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1-2

Author: 海野雫
last update Last Updated: 2025-10-02 11:00:27

 一週間後、響は再び練習室に向かった。

 もう藤堂晴真も諦めただろう。今度は確実に鍵をかけ、誰も入れないようにする。そう決めて、三階の奥の部屋に向かった。廊下には相変わらずどこかから楽器の音が聞こえてくる。響は扉の前で立ち止まり、深呼吸をした。

 扉を開けると、その部屋にはすでに誰かがいた。

 藤堂晴真が、窓際に立っていた。

「よお、やっと来たな」

 響は凍りついた。なんで――なんで、ここにいるんだ。

「……なんで、ここに」

「お前がここに来るの、待ってたんだ」

 藤堂は笑顔を浮かべた。けれどその目は、真剣だった。一週間、ずっとここで待っていたのか――そう思うと、響の胸が締め付けられる。窓から差し込む春の陽光が、藤堂の茶色の髪を照らしていた。

「頼む。お前の曲を、俺に歌わせてくれ」

 響は首を横に振った。

「無理。帰って」

「なんで? お前の曲、本当にすごいんだ。俺、あんなに心を動かされた曲、初めてだった」

「やめてよ……」

 響の声が震える。

「俺の曲なんて、誰も求めてない。気持ち悪いだけだから」

「気持ち悪い?」

 藤堂は眉をひそめた。一歩、響に近づく。

「なに言ってんだよ。お前の曲は美しいよ。誰がそんなこと言ったんだ?」

「……」

 響は答えられなかった。喉が詰まり、涙が溢れそうになる。誰が――誰が、そんなことを言ったのか。思い出したくない。あの日の記憶が、鮮明に蘇ってくる。音楽室の冷たい鍵盤。拒絶の言葉。笑い声。

「帰って。お願いだから」

 響は荷物を掴み、部屋を飛び出した。今度は藤堂が追いかけてきたが、響は走り続けた。階段を駆け下り、音楽棟を出て、キャンパスの外へ。足が勝手に動いていた。ただ逃げることしかできなかった。

 春の風が頬を撫でる。桜の花びらが舞い落ちる。

 響は立ち止まり、空を見上げた。青い空が広がっている。白い雲が流れていく。けれど響の心は、灰色のままだった。

「……なんで、こんなに苦しいんだ」

 誰にも聞こえない声で、響は呟いた。

 音楽だけが響の居場所だった。けれど、誰かに聴かせることは、怖かった。また傷つけられるのが、怖かった。

 藤堂晴真の言葉が、また響く。

「お前の曲を、俺に歌わせてくれ」

 響は、胸に手を当てた。心臓が、激しく鼓動している。

 ――あの人は、本当に俺の曲を求めているのだろうか。

 それとも、また裏切られるだけなのだろうか。

 響にはわからなかった。しかし、ひとつだけ確かなことがあった。

 藤堂晴真の声を聞いたとき、響の心は――ほんの少しだけ、動いたのだ。

 その夜、響は部屋で新しい旋律を紡いでいた。

 いつもと違う、少しだけ明るい和音。けれどすぐに短調へと転調し、再び孤独の色に染まる。響の指は鍵盤を這い、旋律は部屋中に響き渡る。モニターの光が、響の横顔を青白く照らしていた。

 響は保存ボタンを押し、ヘッドホンを外した。

 窓の外では、夜桜が静かに咲いている。街の灯りが、桜の花びらを淡く照らし出す。どこかで誰かが笑い、どこかで誰かが愛を語らっている。車の音、遠くの電車の音、街の喧騒――それらすべてが、響の部屋の外で鳴り響いている。

 響は窓辺に立ち、外を見つめた。

 もしも――藤堂晴真が本当に、響の曲を求めているのなら。

 もしも、響の音楽が誰かの心を動かせるのなら。

 もしも――。

 響は、まだ答えを見つけられないでいた。

 けれど――心の奥で、なにかが変わり始めていた。

 それは小さな、とても小さな変化だった。けれど確かに、響の心に光が差し込み始めていた。扉に手をかけたまま立ち去らなかった藤堂の姿が、響の脳裏に浮かぶ。あの真剣な目、あの声。

 響は窓を閉め、再び鍵盤に向かった。新たな旋律が、響の指先から紡ぎ出される。それは孤独の中にも、ほんの少しだけ希望を含んだ音色だった。

 短調の中に、長調の和音が一瞬だけ混ざる。それはまるで、暗闇の中に差し込む一筋の光のようだった。響は目を閉じ、その音に耳を傾けた。

 音楽は、まだ響を裏切らない。

 けれど――もしかしたら、音楽はもう、響をひとりにしておかないのかもしれない。

 響は、その可能性に怯えながらも、どこか期待している自分に気づいていた。

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  • 響きあうカデンツァ   第四章 理解者の声

     ライブから三日後、響は大学の音楽理論の講義を受けていた。 教授の声が遠くに響く。黒板には複雑な和声進行が書かれているが、響には内容が頭に入ってこない。チョークが黒板を叩く音だけが、妙に大きく感じられる。 藤堂の歌声が、まだ耳に残っている。 あの夜、藤堂は響の音楽を守った。笑った観客に怒りをぶつけ、響の曲の美しさを訴えた。そして、観客たちは最終的に拍手を送った。 ――本当に、自分の音楽は受け入れられたのだろうか。 それとも、藤堂の力だっただけなのだろうか。 響は自信が持てなかった。心の奥底に、まだ疑念が残っている。 講義が終わり、響は荷物をまとめた。周囲の学生たちが立ち上がり、教室が雑踏に包まれる。その時、隣の席に座っていた女子学生が声をかけてきた。「篠原くん、少し話せる?」 振り返ると、ピアノ科の佐伯美咲が微笑んでいた。長い黒髪を後ろで結び、清楚な雰囲気を纏う彼女は、響と同じ二年生だった。いつも静かに講義を受けている姿を見かけるが、話したことはほとんどない。「……何?」「お茶、付き合ってくれない? 話したいことがあるの」 美咲の声は穏やかだが、その目には強い意志が宿っていた。 響は戸惑った。美咲とは同じクラスだが、これまで言葉を交わしたのは数えるほどしかない。だが、断る理由も見つからなかった。「……いいけど」「ありがとう。じゃあ、学内のカフェで」 二人は講義棟を出て、学内カフェへ向かった。初夏の陽射しが眩しい。カフェは昼休みの学生たちで賑わっており、談笑する声や笑い声、食器の音が響いている。響は人混みを避けるようにして、窓際の隅の席に腰を下ろした。 美咲はコーヒーを二つ持ってきて、響の前に座った。カップから立ち上る湯気が、二人の間で揺れていた。「実はね」 美咲は穏やかな笑みを浮かべた。「金曜日、藤堂くんのライブに行ったの」 響の心臓が跳ねた。手のひらが、じんわりと汗ばむ。「『ひとりの夜に』、とても素敵だったわ」

  • 響きあうカデンツァ   3-3

     金曜日の夜。 響は再び、ライブハウス「月光」に向かった。梅雨の晴れ間で、夜空には星が瞬いている。前回と同じ席に座り、ステージを見つめる。 客席には、前回よりも多くの観客が座っていた。藤堂の人気が、少しずつ広がっているのだろう。ざわめく声、笑い声、期待に満ちた空気。 やがて照明が落ち、ステージに光が集まった。藤堂が登場する。彼は客席を見渡し、響を見つけると、小さく頷いた。その笑顔は、いつもより緊張しているようにも見えた。 ライブが始まった。一曲目、二曲目と、藤堂は力強く歌う。観客は盛り上がり、手拍子をし、声援を送る。藤堂の歌声は、会場全体を包み込んでいた。 そして、三曲目。 藤堂がマイクを握り、静かに語り始めた。「次の曲は、俺にとって特別な曲です」 会場が静まる。観客たちが、藤堂の言葉に耳を傾ける。「大切な人が作ってくれた、とても美しい曲。初めて歌います」 響の心臓が跳ねた。手のひらに汗が滲む。「聴いてください――『ひとりの夜に』」 静かなピアノの伴奏が流れ始める。響が作った旋律だ。音が会場に広がっていく。 そして、藤堂が歌い始めた。 ひとりの夜に 僕は歌う 誰にも届かない この想い 響は息を呑んだ。 藤堂の歌声は、やさしく、切なく、響の心に直接語りかけてきた。それは、響が曲に込めた孤独を、痛みを、そして――誰かを求める切実な想いを、すべて包み込んでいた。 闇の中で 光を探して 君の名前を 呼び続ける 観客たちは静かに聴き入っている。誰も声を出さず、ただ藤堂の歌に耳を傾けている。会場全体が、一つの呼吸をしているようだった。 だが、その時だった。 客席の後方から、小さな笑い声が聞こえた。「なんだよこの曲、暗すぎだろ」「ホントだよね。なんか、気持ち悪い」 響の体が凍りついた。血の気が引く。 ――やっぱり。 やっぱり、笑われた。

  • 響きあうカデンツァ   3-2

     翌日、響は大学を休んだ。 部屋に閉じこもり、パソコンの前に座る。だが、作曲は何も進まなかった。鍵盤に指を置いても、音が浮かばない。頭の中は、藤堂のことでいっぱいだった。 携帯電話が震えた。画面には藤堂の名前が表示されている。『今日、来てないけど大丈夫?』 響は既読をつけたまま、返信しなかった。指が動かない。何を返せばいいのか、わからなかった。 しばらくして、また携帯電話が震えた。『昨日はごめん。無理に聞き出そうとした。でも、俺の気持ちは変わらない。お前の曲を歌いたい』 響は携帯を伏せた。画面の光が消える。 その日、藤堂からは何度もメッセージが届いた。だが、響は一度も返信しなかった。読むことさえ、できなかった。 夜になり、響は窓を開けた。外は雨が降っていた。雨粒が窓ガラスを叩き、街の灯りを滲ませる。梅雨の匂いが部屋に流れ込んでくる。 響は雨音を聞きながら、藤堂のことを考えていた。 ――あの人は、本当に自分の曲を歌いたいのだろうか。 それとも、ただの同情なのだろうか。 響にはわからなかった。誰かの優しさを、素直に受け取る自信がなかった。 * 三日後、響は大学に戻った。 講義に出て、図書館に行く。いつもの日常に戻ろうとした。しかし、藤堂のことが頭から離れなかった。彼の言葉が、繰り返し響く。 昼休み、響は学食を避けて購買でパンを買い、音楽棟の階段に座って食べた。誰も来ない場所だ。窓から見える空は、梅雨の合間の晴れ間を見せていた。 だが、やはり藤堂は現れた。「いた」 藤堂は少し疲れた顔で、響の隣に座った。目の下に薄い隈ができている。「……なんで、ここがわかったんだ」「探したんだよ。三日間、ずっと」 藤堂は小さく笑った。その笑顔は、いつもより控えめだった。 響は何も言えなかった。三日間、自分を探していたという事実が、胸に重く響く。「なあ、響」

  • 響きあうカデンツァ   第三章 拒絶と誘い

     曲を渡してから一週間が経った。 響は大学の図書館で、いつものように音楽理論の本を読んでいた。だが、文字は頭に入ってこない。藤堂がどんな歌詞を書いているのか、どんな風に歌うのか――それが気になって、集中できなかった。 渡してしまったのだ。 自分の心の奥底まで、他人に託してしまった。 響は本を閉じ、窓の外を見つめた。初夏の陽射しが眩しい。キャンパスでは学生たちが思い思いに過ごしている。芝生に座り込んで談笑するもの、楽器を抱えて練習室へ向かうもの、恋人と腕を組んで歩くもの――みな、普通の日常を生きている。 自分もかつては、そういう日常を夢見ていた。誰かと笑い合い、心を通わせ、愛し合う。だが、高校でのあの出来事が、すべてを変えた。「響、いた!」 突然、背後から声がかけられた。振り返ると、藤堂が笑顔で立っていた。白いTシャツが初夏の光に映えており、手には楽譜のような紙の束を持っていた。「……なんの用」「歌詞、できたんだ」 藤堂は嬉しそうに楽譜を広げた。周囲から「静かに」という視線が突き刺さる。響は小さく身を縮めたが、藤堂はまったく気にする様子もなく続けた。「見てくれよ」 響はためらいながらも、楽譜を受け取った。そこには、丁寧な字で歌詞が書き込まれていた。インクの色にも濃淡があり、何度も推敲を重ねた跡が伺えた。 ひとりの夜に 僕は歌う 誰にも届かない この想いを 闇の中で 光を探して 君の名前を 呼び続ける 響は息を呑んだ。歌詞は、まるで響の心を読んだかのようだった。孤独、渇望、そして――誰かを求める切実な想い。自分が旋律に託した感情が、言葉になって目の前にある。「どう?」 藤堂が期待に満ちた目で尋ねる。その瞳は、まっすぐに響を見つめていた。「お前の曲に合ってるかな」「……どうして、こんな歌詞が書けるんだ」 響の声は震えていた。藤堂はきょとんとした顔をした。

  • 響きあうカデンツァ   2-4

     月曜日。 響は大学に着くと、すぐに音楽室へ向かった。約束の時間まではまだ一時間あったが、落ち着かなくて、早めに来てしまった。廊下を歩く足音が、妙に大きく聞こえる。 音楽室には誰もいなかった。響はアップライトピアノの前に座り、USBメモリをぎゅっと握りしめた。手のひらに汗が滲む。 ――本当に、渡していいのだろうか。 迷いが、また湧き上がってくる。だが、もう引き返せない。藤堂は本気で、自分の曲を求めている。それに応えないのは、失礼だ。 そう自分に言い聞かせていると、扉が開いた。「おはよう、響!」 藤堂が笑顔で入ってきた。その明るさに、響の緊張が少しだけ和らいだ。「……おはよう」「で、曲は? 持ってきてくれた?」 藤堂は期待に満ちた目で響を見た。響は無言でUSBメモリを差し出した。その手が、わずかに震えている。「これに、入ってる」「ありがとう!」 藤堂はうれしそうにそれを受け取った。「早速聴いていい?」「……好きにしろ」 藤堂は音楽室のオーディオ機器にUSBメモリを接続し、再生ボタンを押した。 静かなピアノの旋律が、部屋に流れ始める。 響は藤堂の反応を見ないようにした。見るのが怖かった。もし、彼が顔をしかめたら。もし、「やっぱり暗い」といったら。心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。 曲は三分ほどの短い作品だった。だが、響にとっては、自分の心そのものだった。孤独の夜に流した涙、誰にも言えなかった想い、そして――消えない傷。すべてが、この旋律に込められている。 曲が終わった。 沈黙が流れる。 響は息を止めて、藤堂の言葉を待った。時間が永遠のように感じられる。 しばらくして、藤堂が口を開いた。「……すごい」 響は顔を上げた。藤堂は目を輝かせて、響を見ていた。その瞳には、驚きと感動が宿っている。

  • 響きあうカデンツァ   2-3

     ライブ後、響は会場の外で藤堂を待った。他の観客たちが次々と帰っていく中、響はビルの前でじっと立っていた。夜風が頬を撫で、遠くから酔客の笑い声が聞こえてくる。初夏の夜は心地よく、街路樹の葉が風に揺れている。 しばらくして、藤堂が出てきた。汗を拭きながら、響を見つけると満面の笑みを浮かべた。「響! 来てくれてたんだな!」「……ああ」「どうだった?」 藤堂は期待に満ちた目で響を見つめた。まるで、子供が親に褒めてもらいたがるような、純粋な期待。響は少し迷ったあと、小さく頷いた。「……よかった」「マジで!?」 藤堂はうれしそうに響の肩を叩いた。「ありがとう! なんか、本当に歌った甲斐があった」「……最後の曲」 響は顔を逸らしながらいった。「あれ、よかった」「だろ? あれ、お前のために選んだんだ」 響は驚いて藤堂を見た。藤堂は照れくさそうに頭を掻いた。「お前の曲を聴いたら、自然とああいう雰囲気の歌を歌いたくなったんだ。お前にこの想いが届いていたら、うれしい。伝わったかな?」 響の胸が、また熱くなった。こんなふうに、誰かが自分のために何かをしてくれたことなんて、これまでなかった。家族以外で、自分のことを考えてくれる人がいるなんて、思いもしなかった。「……あの歌声なら」 響は小さく呟いた。「俺の曲も、歌えるかもしれない」 藤堂の目が大きく見開かれた。数秒の沈黙のあと、彼は興奮した様子で響の手を握った。その手は温かく、力強かった。「本当か!?」「……条件がある」「なんでも聞く!」 響は藤堂を真っすぐ見つめた。夜の街灯が、二人の顔を照らしている。「俺の曲を笑わないこと。気持ち悪いとか、暗いとか、そういうことをいわないこと」「当たり前

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