LOGIN月曜日。
響は大学に着くと、すぐに音楽室へ向かった。約束の時間まではまだ一時間あったが、落ち着かなくて、早めに来てしまった。廊下を歩く足音が、妙に大きく聞こえる。
音楽室には誰もいなかった。響はアップライトピアノの前に座り、USBメモリをぎゅっと握りしめた。手のひらに汗が滲む。
――本当に、渡していいのだろうか。
迷いが、また湧き上がってくる。だが、もう引き返せない。藤堂は本気で、自分の曲を求めている。それに応えないのは、失礼だ。
そう自分に言い聞かせていると、扉が開いた。
「おはよう、響!」
藤堂が笑顔で入ってきた。その明るさに、響の緊張が少しだけ和らいだ。
「……おはよう」
「で、曲は? 持ってきてくれた?」
藤堂は期待に満ちた目で響を見た。響は無言でUSBメモリを差し出した。その手が、わずかに震えている。
「これに、入ってる」
「ありがとう!」
藤堂はうれしそうにそれを受け取った。
「早速聴いていい?」
「……好きにしろ」
藤堂は音楽室のオーディオ機器にUSBメモリを接続し、再生ボタンを押した。
静かなピアノの旋律が、部屋に流れ始める。
響は藤堂の反応を見ないようにした。見るのが怖かった。もし、彼が顔をしかめたら。もし、「やっぱり暗い」といったら。心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。
曲は三分ほどの短い作品だった。だが、響にとっては、自分の心そのものだった。孤独の夜に流した涙、誰にも言えなかった想い、そして――消えない傷。すべてが、この旋律に込められている。
曲が終わった。
沈黙が流れる。
響は息を止めて、藤堂の言葉を待った。時間が永遠のように感じられる。
しばらくして、藤堂が口を開いた。
「……すごい」
響は顔を上げた。藤堂は目を輝かせて、響を見ていた。その瞳には、驚きと感動が宿っている。
「すごいよ、これ。めちゃくちゃ美しい」
「……本当に?」
「本当に」
藤堂は力強く頷いた。
「悲しいけれど温かい。孤独なのに、どこか誰かを求めている。そんな気持ちが、強く伝わってくる」
響の目が、潤んだ。胸の奥で、何かが溢れそうになる。
「もう一回、聴いていい?」
藤堂は再生ボタンを押した。再び、旋律が流れる。
藤堂は目を閉じ、じっと聴いている。その表情は真剣で、まるで曲の中に入り込んでいるようだった。体を微かに揺らし、旋律に身を委ねている。
曲が終わると、藤堂は大きく息を吐いた。
「この曲、歌詞はあるの?」
「……ない。インストゥルメンタルのつもりだった」
「じゃあ、歌詞つけてもいい? 俺が」
響は驚いた。
「……君が?」
「うん」
藤堂は頷いた。
「この曲に、言葉を乗せたい。お前の音楽に、俺の言葉を重ねたい」
響は迷った。自分の曲に、他人の言葉が乗る。それは、自分の心を誰かに翻訳されるようなものだ。もし、その言葉が自分の想いと違っていたら――。
だが、藤堂の真剣な表情を見て、響は頷いた。
「……わかった。任せる」
「ありがとう!」
藤堂はうれしそうに響の手を握った。
「絶対、いい歌にする。お前の曲を、俺の声で届ける」
響は、藤堂の温かい手を感じながら、小さく微笑んだ。その笑顔は、この数年間で初めて心から浮かんだ、本物の笑みだった。
――もしかしたら、これが始まりなのかもしれない。
自分の音楽が、誰かとつながる。そんな未来への、小さな一歩。
窓の外では、太陽が雲の間から顔を出していた。朝の光が音楽室に差し込み、ピアノの黒い表面を照らす。
部屋の中に、光が差し込んでくる。
響は、久しぶりに希望を感じていた。それは儚くて、今にも消えてしまいそうなものだったが――確かに、そこにあった。
藤堂は響の手を握ったまま、もう一度曲を再生した。二人は並んで、その旋律に耳を傾けた。
孤独の旋律が、もう孤独ではなくなり始めていた。
それは、二人の楽章の始まりだった。
日本への帰国便の中、響たちは信じられない知らせを受けた。 キャビンアテンダントが慌ただしく近づいてきて、「皆様がニュースになっています」と告げた。機内WiFiで確認すると、世界中のメディアが一斉に報じていた。『Resonating Hearts』がビルボード総合アルバムチャートで一位を獲得したという、日本のアーティストとして史上初めての快挙だった。 さらに、同時に世界十数か国のチャートでも一位を記録した。これは、ビートルズ以来の偉業だといわれている。 成田空港に降り立つと、想像を超える光景が待っていた。 到着ロビーは報道陣とファンで埋め尽くされ、凄まじい熱気に包まれている。警備員が必死に通路を確保しているが、人々の興奮は抑えきれないようだった。フラッシュの光が絶え間なく瞬き、歓声が空港中に響き渡る。 急遽設けられた記者会見場も、立ち見が出るほどの盛況だった。世界的な成功を収めたRESONANCEへの注目度の高さがうかがえた。「世界一位の感想は?」 記者の質問に、響が答える。マイクを持つ手が、かすかに震えていた。「正直、まだ実感がありません。でも、音楽に国境はないということを証明できて、本当に嬉しい。応援してくださったすべての方に、心から感謝しています」「今後の活動予定は?」 晴真が答える。その声には揺るぎない自信が感じられた。「まずは感謝の気持ちを込めて、国内ツアーを行います。そして世界で得た経験を生かし、さらに進化した音楽を作っていきたい」 その後、久しぶりに自分たちのスタジオに戻った四人は、改めて今回の成功を噛みしめていた。 見慣れたスタジオが、なぜか新鮮に感じられる。ここから世界に飛び立ち、そして戻ってきた。同じ場所なのに、違って見えるのは、自分たち自身が変わったからかもしれない。「信じられねぇな」 北川がギターを抱えながらいう。「俺たちが世界一だなんて」「でも、まだこれがゴールじゃない」 田中がスティックを回しながらいう。「むしろスタートラインに立った
デビュー後に行われたワールドツアーは大成功を収めていた。 ロンドンのO2アリーナ、ベルリンのメルセデス・ベンツ・アリーナ、ローマのパラロットマティカ、マドリードのウィズィンク・センター……どの都市でも、会場は熱狂の渦に包まれた。観客は英語の歌詞は一緒に口ずさみ、日本語の曲でもリズムに合わせて体を揺らしながら楽しんでいた。 音楽に国境はない――その言葉を、響は身をもって実感していた。 パリ公演を終えた夜、響と晴真は二人でセーヌ川沿いを歩いていた。 ライブの興奮がまだ体に残っている。アンコールで演奏した新曲に、パリの観客が総立ちになった光景が、まぶたの裏に焼き付いている。 石畳の道は、街灯のオレンジ色の光に照らされて温かく輝いている。古い石の表面に刻まれた無数の傷が、何世紀もの歴史を物語っていた。川面にはライトアップされたエッフェル塔が映り込み、その光が水の流れと共に揺らめいて、まるで生きた絵画のようだった。ノートルダム大聖堂の鐘が、遠くで厳かに時を告げている。 晴真が突然立ち止まった。 ポン・ヌフ橋のたもと、セーヌ川が最も美しく見える場所だった。その横顔は、街灯の光を受けて神秘的に見える。瞳には、今まで見たことがないような決意と、そして緊張が宿っていた。「響」 名前を呼ぶ声が、夜の静寂に染み込んでいく。川面を渡る風が、二人の髪を優しく撫でた。「どうしたの? 急に立ち止まって」 響が心配そうに晴真の顔を覗き込むと、晴真は深く息を吸った。その胸が大きく上下するのが見える。まるで、これから人生で最も重要な瞬間を迎えるかのような緊張感が、全身から放たれていた。「ここまで来られたのは、お前のおかげなんだ」 晴真は響の両手を取った。その手のひらは汗ばんでいて、微かに震えている。響は晴真がこんなに緊張しているのを見たことがなかった。ステージで何万人の前で歌う時でさえ、こんな表情は見せたことがない。「あの日、音楽棟の練習室で初めてお前の曲を聴いた瞬間、俺の世界は完全に変わった」 晴真の声が、感情を押し殺すように震えている。「
マイケルの件が片付いてから、レコーディングは驚くほど順調に進んだ。 まるで重い鎖から解放されたように、晴真の声は本来の輝きを取り戻していた。スタジオに響く歌声は、以前よりもさらに深みを増し、聴く者の魂を震わせるような力を持っていた。 ジェシカのプロデュースは的確で、RESONANCEの持つ可能性を最大限に引き出していた。彼女は音楽の技術的な側面だけでなく、メンバーの心理状態にも細やかに配慮していた。「あなたたちの音楽の強みは、その感情の純粋さよ」 ミキシングルームで、ジェシカは完成間近のマスター音源を聴きながら語った。巨大なミキサー卓の無数のフェーダーとノブが、まるで宇宙船のコックピットのように複雑に並んでいる。モニターから流れる音は、これまでのRESONANCEを超えた、新しい次元に達していた。 低音の深み、高音の透明感、そして何より、聴く者の心に直接語りかけるような感情の波。それは音楽を超えた、何か神聖なものさえ感じさせた。「技巧に走らず、心の叫びをストレートに表現する。それが言語の壁を越えて、世界中の人々の心に響く理由」 ジェシカの言葉に、響は深く頷いた。音楽の本質とは、結局のところ、人と人の心を繋ぐことなのだ。 アルバム『Resonating Hearts』には全十二曲が収録されている。日本語版と英語版の両方が収められた意欲作だ。曲順も丁寧に計算されており、聴く人を一つの物語へと引き込む構成となっている。特に英語版の歌詞は、晴真の発音の良さが引き立ち、ネイティブスピーカーでも違和感なく聴くことができるクオリティに仕上がった。 最終マスタリングの日、メンバー全員がコントロールルームに集まった。エンジニアが最後の調整を終え、「これで完成です」と告げた瞬間、自然と全員から拍手が沸き起こった。 リリース前夜、響はホテルの自室で眠れずにいた。 ベッドに横たわっても、興奮と不安で目が冴えている。窓の外には、ロサンゼルスの夜景が宝石をちりばめたように広がっている。無数の光が瞬く街を見下ろしながら、これから起こることへの期待と不安が入り混じった感情に襲われていた。 自分たちの音楽が、世界中の
朝のロサンゼルスは、薄い霧に包まれていた。 スタジオへ向かう道すがら、響は昨夜の晴真の言葉を噛みしめていた。「マイケルがまた現れて、執拗に付きまとってくる」――晴真の疲れ切った声が、胸の奥で重く響いている。 スタジオの入り口に着くと、いつもと違う雰囲気が漂っていた。黒塗りの高級車が数台停まり、スーツ姿の人々が行き交っている。朝の柔らかい光の中で、その光景はどこか現実味がなく、非日常的に映った。 入り口でジェシカが深刻な表情で誰かと話し込んでいる。相手は見慣れない初老の男性――グレーのスーツを着た、威厳のある人物だった。その肩幅の広さと真っすぐな背筋は、長年権力の中枢にいる人間特有の存在感を放っている。隣には、レーベルの上層部と思われる数人が控えていた。「響、おはよう」 男性が響に気づいて声をかけてきた。落ち着いた、しかし有無をいわせぬ重みのある声。それは優しさと厳格さを同時に含んでいて、響は思わず背筋を正した。「はじめまして。私はデイビッド・ハリスです。このレーベルで西海岸の統括責任者を務めています」 差し出された手は、大きくて温かかった。握手をしながら、響はこの人物が只者ではないことを直感的に理解した。デイビッドはジェシカやマイケルの上司にあたる人物だ。普段はニューヨーク本社にいるため、ロサンゼルスに来ることはほとんどない。その彼がわざわざ現れたということは、よほど深刻な事態なのだろう。 朝の空気が、急に重くなったように感じられた。「何かあったんですか?」 響の問いに、ジェシカが疲れた表情で答えた。その瞳の下には、薄くくまができている。昨夜遅くまで、この件で動いていたのだろう。「マイケル・ジョンソンのことよ」 響の胸がざわつく。昨夜、晴真から聞いた話が頭をよぎった――またマイケルがスタジオに現れて、「上層部から意見を求められている」と言い訳をして晴真に付きまとっていたという。晴真の震えていた声、疲れ切った表情が、鮮明に蘇る。「実は、私から正式に苦情を申し立てたの」 ジェシカの声には、普段の穏やかさはなく、プロフェッショナルと
翌朝早く、まだ夜明け前の暗いうちから、響は荷物をまとめ始めた。 カーテンの隙間から、街灯の光がかすかに差し込む。ロサンゼルスの街は、夜でも完全に暗くなることはない。どこかで車の音がして、遠くでサイレンが鳴っている。 身の回りの物だけをスーツケースに詰める。服、洗面用具、パスポート。楽譜や作曲ノートは、すべてスタジオに残すことにした。もし晴真が必要になったら、それを使ってほしいと思った。 三年間の思い出が、次々と頭に浮かんでくる。 初めて一緒に作った曲。大学の音楽室で、夜遅くまで二人でピアノを囲んでいた。晴真が即興で歌詞をつけ、響がそれに合わせてコードを変えていく。完成した時、二人で顔を見合わせて笑った。 初めてのライブ。緊張で手が震えていた響の手を、晴真がそっと握ってくれた。『大丈夫、響の曲は最高だから』その言葉に、どれだけ救われたか。 初夏の夜、大学のキャンパスでの初めてのキス。発表会が終わった後、興奮冷めやらぬ二人は中庭を歩いていた。噴水の水音が静かに響き、月明かりが石畳を照らしていた。晴真が立ち止まり、響の手を取った時、世界が止まったように感じた。 東京ドームで五万人を前に演奏した時の興奮。ステージから見える無数のペンライトは、まるで星空のようだった。演奏が終わった後、晴真が響を抱きしめて『やったな、響』と囁いた。 すべてが、かけがえのない宝物だった。 でも、もうそれも終わりだ。 震える手で、手紙を書いた。何度も書き直し、涙で文字が滲む。ホテルの便箋に、万年筆で一文字ずつ丁寧に書いていく。『晴真へ 突然いなくなって、ごめん。 でも、これが一番いい方法だと思った。 晴真の才能は、世界レベルだ。 もっと優秀なプロデューサーや作曲家と組めば、 きっとスーパースターになれる。 自分のような中途半端な人間は、晴真の隣にいる資格なんてない。 三年間、本当に幸せだった。 晴真と出会えて、一緒に音楽を作れて、 愛し合えて、それは俺の人生の宝物だ。
その週末、響は美咲にメールを送った。日本との時差を考慮し、向こうの昼間に届くように送った。『美咲、相談がある。晴真のことなんだけど……』 すぐに返事が来た。美咲は昔から、レスポンスが早い。『篠原くん、どうしたの? 何かあった?』 響は、マイケルの言葉や、自分の不安を正直に打ち明けた。画面に向かって指を動かしながら、涙が零れそうになる。長文のメールになってしまったが、美咲はすぐに返信をくれた。『篠原くん、それは違うと思う。私、大学時代から二人を見てきたけど、藤堂くんが一番輝いてるのは、篠原くんと一緒にいる時だよ』 美咲のメールは続いた。『覚えてる? 大学の時の発表会。藤堂くんが篠原くんの曲を歌った時、会場中が涙してた。あれは技術じゃない。二人の心が通じ合ってたからこそ、生まれた感動だった』『確かに、技術的にもっと優秀な作曲家はいるかもしれない。でも、藤堂くんが求めてるのは、技術じゃなくて、心が通じ合える音楽なんじゃないかな。篠原くんの曲には、藤堂くんへのまっすぐな気持ちが込められている。それが一番大事なんだと思う』 美咲の言葉に、響は涙が出そうになった。画面が滲んで、文字が読めなくなる。『でも、俺のせいで晴真のチャンスを潰してるかも』『それは藤堂くんが決めることでしょう? 篠原くんが勝手に決めつけちゃダメだよ。ちゃんと話し合った?』 美咲の指摘は的確だった。響は、晴真と向き合うことから逃げていた。自分の不安を、晴真にぶつけることが怖かったのだ。『それに、篠原くん。愛って、相手の幸せだけを考えることじゃないと思う。一緒にいることで、お互いが幸せになれる。それが本当の愛なんじゃない?』 美咲の最後の言葉が、響の心に深く刺さった。 けれど月曜日になっても、響の態度は変わらなかった。 朝のスタジオは、カリフォルニアの強い日差しで明るく照らされていた。機材の金属部分が光を反射し、きらきらと輝いている。しかし、響の心は晴れることがなかった。 スタジオでは晴真を避け続け、休憩時間