Masuk腐敗し、どす黒い瘴気を放つ精霊樹の根元。 私が幹にすがりついて涙をこぼしていると、背後から音もなく近づいてきた影が、私の肩を優しく抱き寄せた。「……ヴェラ様。どうか、その美しい手を、そのような汚物に触れさせないでください」 耳元で囁かれたのは、甘く、酷く冷ややかな声だった。 アシュは純白のハンカチを取り出すと、私の頬を伝う涙を、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと拭い取った。 彼の赤い瞳は、私に向ける時特有の深い慈愛に満ちていたが……その視線が私越しに『枯れゆく精霊樹』へと向けられた瞬間、絶対零度の殺気へと変貌した。「アシュ……っ。この子が、極北から流れてきた猛毒を全部吸って……」「ええ、分かっています。我が領地の地下脈に、汚らわしい不純物が混入したようですね」 アシュは私を抱き起こし、自分の背後へとそっと庇うように立たせた。 そして、腐り落ちる精霊樹を見上げ、虫けらでも見るかのように冷酷に目を細める。「ヴェラ様を悲しませ、その完璧な笑顔を曇らせた。 さらには、この庭に悪臭と瘴気を撒き散らし、ヴェラ様の御身に危険を及ぼそうとしている……万死に値する大罪です。 このようなゴミは、もはや一秒たりともこの世界に存在させておくべきではありません」「え……?」 アシュが、すっと右手を掲げた。 ――ギリリリリッ……!! 空気が悲鳴を上げた。 アシュの白く美しい指先から、一切の光を吸い込むような『漆黒の刃』が、空間の亀裂となって顕現する。 極北でルミナの数万本の触手を一瞬にして塵に帰した、次元そのものを断裂させる魔王の極大魔術。「ア、アシュ!? あなた、何をするつもり……っ!」「ご安心ください、ヴェラ様。すぐに終わります」 アシュは微笑みを浮かべたまま、恐ろしい宣告を口にした。「俺が、この汚染された精霊樹ごと、庭の空間を跡形もなく『切除』いたします。 毒も、瘴気も、この枯れ木も、次
極北の地で起きた大異変――シルヴィアの(表向きは)超大規模な新魔術実験の影響は、世界が考えている以上に深刻な爪痕を大陸の深部に残していた。 大地の下を葉脈のように駆け巡り、世界中の魔力を循環させている巨大な力の河、『大霊脈(レイライン)』。 ルミナという規格外の怪物が、国家一つに匹敵する莫大な質量を吸収し、それを一瞬にして強引に絶対零度で凍結させたことにより、北方のレイラインは完全に機能不全に陥っていたのだ。 行き場を失い、怪物の体液によってドロドロに濁りきった猛毒の魔力は、地下深くを伝い、長い時間をかけて南へと流れ着いていた。 そして、その終着点となってしまったのが――私が治める、このノクス辺境伯領だった。 ◇ ◇ ◇「……え……?」 朝。いつものようにアシュの温かい腕の中で目覚め、気持ちのいい朝日を浴びようと庭園へ出た私の足が、テラスの入り口で縫い留められた。 私の目線の先。 ノクス邸の広大な庭園の中央にそびえ立つ、領地のシンボル。 私が三百年前、この地に居を構えた時に自らの手で苗を植え、我が子のように慈しみ、魔力を注いで育ててきた巨大な『琥珀の精霊樹』。 いつもなら、朝の光を浴びて黄金色の美しい葉を輝かせ、領地全体に清浄な魔力を振りまいてくれているはずのその樹が。 たった一夜にして、おぞましい赤黒い斑点に覆われ、すべての葉をどす黒く変色させていたのだ。「そんな……嘘、でしょう……?」 私は震える足で庭へ飛び出し、精霊樹の根元へと駆け寄った。 ボトッ、ボトッ、と。 かつては宝石のように美しかった葉が、腐り落ちた泥のように溶け、次々と地面に落ちていく。 周囲には、むせ返るような死の匂いと、粘り気のある瘴気が立ち込めていた。「どうして……どうしてこんなことに……!」 私は、腐敗の進む太い幹に、躊躇うことなく両手を這わせた。 魔女としての感覚を研ぎ澄まし、樹の内部の魔力循環を探る。「……ひどい。大地の奥底から、信じられないほど高濃度で、重く濁った毒の魔力が流れ込んできているわ。 大霊脈が……極北の余波で暴走して、ノクス領へ吹き溜まってしまったのね」 原因はすぐに理解できた。 この精霊樹は、私と共に三百年を生きた強大な植物だ。領地全体を覆う魔力フィルターとしての役割も持っている。 この子は、突如としてノクス領を襲った
「……あ、あれ? シルヴィア……? アシュ……? 国を飲み込む凶悪な怪物との、血で血を洗う死闘は……?」 もうもうと湯気を上げる巨大な寸胴鍋を抱えたまま、私は目をパチクリとさせて部屋の中を見回した。 血飛沫も、暴れ狂う触手も、崩壊した壁もない。 そこにあったのは、窓の外に広がるいつも通りの美しい白銀の雪景色と、心地よいハーブの香り漂う、完璧に整理整頓された執務室だった。「ヴェラ様。ご安心ください、危ない魔獣など初めからおりませんでしたよ」 部屋の入り口に立っていたアシュが、天使のように柔らかな笑みを浮かべ、私の手から重たい寸胴鍋をふわりと受け取ってくれた。「俺が空間跳躍で到着した時には、すでに事態は収束しておりました。 シルヴィア様が展開された新魔術の規模があまりに巨大だったため、周辺の観測網が『未知の巨大生物の出現』と誤認して、大騒ぎしてしまっただけのようです」「まあ! そうなの!?」 私は胸を撫で下ろし、執務机の革張り椅子に腰掛けているシルヴィアへと駆け寄った。「よかったぁ……! 本当に心配したのよ、シルヴィア! あなた真面目だから、一人で怪物を抱え込んで倒れちゃったんじゃないかって……!」「あ……、あぁ……。ヴ、ヴェラ……か……」 机の前でカチコチに固まっていたシルヴィアが、ぎこちなく顔を上げた。 その姿を見た瞬間、私は「あっ」と小さく声を漏らした。 軍服ドレスこそ乱れなく着こなしているものの、シルヴィアの顔は熟れた林檎のように真っ赤に染まり、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。 眼鏡の奥の青い瞳は熱っぽく潤んで焦点が定まらず、机の下で組まれた両足が、小刻みにガタガタと震えていたのだ。「シルヴィア……! あなた、顔が真っ赤よ!? 息も荒いし……ものすごい高熱じゃない!」「
「待っててシルヴィアぁぁぁー! 今、特製スタミナ滋養強壮薬膳スープを持って駆けつけるわよぉぉぉーっ!!」 空間の裂け目の向こうから、元気ハツラツとした、そして呑気極まりない愛妻の声が響き渡った。 その空間震動の規模から察するに、ヴェラ様は自らの莫大な魔力を惜しげもなく注ぎ込み、アシュが開いた極細の空間航路を力任せに押し広げながら、超高速でこちらへ突進してきている。 到達まで――残り、およそ三十秒。「…………」 アシュの美しい貌(かお)から、一切の表情が抜け落ちた。 それは先ほど怪物の核を握り潰そうとしていた時の冷酷さなど足元にも及ばない、底知れぬ漆黒の威圧感。 アシュはゆっくりと首を巡らせ、床に倒れ伏すルミナと、腰を抜かして涎を垂らしているシルヴィアを冷然と見下ろした。「……おい、肉塊。そしてそこの雌豚」 その声は低く、寝室の空気を絶対零度まで凍りつかせた。「貴様らに与えられた時間は二十五秒だ。 二十五秒以内に、この塔を、この街を、そして貴様ら自身の成り果てた姿を、完璧に『何事もなかった状態』へ偽装しろ。 もしヴェラ様が一ミリでも不審感を抱かれたり、この部屋の淫靡な臭気で眉をひそめられたりした瞬間……貴様ら二人を、魂の素粒子ごと次元の彼方へ消し飛ばす」「ヒッ……!?」「――――ッ!?」 シルヴィアが恐怖で悲鳴を上げ、ルミナの全身の毛穴から冷や汗ならぬ体液が吹き飛んだ。 魔王アシュの脅迫は、冗談などではない。本当にコンマ一秒の躊躇もなく実行される絶対の死刑宣告だ。 残り二十秒。 ルミナの思考ルーチンが、かつてない超オーバードライブを起こした。 主(シルヴィア)との甘美な触手生活を守るため、そして何より生き残るため、人外の怪物はその神話級の質量を限界までフル回転させた。 ドバババババ
ゴオオオオオオッ……!! 極北の大地を埋め尽くす赤黒い肉塊の海から、天を衝くほどの質量を持った数万本の触手が、音速の壁を突破しながらアシュへと殺到していた。 一本一本が城壁を丸ごと薙ぎ倒す太さを持ち、先端からは触れた空間すら腐食させるような超高濃度の麻痺毒と溶解液がドロドロと撒き散らされている。 国家一つを丸ごと捕食・同化し、神話級の怪物へと成り果てたルミナの全力の迎撃。 いかなる英雄であろうと、いかなる大賢者であろうと、肉片一つ残さずに押し潰され、融解させられるはずの絶対の暴力。 しかし――。「……目障りだ」 アシュは、冷徹極まる声でただ一言、そう吐き捨てた。 彼が右手を掲げ、白くしなやかな指先を軽く一閃させた、その刹那。 ――ズバッ、ズズズズズズズズッ!!!! 音すら遅れて届くほどの、神速の次元断裂。 アシュを中心とした半径数キロメートルの空間そのものが、まるで精密な刃物で薄切りにされたガラスのように、数億枚の断片へと寸断された。 ギュルルルルッ……!?!? 四方八方から迫っていた数万本の触手は、アシュの身体に触れることすら叶わず、一瞬にして細胞単位、分子単位の微塵へと解体された。 斬り飛ばされた肉塊の雨が黒い炭となって虚空に消え失せ、甘ったるい紫色の霧ごと、極北の空が巨大な円形状にくり抜かれて晴れ渡る。 ただの一振り。 国家を呑み込んだ怪物の攻撃を、アシュは呼吸をするよりも容易く、無へと還したのだ。「我が主の心を乱したノイズの源は……塔の最上階か」 アシュは一歩を踏み出した。 足元には階段も床もない。だが、彼が歩く先々で空間が自動的に足場を形成し、彼はまるで平地を歩くように優雅な足取りで、触手に覆われた白亜の研究塔『氷嶺の牙』の最上階へと踏み込んだ。 ◇ ◇ ◇
王都が恐怖と胃痛の夜会から立ち直る間もなく。 大陸全土を揺るがす未曾有の凶報が、世界中を駆け巡った。 ――極北の防衛要塞国家『フロストヘイム』の完全沈黙。 永久凍土の過酷な環境にありながら、屈強な北方騎士団と堅牢な氷壁に守られていた小国家。 それが、ある一夜を境に、外部との一切の魔導通信を途絶させたのだ。 異変を察知した周辺国が放った先遣調査隊が目にしたのは。 国家の滅亡などという言葉では到底言い表せない、あまりにもおぞましい『世界の変貌』だった。 白銀の雪原は消え去り。 城壁も、民家も、針葉樹の森も、すべてが原形を留めぬほどに溶解。 見渡す限りの大地が、まるで巨大な生物の内臓のように赤黒く脈打ち、天を突く無数の半透明な触手がうねり狂う――地獄の繭と化していたという。 人間も、魔獣も、誰一人として生きて戻ってこない。 ただ、巨大な肉塊の海が、呼吸をするようにドクン、ドクンと音を立てて広がり続けている――。 大陸中の国家が「古代の邪神が復活したのではないか」と恐慌に陥る中。 その凶報は、我がノクス辺境伯爵邸のリビングにも届いていた。 ◇ ◇ ◇「……そ、そんな……! シルヴィアが……!?」 私は、アルファが差し出してきた最新の魔導通信の記録用紙を取り落としそうになりながら、青ざめた顔で叫んでいた。 フロストヘイム。 そこは、私の旧友であり、『絶対独身同盟』の盟友でもある『白銀の魔女』シルヴィアの研究塔――『氷嶺の牙』がそびえ立つ地だ。「ヴェラ様、落ち着いてください。お体に障ります」 私の背後から、温かい両手がそっと伸びてきた。 アシュが私の肩を優しく抱きしめ、心地よい魔力のぬくもりで私の強張った身体を包み込んでくれる。 けれど、今の私にはその温もりを呑気に楽しむ余裕すら
彼を拾ったのは、純粋な合理性からだった。完成された理想の男がいないなら、真っ白な子どもを一から育て上げればいい。三百年間生きてきて、なぜこんな簡単なことに気付かなかったのか不思議なくらいだ。「……っ、おい、どこに行くんだよ」路地裏から引きずり出された少年――アシュは、私の手を振り払おうと必死に抵抗していた。だが、ひ弱な少年の力で、魔力で身体強化をしている私から逃れられるはずもない。「どこって、私のお家よ」「はなせ! 俺をどうする気だ! 奴隷商人か!? それとも怪しげな儀式の生贄か!?」「嫌だわ。そんな野蛮なことしないわよ」私はふふっと笑いながら、彼の灰色の髪を撫でた。泥と
「愛」というものが、私にはよくわからない。三百年間生きてきても、その正体だけは一向に掴めなかった。ただ、目の前を歩く老夫婦を見ていると、胸の奥がわずかに疼くような気がする。シワだらけの手と手をしっかりと繋ぎ、同じ歩幅でゆっくりと石畳を歩いていく二人。合理的ではない。手を繋げば片手が塞がり、いざという時の防御行動が遅れる。歩幅を合わせるのも、身体能力の低い方に合わせるという非効率な行為だ。けれど。「……とても、暖かそうね」カフェのテラス席で紅茶を傾けながら、私はぽつりと呟いた。誰かと寄り添い、共に老い、最期まで隣にいる。そんな『普通の夫婦』というものに、私はずっと憧れてい
アシュを拾ってから三年。 十五歳の彼は、私の想像を遥かに超える速度で成長を続けていた。 「――そこまで」 私が声をかけると、中庭に響いていた激しい金属音がピタリと止んだ。 「はっ……はぁっ……」 荒い息を吐きながら木剣を下ろすアシュ。 彼の足元には、私が魔法で創り出した『泥人形(ゴーレム)』が、文字通り木端微塵になって散らばっていた。 ただの泥人形ではない。 大理石ほどの硬度を持たせ、一流の騎士三人分の動きをインプットした、実践用の高度な魔法生物だ。 それを彼は、たった一人で。 しかも魔法を一切使わず、剣術だけで圧倒してみせたのだ。 「素晴らし
アシュを拾ってから、半年が過ぎた。泥と血にまみれていた路地裏の野良猫は、見違えるように美しい少年へと成長しつつあった。毎日の十分な食事と、温かいベッド。そして私という、絶対的な庇護者の存在。それらが、アシュの本来持っていたポテンシャルを急速に引き出していたのだ。くすんでいた灰色の髪は、今や月光を吸い込んだような美しい銀色に輝いている。痩せこけていた体にも適度な筋肉がつきはじめ、背もぐんと伸びた。まだ十二歳の少年だが、すでに末恐ろし







