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いつか霧が晴れる日まで

いつか霧が晴れる日まで

Oleh:  四果Tamat
Bahasa: Japanese
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病院で中絶手術を終えて出てきたばかりの時、私は夫の柊朔帆(ひいらぎ さくほ)にメッセージを送った。 【子どもをおろしたよ】 すると、即座に返信が来た。【了解】 私はその文字を見つめ、ふと可笑しさを覚えた。 ここ数年、危険な現場に出る前に連絡を入れても、返ってくるのは【了解】。 二十四時間連絡がつかなかったら私を探してほしいと伝えておいても、返ってくるのは【了解】だった。 私が土砂崩れに巻き込まれ、冷たい土の下に生き埋めになって、丸七十二時間も連絡が途絶えていたあの時、極度の恐怖の中、私は朔帆へ309通もの助けを求めるメッセージを送った。 それに対して彼が返してきたのは、309個の【了解】だった。 そこでようやく気がついたのだ。今まで送られてきていたのは、すべて機械的な自動返信だったのだと。 朔帆は私のメッセージなど読んでいなかった。 だから当然、半月前に送った言葉も知らないはずだ。 私が海外赴任を引き受けること、そして今日、子どもをおろすということも。 彼の活力と熱量のすべては、昔から、SNSを埋め尽くすあの女にだけ注がれていたのだ。 【千日目の記念日。そして夕依の誕生日でもある】 添えられた画像は、彼と倉田夕依(くらた ゆい)のトーク画面のスクリーンショットだった。 びっしりと並んだ何万通ものやり取りの最上部には、二人が千日間、一日も欠かさずメッセージを送り合ったことを示す「連続トーク千日」の特別なアイコンが輝いていた。 私はその投稿に「いいね」を押した。 そしてコメントを残す。【いい日だね】 それは二年前、私が土砂崩れから九死に一生を得た日。 そして何より、私が朔帆と完全に縁を切ると決めた日でもあった。

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Bab 1

第1話

病院で中絶手術を終えて出てきたばかりの時、私は夫の柊朔帆(ひいらぎ さくほ)にメッセージを送った。

【子どもをおろしたよ】

すると、即座に返信が来た。【了解】

私はその文字を見つめ、ふと可笑しさを覚えた。

ここ数年、危険な現場に出る前に連絡を入れても、返ってくるのは【了解】。

二十四時間連絡がつかなかったら私を探してほしいと伝えておいても、返ってくるのは【了解】だった。

私が土砂崩れに巻き込まれ、冷たい土の下に生き埋めになって、丸七十二時間も連絡が途絶えていたあの時、極度の恐怖の中、私は朔帆へ309通もの助けを求めるメッセージを送った。

それに対して彼が返してきたのは、309個の【了解】だった。

そこでようやく気がついたのだ。今まで送られてきていたのは、すべて機械的な自動返信だったのだと。

朔帆は私のメッセージなど読んでいなかった。

だから当然、半月前に送った言葉も知らないはずだ。

私が海外赴任を引き受けること、そして今日、子どもをおろすということも。

彼の活力と熱量のすべては、昔から、SNSを埋め尽くすあの女にだけ注がれていたのだ。

【千日目の記念日。そして夕依の誕生日でもある】

添えられた画像は、彼と倉田夕依(くらた ゆい)のトーク画面のスクリーンショットだった。

びっしりと並んだ何万通ものやり取りの最上部には、二人が千日間、一日も欠かさずメッセージを送り合ったことを示す「連続トーク千日」の特別なアイコンが輝いていた。

私はその投稿に「いいね」を押した。

そしてコメントを残す。【いい日だね】

それは二年前、私が土砂崩れから九死に一生を得た日。

そして何より、私が朔帆と完全に縁を切ると決めた日でもあった。

……

私、森川秋楓(もりかわ しゅうか)は重い足取りで家に戻り、部屋に入るなりそのままベッドへ倒れ込み、泥のように眠った。

ひと眠りして目を覚ますと、下腹部の痛みはようやく少しだけ和らいでいた。

まだ慣れない。

お腹の奥も、この真っ暗な家も、何もかもが空っぽだった。

私は無意識にスマホを手に取り、朔帆へ連絡しかけた。

もう深夜三時だ。どうしてまだ帰ってこないのか、そう聞くつもりだった。

ロックを外し、画面いっぱいに並ぶ【了解】の文字を見た瞬間、ようやく頭が冷えた。

もう二年近く経つというのに、まだあの自動返信に慣れずにいる自分が可笑しかった。

玄関のほうで、鍵を開ける音がした。

私が廊下へ出ると、ちょうど朔帆が服を脱いでいるところだった。びしょ濡れの上着を放り投げ、朔帆は言った。

「夕依が俺の手作りの煮込み料理を食べたいって言うから届けてきた。帰る途中で降られたよ」

「こんな時間まで起きてたのか」

私は淡々と答えた。「うん」

朔帆はそのまま浴室へ向かいながら聞いた。「今日は病院で何してたんだ」

彼はドライヤーを取り出し、コンセントに差し込んで電源を入れた。

「中絶してきたの」

その声は、ドライヤーの音にかき消された。

朔帆はいつもそうだった。私に話す隙すら残さない。

私は朔帆の首元に目をやった。

赤い紐が、白いシャツの下からいつも薄く透けて見える。

真夏でも上に一枚羽織ってまで隠すくせに、絶対に外そうとはしない。それは夕依が買い物をしたとき、店でもらったおまけの景品にすぎないのに。

私はドアの枠にもたれて聞いた。「朔帆、結婚指輪はどうしたの」

朔帆はドライヤーを止め、髪をかき上げた。「外した。締めつけられる感じが嫌なんだよ」

「だったら、その紐は」

わかりきったことを、私はあえて口にした。

「それとは別だろ。こっちは柔らかいし、指輪は手に当たって邪魔なんだよ。ああいうのを喜んでつけるのは、お前くらいだ」

私は自分の薬指を見た。

結婚指輪。

本物なら、とっくの昔に外している。今つけているのは、通りすがりの店先で買った二百円の安物で、ひどく安っぽい偽物だった。

朔帆はそれにすら気づいていない。

気づけないほど、長く私を見ていなかった。もうずっと、私の手すら握っていないのだから。

「もういい。早く寝ろ」

朔帆は私の頭をひと撫でして背を向け、そのままゲストルームへ入っていった。

私が妊娠してから、私たちは同じベッドで寝なくなった。

自分は寝る時間が遅いから、私の睡眠を邪魔したくない。朔帆はそう言い訳していた。

けれど実際は、毎晩、夜勤明けの夕依を迎えに行き、外で軽く何か食べてから彼女の住まいまで送り、家に戻るのはいつも深夜二時か三時だった。

それで終わりではない。

帰宅したあとも、ふたりはメッセージのやり取りを続けていた。

一度、明け方に目が覚めてトイレへ立ったとき、ゲストルームの灯りはまだついていた。中からはキーボードを叩く音と、低い笑い声が漏れていた。

以前の私なら、きっと扉を開けていた。

何をそんなに夜通し話すことがあるのかと、問いただしていたはずだ。

夜通し話して、それでも尽きない話題なんて、本当にこの世にあるのだろうか。

それならどうして朔帆は、私の前では口を失ったみたいに黙り込むのだろう。

でも、もうどうでもよかった。

スマホの画面が光り、海外赴任に関する確認事項が表示された。

私は「承認」を押し、部屋へ戻ってまた眠りについた。

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第1話
病院で中絶手術を終えて出てきたばかりの時、私は夫の柊朔帆(ひいらぎ さくほ)にメッセージを送った。 【子どもをおろしたよ】 すると、即座に返信が来た。【了解】 私はその文字を見つめ、ふと可笑しさを覚えた。 ここ数年、危険な現場に出る前に連絡を入れても、返ってくるのは【了解】。 二十四時間連絡がつかなかったら私を探してほしいと伝えておいても、返ってくるのは【了解】だった。 私が土砂崩れに巻き込まれ、冷たい土の下に生き埋めになって、丸七十二時間も連絡が途絶えていたあの時、極度の恐怖の中、私は朔帆へ309通もの助けを求めるメッセージを送った。 それに対して彼が返してきたのは、309個の【了解】だった。 そこでようやく気がついたのだ。今まで送られてきていたのは、すべて機械的な自動返信だったのだと。 朔帆は私のメッセージなど読んでいなかった。 だから当然、半月前に送った言葉も知らないはずだ。 私が海外赴任を引き受けること、そして今日、子どもをおろすということも。 彼の活力と熱量のすべては、昔から、SNSを埋め尽くすあの女にだけ注がれていたのだ。 【千日目の記念日。そして夕依の誕生日でもある】 添えられた画像は、彼と倉田夕依(くらた ゆい)のトーク画面のスクリーンショットだった。 びっしりと並んだ何万通ものやり取りの最上部には、二人が千日間、一日も欠かさずメッセージを送り合ったことを示す「連続トーク千日」の特別なアイコンが輝いていた。 私はその投稿に「いいね」を押した。 そしてコメントを残す。【いい日だね】 それは二年前、私が土砂崩れから九死に一生を得た日。 そして何より、私が朔帆と完全に縁を切ると決めた日でもあった。……私、森川秋楓(もりかわ しゅうか)は重い足取りで家に戻り、部屋に入るなりそのままベッドへ倒れ込み、泥のように眠った。 ひと眠りして目を覚ますと、下腹部の痛みはようやく少しだけ和らいでいた。 まだ慣れない。 お腹の奥も、この真っ暗な家も、何もかもが空っぽだった。 私は無意識にスマホを手に取り、朔帆へ連絡しかけた。 もう深夜三時だ。どうしてまだ帰ってこないのか、そう聞くつもりだった。 ロックを外し、画面いっぱいに並ぶ【了解】の文字を見た瞬間、ようやく頭が冷え
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第2話
朔帆の話し声で目が覚めた。 キッチンでは、朔帆がスマホの画面を見ながら妊婦向けの食事を作っていた。その手を動かしたまま、眠れない夕依のために電話越しで歌まで聞かせている。 ずいぶん器用なものだと思った。 私が来たのに気づくと、朔帆はそこでようやく通話を切った。 「温かい飲みもの、置いてあるぞ」 私は返事をしなかった。 テーブルの前に座ると、静かになったぶんだけ気が緩み、そのまま少しうとうとした。 「起きろ。朝飯だ」 朔帆が朝食を並べる。 私がお箸に手を伸ばした瞬間、朔帆の手が伸びてきて、その手を軽く弾いた。 「待て。写真撮るから」 軽いシャッター音が鳴った。朔帆は画面を数回操作し、そのまま夕依へ送信した。 それから箸を私の手へ戻した。「ほら、食え」 急に食欲が消え失せた。 私は椅子の背にもたれたまま聞いた。「なんであの女に送るの」 朔帆は何でもないことのように答えた。「見たいって言うから。若い子はそういうの、珍しがるんだよ。俺がお前に買った部屋着のことまで聞いてきたくらいだしな」 私は言った。「それで、また彼女に写真を送ったのね」 朔帆の手が止まった。 私の顔色を窺ったのだろうが、言い訳ひとつしない。 「見たわ。あなたが彼女の家に遊びに行って撮った写真。私と同じ部屋着を着てた」 肌が透ける、レースの細い肩紐のものだった。 写真の中で、夕依は男の腕に無造作に体を預けていた。少し俯けば胸元が大きく開く。そういう写り方を、確信犯に見えた。 そんなことは一度や二度ではない。 夕依はずっと、私と自分を並べたがっていた。 同じようなゆるい巻き髪にして、同じ色の口紅を選ぶ。 私と朔帆が出先で作った伝統工芸品の扇子まで、同じものが欲しいとせがんだ。 手作りの品なのだから、完全に同じものなど作れるはずがない。 それでも夕依が甘えると、朔帆は私たちの扇子をすり替えた。 自分の手で記念日を刻んだ私の扇子は、そのまま別の女へ渡ったのだ。 「私は嫌だった」 朔帆は肩をすくめた。「大げさだな。そんなことで拗ねるなよ。 お前のデザインが好きで、憧れてるって言ってるだけだろ。同じものを持ちたがって何が悪いんだ」 私は黙った。 怒るなら、きっとここだった。 昔の私な
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第3話
海外赴任の前に、ちょうど社内の懇親会が入った。 幹事がグループチャットに連絡を流してきたのを見て、私は行く気をなくした。だが断りを入れる前に名指しでメンションされてしまった。私の送別会も兼ねているから来てほしいという。 そこまで言われてしまえば断りにくい。 私は朔帆へ電話をかけた。「今夜、会社の集まりがあるの。パートナー同伴が必要で、いないと向こうで適当に組まれるみたい。来られる?」 電話の向こうはひどく騒がしかった。 「聞こえねえ。ちょっと待て……」 ざわついた音が少し遠のく。 「もういい。言ってくれ」 「今どこにいるの」 「夕依と公演に来てる」少し間を置いて、彼は付け加えた。「前から楽しみにしててさ。やっと席が取れたんだって。一緒に行くはずだった相手がだめになったから、俺が代わりだ」 「そう」 私は乾いた笑いをこぼした。「別に、ただ聞いただけ。説明しなくていいよ」 受話口の向こうで、朔帆の息がわずかに重くなった。 私はさっきの懇親会の話をもう一度したが、朔帆は明確な返事をしないまま電話を切った。 夜になり、私は会社の前で朔帆を待った。 一時間過ぎても誰も来ない。 風が強く、小雨が斜めに吹きつけ、濡れたパンツの裾が脚に張りついて気持ちが悪かった。私はいったん中へ戻って着替えた。 会場へ戻ると、朔帆はもう席についていた。 ただし、夕依の隣で。夕依のエスコート役として。 「秋楓さん、こっちです!」 夕依が明るく手を振る。 その円卓は皆ふたり組で、ひとりきりなのは私だけだった。立ったままいるのもいたたまれず、離れようとしたところを担当者に押し戻された。 「秋楓、旦那さんあそこだろ。早く行って座りなよ」 私はそのまま、朔帆の目の前へ立たされた。 担当者は朔帆へ笑いかけた。「パートナーが来たぞ。立って迎えないのか」 朔帆が動くより前に、夕依が朔帆の腕へ親しげに手を回した。「朔帆さんは、今日は私のパートナーなんです」 朔帆は否定もせず、軽くうなずいた。 担当者は私とふたりを気まずそうに見比べ、ひとまず朔帆の横へ私を座らせた。「まあ大したことじゃない。すぐ別の相手を探してくるから」 私は朔帆を見つめた。心中は穏やかではなかった。 先に声をかけたのは私だ。
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第4話
二年前、夕依が休みを取った日、私は彼女が担当する図面を持って現場確認に向かった。 朝から激しい雨が降っていた。 人の少ない現場で、私は図面を見ながらぬかるんだ泥の上を進んだ。夕依の引いた図面を信じきっていたから、足元ばかり見ていた。入り込んではいけない危険な区画へ入っていたことにも気づかなかったのだ。 次の瞬間、頭上から土砂が崩れ落ちてきた。 全身が一気に押し潰され、私はそのまま土の下へ生き埋めになった。 上から崩れた土砂を、一枚の大きなコンクリート板がぎりぎりで受けてくれていた。それがなければ、息をしていられなかったと思う。 何も見えなかった。耳の中では、自分の荒い息と狂ったような心臓の音だけが暴れていた。どこがどう痛いのかもわからなかった。右腕は折れているようだった。動けないまま、左手だけで泥の中を探り、やっとスマホに触れた。 空間が狭すぎて、指先しか動かせない。 私は指の感覚と記憶だけを頼りに、ピン留めされたトーク画面を開き、朔帆へ手探りでメッセージを打った。 体から力がどんどん抜けていく。 泣き声が喉の奥で潰れ、噛み切った舌から血の味がした。それを涙と一緒に飲み込んだ。頭の中は朔帆のことばかりで、声に出ないまま朔帆の名前ばかり呼んでいた。送信ボタンだけは何度も何度も押した。 【朔帆……怖い、助けて……私、死にたくない……】 時間の感覚はとうに失われていた。 気を失って、少し意識が戻って、また泣いた。途中でスマホの電源が切れたことすら知らなかった。 朔帆が絶対にメッセージを見てくれて、誰かを呼んで私を助けに来てくれると、ずっと信じていた。 意識が完全に落ちる寸前まで、私は朔帆の名前を呼んでいた。 私を助けに来るのは、絶対に朔帆だと思っていたのだ。 土の中から引き上げられたのは、三日後だった。 救助隊が最後の土をどかし、私は外へ出された。その時には、心臓もほとんど止まりかけていた。 救急隊員がその場で私の緊急連絡先に電話をかけた。朔帆の番号だった。 八回目のコールでようやくつながった。 だが、電話に出たのは朔帆ではなかった。 「何度もかけてこないでよ。寝てるんだから」 若い女の声だった。 かけ直しても、今度は途中で切られ、そのまま着信拒否された。 私は
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第5話
夕依は前に立ち、わざとらしく頬を赤らめながら最初の問いを口にした。 「もし過去に戻れるとしたら、今とは違う恋愛を選びますか?」 場がざわついた。 私は足を組み、スマホの画面で明日のフライトを選んでいた。自分には全く関係のない話のように聞き流していた。 朔帆は少し戸惑った顔をして、首を横に振った。 その答えに、夕依の口元から笑みがスッと消える。 「次は朔帆さんの番です」朔帆は尋ねた。「夕依の一番好きな食べ物は何だ?」 夕依はすかさず得意げに答えた。「それ、朔帆さんが一番よく知ってるんじゃないですか?」 その親しげな言い方に、周囲からヒューヒューと囃し立てる声が上がった。 隣に座っていた上司が、気まずそうに私の肘をつついてきた。「旦那さん、呼ぼうか。ふたりで先に帰ればいい」 私はそこでやっとスマホから顔を上げた。 「結構です。どうせ今日が終われば、もう夫ではなくなりますから」 私は立ち上がって会場の外へ出た。 背中に朔帆の強い視線を感じたが、扉が閉まるとそれも完全に途切れた。 私はまっすぐ家へ戻った。 少し遅れて、朔帆も帰ってきた。 「機嫌悪いのか」 近づいて私を抱き寄せようとしたその体を、私は横へずらして避けた。 「別に」 「嘘だろ」 朔帆は私の顔を覗き込んだ。「秋楓、付き合い長いんだぞ俺たち。お前が何考えてるかくらいわかる。 少し口を尖らせただけで、何が食べたいのかも当てられるんだ」 私は何も言い返さず、ただ静かに朔帆を見つめていた。 見られ続けて、朔帆の余裕が少しずつ崩れていくのがわかった。 「なんだよ。何がしたいんだ」 「一番よくわかってるなら、当ててみれば?」 私がふっと笑うと、朔帆は露骨に安堵して気を抜いた。 そのまま重いため息をつき、ソファへ座り込む。 「俺にそばにいてほしいって顔してる。わかったよ、二日くらい休みを取るから。前に言ってただろ。お参りにでも行って、子どものこと願いたいって。一緒に行くか」 私は何も言わず、そのまま部屋へ戻って寝た。 翌朝、朔帆は早くから家を出ていった。 昼近くになっても戻らない。SNSで見かけた投稿で、昨夜飲みすぎた夕依が帰りに転んで怪我をしたと知った。朔帆はそのまま夕依の家に入り浸り、看病の世
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第6話
朔帆から「了解」以外の文章が届いたのは、これが初めてのことだった。 私は思わず笑ってしまった。 今ごろ家に戻って、テーブルの上のあの書類を見つけた朔帆がどんな顔をしているのか、ありありと目に浮かんだ。 スマホの本体は、熱を持つほど激しく震え続けた。 通知が次々と重なり、画面の半分以上が朔帆の文字で埋め尽くされていく。 【秋楓、どこ行った。意地張るな】 【なんで離婚なんだよ】 【子どもまでおろすなんて、お前ほんとに頭おかしくなったのか】 【俺は絶対に認めない】 …… 【返事しろ。どこにいる】 【ふざけてるのか。全然笑えないぞ】 …… 【俺と夕依はやましい関係じゃない】 【戻ってこい。ちゃんと話そう】 【頼むから居場所だけ教えろ。秋楓、お前どこだ】 怒り、責め立て、そしてだんだんとパニックになり怯えていくのが文面から痛いほど伝わってきた。 それでも、私からの返事はひとつもない。 私は指先を画面の上に浮かせたまま、しばらくピクリとも動かなかった。 二年前、冷たい土の下に生き埋めになっていた時も、私はこうしてメッセージを送っていた。 震える指で、朔帆へ何度も何度も送った。全部で、三百九通。それに対して返ってきたのは、三百九個の「了解」という冷酷な自動返信だけだった。 あの時は怖かった。死ぬのも、体が痛いのも怖かったし、何より、もう二度と朔帆に会えなくなることがいちばん怖かった。 でも、今は違う。もう何も怖くなかった。 機内にアナウンスが流れ、電子機器の通信を切るよう促された。 私は迷わず朔帆の連絡先を着信拒否し、残っていた彼のデータもすべてまとめて削除した。 機体がゆっくりと浮き上がる。 窓の外で、見慣れた街の灯りが遠ざかっていき、細かな光の粒になり、やがて雲に遮られて完全に見えなくなった。 私は静かに目を閉じた。 お腹の中にいた子のことを思うと、鼻の奥がツンと痛んだ。 この先の未来を、私は何度も考えたことがある。 朔帆との間に子どもが生まれて、家族三人でキャンプに行き、子どもと蝶を追いかけて走り回る。少し離れた場所では、朔帆がキャンプ場でバーベキューの支度をしている。そんな場面を、幾度となく思い描いた。 けれど、どうやっても無理だった。 父親
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第7話
飛行機が着いた時には、もう深夜だった。 私はスーツケースを引いて到着口を出た。 迎えの人波には、名前を書いたボードを掲げる人も、抱き合う恋人も、笑って手を振る家族もいた。私はその間を一人で通り抜け、少しだけ取り残されたような気分になった。 会社の担当者から連絡が入っていた。住まいは手配済みで、鍵は警備室に預けてあるという。 私は「承知しました」とだけ返し、通りでタクシーを拾った。 窓の外では見知らぬ街の灯りが流れていく。色のにじんだ看板も、交差点も、走る車も、全部が初めて見る景色だった。 部屋に着いて身支度を済ませ、ベッドに入った。 それでも眠れない。 何度寝返りを打っても、眠気は訪れなかった。 目を閉じるたび、過去の暮らしの切れ端が勝手に脳裏に浮かぶ。止めようとしても止まらない。 きれいに忘れられるとは思っていなかった。 長く一緒にいたぶん、急に何もかもが消え去るわけがない。少しずつ記憶が薄れていくのを待って、一人の時間に慣れていくしかないのだ。 私は起き上がり、スマホを手に取った。着信拒否の設定画面から、朔帆との過去のやり取りを開く。 私は画面をスクロールして、一通ずつメッセージを追った。 【朔帆、今日魚を買ったよ。夜、家で食べる?】 【午後からひどく降るみたい。出かけるなら傘、忘れないでね】 【ちょっと具合悪い。熱っぽいかも。早く帰れる?】 【現場で少し問題が出たから、見に行くかもしれない】 【今から出るね】 画面に並んでいるのは、全部私の一方的な言葉だった。 その後ろに、全部、あの「了解」という機械的な自動返信がついていた。 私はしばらく画面を見つめていた。 いつからだろう。 いつから朔帆は、私の言葉をまともに読まなくなったのか。 仕事が立て込んでいた。通知が多すぎた。次は気をつける。朔帆はいつもそう言い訳をしていた。 私は毎回、それを信じた。 信じるたび、自分のほうが重い女なのだと思い込もうとした。気にしすぎで、求めすぎで、物分かりが悪いのだと。私は聞き分けの良い妻になろうとした。だから連絡を減らし、彼に迷惑をかけないように努めた。 やがて私自身も、そんな些細な日常は返事をもらう価値などないものだと思うようになっていた。魚を買ったくら
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第8話
一か月休んでから、新しい会社に入った。 報酬は前よりずっとよかった。私はベテランとして迎えられ、主な仕事は新人の指導になった。日中は彼らに教え、手が空けば自分の好きな図面やデザインを描く。忙しすぎず、静かすぎず、ちょうどいい日々だった。 一人で食事をすることにも、一人で買い物をすることにも、一人で部屋にいることにも、私は少しずつ慣れていった。 仕事も暮らしも、ようやく自分の手の中に戻ってきた。そうして二年が過ぎた。 昔の記憶は輪郭を失い、朔帆の顔も前ほどはっきりと浮かばなくなった。 私は昇進し、本部長になった。 その日、社内でささやかな祝いの席が開かれた。前に立って拍手を受けながら、私はピンと背筋を伸ばした。 今の私には、充実した仕事がある。広くて快適な住まいがある。気持ちよく働ける仲間が周りにいる。 休みの日は展示会を見に行って、散歩をして、思いついたことを誰に気兼ねすることなくそのままやれる。 誰かの冷たい一言に一喜一憂して眠れなくなる夜は、もう来なかった。 誰かの偏った優しさに心を削られることも、もうなかった。 ときどき、以前の同僚から噂話が流れてきた。 朔帆は狂ったように私を探しているらしかった。皆、私の赴任先のことは黙ったまま、決して教えずにいてくれたという。だから朔帆は、広い世界の中からあてもなく私を探すしかなかった。 この二年、朔帆はいろいろな土地を歩き回ったらしい。 仕事を辞め、前の住まいも引き払って、小さな部屋だけを残した。私の残した持ち物を全部箱に詰め、行く先々へ持ち歩いていたという。 夕依とも完全に縁が切れたと聞いた。 彼女が何度泣いて縋りに来ても、朔帆は一切取り合わなかった。 夕依が贈ったあの赤い紐も、もう身につけていない。 ただ結婚指輪だけは、また左手にはめていた。痩せ細ったせいでサイズが合わず、薬指で緩く揺れていたという。 友人たちが「もうやめろ」と説得しても、朔帆は目を赤くして黙り込み、しばらくしてから一言だけ漏らしたらしい。 「でも、秋楓に会いたいんだ」 それを聞いても、私の心の中は凪のように静かだった。 しばらく探せば、そのうち諦めるだろう。そう思っていた。 昔の朔帆は、何かに執着して粘るような人間ではなかったからだ。 だからこそ、ほ
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第9話
何でもない、ありふれた朝だった。 いつものように会社へ向かい、オフィスのビルの前まで来たところで、私は朔帆を見つけた。 街路樹の下にしゃがみ込んでいた。 黒いコートを着て、髪は乱れ、顎には無精髭がうっすらと伸びている。目を閉じたままのその顔はひどく青白く、目の下には濃い隈が沈んでいた。 私は何も言わず、その脇を通り過ぎた。 足元で乾いた落ち葉が割れた音がして、朔帆が跳ねるように目を開けた。目の奥には、まだ眠りの濁りが残っていた。 私を見た途端、慌てて立ち上がろうとして、足をもつらせ、何度も雪の上に転んだ。枝に引っかけたのか、コートの裾がビリッと裂けた。 「秋楓……待ってくれ……」 彼はようやく状況を理解し、早足で追いかけてきて、声はひどく掠れていた。 私は足を止めなかった。 立ち去ろうとした私を、朔帆が飛びつくように背後から腕を回してきた。 鼻先に、懐かしい木の香りがかすめた。昔は深く安心できた匂いなのに、その日はただ気分が悪くなるだけだった。 私は嫌悪感で身をよじった。 それでも朔帆は決して離そうとしない。腕は鉄の輪みたいに固く、力任せに私を締めつけた。離れていた時間ごと体の中へ押し込もうとしているみたいで、息が詰まった。。 「会いたかった……二年、探した……もう、狂っておかしくなりそうだった…… 悪かった。ほんとに俺が悪かった。もう二度とあんなふうにしない。だから、一回だけでいいから…… お前がいないとだめなんだ……!」 私は体に回された彼の指を一本ずつ無表情に剥がし、氷の刃のような視線をその顔に突き刺した。朔帆の体がそこでこわばった。 「消えて」 それだけ言い捨てて、私はビルの中へ入った。その日、朔帆はずっと外に立ち尽くしていた。 こちらの同僚たちは誰も彼を知らない。窓際に集まって、雪の中に立ったままの男を珍しそうに見下ろしていた。 「あの人、ずっといるよ」 「外は氷点下何十度だよ。大丈夫なの?」 「見たことないけど、結構イケメンだね。もしかしてクズ男が誰かに許しを乞いに来たんじゃない?」 好き勝手な憶測の声が飛ぶ。 朔帆は頭を下げたまま、膝の高さまで積もる雪の中でピクリとも動かなかった。肩にも白く雪が積もり、コートは湿って重く垂れ下がっていた。
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第10話
それから数日、朔帆は姿を見せなかった。 あの異常な寒さで倒れて、慣れない土地の病院に放り込まれれば、さすがに懲りて帰るかもしれない。私はそう思っていた。 ところが、間もなくして彼は再び姿を見せた。会社の下、通り、ついには私の住まいの前まで現れた。 腕には買ってきた魚を抱えていた。私に食事を作りたいと言うのだ。 その日は外での接待の帰りで、私は酒が残っていた。玄関先で力ずくで押し返しきれず、そのまま家の中へ入られてしまった。 頭がひどく重く、追い出す気力も湧かなかった。 私は靴を脱ぎ捨て、ソファへ深く沈み込んだまま命令するように言った。 「酔いざましのしじみ汁を作って。あと、足湯のお湯を用意して、足も洗って」朔帆はうれしそうに、弾かれたように動いた。 湯を運び、私の足を持ち上げ、濡れた足の甲や指の間を丁寧に拭いていく。 思えば朔帆は、もともとこういう甲斐甲斐しいことができる男だった。 帰れば温かい手料理があり、疲れていれば手首に温かいタオルを当て、目元も休ませてくれた。 その優しさを向ける相手が、途中で私ではなくなっただけだ。 もしあのまま道を踏み外さなければ、私たちはほんとうに一生を共にしていたかもしれない。 私は確かに、何もかも投げ出せるくらい、まっすぐに彼を愛していたのだ。 「今から魚を煮るよ」 そう言って台所へ立った朔帆を残し、私はそのまま眠りに落ちた。 目が覚めると、部屋は静まり返り、コンロの火だけが生きていた。朔帆は台所に立ち尽くして鍋を見ていた。目は真っ赤に充血し、顔つきはひどく疲弊している。 私はゆっくりとテーブルへ移った。 朔帆は器を出し、スプーンを置き、スープをよそい、そして昔と全く同じ手つきで私の髪を優しくまとめ、前髪をピンで留めてくれた。 「もういい。帰って」 朔帆の顔が強張った。 「もう少し待ってくれないか……お前が飲むところ見たら帰る。ほんとにそれで帰るから……」 私はうんざりして眉間を押さえた。 「出ていって」 朔帆は動かなかった。 私は器をつかみ、そのまま熱い魚のスープを朔帆の体へ思い切り浴びせた。 煮えた汁とほぐれた身が首元から胸へ落ち、服にべったりと貼りついた。朔帆は反射で肩を引いたが、逃げようとはしなかった。熱さに声も出さな
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