تسجيل الدخول午前中の陽光が差し込むアパートのリビングで、理聖は出かける身支度を整えていた。 黒いシャツに身を包み、いつもより少しだけ厳しい顔つきのまま和花と向き合う。「和花さん。先ほど伝えた雄之助くんの計画通り、僕はこれから組の〝本家事務所〟へと向かいます」「深凪組の……拠点、ですか?」「ええ。高井先生に書いていただいた診断書を組長へ提出し、幹部会でも報告してもらいます。過去の記憶が完全に失われ、組織の幹部として機能しないことを示せば、組の秩序を守るためにも破門せざるを得なくなる」 理聖は瞳に揺るぎない決意の光を宿した。「無事に組を抜けられれば、和花さんが標的にされることもなくなります。すべて終わらせて帰ってきますから、今日は外に出ず、鍵を閉めて家の中で待っていてください」「理聖さん……」 和花は不安で押しつぶされそうになる胸を押さえ、そっと彼の手を握りしめた。 和花の震える指先を感じ取った理聖は、優しく微笑むと、彼女の腰を引き寄せて胸元の腕の中に閉じ込めた。「大丈夫です。約束したでしょう。僕は必ず和花さんの元へ戻ってきます」 温かな声音が降り注ぎ、理聖の端正な顔がゆっくりと近づく。 触れ合う唇は、相手の魂を確かめるような深く甘い温度を帯びていた。 愛おしい人の無事を願い、そして自分への愛を誓う祈りの口づけだ。 重なり合った唇の間から熱い吐息が溶け合い、和花の目尻に微かな温もりが滲む。「……行ってきます、和花さん」「はい。気を付けて……必ず、帰ってきてくださいね」 優しいキスに背中を押され、理聖は静かに玄関のドアを開けて歩き出していいた。 だが、その背中が通りの角を曲がって見えなくなった直後。 アパートの斜め向かいにある電柱の陰から、下卑た笑みを浮かべる男が姿を現した。「……へっ、行ったか。やっぱりあのメガネが留守になるときが最高のチャンスだよな」 芽流の背後には筋骨隆々の大柄な男が二人、不気味な圧を放って控えている。 芽流はジーンズのポケットからチャリッと金属音を響かせ、小さな鍵を指先で揺らした。「あのアパートの合鍵、まだ持っててラッキーだったぜ〜。ほら、いくぞ!」 かつて一緒に住んでいた頃の鍵を返さずに隠し持っていたのだ。 芽流たちは足音を殺して階段を上がり、和花の部屋の前へ辿り着いた。 リビングでひと息つこうとした和
真夏のジリジリとした炎天下。 駅前のロータリーの木立から、暑さをあおるような蝉の声がけたたましく鳴き響いていた。 その喧騒の中、アスファルトの照り返しが厳しいコンコースの片隅で、乾いた破裂音が響き渡る。「マージでしつこい! 復縁はないって言ってんでしょ!」 すれ違う通行人たちが思わず振り返る中、褐色肌に派手なブロンドヘアを揺らすギャル風の女に平手打ちを食らっていたのは、和花の元夫である芽流だった。 叩かれた頬を抑えながら、芽流は情けない声を上げて女へすがりつく。「恵美……っ! 嘘だろ、待ってくれよ! 俺にはお前しかいないし、お前と一緒になるために離婚までしたのに……!」 「はあ? アンタがただのヒモだなんて思わなかったし! 金もない男に用はないの。バイバイ!」 恵美と呼ばれた女は苛立たしげに吐き捨てると、ピンヒールを鳴らして逃げるように駅の改札へと消えていった。 取り残された芽流は、赤く腫れた頬をさすりながら、舌打ちをした。「……はーあ。ヒモとか、マジで失礼なんだよなぁ。俺にはちゃんと伝手があるっつーの」 悪びれる様子は微塵もない。 そもそも芽流がかつて和花と結婚したのも、佐伯家という実家の途方もない資産と〝太さ〟を目当てに近づいたに過ぎなかった。 だが、その思惑は自身の浮気が発覚したことで即座に破綻し、一円の得にもならないまま放り出されたのだ。 まともな職にも就かず遊興費に困り果てた芽流の本質は、地元のチンピラや半グレ集団の末端とつるんで違法なドラッグの売買に手を染める、救いようのないクズそのものだった。 芽流はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップして連絡先リストの一角をスクロールする。「久々に、連絡してみっかー」 コール音が数秒鳴ったのち、かつて悪い遊びや非合法な仕事の手引きをしてもらっていた地元の不良の先輩が電話に出た。芽流は即座に軽薄な声色を作り、へりくだった調子で口を開く。「あっ、センパイ! お疲れ様です、芽流っす。ご無沙汰してます! いやぁ、実はいま手元に金が必要でして……なんか手っ取り早く稼げる、いい仕事ないっすか?」 電話の向こうから、先輩のガラガラの低い笑い声が届く。 話を聞けば、ちょうどいま裏のルートで、信じられないほどオイシイ依頼が回ってきているところだという。
数日後。 昼下がりの雑居ビルの廊下を進んだ雄之助が理聖を連れて訪れたのは、表通りから少し離れた古いマンションの一室だった。 エレベーターで三階へ上がり、ペンキの剥がれかけた扉の鍵を開けると、そこには消毒用アルコールの鋭い香りと、清潔に保たれた医療ベッドが広がっていた。「いやぁ、久しぶりじゃん、雄之助」 奥の診察机からゆっくりと立ち上がったのは、白衣を崩して着こなす男だった。眼鏡の奥の瞳を優しく細め、気怠げに髪をかきあげる。「こちらは、裏稼業の医療もしている高井博信だ。うちの組の若い連中が銃創や刃物傷を作ったとき、警察に届けることなく治療してくれる頼もしい協力者でな」「高井です、どうも。……と、もしかしてだけど、そっちにいるのは死んだはずの若頭……!?」 挨拶をしかけた高井の声が途中でひっくり返った。眼鏡をずり落としそうになりながら、雄之助の背後に立つ長身の青年を食い入るように見つめる。「あ、どうも……。なんとか、生きてました」 記憶のない理聖が少し戸惑いながら頭を下げると、高井は「マジかよ……」と息を呑み、信じられないという様子で目を丸くした。 丸椅子に腰を下ろすと、雄之助は声を落として切り出した。「高井、今日は若頭の怪我の治療じゃねえ。頭の診断をしてもらいたくてここへ来た」「頭の診断?」「ああ。いま、若頭は川に転落したとき外傷を負って、昔の記憶をすっぽり失くしてる。だが、組長は若頭を実の息子のように溺愛してるだろ。仮に若頭本人が極道を辞めたいと頼み込んだところで、絶対に手放しちゃくれない」 雄之助の厳しい言葉に、理聖は静かに膝の上の手を見つめた。あの大翔との面会で浴びた、恩義と宿命の重圧が脳裏をかすめる。「若頭はカタギに戻ることを望んでいる。だからな、本人の意志とか感情的な理由じゃなくて、若頭として置いておけない客観的な理由を作るんだよ」 雄之助の考えていた策は、驚くほど合法的かつ徹底したものだった。 まずは裏稼業の医師である高井に正式な診察を行ってもらい、『外傷性の記憶障害がすでに固定化しており、失われた記憶が回復する可能性は極めて低い』という医学的な診断書を作成させる。「それに加えて、蘭華にも協力させる。あいつは昔の若頭しか知らない情報や、過去に消した標的の顔をいくらでも知ってるからな。記憶のテ
重厚な黒い扉が静かに閉まり、理聖と和花の背中が見えなくなった。 二人は蘭華が用意したサイレンサー付きの自動拳銃と仕込み扇子を購入し、礼を言ってバーを後にしたのだ。 店内に残されたのは、低く流れるジャズの旋律と、カウンターを挟んで向かい合う雄之助と蘭華の二人だけだった。 雄之助は自分のグラスに琥珀色のバーボンを注ぎ足すと、氷をからりと鳴らして一気に煽り、鋭い視線を蘭華へと向けた。「……おい。なんで若頭にあんなふうに言ったんだよ?」「なによう? 事実を言ったまでよ」 蘭華は、悪びれる様子もなく唇を尖らせた。「あいつは立派な人殺しだったもの。今更殺したくないとか綺麗事言うからさ、ちょっとムカッとしちゃっただけだもん」 ぺろりと小さな舌を出しておどけてみせた蘭華だったが、すぐにその表情が抜け落ちた。彼女は手元のグラスを見つめ、自嘲するように小さく呟く。「…………アタシも、榊原とおんなじなのかも」「あ?」「錦戸はね、昔からアタシの技術を買ってくれてたの。綺麗に標的を殺せたら、いつも頭の髪を撫でて褒めてくれた。……なのにさ、ぽっと出のあいつに、アタシの仕事全部持ってかれたんだもの」 蘭華は洋酒の入ったグラスを煽り、強いアルコールを喉の奥へと流し込む。「しかも、認めざるを得ない腕だった。悔しいけど、殺しの才能じゃアタシでも敵わない。……そんなあいつが、殺しはしたくないとか甘ったるいこと言って、女と陽の当たる平和な世界に浸ってんの、くっそムカつくのよ」 かつて、錦戸大翔の寵愛と信頼を一身に集めていたのは殺し屋としての蘭華だった。しかし、幼い理聖が成長し、圧倒的な戦闘能力で〝錦戸の狂犬〟と呼ばれるようになると、重要な任務のすべては理聖に集約されていったのだ。 その言葉の裏に隠された複雑な感情を察し、雄之助は緊張を緩めて柔らかい笑みを浮かべた。 そして、カウンター越しに手を伸ばし、蘭華の頭をポンと優しく撫でる。「なんだ。蘭華は、昔から組長のこと慕ってたもんな」「はあ!? そんなんじゃないわよ、バカじゃないの!? ゆーのすけ、酔ってんの?」 図星を指されて顔を真っ赤にした蘭華は、照れ隠しのようにボトルの酒をドボドボとグラスに注ぎ、勢いよくあおり始めた。 そんな彼女を眺めながら、雄之助は自身のグラスの縁を指先でなぞり、落ち着いた声音で口を開く。
グラスの中で溶けかけた氷が、からりと冷たい音を立てた。 カウンターに両肘をついた蘭華は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、長い髪を指先でくるくると弄ぶ。「でもさー。今のそんな立派な倫理観を持った理聖が、過去の自分がどんな人間だったか知ったら、目ん玉飛び出すだろうねぇ」 まるで昔の面白話でも語るかのような気軽な口調だった。「おい、蘭華……。余計なことを言うな」「事実じゃん。あ、でもさ、その〝優しい〟ところだけは昔から全然変わってないかもね」 蘭華は雄之助の警告など意に介さず、言葉を続けた。「相手を絶対に苦しませないようにって、いつも的確に即死させてたもん。無駄な拷問とか一切しないでさ、一撃で確実に仕留めるの」 彼女は右手の親指と人差し指を立てて拳銃の形を作ると、理聖の胸元へと真っ直ぐに向け、片目を瞑ってみせた。「バーン、ってね」 その無邪気な仕草と、血に濡れた事実のコントラストが、薄暗いバーの静寂に冷たい亀裂を走らせた。 理聖は膝の上で組んでいた大きな手をかすかに震わせ、視線を深く揺らす。「僕は……今まで、たくさん……人を殺していたのですか……?」 自身の罪の深さを問うように絞り出した声に対し、蘭華は悪びれもなく深く頷いた。「うん。間違いなく天才だったよ。殺しの才能がとにかく並外れてた。まさに〝錦戸の狂犬〟って感じでさ。親分の命令には絶対従順で、どんなに危険で汚い仕事も淡々とこなしてたんだから」「大翔さんの……狂犬……?」 その言葉が耳に届いた瞬間、理聖の脳裏に激しい痛みが走った。 まるで白紙の記憶の底に眠っていた黒い鎖が、無理やり引きちぎられたかのような感覚だった。 鈍い頭痛と共に、暗い夜の路地、鉄の錆びたような濃厚な血の匂い、そして無表情のまま銃の引き金を引く自分自身の冷徹な影が、断片的な輪郭となって脳裏をかすめる。 理聖はたまらず右手を額に当て、苦しそうに深く俯いた。「そうそう。錦戸が命の恩人だからって、それはもう狂信的なほどの忠誠心だったよぉ。あんた、背中にすんごい刺青入れてるでしょ? あれも錦戸の趣味よ」 毎日の着替えのたびに鏡に映っていた、背中に広がる鮮やかな和彫り。なぜ自分がこのような刺青を背負っているのか疑問だったが、それすらも組織と養父の所有物である証だったのだ。「蘭華……もういい加減にしろ」 雄之助が怒
雄之助は慣れた手つきでカウンターの丸椅子を引きながら、あっけらかんと笑う女性へ笑みを向けた。「久しぶりだな。今日はちょっと頼みがあって連れてきたんだ」 そう言って、雄之助は驚きで呆気に取られている和花へと向けて彼女を紹介する。「和花さん、こちらはうちの組も贔屓にしている武器商人の天霧蘭華だ。……こう見えて今年で34歳、実は俺や理聖さんよりも年上なんですよ」 「えっ……!? さ、34歳、なんですか?」 目の前にいるのは、あどけなさすら残る童顔に、小柄な体躯の女性だ。自分より年下の今どきのギャルにしか見えず、和花は思わず目を丸くした。 そんな反応に慣れているのか、蘭華は楽しそうにピースサインを作ってみせる。「そうそう。裏稼業だし、定期的に顔いじってるからねー」 けろりと言ってのける蘭華は、そこでふと視線を雄之助の隣に立つ長身の青年へと移し、不思議そうに小首を傾げた。「つーか、あんたもしかして理聖? なんか昔と雰囲気違くない?」 かつて深凪組の若頭として、雄之助と共にこのバーを利用していた常連客の顔を、蘭華は即座に見抜いていた。言葉に詰まる理聖に代わり、雄之助が溜息まじりに説明する。「前に同じ組の者に川に落とされてな。奇跡的に命は助かったんだが……頭の怪我が原因で、いま記憶喪失になってるんだよ」 「まじで!? 記憶なくすとか、お酒の飲み過ぎ以外でも本当にあるんだー!」 重い裏社会の事情を笑い飛ばす蘭華に、雄之助が「おい、蘭華失礼だぞ!」とすかさずツッコミを入れる。 軽快なやり取りに、緊張で固まっていた和花の肩の力が少しだけ抜けた。「僕は過去の記憶がないのですが……以前はお世話になっていたようですね」 理聖が丁寧な所作で頭を下げ、隣に寄り添う和花へと優しく手を示した。「こちらは僕の恋人の、佐伯和花さんです。僕を助けてくれた恩人であり……実家で古武術を極められた、とても強くて頼もしい方なんですよ」 「へえー! 古武術なんだ、格好いいじゃん!」 蘭華は興味深そうに和花を見つめると、手際よくシェイカーを振り、美しいグラデーションを描く3つのカクテルを差し出した。「ほい、アタシからのサービス。……んで、今日は何の用で来たの?」 グラスを手に取りながら、理聖と雄之助はここへ来た目的を語り始めた。







