柔らかな絹のシーツの感触に、私はゆっくりと目を開けた。
視界に映るのは、見たこともない緻密な彫刻が施された木製の天井だった。 ここはどこだっけ。夢の続き……?体を起こすと、信じられないほど体が軽いことに気づく。
いつも私を縛っていた鉛のような倦怠感が、嘘のように消えていた。「おはよう、俺の花嫁。よく眠れたみたいだな」
声のした方を見ると、部屋の隅の椅子に赤髪の青年が足を組んで座っていた。
竜王ヴァルフレイド。昨日の出来事が一気に頭に蘇って、私は瞬きをした。 彼はいつからそこにいたのか、楽しそうに私を見ている。「おはようございます、ヴァルフレイド。ええ……こんなに深く眠れたのは、生まれて初めてです」
戸惑いながらも答えると、彼は満足そうに頷いた。
(このベッド……まるで雲の上にいるみたい。それに体の感覚が違う。いつも私を悩ませていた微かな頭痛もない。どうして……?)
◇
私の疑問を見透かしたように、ヴァルフレイドが立ち上がり、窓辺に立った。
「この世界は魔力に満ちている。魔力を持たないお前にとって、それは常に微量の毒に晒されているのと同じことだ」
彼の言葉に、私は息を呑む。
「だが、この巣は違う。俺があらゆる魔力の流れを排し、お前のためだけに調律した。ここだけが、お前の魂と身体が真に安らげる場所になる」
そういうことだったのか……。
魔力がないことが『欠陥』なのではなく、この世界そのものが私にとって過酷な環境だったんだ。 それを彼は一瞬で見抜いて、この楽園を作ってくれた?(ただ守るだけじゃない。私の存在そのものを理解して、最適な環境を用意してくれた)
生まれて初めてだった。
こんなふうに、ただ存在しているだけで、大切にされていると感じるなんて。 胸の奥がじんわりと温かくなった。◇
食卓に着くと、目の前に見たこともない、しかし美味しそうな料理がひとりでに現れる。
ヴァルフレイドは心から私を案じてくれている。それならば、私も隠し事はしたくない。「ヴァルフレイド。あなたに、話しておかなければならないことがあります」
カトラリーを置き、真剣な眼差しで竜王を見つめた。
「私は……完全にこの世界の人間ではありません。魔法のない別の世界で、一度生きて死んだ記憶を持っています」
彼は私の告白を、ただ静かに聞いていた。
金色の瞳は、何を考えているのか読み取れない。(彼は私の魂の輝きに興味を持った。ならば、その輝きの根源がどこにあるのか、正直に話すべきだわ。でもこれを話して、彼はどう思うのかしら。気味悪がられる? それとも……)
私の誠意を込めた、最大の賭けだった。
◇
告白を聞き終えたヴァルフレイドは、一瞬きょとんとした後、喉の奥から声を震わせて笑い始めた。
侮辱とか、嘲笑などではない。純粋に楽しそうな笑いだった。「はははっ! 別の世界の魂だと? 神話の探求者が、自ら神話の中に転生したというのか!」
金の瞳を輝かせながら、身を乗り出すように私を見つめる。
「なんと面白い! ロザリア、お前は俺が出会った中で、間違いなく一番面白い存在だ。俺の数万年の退屈を紛らわすには、これ以上の物語はないだろう!」
(笑ってる……? 怒りも疑いもせず、ただ面白がっている……?)
今度は私があっけにとられる番だった。
(そっか。数万年を生きてきた彼にとって、私の人生なんて、ほんの短い一篇の物語なのね)
竜王の力があれば、人間である私の考えを読み取るなど造作もないだろう。嘘ではないとわかってくれたはずだ。
その上でさも面白そうに笑っている。(受け入れてくれた。私のすべてを、ありのままに)
心の底から安堵する。
転生者であることは、今まで誰にも打ち明けられなかった。実家の家族に言えば頭がおかしくなったと思われて、ひどく折檻されただけだったろう。他に友人などいるはずもない。彼に受け入れられたことが、どうしようもなく嬉しかった。けれど楽しそうに笑う彼の金色の瞳の奥に、ふと、影が見えた。
底知れないほどに深く、永い時間が刻みつけた「孤独」の影が。ヴァルフレイドは私の物語を面白いと言ってくれた。
……けれど、彼の物語は? この永すぎる時間の中で、彼はたった一人で一体何を見てきたのだろうか。「これは……なんだ……?」「私の故郷の家庭料理よ。あ、故郷というのは前世の方のね。美味しいかしら?」 私が緊張しながら尋ねると、彼はもう一口ゆっくりとスープを味わった。それから何か途方もない真理に触れたかのように、深く息を吐いた。「……温かい。いや、温度のことではない。これは……魂が、満たされるような感覚だ。俺が創り出す完璧な味の食事とは、全く違う」 私は胸がぱっと明るくなるのを感じた。ささやかな実験は、どうやら成功したらしい。 神のように万能な彼に、私が与えられるものがあった。その事実が、どうしようもなく私の心を温かくした。◇ その夜、私は宮殿のバルコニーで月を眺めていた。あの食事の後、ヴァルフレイドはずっと何かを考え込んで、黙ったままでいる。 ふと背後に気配を感じて振り返ると、彼が少し離れた場所に立っていた。「ロザリア。今宵は星がよく見える。……俺の背で、空を見に行かないか」 命令でもなければ取引でもない、純粋な誘いの言葉だった。彼の金色の瞳に慣れないことをする少年のような、かすかな緊張が浮かんでいるのを見て、私は思わず微笑んでしまう。「ええ、喜んで」 私が頷くと、彼は安堵したように息を吐いた。(夜のお散歩……いえ、空の散歩かしら。これが食事へのお返しなのね。彼らしくて素敵な、少し不器用なお礼だわ) 神様みたいに完璧に見えるあなたにも、そんな顔ができるのね。なんだか、とても愛おしいと思ってしまった。 再び真紅の竜となったヴァルフレイドの背に乗って、私たちは夜空へと舞い上がる。 眼下には美しい地上の夜景。昼間は恐ろしく見えた禁断の森は、ホタルのような虫や光るキノコ類の輝きに彩られて、まるで宝石箱のよう。 頭上には銀の砂を撒いたような、天の川がくっきりと見えた。 彼は古い竜族だけが知る星座の名を、私の心に直接語りかける。私だけの特別
「ヴァルフレイド」 私が声をかけると、彼は金色の瞳をこちらに向けた。「あなたに、食事を作りたいの」 ヴァルフレイドは心底不思議そうな顔をして、わずかに首を傾げた。「食事? 望むものがあるなら、俺が一瞬で出してやろう。なぜお前が作る必要があるんだ?」「私の前世の世界ではね、誰かのために時間と手間をかけて食事を作ることは、とても大切なおもてなしなの。料理は、ただ空腹を満たすだけのものではないわ」(彼はきっと、豪華な食事は知っている。でも誰かが自分のためだけに作る、温かい食事の味を知っているかしら。これは私の実験よ。人の手の温もりが、数千年を凍てついてきた彼の心に届くかどうか) 私の説明を聞いて、彼の瞳に知的な光が宿る。未知の文化に対する、純粋な興味の色だった。「なるほどな。お前の言う『おもてなし』とやらを、受けてみよう」「ええ、ぜひ。……ただ、一つ問題があるのだけど」 私が困ったように言うと、彼は楽しそうに口の端を上げた。「厨房も、調理器具もない、か。ならば、人間の町へ買い出しに行けばいい」◇ 私たちは連れ立って宮殿のバルコニーに出た。 ヴァルフレイドの体がまばゆい光に包まれる。光が収まった時、そこに立っていたのは神々しい真紅の竜だった。 彼は私の前に恭しく身をかがめ、その巨大な背中を示す。私は少し躊躇いながらも、彼の温かい鱗に手をかけて背へと上った。 力強い翼の一振りで、竜はふわりと宙に浮く。眼下に広がる禁断の森がみるみる小さくなり、やがてどこまでも広がる雲の海を突き抜けた。遮るもののない紺碧の空と、白く輝く太陽。風は強いはずなのに、彼の魔力がヴェールのように守ってくれていて、ただ心地よいだけだった。「すごい……!」 思わず、歓声が漏れた。「世界って、こんなに広くて、綺麗だったのね……!」 前世で飛行機に乗ったことはある。だがこの飛行は、そんなものとは比べ物にならなかった。
「お前が求めていたものを与えよう」 食事の後。ヴァルフレイドが指を鳴らすと、食堂は一瞬にして書庫へと姿を変えた。 天井まで届く本棚がいくつも並んでいる。それらを手に取ってみれば、この世界の成り立ちから、失われた古代文明の記録まで、あらゆる知識が詰まっていた。 私は目を輝かせて本を読もうとして、ふと動きを止めた。「ヴァルフレイド。もしよければ、あなたの話を聞かせてくれないかしら」「俺の?」 彼は私の問いに驚いたように目を瞬かせる。「あなたはこの永い時間、ここで何をしていたの?」 あの古文書を記した学者のように、たまには訪れる人もいただろう。けれど彼の永い時の中で、それらがどれだけの割合を占めていたことか。「…………」 ヴァルフレイドは、読み始めていた本を閉じた。黄金の瞳に陰りが見える。(少し、踏み込みすぎたかしら。でも……あの寂しそうな瞳を、放っておけない。彼は私の物語を知った。なら、対話者として彼の物語も知りたい。これは私の人生をかけた、最高のインタビューなのだから)◇ ヴァルフレイドは窓の外に広がる森を見つめながら、ぽつり、ぽつりと語りだした。「遠い昔……世界はもっと簡素だった。お前たちが魔法と呼ぶものはなく、ただ世界の力が満ちているだけだった。純粋で美しい力に」 彼の声は、どこまでも平坦だった。「俺はその力の一部として生まれ、王としてではなく、ただの観測者として存在していた。役目は、ただ見ていることだけだ」 自分の話ではない、どこかの誰かの物語を語るように。「だが、やがてお前たち人間が生まれた。そして、その力を自らの欲望のために使い始めたんだ。野心、嫉妬、傲慢……お前たちの強い『情念』が、魔法という力に流れ込み始めた」(情念が、魔法に……。そういうことだったのね。この世界の魔力は、ただのエネルギー
柔らかな絹のシーツの感触に、私はゆっくりと目を開けた。 視界に映るのは、見たこともない緻密な彫刻が施された木製の天井だった。 ここはどこだっけ。夢の続き……? 体を起こすと、信じられないほど体が軽いことに気づく。 いつも私を縛っていた鉛のような倦怠感が、嘘のように消えていた。「おはよう、俺の花嫁。よく眠れたみたいだな」 声のした方を見ると、部屋の隅の椅子に赤髪の青年が足を組んで座っていた。 竜王ヴァルフレイド。昨日の出来事が一気に頭に蘇って、私は瞬きをした。 彼はいつからそこにいたのか、楽しそうに私を見ている。「おはようございます、ヴァルフレイド。ええ……こんなに深く眠れたのは、生まれて初めてです」 戸惑いながらも答えると、彼は満足そうに頷いた。(このベッド……まるで雲の上にいるみたい。それに体の感覚が違う。いつも私を悩ませていた微かな頭痛もない。どうして……?)◇ 私の疑問を見透かしたように、ヴァルフレイドが立ち上がり、窓辺に立った。「この世界は魔力に満ちている。魔力を持たないお前にとって、それは常に微量の毒に晒されているのと同じことだ」 彼の言葉に、私は息を呑む。「だが、この巣は違う。俺があらゆる魔力の流れを排し、お前のためだけに調律した。ここだけが、お前の魂と身体が真に安らげる場所になる」 そういうことだったのか……。 魔力がないことが『欠陥』なのではなく、この世界そのものが私にとって過酷な環境だったんだ。 それを彼は一瞬で見抜いて、この楽園を作ってくれた?(ただ守るだけじゃない。私の存在そのものを理解して、最適な環境を用意してくれた) 生まれて初めてだった。 こんなふうに、ただ存在しているだけで、大切にされていると感じるなんて。 胸の奥がじんわりと温かくなった。◇
魂に直接響くようなプレッシャー。 私はそれに耐えながら、闇の中にいる巨大な存在をまっすぐに見据えた。「はい。私がお呼びしました。私の名はロザリアと申します」 毅然と答えると、頭上から古びた石がぱらぱらと落ちてくる。 竜がわずかに身じろぎしただけで、この遺跡は崩れてしまいそうだ。「――またか。我を呼び覚ますのは、いつも決まって復讐か、破滅を望む愚か者。貴様も同類か」 その声は乾いていた。何かの感情というよりも、長い年月に摩耗しきったかのような響きだった。(復讐を望む愚か者、ね。確かに、ゲームの『ロザリア』ならそうだったでしょう。でも、私は違う)◇ 黄金の瞳が強い光を放つ。 その光が私を包み込むと、私の内面、記憶、感情のすべてが一冊の本のように暴かれていく感覚に襲われた。(魂を読んでいるのね。いいわ、見てちょうだい。これが私の、たった一つの純粋な願いよ) 正直、恐怖はある。でも目は逸らさなかった。 憎しみも嫉妬も、もうとっくに捨ててきた。 見られて困るものなんて、何もない。あるのはただ知りたい、解き明かしたいという、どうしようもない学者の欲望だけ! 彼の声が再び脳裏に響く。諦めきったような声だった。「……ふむ。また憎悪か、あるいは傲慢か。貴様ら人の子の魂は、いつも同じ色に濁って――」 声が途切れた。永い、永い沈黙。「……憎しみが、ない。あるのは……この輝きは……久しいな。かつて我の真理の一端に触れようとした学者がいた。あの男の魂も、このような知の光を放っていた」 古文書を記した、あの異端の学者のことだろうか。 やはり彼もここに来ていたんだ。そして竜王の知の一端を書物として書き記した。「だが……違う。これは、なんだ? あの男の光が川底で拾った小石の煌めきならば、貴様のそれは……夜空に輝く星その
重い石の扉に、私は手をかけた。全身の力を込めて押せば、ギィィ……と鈍い音を立てて、ゆっくりと開いていく。 扉の隙間から流れ込んできたのは、数万年の間、閉ざされていたであろう古代の空気。物音一つしない内部から、ひんやりとした風が漂ってくる。 中へ一歩足を踏み入れると、自分の足音がやけに大きく響いた。 進んだ先は、広大なドーム状の空間である。 天井が淡く光って、古い星図のようなものを映し出している。降り注ぐかすかな光が空気中の塵をきらきらと照らして、まるで本物の星空と星屑のように部屋を彩っていた。(ここが……竜王の祭壇の間) 中央に、それはあった。 黒い一枚岩を削り出しただけの、シンプルな祭壇。 華美な装飾は一切ない。ただそこにあるだけで、圧倒的な存在感を放っていた。(空気が濃い。瘴気とは違う、もっと古くて、静かな何かの力……。まるで深海の底にいるみたい) ゲームの『ロザリア』は、ミリアへの憎しみを抱えてここに来た。 復讐のために、自らを生贄にしようとした。 ……なんて愚かな。 この存在は兵器じゃない。破壊の道具でもない。 最高の生きた歴史書なのだ。 私は意を決して、祭壇へとゆっくり歩みを進めた。◇ 高鳴る心臓を抑えるために、一度深く深呼吸をする。 祭壇の表面に、そっと右手を添えた。冷たくなめらかな石の感触が伝わってくる。 目を閉じる。 魔力のない私にできる唯一のこと。自らの意思、魂の願いそのものを、祭壇へと注ぎ込む。 イグニスもミリアも、もうどうでもいい。 今の私の心を占めているのは、この探求心だけ。 侯爵令嬢としてでも、悪役令嬢としてでもない。 一人の学者としての、ただ一つの欲望。(教えて、竜王ヴァルフレイド。あなたはこの世界で、何を見てきたの?) 呼びかけのための声は、最初は緊張で震えてし