重い石の扉に、私は手をかけた。全身の力を込めて押せば、ギィィ……と鈍い音を立てて、ゆっくりと開いていく。
扉の隙間から流れ込んできたのは、数万年の間、閉ざされていたであろう古代の空気。物音一つしない内部から、ひんやりとした風が漂ってくる。中へ一歩足を踏み入れると、自分の足音がやけに大きく響いた。
進んだ先は、広大なドーム状の空間である。 天井が淡く光って、古い星図のようなものを映し出している。降り注ぐかすかな光が空気中の塵をきらきらと照らして、まるで本物の星空と星屑のように部屋を彩っていた。(ここが……竜王の祭壇の間)
中央に、それはあった。
黒い一枚岩を削り出しただけの、シンプルな祭壇。 華美な装飾は一切ない。ただそこにあるだけで、圧倒的な存在感を放っていた。(空気が濃い。瘴気とは違う、もっと古くて、静かな何かの力……。まるで深海の底にいるみたい)
ゲームの『ロザリア』は、ミリアへの憎しみを抱えてここに来た。
復讐のために、自らを生贄にしようとした。 ……なんて愚かな。この存在は兵器じゃない。破壊の道具でもない。
最高の生きた歴史書なのだ。私は意を決して、祭壇へとゆっくり歩みを進めた。
◇
高鳴る心臓を抑えるために、一度深く深呼吸をする。
祭壇の表面に、そっと右手を添えた。冷たくなめらかな石の感触が伝わってくる。目を閉じる。
魔力のない私にできる唯一のこと。自らの意思、魂の願いそのものを、祭壇へと注ぎ込む。イグニスもミリアも、もうどうでもいい。
今の私の心を占めているのは、この探求心だけ。 侯爵令嬢としてでも、悪役令嬢としてでもない。 一人の学者としての、ただ一つの欲望。(教えて、竜王ヴァルフレイド。あなたはこの世界で、何を見てきたの?)
呼びかけのための声は、最初は緊張で震えてしまった。
「力が欲しいわけじゃない。復讐したいわけでもない」
けれど徐々に落ち着いて、私の唯一の願いを音に乗せる。
「私は、ただ知りたい。あなたの見てきた数万年の真実を」
語りかければ、後は簡単だった。心からの願いがあふれてくる。
「どうか、あなたの物語を――聞かせて」
◇
その瞬間。私の願いに応えるかのように、手を置いた祭壇が振動を始めた。だんだんと熱を帯びていく。
古代文字の術式が、祭壇の表面に純白の光となって浮かび上がった。光は一気に増幅し、広大な祭壇の間を白一色に染め上げる。
眩しさのあまり、私は思わず腕で顔を覆った。ゴゴゴゴ……!
低い地響きが始まって、遺跡全体が激しく揺れる。
天井から砂や小石が降り注ぐ。私は倒れないよう必死で踏ん張った。(すごい……! 私の願いを、受け入れてくれたのね!)
祭壇の文字はいよいよ光を強くして、遺跡は鳴動を続ける。竜王の目覚めは近い。
(これが、神に等しい存在を目覚めさせるということ。世界そのものが、震えているわ!)
凄まじい光と地響きが、永遠に続くかのように思えた。
そして――ふつり、と。すべてが嘘のように、静まり返った。◇
光が収まると、祭壇には大きな亀裂が入っていた。
先ほどまでの地響きが嘘のように、辺りは静まり返っている。そして祭壇の奥。
深い深い闇の向こうで、何かがもぞりと動いた。 それはあまりに巨大で、最初は影としか認識できなかった。闇の中、二つの光が灯る。溶かした黄金のような色をした、巨大な竜の瞳だった。金の瞳は真紅の鱗に縁取られている。
その視線はまっすぐに、私だけへと注がれている。(……来た)
私はごくりと喉を鳴らした。
(大きすぎて、全身が見えない。なんて、存在感)
何か言葉を発しようとしても、威圧感に飲まれてしまって、小さく息を吐いただけで終わってしまった。
(あの瞳……魂の奥底まで、すべて見透かされているみたい)
と。
古代の叡智と数万年の時を感じさせる声が、空気の振動ではなく、直接私の頭の中に響き渡った。「――我を呼び覚ましたのは、貴様か」
重い石の扉に、私は手をかけた。全身の力を込めて押せば、ギィィ……と鈍い音を立てて、ゆっくりと開いていく。 扉の隙間から流れ込んできたのは、数万年の間、閉ざされていたであろう古代の空気。物音一つしない内部から、ひんやりとした風が漂ってくる。 中へ一歩足を踏み入れると、自分の足音がやけに大きく響いた。 進んだ先は、広大なドーム状の空間である。 天井が淡く光って、古い星図のようなものを映し出している。降り注ぐかすかな光が空気中の塵をきらきらと照らして、まるで本物の星空と星屑のように部屋を彩っていた。(ここが……竜王の祭壇の間) 中央に、それはあった。 黒い一枚岩を削り出しただけの、シンプルな祭壇。 華美な装飾は一切ない。ただそこにあるだけで、圧倒的な存在感を放っていた。(空気が濃い。瘴気とは違う、もっと古くて、静かな何かの力……。まるで深海の底にいるみたい) ゲームの『ロザリア』は、ミリアへの憎しみを抱えてここに来た。 復讐のために、自らを生贄にしようとした。 ……なんて愚かな。 この存在は兵器じゃない。破壊の道具でもない。 最高の生きた歴史書なのだ。 私は意を決して、祭壇へとゆっくり歩みを進めた。◇ 高鳴る心臓を抑えるために、一度深く深呼吸をする。 祭壇の表面に、そっと右手を添えた。冷たくなめらかな石の感触が伝わってくる。 目を閉じる。 魔力のない私にできる唯一のこと。自らの意思、魂の願いそのものを、祭壇へと注ぎ込む。 イグニスもミリアも、もうどうでもいい。 今の私の心を占めているのは、この探求心だけ。 侯爵令嬢としてでも、悪役令嬢としてでもない。 一人の学者としての、ただ一つの欲望。(教えて、竜王ヴァルフレイド。あなたはこの世界で、何を見てきたの?) 呼びかけのための声は、最初は緊張で震えてし
森は深く、暗かった。 一歩足を踏み入れただけで、瘴気がねっとりと肌にまとわりつく。空気そのものに重さがあるみたいで、私は思わず眉をしかめた。(これが瘴気……。生態系が完全に歪んでいるわ。興味深い研究対象ね) 異様な形にねじくれた木々。見たこともない色の苔が、地面を覆っている。 普通の動物の気配は全くせず、不気味な静寂が森を支配していた。 手製の地図と古代植物学の知識を頼りに、私は慎重に進む。 ゲームではただの背景だった森が、現実では複雑で危険で――何より魅力的に見えた。 ああ、私は古代の神秘が眠る土地を歩いているのだ。この足で! 苔むした石碑を見つける。 表面の汚れを慎重に手で拭うと、かすかに古代文字の痕跡が現れた。「……こっちね。間違いないわ」 この道標は、ゲームのマップにはなかったもの。 やはり、この世界はゲームであってゲームではない。自分の知識と観察力が試されている。◇ ガサッ、と。 茂みが大きく揺れる音に、私は即座に巨大な木の陰に身を隠した。 ナイフの柄を握りしめて心臓の鼓動を抑えながら、音のした方を見つめる。 現れたのは、黒い影だった。霧が集まってできたかのような、巨大な狼。 燃えるような赤い瞳が、獲物を探してきょろきょろと動いている。(あれがシャドウウルフ……! ゲームのグラフィックよりずっと大きくて凶暴そう。さすが実物だわ) 魔獣は魔力に反応して襲ってくると古文書にあった。魔力ゼロの私は、彼らにとって認識できない存在のはず。 仮説を検証する絶好の機会になるだろう。(……でも、もし違ったら? 一口で食べられちゃうかしら。さすがにちょっと緊張するわね) シャドウウルフは、私が隠れているすぐそばを通り過ぎていく。 鼻をひくひくと鳴らしているけれど、全く気づく様子はない。やがて興味を失ったように闇の中へと消え
馬車の扉が、無情に閉められる。 御者が鞭を鳴らすと、騎士たちを乗せた馬車は土煙を上げて去っていく。 私をこの場所に置き去りに、さっさと引き返していくのだ。「達者でな、お嬢ちゃん。せいぜい長く生き延びろよ。ま、無理だろうが」 遠ざかる馬車から、投げやりな声が聞こえた。「おい、早く戻ろうぜ。なんでもイグニス様のご即位を祝して、近々盛大な夜会が開かれるらしい。俺たちも警備で出れば、うまい汁が吸えるかもしれん」「そりゃいいな!」 下世話な笑い声が、風に乗って私の耳に届いた。(即位を祝す夜会ですって?) 国王陛下はご病気だが、まだ健在のはず。それなのに、もう次代の話? イグニスとミリアは何を考えているのだろう。 私には前世の記憶がある。そしてある時、気づいたのだ。 この世界は、前世でプレイしたゲーム『ドラゴンズブレイド』にそっくりであると。 ドラゴンズブレイド、略称ドラブレは戦略シミュレーションRPGだ。 主人公はある国の王子。戦乱に巻き込まれながらも、自国の繁栄を目指して戦いを勝ち抜く……という内容。 ちなみにその王子というのが元婚約者のイグニスだった。ゲーム主人公の王子はプレイヤーの分身になるため、明確な性格が設定されていなかった。名前も自由に決められるが、デフォルトで設定されているのが『イグニス』だ。 ミリアはヒロインで、現実と同じく莫大な魔力を持つ。性格は天真爛漫、ちょっと生意気だが心根は優しい少女だった。 私ことロザリアは悪役令嬢。魔力に秀でた妹を妬んで、様々な妨害をするお邪魔キャラなのである。 しかも最終的に憎しみに心を支配されて、自分自身を生贄に、竜王ヴァルフレイドを呼び覚ましてしまうのだ。 なんというか、世界観と人物の配置はゲームと同じなのに、性格がみんな違う。 ゲームのイグニスとミリアは、数多くの試練を乗り越えて英雄と呼ぶのにふさわしい人間へと成長する。 しかしこの有り様はどうだろう。彼らはもう大人なのに、これから劇的に変わるのだろうか。 しかもゲーム最大の敵である竜王ヴァルフレイドは、私がこれから対話を試みる。結果次第では敵対が避けられるかもしれないのだ。 民は凶作に苦しんでいると聞くのに。 もっとも、民衆の救済と指導は王族の仕事だ。私の出る幕じゃない。ただ少しだけ、哀れだとは思う。 やがて馬車の姿は完
あれはいつのことだったかしら。 確か、私が十二歳になった年の夕食でのこと。 豪奢なだけの、冷たい食卓。 きらびやかな食器の上には、一流の料理人が腕を振るった料理が並んでいる。 けれどそこに家族の温かさなんてものは、ひとかけらもなかった。「さすがは我が娘だ。ミリアの魔力は、まさに国宝級だな!」 父である侯爵が、満面の笑みでミリアを褒めそやす。 継母も「本当に、あなたのような娘を持てて誇らしいわ」と、うっとりと相槌を打った。「まあ、お父様、お母様!」 幼いミリアは嬉しそうに声を弾ませて、小さな指先をキャンドルにかざした。ぽっ、と指先に小さな光の蝶が生まれる。 ひらひらと食卓の上を舞う蝶に、家族の視線が釘付けになった。(始まったわ、いつもの茶番が) 私は完璧なマナーで、静かにスープを口に運ぶ。 彼らは私に興味がないくせに、少しでも難癖をつける隙があれば折檻してくる。屈辱的な扱いはスルーするが、痛いのはさすがに嫌。 魔力、魔力、魔力……。この家では、それだけが価値のすべて。 まぁ文化人類学の観察対象としては興味深いけれど、当事者になるのはごめんだわ。 誰も私を見ていない。私がここにいることに、気づいてすらいないのかもしれない。 食事が終わると、私は音もなく席を立った。 もちろん誰も引き止めない。 私が部屋からいなくなったことに、最後まで誰も気づかなかった。◇ 私が向かうのは、自室ではない。屋敷の西棟の一番奥。 埃っぽい書庫の片隅こそが、私の聖域だった。(ああ、落ち着くわ) インクと古い紙の匂い。これこそが私の帰る場所。 この世界の人々は、魔力のない過去の記録をただの御伽噺だと切り捨てる。 なんてもったいない! 伝説や神話にこそ、その土地の人々の価値観や、忘れられた歴史の真実が隠されているというのに。 これだから研究はやめられない。本当はフィールドワークに出たいけれど、私は『出来損ない』。家の恥だとか言って、あまり外に出してもらえないのだ。 出来損ないというのなら、どうして王子と婚約させたのやら。 大方、魔力の有無がわからないほど幼い頃に政略婚約をねじ込んで、その後に私の無魔力が判明したんだろうけど。知らんがな。 慣れた手つきで、棚の奥からひときわ古びた本を取り出す。『フラグラーレ王国建国神話異聞』 異端の
王宮の豪奢な一室に、イグニス王子の声が響く。 私との婚約破棄を発表するための、壮麗な舞台だ。「ロザリア・シュヴァリエ! 本日をもって貴様との婚約を破棄する!」 王族らしい艶やかな金髪。まあまあ整った貴族的な顔立ち。 けれどその緑の瞳から滲み出る傲慢さが、すべてを台無しにしていた。(ついに来たわ! 婚約破棄よ、婚約破棄!) 心の中で私は盛大なガッツポーズを決めた。 もちろん、表情にはおくびにも出さない。今は完璧な悲劇のヒロインを演じきる、大事な場面なのだから。「……どうして、ですか?」 か細く、今にも消え入りそうな声。 驚きと悲しみで大きく目を見開き、潤んだ瞳で彼を見上げる。 うん、我ながら完璧な演技だわ。「決まっているだろう! 貴様が魔力を持たない『出来損ない』だからだ!」 イグニスは勝ち誇った笑みを浮かべた。「我が隣に立つ者は、国で最も聖なる魔力を持つ者でなくてはならん!」 ほら来た。 魔力至上主義のお国らしい、テンプレ通りのセリフ。 イグニスは私の腹違いの妹、ミリアの肩をこれみよがしに抱き寄せる。 甘いストロベリーブロンドの髪を揺らし、ミリアは心底心配しているという顔で私を見た。 庇護欲をそそる愛らしい紫の瞳。その奥に計算高い光が宿っているのを、私はずっと前から知っている。「お姉様……ごめんなさい。でも、イグニス様のお側には、この聖なる魔力を持つあたしがいるべきだって、神官様も……」(出たわね、お約束のセリフ) ああ、もう茶番はいいから。 早く最後の宣告をしてちょうだい。「そうだ! 真に俺の隣にふさわしいのはミリアただ一人!」 イグニスは一度言葉を切ると、わざとらしく私に指を突きつけた。「よってロザリア、貴様を追放処分とする! 行き先は魔獣が棲まう『禁断の森』だ!」 追放。 禁断の森。(最高の条件じゃない!) ショックで膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえる――という演技をしてみせる。「そ、そんな……あまりにも……」 瞳に涙を溜めて、絶望に打ちひしがれた令嬢を完璧に演じきる。 心の中は、これから始まる最高のフィールドワークへの期待で、サンバカーニバル状態だったけれど。◇ 衛兵に両脇を固められ、私は部屋を後にした。 最後に振り返った私に、イグニスは嘲笑を浮かべ、ミリアは勝ち誇った顔で