだ?」「遠慮しとくッス!」「無理!」重人のからかい混じりの提案に、七緒と鹿耶の声が見事なまでにぴったりと重なった。息の合いすぎた拒絶に、今度は重人まで肩を揺らして笑いだす。すべての料理を配膳し終えた後、七緒は立ち去り際に鹿耶をじっと見つめ、低く言った。「鹿耶、ちょっと来てほしいッス。渡したいものがあるんスよ」「え……?」不審に思いつつも、鹿耶は大人しく立ち上がり、彼の後をついていく。案内されたのは、エグゼクティブシェフである七緒専用の休憩室だった。一流ホテルの最高級スイートルームと何ら変わらない豪奢で静かな空間に、鹿耶は入り口で足を止めてしまう。「……ここでいいでしょ。何をくれるの?」「中に入ってこないと、渡せないッスよ」七緒に促され、おずおずと足を踏み入れた瞬間――背後でバタンと音を立てて扉が閉められ、鹿耶の身体はそのまま強い力で壁へと押し付けられた。ドン、と壁に手をつかれ、逃げ場を塞がれる。「……っ!」「あの日、なんで黙って逃げたんだよ」頭上から降ってきたのは、いつものおどけたような軽さは微塵もない、激しい感情を押し殺すような低い男の生声だった。七緒の瞳には、飄々とした少年のような面影はなく、焦燥と苛立ちが剥き出しになっていた。「あたし、は……」鹿耶の脳裏に、あの朝の光景が鮮明に蘇る。急にやってきた重い生理痛に苦しむ彼女のために、七緒は早くからキッチンに立っていた。痛みを和らげる特製の生姜湯を煮出すためだ。トントンとまな板を叩く規則正しい音を聞きながら、鹿耶の心は千々に乱れていた。昨
佳乃は必死に首を横に振った。「留守です!ここにはいません、早く帰ってください!」「鷹司夫人。我々はここへ来るまでの防犯カメラの映像を全て確認しています。彼女がご主人と共にオークション会場から真っ直ぐ帰宅したことは分かっているんです。どうか捜査に協力してください」「……紗夜さんが何をしたって言うんですか!」「教唆および実行の容疑です。署まで同行を願います」警察官の厳しい声に、佳乃は青ざめながらも言い募った。「あり得ません!誰かの罠です、絶対に何かの間違いよ!」「証拠と逮捕状がなければ、我々もここまでは来ません。隠避行動はご自身の不利益になりますよ」佳乃がなおも食い下がろうとしたその時、臣が無言で地下室の隠し扉を蹴り開けた。「……ここにいます」「臣っ!?」佳乃の悲鳴をよそに、警察官たちが即座に地下室へ降りていく。数分後、両脇を抱えられて引きずり出された紗夜は、顔面を蒼白にし、ガタガタと激しく震えていた。「臣さん……っ、助けて、臣さん!」狂ったようにすがりつこうとする紗夜を、臣は氷点下の目で見下ろした。「……知っていることを、全て洗いざらい吐いてこい」臣に見捨てられたと悟った紗夜は、絶望の叫びを上げて佳乃の方を見た。「お義母さん!助けて……!」佳乃はパニックになりながら警察官たちにすがりついた。「乱暴しないで!その子は妊娠しているのよ!もしお腹の跡取りに何かあったら、あなたたち責任取れるの!?」その言葉を聞いた瞬間、玄関の敷居を跨ごうとしていた紗夜が、ピタリと足を止めてうずくまった。「あ、ああ……っ!お腹が、痛い……!」臣は眉間に皺を寄せ、警察官たちを突き飛ばすようにして紗夜を抱き起した。「どうした!?」「臣さん……助けて、お腹が……っ!」紗夜の顔からは完全に血の気が引き、今にも意識を失いそうだった。額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。警察官たちは顔を見合わせ、舌打ちをした。「……救急車を呼べ!」……帰りの車内。水琴がカーオーディオの再生ボタンを押すと、軽快なポップスが車内に響き渡った。後部座席では、鹿耶が音楽に合わせて楽しげに体を揺らしている。「あーっ、もう最高!まさかこんなに上手くいくなんて思わなかったわ!」鹿耶は興奮冷めやらぬ様子
「別に?他人に危害を加えた犯罪者が、相応の報いを受ける。ただそれだけのことでしょう?」琉里は心底楽しそうに鼻で笑った。「私に……身代わりになれって言うの!?」紗夜の額から、滝のような冷や汗が噴き出した。どうして忘れていたの……!あの日、水琴から「あの事件」の証拠を突きつけられたことを、馬鹿正直にこの女に報告してしまったじゃないか。水琴が本気で自分の首を取りに来ていると知った琉里が、この土壇場で自分を守るためにどう動くか。答えは一つしかない。かつて雅をスケープゴートにして切り捨てたように、今度は自分を「真犯人」として差し出す気なのだ。「身代わり?ふふっ、紗夜さん、あんた記憶喪失にでもなったの?」琉里はわざとらしく小首を傾げた。「最初から罪を犯したのはあんたじゃない。最初から最後まで、全てあんたが一人で計画して実行したこと。私はなぁんにも知らないわ」「あなたっ……!」「紗夜さん、せいぜい立派な捨て駒になってちょうだいね」琉里は優雅な微笑みを浮かべたまま、気品すら漂う足取りで悠然と会場を去っていった。地下駐車場に降りると、臣が乗った車がエンジンをかけたまま停まっていた。紗夜が後部座席に逃げ込むように乗り込むと、運転席の臣がルームミラー越しに殺気立った目を向けてきた。「……お前、松霧島の秘密を知っていたんじゃないのか」その冷たい響きに、紗夜の心臓がヒュッと縮み上がった。私が一番頼りにしている夫まで……私を疑っているの?「知らないわよ!本当に知らなかったの!」紗夜は必死に身を乗り出して訴えた。「最初から、水琴さんは半月島を狙っているって私に言ったのよ!気づかなかったの!?あの女は私だけじゃなく、琉里さんのことも完全に騙して弄んだのよ!」臣は険しい顔のまま、低く唸るように問い詰めた。「……それで?さっき、あの女はお前に何を言った」紗夜の胸の奥で、恐怖が爆発した。「臣さん……お願い、私を助けて!」言葉を発するより先に、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。「実は、あの日……あなたに全部は話していなかったの。雅さんの車を運転したのは確かに私よ。でも、あの計画を考えたのは私じゃない!全部、琉里さんが仕組んだことなの!私、あの時は魔が差してしまって……あなたがまだ水琴さんに未練
残された琉里と紗夜は、水琴の背中を憎悪に満ちた目で睨みつけていた。南鳥市でもトップクラスの自分たちが、この小娘一人にいいように手玉に取られたという事実が、どうしても受け入れられない。水琴と重人が踵を返して出口へ向かおうとしたその時、背後からヒステリックな声が飛んだ。「待ちなさいよ!」琉里が血相を変えて叫んだ。「水琴さん!」水琴はゆっくりと振り返り、面倒くさそうに小首を傾げた。「琉里さん、まだ何かご用ですか?オークションはもうとっくに終わりましたけれど」「言われなくてもわかってるわよ!……でも、まさかあなたがここまで陰湿な策略家だとは思わなかったわ。私を完全に手玉に取った手腕は褒めてあげる。でも一つだけ教えてちょうだい。松霧島の秘密……一体誰から聞いたの?」琉里の目が、獲物を狙う猛禽のように鋭く吊り上がる。そして、すぐそばに立つ灼也をチラリと横目で睨んだ。「……灼也が教えたの?」この南鳥市で、国家機密レベルの情報にアクセスできる人間なんて、高遠灼也の他にいるはずがない。宝生会長のルートは不明だが、水琴に情報を流したのは絶対に灼也だと、琉里は確信していた。「琉里さん、それは質問のつもり?それとも尋問?」水琴はクスリと自嘲気味に笑い、相手を小馬鹿にするように首を傾げた。「どちらにせよ、私があなたに教える義理なんてどこにもないわ」そして、取り乱す琉里を無視して、視線をその奥にいる紗夜へと移した。水琴はゆっくりと、最高に意味深な微笑みを浮かべて口を開く。「紗夜さん……今回は本当に『いい取引』だったわね。協力してくれてありがとう」「なっ……!?」琉里が猛然と紗夜を振り返る。同時に、臣も眉間に深い皺を刻み、隣に立つ妻を氷のように冷たい目で見下ろした。琉里が再び水琴に食ってかかろうとした時には、すでに水琴は重人と鹿耶を引き連れ、優雅な足取りで会場を後にした後だった。憎悪に顔を歪めた琉里は、すぐそばに立つ灼也に作り笑いを向けた。「灼也……私、この女にちょっと聞きたいことがあるの。あなたは先に帰ってて。私のことは待たなくていいわ」そう言ってから、今度は臣に視線を移す。「鷹司さん。奥様と、少しだけ二人でお話しさせていただいてもよろしいかしら?」「臣さん、ダメ……!」紗夜は恐怖に
「……まさか、俺たちに流した情報は、本命から目を逸らすためのブラフだったってことか?」重人の問いに、水琴は静かに頷く。「ええ。彼が最初から狙っていたのは、松霧島ただ一つよ」あの老人がどうやってその国家機密レベルの報告書を手に入れたのかは分からないが、並々ならぬ執念だ。「だが、その松霧島は、どこの馬の骨とも分からない女に落札されてしまったじゃないか。惜しいことをしたな」と重人は少し残念そうに言った。しかし、水琴はクスリと笑って首を横に振った。「全然惜しくないわ」……オークションが終了し、参加者の大半が会場を後にし始めた頃。席を立とうとした水琴と重人の元へ、先ほど松霧島を落札した「会場の隅の女」がツカツカと歩み寄ってきた。彼女が顔を覆っていたマスクと大きめのサングラスをバサリと外す。重人は目を丸くして固まった。そこにいたのは、鹿耶だったのだ。「ミコト、さっきのあたしの演技、完璧だったでしょ?予算は百六十億までって言われてたけど、百四十億で落としてやったわよ。とびっきり豪華なディナー、奢りなさいよね!」得意げに胸を張る鹿耶に、水琴は優しく微笑み返した。「ええ、もちろんよ」その光景を後ろの席で見ていた琉里は、ガタッと音を立てて立ち上がり、愕然としていた。そんな……嘘でしょ!?少し離れた席では、同じく全てを悟った宝生会長が、氷のように冷たい目で水琴たちを睨みつけている。臣と紗夜もまた、顔面を蒼白にして立ち尽くしていた。この南鳥市のトップが集う大舞台で、自分たちが水琴の手のひらの上で踊らされるだけの滑稽なピエロだったのだと、今更ながらに思い知らされたのだ。中でも琉里が受けた衝撃は計り知れない。松霧島の競り合いが起きていたあの時、彼女は自分が半月島を手に入れたという勝利の余韻と、かすかな違和感の中で思考を停止させていたのだ。今の琉里の心境を例えるなら――垂れ下がってきた一筋の蜘蛛の糸にすがりつき、必死に登りきってようやく天国にたどり着いたと思ったら、足元で誰かが「ここは地獄だ」と囁いてきたようなものだ。この圧倒的な落差。完璧に愚弄されたという屈辱。琉里は今すぐにでも水琴に飛びかかり、その余裕めいた美しい顔をズタズタに引き裂いてやりたいほどの憎悪に駆られていた。だがその時、レ
しかし、琉里にはそんな番狂わせに構っている余裕はなかった。彼女の頭の中は、未だに先ほどの半月島のことでいっぱいだった。わからない……水琴が急に引いた理由はわからないけれど、でも、これで半月島は完全に私のものになった。それだけは事実よ……「百四十億、三回……決定です!松霧島はそちらのお客様に落札されました」三度目の小槌が鳴り響き、誰も見向きもしないはずだったあの小島は、会場の隅に座る女のものとなった。臣はいぶかしげに振り返り、その女の姿を目で追った。あの声……どこかで聞いたことがある気がするが……?記憶の糸をたぐるが、どうしても答えには結びつかなかった。オークションが閉幕に向かう中、水琴は静かに席を立ち、レストルームへと向かった。手洗い場で蛇口をひねり、冷たい水で手を洗っていると、背後からヒステリックな声が飛んできた。「どうして急に手を引いたのよ!おかげで私が翡翠島を高値で掴まされる羽目になったじゃない!私はあなたのために、あの島を釣り上げようとしたのに!」血相を変えた紗夜が、鏡越しに水琴を睨みつけている。水琴はふっと鼻で笑い、ペーパータオルで優雅に手を拭きながら振り返った。「紗夜さん、私があなたの立場なら、恥ずかしくてそんなセリフ吐けないわね。私が琉里さんに『翡翠島を狙っている』と伝えるように言ったはずだけど……あなた、本当にそう伝えたの?」「わ、私は……もちろんそう伝えたわよ」図星を突かれたのか、紗夜は明らかに動揺して一歩後ずさった「嘘ね。前の件があったから、少しは賢くなって私と協力する道を選ぶかと思ったけれど……どうやら、あなたを買い被りすぎていたみたい」水琴の表情がスッと冷たくなり、氷のような視線を浴びせる。そのまま相手にする価値もないとばかりに、背を向けて立ち去ろうとした。「待ってよ!じゃあ、あの翡翠島はどうすればいいの!?」納得のいかない紗夜が、すがりつくように水琴の腕を引っ張る。「笑わせないで。自分で落札しておいて、私にどうしろって言うの?私には一ミリも関係ないことよ」水琴は虫でも払うかのように、冷酷にその手を振り払った。「あなた……っ!」激しい怒りと屈辱で、紗夜はよろめき、その場に崩れ落ちそうになった。レストルームを出た水琴を待ち受けていたの
臣が呆然としていると、温かい手がそっと彼の手を握った。隣に座る紗夜が、心配そうに顔を覗き込んでいる。「臣さん、どうしたの?胃の調子でも悪いのかしら。スープでもいただく?」臣は力なく首を横に振った。水琴は宗一郎に笑顔で応えると、臣と紗夜のやり取りなどまるで存在しないかのように、静かに椅子を引いて腰を下ろした。その傍らで宗一郎が、見せつけるような二人の親密さに、侮蔑を込めてフンと鼻を鳴らした。鷹司家の食卓は、食事中の私語を許さない厳格な家風がある。水琴に食欲などあるはずもなく、ただ宗一郎の手前、仕方なく箸をつけただけだった。やがて食事が終わると、宗一郎が水琴を引き留めた。「臣と
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だ
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「また
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当