Share

第0012話

Author: 龍之介
綿は、目の前で輝明が嬌の手を掴み、自分を見捨てる瞬間を見届けた。落下する感覚と共に、心の奥がじわじわと冷たくなっていく。

結局のところ、彼は一度も自分を選んだことがなかった。どんなに傷ついても、どんなに痛みをこらえても——

「綿ちゃん!」

嬌の声が遠くで響く。しかし、綿の意識は次第にぼやけ、階段の途中で身体を打ちつける激しい衝撃とともに、全身に鋭い痛みが走った。

うっすらと目を開くと、視界の端に輝明と嬌の姿が映る。見下ろしてくる二人の表情は冷たく、まるで関係のない他人を見るような無関心さがあった。

胸が苦しい。痛いのは、身体よりも、心のほうだった。

どんな言葉よりも、この光景がすべてを物語っていた。

「嬌ちゃんは数日前、お前に水に突き落とされたばかりなのに、今度は殴って階段から突き落とすつもりだったのか」輝明の低い声が、冷たく響く。「桜井綿、お前は本当にひどい女だな」

綿はまつげを震わせ、無意識に笑った。

——笑うしかなかった。

次の瞬間、涙が静かに頬を伝う。

ほら、やっぱりそうだ。彼は、どんな時でも嬌を信じる。どんな時でも、悪いのは自分。

理由なんてどうでもいい。ただ、嬌が傷つけば、彼にとっての答えは決まっていた。

「明くん……綿ちゃんも、きっとわざとじゃなかったの。ただ、きっと……つらかっただけ……」

嬌が、泣きそうな顔で言う。まるで彼女がこう言うことで、綿の罪が少し軽くなるとでも言うように。

「だからって、お前を傷つけていい理由にはならないだろう?」輝明の声がさらに冷たくなる。「嬌、お前は優しすぎる。そんなことじゃ、あいつはどこまでもつけ上がる」

嬌は涙を拭いながら、俯いた。

「明くん、ごめんなさい……迷惑をかけちゃって……」

彼女の言葉を聞き、輝明は自分の声が厳しすぎたことに気づく。すぐに表情を和らげ、「嬌ちゃん、お前が悪いわけじゃない。お前は、俺にとって決して迷惑なんかじゃない」と、優しく言った。

――当然だろう。

あの日、輝明が誘拐されたとき、嬌は彼を救うために命を懸けた。彼にとって嬌は「どんなことがあっても守るべき存在」だった。

たとえ何をしても、どんなことがあっても、彼は嬌を守る。それが彼の「ルール」。

嬌はまだ涙の跡を残したまま、彼を見上げる。「じゃあ……綿ちゃんのこと、もう責めないであげてくれる?」

頬には赤く腫れた手形が残り、それが彼女の痛みを物語っていた。

――自分だって、こんなに傷ついているのに。

それでも、なお、綿をかばう。

一方で、綿はどうだろう。ただ、自分の正当性を主張するだけ。強がるばかりで、誰の優しさも受け入れようとしない。

それが、嬌と綿の「違い」。

輝明は小さく息を吐き、嬌の髪を優しく撫でながら、「わかった。お前の言うとおりにする」と言った。

綿は、その光景をただ見つめていた。

――心が、引き裂けそうだった。

指先が震える。気づけば、手のひらには爪が食い込み、血が滲んでいた。

壁に手をつき、なんとか立ち上がる。痛みが、頭の奥にじんじんと響いた。

そっと額に触れると、熱い血が指先に絡みついた。熱く、鋭く、容赦のない痛み。

もう、限界だった。

唇を噛み、声にならない嗚咽を飲み込む。涙が、頬を伝い落ちる。

もし、最初から知っていたら――

顧妄琛を愛することが、こんなにも自分を傷つけることだと知っていたら――

きっと、決して愛さなかった。

輝明の視線が、綿を捉える。

彼女の肩は震え、涙は止まることなく流れ落ちていた。

――なぜか、胸がざわついた。

けれど、そんな感情を振り払うように、彼はすぐに冷静さを取り戻した。

「桜井綿、二度とここに現れるな!」

鋭く突き刺さるような言葉が、彼女の心をえぐる。

綿は彼を見上げた。その瞳に、もはや何の期待もなかった。

「私は彼女を殴ってもいないし、突き落としてもいない。信じるか信じないかは、あなた次第よ」

「事実は目の前にあるんだ。お前はいつも、自分を正当化しようとする」

冷たい声が響いた次の瞬間、彼は彼女の喉元を強く掴んだ。

「桜井綿、お前に心がないのか?」

鋭い視線が、氷のような怒りを宿していた。

何度言っても、彼女は嬌を傷つける。そのたびに、嬌は綿をかばい続ける。それなのに、綿は――

もし、綿が嬌に優しくできるなら――

もし、綿が嬌を受け入れるなら――

彼もこんなふうに、何度も何度も、彼女に冷たい言葉を浴びせる必要なんてなかったのに。

綿はそれを、知っているはずなのに。

喉元を締めつけられながらも、綿の瞳は揺らがない。ただ、じっと彼を見つめる。

涙が一筋、輝明の手の甲に落ちた。

――熱い。

彼を見上げ、かすかに唇を動かす。

「高杉輝明……心がないのは……あなただよ」

その言葉に、彼の眉がぴくりと動いた。

胸の奥で、言いようのない怒りが燃え上がるのを感じた。

「監視カメラがあるでしょう?確認してみたら?

綿は鼻をすすり、涙を飲み込みながらまっすぐに輝明を見つめた。

「何度同じことを繰り返すつもり?いつもちゃんと確かめもしないで、最初から私を悪者にする。あなたの『大事な人』が本当はそんなに優しい人じゃないって知るのが怖いの?それとも、私を誤解していたって気づくのが嫌なの?」

嬌の表情が一瞬にして強張った。

監視カメラ――その存在を思い出した途端、心臓が跳ねる。

綿は、一瞬言葉を失ったままの輝明にさらに一歩近づき、その鋭い視線を突き刺すように向ける。「どうする?」

綿は彼を押しのけ、階段の上に立つ嬌を見上げた。

「本当に演技が上手ね」

「綿、お前……!」

輝明がすぐさま綿の腕を掴み、低く怒鳴った。

「嬌に向かってそんな口をきくな! すぐに謝れ!」

「謝る?絶対に無理」綿は冷たく笑った。

綿は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに唇の端を持ち上げ、静かに笑った。

「謝る? そんなの、絶対に無理ね」

二人の視線が絡み合う。

かつては愛に満ちていた綿の瞳は、今や冷たく、暗闇のように深い絶望を湛えていた。

彼女は唇を軽く歪め、傷だらけの戦場の白薔薇のように、美しく、それでいて壊れかけていた。

「私が謝るとしたら――死ぬ時だけよ」

その言葉を最後に、綿は顎を上げ、輝明の手を振り払った。

手すりを握りしめると、堂々とした足取りで階段を下りていく。

「桜井綿、お前は本当に理解できない奴だな!」輝明は怒りに満ちた声で叫んだ。

「理解できないのは、あなたの方よ。愚か者!」

――あんな女が好きなら、ずっと一緒にいればいい。どうぞ、末永くお幸せに。

輝明の眉が深く寄る。綿の強気な態度に、怒りが込み上げる。

「明くん……」嬌が涙ぐみながら、弱々しく彼の名を呼ぶ。

輝明は眉をひそめたまま、綿への苛立ちを抑えきれず、無言でネクタイを緩めると、壁にかかった絵画を乱暴に剥がした。

――綿、いつからこんなにも口が達者になった?

「森下に連絡して、病院に送らせる」

「……明くんは、あたしを送ってくれないの?」嬌はか細い声で問いかけた。

輝明は深く息をつき、短く答えた。

「忙しいんだ」

それだけ言い残し、振り返ることなく部屋を出て行った。

嬌は彼の背中を見送りながら、ゆっくりと拳を握る。

――今までなら、こんなことはなかった。

どんなに忙しくても、彼は必ず自分を病院まで連れて行ってくれたのに。

今日の彼は、なぜか情緒が不安定だった。

まさか、綿のせい……?

彼が綿に、まだ未練を持っているとでも?

その考えが頭をよぎった瞬間、背筋が凍るような不安に襲われた。

嬌はそっと視線を監視カメラの方へ向ける。

――この映像、誰にも見られてはいけない。

雲城市の中心部、最も賑やかなビルの地下3階。

そこには、全自動化された神秘的な拠点が存在していた。

M基地――かつて黒市を牛耳っていた、伝説の組織。

そのリーダー、「M」は、過去に数々の取引を成立させ、誰もが恐れる存在だった。しかし、五年前、突如として姿を消した。

黒市のネットワーク上では、今もなおM基地のアイコンが灰色に表示されている。しかし、その名声は今もなお語り継がれ、決して消えることはなかった。

綿が基地の入り口に到着した時、雅彦がすでに待っていた。

綿は額の傷を手早く処理し、新しい服に着替えた。その姿はどこか冷たく、鋭さを増しているように見えた。

「ボス、大丈夫なのか?」彼は綿の額の傷を見て、険しい表情を浮かべる。

「大丈夫よ」綿は軽く微笑みながら答えた。

「……高杉がやったのか?」雅彦は低く尋ねる。

「そんな勇気ないでしょ、あの人に」綿は冷笑し、目を伏せた。

――かつては、彼の一言がすべてだった。だが、今の彼は、自分にとって何の価値もない存在に成り下がった。

「で、指輪は持ってきたのか?」

雅彦が尋ねると、綿は無言で黒いジュエリーボックスを開いた。そこには、シンプルな銀の指輪が入っていた。指輪の内側には、一つの文字が刻まれている。

「M」

そう、綿こそが、M基地の伝説のリーダー、「M」だったのだ。

五年前、顧妄琛を追いかけることに夢中になり、M基地を閉鎖した。結婚の日、彼女はこの指輪を婚約指輪として彼に渡し、以後、黒市から身を引いた。

だが、今――彼女は帰ってきた。

「準備は?」綿は雅彦を見つめて問う。

彼は興奮を隠せない表情で頷く。「準備万端だ!」

綿は基地の入口に立ち、右側の機械を起動させる。指輪をその場に置くと、瞬時に白い光が走り、青い光が彼女と雅彦を包み込んだ。

「M基地、起動中――」

透明なスクリーンが二人の前に浮かび上がる。

綿が顔認証を済ませると、基地の巨大な扉がゆっくりと開いた。

内部のライトが一斉に点灯し、眠っていたロボットが次々と動き出す。

「お帰りなさい、M様」全てのロボットが一斉に言った。

モニターには最新の黒市のニュースが次々と表示され、情報が飛び交う。

「なんと……M基地がオンラインになった!」

「嘘だろ?あのM基地が復活するなんて!」

「神よ……M様が帰ってきた!」

綿はモニターに映る情報を眺めながら、ゆっくりと微笑んだ。

「――ただいま」

雅彦も満足そうに笑い、肩をすくめる。

「君がいなくなってもうだいぶ経つのに、みんなまだ君の話をしてるな」

綿は何も言わず、一つの部屋の前に立ち、指をセンサーにかざした。機械音とともにドアが開き、暗がりの中、彼女のワークスペースが姿を現す。

中に入り、椅子に腰を下ろす。綿が指を軽く鳴らすと、部屋にあるすべてのデバイスが一斉に起動し、電子音が低く響いた。

モニターが点灯し、自動的に黒市のメインページが表示される。

『おかえりなさい、M様。あなたが離れてから1609日。ようやく、戻ってきたのですね』
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1157話

    彼は笑った。「はいはい、通報していいよ」「ちょっとあなたってば——」輝明は綿の口を手で塞ぎ、彼女に文句を言わせまいとした。「シーッ、ここは図書館だぞ」綿は彼を睨みつけ、「ふん」とそっぽを向いた。図書館を出ると、綿は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。心の中に、様々な思いが溢れていた。「もし大学時代に戻れたら……輝明、私はやっぱりあなたを好きになると思う」綿は彼を見つめながら、静かに言った。輝明は彼女を見下ろし、笑みを浮かべた。「後で、もう一箇所連れていきたいところがある」「どこへ?」「君がずっとしたかったことをしに行く」え?綿はずっと、自分が本当にやりたいことが何なのか分からなかった。輝明に、かつてどんな願いを口にしたかさえ、忘れてしまっていた。それが分かったのは——海辺で、夕日を見たあの瞬間だった。「ずっと言ってたろ?一緒に夕日を見たいって。今日は絶好の機会だと思って」西の空に夕日が沈みかけ、赤く染まった太陽が水平線にゆっくりと姿を隠していく。荒々しい波が海面をかき乱し、潮の香りがふわりと鼻をかすめた。綿は遠く沈んでいく夕陽を見ながら、自然と笑みを浮かべた。まさか、本当にあの願いを覚えていてくれたなんて。自分でさえ忘れたのに。「綺麗……」「もし十八歳の時にこんな夕陽を見てたら、きっと大騒ぎしてたわね」綿は柔らかく笑った。もうすぐ二十八歳になる。輝明は言った。「今だって、思うままに騒いでもいいんだよ」綿は首を振った。「もう子どもじゃないもの。大人らしく、落ち着かないと」「どうして?」「もう十八歳の少女じゃない。もうすぐ、高杉さんの奥さんになるんだもの」綿は彼を見上げた。輝明の中にあった疑問は、一瞬で解けた。彼は、耳まで裂けそうな笑みを浮かべた。二人はそっと並んでベンチに座った。夕陽の光が二人を柔らかく包んでいた。「いいかな、高杉さん」「何が?」「あなたの奥さんになってもいいかな」「もちろん、願ってもないことだ」夕陽はゆっくりと沈みかけていた。輝明はそっと唇を開いた。「綿……愛が、この瞬間、形になった」「え?」綿は首を傾げた。「つまり、君を愛してるってことさ」彼は顔を彼女に向け、真剣な眼差しで見つめた。輝明は綿を

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1156話

    綿は笑った。「じゃあ、雲大に行くってことだね」輝明は答えず、黙って頷いた。やがて車は雲大の正門に到着した。綿は校門から出入りする学生たちを眺めて、ふっとため息をついた。「前に一度来たじゃない」「でも、今ここを歩く気持ちは、前とは違うよ。もう一度歩いてみないか?」彼は提案した。綿は眉をひそめた。何が違うというのだろう?いまいちわからなかったが、それでも彼について車を降りた。輝明は先を歩き、綿はその後を追った。昔と同じように、輝明はいつも先を歩き、彼女は必死で後ろからついていった。輝明は振り返り、彼女に尋ねた。「なんで前に出てこないの?」「昔みたいに、あなたをこっそり好きだった気持ちを思い出してるの」綿は冗談めかして言った。彼は鼻で笑った。「こっそり?あれは堂々とだろ、全世界にバレバレだったぞ」「少しは私のプライドを守ってよ」綿は口を尖らせた。「はいはい、こっそり。君の言う通り」輝明は素直に頷いた。綿は笑った。輝明は彼女を待って、手を差し伸べた。たしかに、彼の言った通り、昔とは違っていた。綿は彼に手を引かれ、キャンパス内をのんびり歩いた。周囲には彼女を認識する学生もいた。彼女がバタフライであると知って、誰もが驚いていたが、邪魔することはなく、ただ遠くから見守っていた。雲大は昔と変わらない。噴水広場に着くと、ちょうど噴水が上がる時間だった。水しぶきが空高く舞い上がり、周りには笑い声があふれ、青春の真っただ中という空気が満ちていた。綿と輝明は足を止め、青春の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。まるで本当に、あの頃に戻ったかのようだった。「昔、よく雲大まであなたに会いに来たけど、あの頃は迷惑だった?」綿は感慨深げに聞いた。「正直に言っていいのか?」「うん」「……ちょっとだけ」「ちぇっ」綿は拗ねたが、すぐに輝明が続けた。「でも、君が一日来なかったら、すぐに寂しくなった」彼は綿を見つめながら、真剣な顔で言った。「本当だよ。嘘じゃない」あの頃、輝明はたしかに綿のことが好きだった。ただ、あの事故——嬌に救われたことで、すべてがずれてしまっただけだった。「ふーん、だからあの時、急に『?』だけのメッセージを送ってきたんだね」あれは寂しかったから。でも素

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1155話

    綿がバタフライだったという事実は、瞬く間に大きな波紋を呼んだ。話題はすべて綿とバタフライの名前で埋め尽くされ、誰もが衝撃を受けた。かつて「桜井家の無能」とまで言われた綿が、今やこれほど世間を驚かせる存在になるとは、誰が想像しただろうか。彼女には、まだまだ世間が知らない顔があるに違いなかった。スタジオはオープンしたばかりで、スクリーンにはバタフライの作品が映し出され、メディアも来賓もみな、大満足といった様子だった。「雪と涙」は展示台に飾られ、今まで直接見たことがなかった人々も、夢中で写真を撮り、次々とSNSにアップしていた。綿は皆が自分の作品を賞賛する様子を見ながら、自信に満ちた気持ちで胸を張った。きっと、デザインの道をもっと遠くまで歩いていける。謙虚に学び、努力を惜しまないと、彼女は心に誓った。綿がソファに腰を下ろしてひと息つこうとしたその時、輝明が彼女の前に現れた。「ちょっと出かけない?」彼が言った。綿は輝明を睨みながら、不思議そうに尋ねた。「スタジオ忙しいのに、どこ行くのよ?」「遊びに連れていく」彼はにっこり笑った。綿は思わず吹き出した。遊び?「男のモデルを八人呼べるなら、いいよ、高杉さん」綿は首をかしげ、彼を見上げた。輝明はすぐに眉をひそめた。「綿」綿はふてくされた顔で言った。「八人じゃ少ない?じゃあ十人!」彼はすかさず綿の頬をつまんだ。眉間にしわを寄せ、顔をしかめた。「君、一体どうしたんだ」「なにが?十人でも足りないって言うの?」綿はにっこりと笑った。輝明は彼女の唇に指を当て、言葉を遮った。もうやめてくれ。八人でも十分図々しいのに、十人なんて冗談じゃない。彼は本気で怒りそうだった。「行こう」彼は綿の手を引いた。綿は抵抗せず、彼についていった。どこへでもいい。彼が連れていくなら、どこへでも。自分を安心して委ねられる人。信じられる人。彼なら、この先も絶対に裏切らない。綿は輝明の背中を見ながら、しっかりとその後をついていった。玲奈と秋年は、首を伸ばしてその様子を見ていた。「どこ行くんだろう?」「どこへ行こうと彼らの自由だよ。私たちはこっちをしっかり守らなきゃ」玲奈は眉を上げて笑った。秋年は目を細めた。「ほう……俺たちの仕事、っ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1154話

    秋年と玲奈は一瞬きょとんとした。すぐに秋年は笑い、玲奈は唇を尖らせながら「はいはい、仕方ないから引き受けてあげる!」とぶつぶつ言った。「明くんが中にいるから、先に入ってね」綿が秋年に声をかけた。秋年は頷き、玲奈と一緒に中へ入っていった。二人は笑いながら談笑し、なんとも和やかだった。その様子を眺めながら、綿は心から思った。——本当に、私は幸せだ。「ボス、ライブ配信始まるよ!もうすぐテープカットだ!」清墨の声が響いた。綿は頷き、「今行く!」と返事をした。十時の鐘が鳴る頃には、芝生に設けられた席にはすでに来賓が座っていた。スタジオの名前はまだ赤い布で覆われ、誰もが好奇心でいっぱいだった。綿のスタジオ、あまりにも秘密主義すぎる!招待状に書かれていたのはたった一文だけだった。「5月8日、私のスタジオが開業します。お時間ありましたら、ぜひお越しください」スタジオとは聞いていたが、何をするのかまでは誰にも知らされていなかった。「では、余計な言葉はなしにして……スタジオ、いよいよ除幕です!」綿の声に、皆は現実へ引き戻された。ライブ配信のコメント欄は一気に盛り上がった。「早くー!気になりすぎる!」「ジュエリーデザインのスタジオだって言ってたよね?もしかしていい物でも見つけたのか?じゃなきゃ、急にジュエリーデザインのスタジオなんて開かないでしょ!」「なあ、バタフライってもしかして綿のスタジオに来たんじゃないか?」「ありえないだろ!バタフライはフリーでやってるんだぞ!」「いや、絶対じゃないぞ?もし本当に関係あったら?」「もしそうだったら、俺、土下座して謝るわ!」……綿は頭上の赤布を見上げ、カメラに向かって微笑んだ。「ここで、皆さんに正式に発表します」ふわりと微風が吹き、綿の髪が風に揺れた。彼女はカメラを見据え、優しく微笑みながら宣言した。「私が、バタフライです」その瞬間、赤布がめくれ、現れたのは——「バタフライスタジオ」の文字だった。場内は一瞬で凍りついた。「な、なに!?」「嘘だろ、桜井綿がバタフライだったの!?」綿は皆の驚きを受け流し、そのまま続けた。「私の最新作《紅》は、すでに全ネットで先行予約開始しました。これからもたくさん新作を発表していくので、ぜひ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1153話

    綿は清墨に連れられて外に出た。そこには、街路に停められた大型トラックがあった。トラックの荷台部分は透明なガラスケースで覆われていた。ガラスケースには一列の文字が貼られており、その中にはマットパープルのスポーツカーが置かれていた。周りにはたくさんの風船と、いくつかの高級ブランドのギフトボックスが飾られていた。「お嬢様の開業お祝いに贈るおもちゃ」綿は思わず息を呑み、驚いた目で清墨を見た。これは?スポーツカーの後ろには、次々と運び込まれる花束たちがあった。どの花束にも祝福の言葉が添えられていた。何十もの花束が両側にずらりと並び、たちまち、スタジオの外はまるで花園のようになった。周囲は静まり返り、綿はまだ驚きの中にいた。その間に清墨は静かに身を引いていた。さらに前を見やると、一人の男が、鮮やかなマンタローズの花束を抱えて、ゆっくりと綿の方へ歩いてくるのが見えた。男は完璧に仕立てられたスーツに身を包み、背筋をまっすぐ伸ばしていた。彼は綿の目の前に来ると、そこで足を止めた。綿は鼻の奥がツンとした。「やっぱり、あなたか」輝明は微笑んだ。「どうしてわかった?」「だって、わかるもん」綿は言った。輝明は手に持っていた花束を綿に差し出した。「開業、おめでとう」綿は素直に花束を受け取り、そっと頷いた。「ありがとう、高杉さん」「まだプレゼントがあるよ」輝明はスマホを取り出した。綿はこれ以上の贈り物なんて、想像もしていなかった。どうやら、そのプレゼントはスマホの中にあるらしい。「でも、残念ながらこのプレゼントは、すぐには届かないんだ。直接、催促しちゃダメかな?」彼はスマホを綿に差し出した。綿は画面を覗き込み、ようやく理解した。輝明が、《紅》を注文していたのだ。「これ、どうして買ったの?」綿が尋ねると、輝明は首をかしげた。「愛する人から《紅》を贈られるべきだろ?君は愛されてるんだから、当然持つべきだよ」綿は思わず吹き出して笑った。……このバカ。「じゃあ……できるだけ早く?」綿が言うと、輝明は軽く頷いた。綿は一歩踏み出して、輝明をぎゅっと抱きしめた。「ありがとう、高杉さん」「お礼なんていらないよ。今日は俺、クライアントとして来たから。契約書も持ってきたんだ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1152話

    「もちろん!」《紅》のデザインは、輝明が自分を救ってくれたあの日に着想を得たものだった。《紅》が持つ意味は、ただ一つ。——血が彼の衣服を染め、そこから愛情は絶え間なく、ますます深く濃くなった。発表と同時に、再びバタフライに対する称賛の声が高まった。白地に赤がにじむシンプルなデザイン、クラシックで洗練された美しさは、一目で誰もを虜にした。そして何より、今回は唯一無二の限定品ではなく、誰でも購入できる仕様になっていた。意味は明白だった。——すべての人に、絶え間なく続き、ますます深まる愛を手にしてほしい。ジュエリーの下には、綿のメッセージが添えられていた。「あなたを愛する彼に《紅》を贈ってもらってください。もし、そんな彼がいないなら、自分で自分に贈ってあげてください」輝明は会議を終えた後、そのジュエリーが公開されたニュースを目にした。胸が、ぎゅっと締めつけられた。——どうりで、あの日、東屋でiPadを抱えて何かを描いていたわけだ。「紅……」輝明はその名を呟きながら、スクリーンに映る小さな文字を見つめた。「鮮血が彼の衣を染め、そこから愛は絶え間なく、ますます深くなった」輝明の口元がほころび、目には柔らかな笑みが浮かんだ。——自分は彼女のインスピレーションだったのか?……5月8日。あっという間に、スタジオ開業の日がやってきた。朝8時、綿スタジオの公式アカウントがついに稼働を始めた。「@桜井綿スタジオ:みなさん、こんにちは!いつも応援ありがとうございます。本日、桜井綿のスタジオが正式にオープンします!長い間お待たせしましたね。そして、皆さんが一番気になっていた質問に、ここでお答えします。『桜井綿スタジオって何のスタジオなの?』今までは情報を伏せていましたが、答えは——ジュエリーデザインのスタジオです!ぜひ遊びに来てください。そして、ここには驚くべき小さな秘密が隠されています。もし現地に来られない方は、10時からのライブ配信をチェックしてくださいね!」今日の天気は格別だった。空には薄い雲がいくつか浮かび、真っ白な綿飴のようだったり、ほんのり赤く染まって美しい女の頬のようだったり。メディア関係者たちはすでに集まっていた。そして、今日の来賓には業界の名士たちも多く含まれていた。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status