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2-2

Auteur: 海野雫
last update Dernière mise à jour: 2025-10-04 19:00:28

 その後も、藤堂はほぼ毎日響に話しかけてきた。

 廊下で会えば挨拶をし、図書館で見つければ隣に座り、購買で会えば一緒に歩く。響は最初、鬱陶しいと思っていた。だが次第に、藤堂の存在に慣れていった。

 藤堂は不思議な男だった。明るく、人懐っこく、誰とでも仲良くなれる。響とは正反対の性格だ。だが、藤堂は響を無理に変えようとはしなかった。ただ、そばにいてくれた。響が黙っていても、藤堂はそれを責めない。響が素っ気ない態度を取っても、藤堂は変わらず笑顔で受け止めてくれる。

 ある日の放課後、響が図書館で音楽理論の本を読んでいると、藤堂が隣に座った。窓の外では、夕日が校舎を赤く染め始めている。

「難しそうな本、読んでるな」

「……関係ない」

「まあな。俺、理論とか苦手だし」

 藤堂はあっけらかんと笑った。

「でも、お前はそういうの好きなんだろ?」

「……まあ」

「すごいよな。俺、感覚で歌ってるから、理論とか全然分かんないんだ」

 響は本から顔を上げて、藤堂を見た。

「それでよく歌えるな」

「歌は心だからさ」

 藤堂は笑った。

「技術も大事だけど、最後は気持ちだと思うんだ。お前の曲だって、理論だけじゃないだろ? 感情が入ってる」

 響は何も言えなかった。藤堂の言葉は、核心を突いていた。響が作る曲には、確かに理論以上のものが込められている。孤独、苦しみ、誰にも言えない想い――それらすべてが、旋律の中に溶け込んでいる。

「なあ、金曜日のライブ、やっぱり来てくれないか?」

 藤堂は真剣な顔でいった。その瞳には、懇願にも似た光が宿っている。

「お前に、俺の歌を聴いてほしい。そうすれば、俺がお前の曲を歌いたい理由がわかると思うんだ」

 響は迷った。行くべきだろうか。でも、行ったら――何かが変わってしまう気がする。今の距離感が崩れ、もっと深い関係に引きずり込まれるような、そんな予感がする。

「……行くよ」

 響は小さく呟いた。自分でも驚いた。なぜ、そんな言葉が出たのか。

「マジで!?」

 藤堂は飛び上がるように喜んだ。

「ありがとう! 絶対後悔させないから!」

 図書館の司書に注意され、藤堂は照れ笑いを浮かべた。響は本に視線を戻したが、文字が頭に入ってこなかった。胸が高鳴り、手のひらに汗が滲む。

 ――なんで、承諾してしまったんだろう。

 響は自分の心が、少しずつ開き始めているのを感じていた。それが喜びなのか、恐怖なのか、まだ判断がつかなかった。

 *

 金曜日の夜。

 響は約束通り、藤堂が指定したライブハウス「月光」に向かった。繁華街の雑居ビルの地下にある小さな会場だ。ネオンが瞬く夜の街を歩きながら、響は何度も引き返そうかと思った。だが足は、自然と目的地へと向かっていた。

 階段を下りると、薄暗い空間に二十人ほどの観客が座っていた。壁には音楽ポスターが貼られ、空気には煙草とアルコールの匂いが混じっている。

 響は隅の席に座り、ウーロン茶を注文した。周囲の観客は友人同士で楽しそうに話している。響だけが、ひとりだ。いつものことだ。だが今夜は、胸の奥に小さな期待が灯っている。

 やがて照明が落ち、ステージに光が当たった。歓声が上がり、藤堂が登場する。

 白いシャツに黒いジャケット。マイクを握り、観客に笑いかける藤堂は、いつもとは違って見えた。どこか大人びて、堂々としている。普段の親しみやすさはそのままに、しかしそこに確かなプロフェッショナリズムが加わっていた。

「みんな、来てくれてありがとう!」

 藤堂の声が会場に響く。その声は、力強く、温かかった。響は思わず身を乗り出した。

 最初の曲が始まった。アップテンポのポップスで、観客は手拍子をしながら盛り上がる。藤堂は笑顔でステージを駆け回り、全身で歌う。その動きには無駄がなく、すべてが音楽と一体化しているようだった。

 響は、その姿に圧倒された。

 藤堂の歌声には、技術だけではない何かがあった。情熱、喜び――そして、どこか切なさも混じっている。彼は歌うことで、何かを探しているようだった。あるいは、何かを埋めようとしているようだった。

 二曲目、三曲目と進むにつれ、響は藤堂の世界に引き込まれていった。藤堂は歌うことで、人々の心に触れている。藤堂の歌は、観客を笑顔にし、ときには涙を誘い、勇気づけている。観客たちの表情が、曲ごとに変化していく。

 ――この人は、本当に歌が好きなんだな。

 響の胸が、熱くなった。自分が作曲に向かうときの気持ちと、同じものを感じる。音楽に対する純粋な情熱。それは、嘘をつけないものだ。

 曲と曲の合間、藤堂は軽快なトークで観客を楽しませた。

「次の曲は、失恋ソングです! 俺、まだ失恋したことないんだけどね!」

 観客が笑う。藤堂も笑う。だが、響にはその笑顔の奥に、何か寂しげなものが見えた気がした。まるで、誰かに必要とされることを求めているような――そんな影が、一瞬だけ瞳の奥に浮かんだような気がした。

 そして、ライブの終盤。藤堂がステージ中央に立ち、静かに語り始めた。照明が落ち、スポットライトが彼だけを照らす。

「最後に、バラードを歌います。この曲は……俺が最近、大切に思ってる人のために選びました。その人は、音楽の本当の意味を教えてくれた。今日、来てくれてるといいんだけど」

 藤堂の視線が、客席の響を捉えた。二人の目が合う。藤堂は微笑み、そしてゆっくりと歌い始めた。

 静かなピアノの伴奏に乗せて、藤堂の声が会場を包み込む。

 『もしも君が、孤独に震えているなら

 僕の声が、届けばいいのに

 言葉じゃ伝わらない、この想いを

 歌に込めて、君に捧げよう

 響は息を呑んだ。藤堂の歌声は、優しく、切なく、まるで響の心に直接語りかけてくるようだった。それは技巧を凝らしたものではなく、ただ真っすぐに、誰かのために歌う声だった。

 ――この声なら。

 響の心に、確信が芽生えた。

 ――この声なら、自分の曲を託してもいいかもしれない。

 藤堂は目を閉じ、全身で歌っている。その姿は、まるで祈るようだった。誰かのために歌う。ただそれだけのために、彼は舞台に立っている。

 響の目頭が、熱くなった。胸の奥で、何かが溶けていくような感覚がある。長い間凍りついていたものが、藤堂の歌声に触れて、少しずつ温もりを取り戻していく。

 曲が終わると、会場は静寂に包まれた。誰もが息を呑み、藤堂の歌の余韻に浸っている。

 そして、次の瞬間、割れんばかりの拍手が響いた。

 響も、気づけば拍手していた。目頭が熱くなるのを感じながら、響は手を叩き続けた。こんなふうに、誰かの歌に心を動かされたのは初めてだった。

 藤堂は深々と頭を下げ、そして顔を上げた。その目は、まっすぐ響を見ていた。

 ありがとう、と藤堂の唇が動いた。

 響の胸は、激しく高鳴った。

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