LOGINかつて、蘇田桃恵(そだ ももえ)のために銃弾を受けてくれたあの人も、結局は別の誰かを愛するようになるんだ。
View More晏人は狭い宇宙船のコクピットに座り込み、呆然とした表情を浮かべていた。手に握りしめた写真は、すでにボロボロにくしゃくしゃになっている。「桃恵、もし俺の想いを聞いてくれるなら、俺にはまだチャンスがあるんだ」「これさえ直せば、一番にお前の元に戻れる。そしたら、また昔みたいに……」「桃恵、愛してる。本当に愛してるんだ」「俺のこと、見捨てないでくれないか……」彼の口からは、呪文のようにその言葉が何度もこぼれ落ちる。その声色は祈りにも似て、けれどどこか自己暗示のようでもあった。本当は、晏人自身も、桃恵をとっくに失っていることを認められずにいた。現実を直視する度胸なんて、彼にはなかった。だからこそ、自分自身を騙し続けている。まだ何も終わっていないのだと。あのレコードが回り続ける限り、桃恵は自分の元に帰ってきてくれる。そんな幻想に縋っていた。カウントダウンが終わる。晏人は顔を上げ、赤く充血した目で前を見据えた。その眼差しには、ただ決意だけが宿っている。「点火!」宇宙船のエンジンから炎が吹き上がり、強烈な振動と共に晏人の体はシートに押し付けられる。小さな窓の外を呆然と見つめる晏人。その表情は、もはや魂が肉体から遊離してしまったかのようだった。宇宙船が大気圏を突き抜ける。外からは轟音と震動が絶え間なく襲いかかる。けれど晏人は何一つ感じていない。ただ、手の中のレコードをじっと見つめていた。桃恵との甘い日々が、走馬灯のように脳裏を巡る。晏人の唇には、かすかな苦笑いが浮かんだ。「桃恵……きっと、お前には届くよな?」地上の指令センターからは帰還命令が飛ぶ。「至急、至急!燃料システムに重大な漏洩発生!エンジン温度異常上昇、即時帰還を!」晏人はピクリとも動かず、顔には不気味な微笑みを浮かべていた。「桃恵、桃恵」「誰よりも、俺はお前を愛してる」次の瞬間、空に閃光が走る。凄まじい爆音とともに、宇宙船は火球となって空中で弾け飛んだ。無数の破片が舞い落ち、まるで儚い花火のように夜空を彩る。すべてが終わったあと、残ったのはただ広がる不毛の荒野だけだった。……遥か遠いアイランドで、桃恵は花屋の片隅で、静かにブーケを束ねていた。彼女のスマホに、ひとつのニュース速報が届く。【本日未明、
晏人が悠香を殺害した件は、ついに明るみに出た。警察は手がかりを辿り、あっという間に晏人の関与を突き止めた。だが、彼はすでに浜市を離れ、捜査への協力も拒否していた。その時、彼が向かっていたのは、遥か遠くの砂漠にある宇宙開発センターの衛星発射基地だった。晏人は、有人宇宙船に搭乗し、レコードを交換しにようとしている。必ず無事に戻ってきて、もう一度桃恵の許しを得るんだ。彼は心に誓っていた。この人生で、桃恵を失うことだけは、絶対に許されないのだ。発射基地に到着した晏人の前では、スタッフたちはちょうど最終チェックを行っている最中だった。晏人は発射台の下から、これから乗り込む巨大な機体を見上げる。その瞳には、常軌を逸したような執念が宿っていた。まるで、あれが冷たい機械ではなく、桃恵の心へと通じる唯一の道であるかのように。だが、運命は非情だった。打ち上げ前のルーチンチェックで、燃料系統に原因不明の異常が検知されたのだ。自動診断システムが警報を鳴らし、整備員たちは緊急修理に取りかかった。だが時間が過ぎても、何度もテストを繰り返しても、故障の根源は見つからない。晏人はその場を行ったり来たりし、焦りで心臓が張り裂けそうだった。そのとき、秘書がスマホを差し出してきた。画面には、桃恵がアイランドで挙げた結婚式の写真が映し出されていた。白いワンピース姿の桃恵が、抱えきれないほどの純白のカラーリリーを抱えている。その隣には、涼やかな目元の男性が優しく微笑みかけていた。写真越しにも溢れる、揺るぎない愛情があった。晏人の全身が震え、写真を握る指先には強い力が入り、鋭い紙の端が皮膚に食い込んでも気づかない。「嘘、嘘だ……桃恵が他の男と結婚するなんて、絶対にありえない!」「早くしろ!もっと早く!!」晏人は顔を真っ赤にして、スタッフたちを怒鳴り散らす。「このレコードがどれほど大切かわかっているのか!」「俺の愛を、全世界に聞かせるんだ!」「もし、桃恵がこれを聞いたら、絶対に俺のもとに戻ってきてくれるはずなんだ!」スタッフたちはその異常な様子に恐れおののき、必死になだめるしかなかった。「お客様、どうか落ち着いてください。今のままでは危険すぎます。万全を期さなければ、発射はできません」だが、晏人は耳を貸さ
再び桃恵の消息が届いたのは、それから二ヶ月後のことだった。桃恵はまだアイランドにいるらしい。しかし、もうベリンにはいなくて、もっと田舎の小さな町に引っ越したという噂だった。そこは花が咲き乱れ、どこよりも美しいらしい。晏人はすぐさまアイランドへと旅立った。今度はできるだけ目立たぬように、誰にも気づかれないように。道中、彼はスマホに保存された桃恵の写真を何度も何度も見返した。写真の中の少女は、花のように微笑み、瞳にはきらめく星が宿っていた。晏人の瞳は、期待と不安で満ちていた。ベリンに着いたのは、夜がやっと明け始めた頃。晏人は休む間も惜しんで、桃恵がいるという小さな町へと車を走らせ、そのまま花屋へ向かった。花屋はまだ開店前。晏人は向かいのカフェでコーヒーを一杯頼み、静かに待った。昼近くになると、花屋の前に少しずつ人の気配が現れ始めた。白いワンピースの少女がガラスのドアを開け、店頭に花を並べ始める。晏人は息を呑み、扉の方をじっと見つめる。そして、ついに、彼が昼も夜も思い焦がれた人が現れた。桃恵は、その少女の後ろにいた。少し痩せたようで、長い髪はお団子にまとめられ、前髪が顔を小さく見せていた。シンプルな白いTシャツに七分丈のパンツ。ほっそりした脚が覗いている。変わらず、彼女はとても美しかった。昔のままの、優しい雰囲気。春の柔らかな陽射しの中、桃恵の姿は、晏人の凍てついた心を溶かした。胸が熱くなり、体中の血が震えるような感覚。晏人は思わず立ち上がり、危うくコーヒーをこぼしそうになった。もしかしたら、どこかで心が通じ合っていたのかもしれない。あるいは、動物の本能か、桃恵は胸がドキリと痛み、ふと振り返ると、晏人を見つけた。一瞬、彼女は固まった。笑みは消え、顔がみるみる青ざめていく。そして、思わず一歩後ずさった。晏人はもう我慢できなかった。大股で道路を横切り、桃恵の手首を強く掴んだ。「桃恵……やっと見つけた」「離して!」桃恵は晏人の手を振りほどき、冷たい目で睨みつける。晏人はその冷え切った視線に、胸が締めつけられた。桃恵は、もうずっと前から自分に失望していたのだ。たった一度の再会で許されるなんて思っていない。だから、晏人はその場で花屋の前に膝をつき、桃恵の服の裾をしっか
翌日、秘書がノックして、困った顔で晏人のオフィスに入ってきた。「社長、宇宙ステーションに送ったレコードが止まってしまいました」「どういうことだ?」「再生装置が故障したようですが、今は整備員を派遣する余裕がないそうです」晏人の顔が少し青ざめる。彼は手で秘書を下がらせ、一人きりでぼんやりと椅子に座った。しばらくして、晏人は宇宙旅行会社に電話をかけ、今すぐ宇宙旅行のチケットを買いたいと申し出た。あのレコードには、彼が桃恵に告白した時の録音と、彼女の甘い返事が刻まれている。それは、桃恵との愛の証であり、彼女が唯一消せなかった二人の思い出だった。絶対に、あのレコードを止めてはいけない。誰も直しに行けないなら、自分で行くしかない。どこまでも広がる宇宙に、自分の桃恵への愛を、永遠に残したい。宇宙旅行には莫大な費用が必要だったが、彼はすでに経営に対する関心を失っていた。会社の中はもはや混乱の極み。城ヶ崎グループの財務部長が山のような書類を抱えて説得に来た。「社長、今のプロジェクト、どれも資金繰りが厳しいです。銀行も融資の督促を始めました。このままでは、会社が潰れます!」しかし、晏人は書類に目を通すことすらせず、苛立ったように脇へ投げた。「どうでもいい。俺は宇宙へ行く。金ももう振り込んだ」やがて、株主たちもこの話を聞きつけ、夜通しの緊急会議を開いた。「晏人、お前は正気か!?」「このままじゃ城ヶ崎家グループの資金繰りが完全に詰むぞ!」「会社がこんなに傾いてるのに、残りの金で何しに宇宙なんて行くんだ!」「勝手なことばかりして、俺たちの利益はどうなるんだよ!」晏人は無表情で彼らを見つめ、数枚の書類にサインし、それを机に叩きつけた。「俺の株は全部やる。好きにしろ」株主たちは互いに顔を見合わせ、信じられないといった様子だった。晏人は立ち上がり、一度も振り返らず会議室を出て行った。夜、城ヶ崎家の家族が慌てて会社に駆けつけた。「晏人!お前、何を考えてるんだ!女一人のことでこんなバカな真似をして、狂ってんの?」父親の平手打ちが晏人の頬を打つ。しかし、彼は表情一つ変えなかった。「狂ったよ。俺はもう狂ってる」晏人は口元の血を拭いながら静かに言う。「桃恵がいなくなったあの日から、ずっと狂ってるんだ。
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