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第3話

Author: ロリポップ

私は拒んだ。

「行かない」

駿は聞こえていないかのように、淡々と言葉を続けた。

「莉奈もいるんだ。二人できちんと話し合ってくれ。親を心配させるな」

「行かないって言ってるの」

駿はじっと私を見つめ、やがて宥めるように呟いた。

「杏ちゃん、俺を困らせないでくれ」

私の胸の奥が、すっと冷たくなった。

その言葉は、どんな責め苦よりも私を惨めな気持ちにさせた。

ふと、彼が起業に失敗した年のことを思い出す。

祖母が遺してくれた古い家を売り払ったあの日も、外は深い霧に包まれていた。

水を含んだ綿のように重苦しい霧が、息が詰まるほど街を覆っていた。

私が霧の日を嫌うのは、ただの我儘ではない。幼い頃、深い霧の日に迷子になり、郊外の川沿いでようやく見つかった悲惨な記憶があるからだ。

それ以来、霧が立ち込めると動悸がして、手足が氷のように冷たくなる。

駿もそれを知っていた。かつては私を強く抱きしめ、「怖がらなくていい、俺がそばにいる」と何度も囁いてくれたはずだった。

だけどあの日、不動産屋を出た私は、彼に10回以上も電話をかけ続けた。

けれど、一度も繋がらなかった。

霧の中に立ち尽くし、家の売却契約書を抱えたまま、日が暮れるまで待ち続けた。

後から知ったことだが、その日、莉奈が元夫と喧嘩をして泣きながら彼に電話をかけていたのだ。

彼は私を置き去りにして、彼女の元へと車を走らせていた。

私は濃霧の中で車に轢かれそうになり、膝から血を流し、スマホを叩き割られ、両手は泥まみれになった。

彼が帰宅した時には、すっかり夜も更けていた。その体からは莉奈が愛用している香水の匂いがした。

なぜ電話に出てくれなかったのかと問う私に、彼はこう言い放ったのだ。

「莉奈の方が切羽詰まってたんだ。俺を困らせないでくれ」

あの日以来、私はさらに霧の日が怖くなった。

同じ場所に立ち尽くして彼を待っていても、彼はいつだって、私を置いて他の誰かのもとへと行ってしまうかって怖いの。

……

翌日、私は結局、駿の実家へ向かった。

駿の母親・宇佐美由紀江(うさみ ゆきえ)から電話があり、血圧が上がって体調が悪いから顔を見せろと言われたからだ。

訪ねると、リビングにはすでに莉奈が座っていた。淡いブルーのセーターを着て、膝には由紀江が愛用しているカシミアのひざ掛けをかけている。

由紀江は私の姿を見つけると、浮かべていた笑みをすっと引かせた。

「来たのね」

「おば様、こんにちは」

莉奈が慌てたように立ち上がる。

「杏さん、おば様を責めないであげてください。

私がどうしてもお会いしたいと言ったんです。

昨日のこと、ずっと申し訳なくて……」

そう言うと、彼女の目元がまたみるみる赤くなった。

由紀江はいたわるように彼女の手を引いて座らせる。

「本当にこの子は。体が優れないんだから、無理して立っていなくていいのよ」

私は玄関に立ち尽くし、由紀江のために買ってきた血圧計を手に下げていた。

しかし、誰もそれを受け取ろうとはしない。

キッチンから出てきた駿が私に気づき、手から荷物を受け取った。

「そんな薄着で来たのか?風邪引くぞ」

それが、今日彼が口にした最初の気遣いだった。

由紀江がわざとらしく咳払いをする。

「杏、昨日の話、聞いたわよ」

私は静かに彼女に視線を向けた。

含みを持たせた口調で、彼女は言葉を続ける。

「たかがドレス一枚じゃない。

莉奈ちゃんがちょっと借りるくらいで、どうして他人の目の前であんな惨めな思いをさせるの?」

「私のウェディングドレスです」

「本当にこの子は、器が狭いわ」

莉奈が蚊の鳴くような声で遮る。

「おば様、杏さんを責めないでください。私が悪いんです」

「あなたのどこが悪いっていうの?」

由紀江は莉奈の手を優しく叩いた。

「あんなに辛い思いをして帰ってきたんだもの、綺麗な写真を数枚撮るくらい、何がいけないの?」

ぽつんと立ち尽くす私は、買ってきた血圧計が妙に滑稽で、無駄なものに思えてならなかった。

駿がそれをテーブルの上に置く。

「母さん、そのくらいにしてくれ」

「私が間違ったことを言っている?

結婚式を何度も引き延ばすなんて、そもそも二人が不釣り合いだからよ。

杏が本当にあんたを思いやっているなら、うちにこれ以上の揉め事を持ち込むべきじゃないことくらい分かるはずでしょう」

「私は、ただの揉め事なんですか?」

私の言葉に、リビングが一瞬、しんと静まり返った。

駿が低い声で私を制する。

「杏」

由紀江の顔が完全に険しくなった。

「なによ、その態度は」

莉奈が由紀江の手を優しく握りしめる。

「おば様、怒らないでください。

杏さんはただ、それだけ駿と結婚したくてたまらないんですよ」

その言葉が軽々と投げつけられた瞬間、全身に嫌な悪寒が走った。

――彼と結婚したくてたまらない。

その一言のせいで、私がこれまで家を売り、夜なべをし、譲歩を重ね、耐え忍んできたすべての犠牲が、ひどく安っぽく卑しいものに塗り替えられていく。

駿がようやく眉をひそめた。

「莉奈、そんな言い方はやめろ」

莉奈はすぐに視線を落とす。

「ごめんなさい」

彼女はいつだって謝るのだけは早い。まるで言葉のナイフで相手を刺したあと、何事もなかったかのように血を拭い去るようだった。

由紀江が突然、手元のファイルを取り出した。

「そうだわ。莉奈ちゃん、近々個人の写真展を開きたいそうなの。

テーマは『ナイトランプ』。

駿から聞いたけれど、あなた以前に似たような企画書を作っていたでしょう?

その資料をまとめて彼女に渡しなさい」

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