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第5話:完璧な防壁と、誰にも言えない秘密の宝箱

last update publish date: 2026-05-31 07:39:05

アシュを拾ってから三年。

十五歳の彼は、私の想像を遥かに超える速度で成長を続けていた。

「――そこまで」

私が声をかけると、中庭に響いていた激しい金属音がピタリと止んだ。

「はっ……はぁっ……」

荒い息を吐きながら木剣を下ろすアシュ。

彼の足元には、私が魔法で創り出した『泥人形(ゴーレム)』が、文字通り木端微塵になって散らばっていた。

ただの泥人形ではない。

大理石ほどの硬度を持たせ、一流の騎士三人分の動きをインプットした、実践用の高度な魔法生物だ。

それを彼は、たった一人で。

しかも魔法を一切使わず、剣術だけで圧倒してみせたのだ。

「素晴らしいわ、アシュ。踏み込みの速度も、太刀筋の鋭さも申し分ない」

私が拍手をしながら近づくと、アシュは額の汗を拭いながら、パッと花が咲いたような笑顔を見せた。

「ありがとうございます、ヴェラ様! 俺、うまくやれましたか?」

「ええ、完璧よ。王宮騎士団の団長クラスでも、今のあなたと剣だけで打ち合うのは骨が折れるでしょうね」

「ヴェラ様にそう言っていただけるのが、何よりの褒め言葉です」

アシュは嬉しそうに目を細め、私にすり寄ってくる。

十五歳になり、身長はすでに私より高くなったというのに、私に向ける態度は拾った当初の忠犬のままだ。

いや、むしろ私への依存度は年々高まっているようにすら感じる。

「でも、少し無理をしすぎじゃないかしら? 毎日夜遅くまで、魔法と剣の訓練を自主的にやっているでしょう」

私が彼の頬についた泥をハンカチで拭ってやると、アシュは心地よさそうに目を閉じた。

「無理などしていません。ヴェラ様をお守りするためには、もっと、もっと強くならなければ」

「私を守る?」

私は思わずクスリと笑ってしまった。

「嬉しいけれど、私はこれでも三百年生きた魔女なのよ? 自分の身くらい自分で守れるわ」

「ダメです」

アシュの声が、ふいに低くなった。

目を開けた彼の赤い瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。

「ヴェラ様がご自身で手を下すような真似は、させたくありません。ヴェラ様に害をなすものは、すべて俺が排除します。それが、俺の役目ですから」

真剣な眼差し。

私はその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。

あぁ、なんて献身的なのだろう。

これだ。

これこそが、私が求めていた『夫』の姿。

私を恐れることなく、私のためだけに強くなり、私を最優先に考えてくれる存在。

私の婚活は、やはり大成功だったのだ。

「ありがとう、アシュ。あなたは本当に、立派な私の『理想の夫候補』よ」

私が背伸びをして彼の銀髪を撫でると、アシュは頬を染めて、私の手に自分の手を重ねた。

「候補、ではありません。俺は必ず、ヴェラ様のたった一人の夫になります。他の誰にも、その座は譲りません」

力強く宣言するアシュ。

その瞳の奥に宿る感情の重さに、私はただ満足げに頷くことしかできなかった。

◇ ◇ ◇

午後。

私は書斎で、古文書の解読作業をしていた。

コンコン、と控えめなノックの音が鳴る。

「ヴェラ様、お茶の時間です」

ワゴンを押して入ってきたアシュが、手際よくテーブルにティーセットを準備し始めた。

「今日の紅茶は、ヴェラ様がお疲れのようでしたので、リラックス効果のあるカモミールをブレンドしました。お茶菓子は、新作のレモンタルトです」

「まぁ、美味しそう」

私はペンを置き、テーブルについた。

アシュが淹れてくれた紅茶を一口飲む。

……完璧だ。

香りの立ち方も、温度も、私の好みを完全に把握している。

レモンタルトも、王都の高級洋菓子店顔負けの味だった。

「本当に美味しいわ。アシュ、あなた魔法や剣術だけじゃなく、料理の腕も一流ね。どこのお嫁さんにもらわれても恥ずかしくないわ」

私が冗談めかして言うと。

ピキッ、と。

アシュが持っていた銀のトレイが、わずかにひしゃげた。

「……ヴェラ様」

「ん?」

「俺は、どこにも行きません。俺が料理をするのも、お茶を淹れるのも、すべてヴェラ様のためだけです」

アシュの赤い瞳が、どこか暗い光を帯びて私を見つめている。

「もし、俺の手料理を他の誰かが口にするようなことがあれば……その者の喉を、この手で掻き切ってしまうかもしれません」

「もう、冗談が過ぎるわよ」

私は笑い飛ばした。

思春期特有の、極端な独占欲だろう。

私という絶対的な保護者に対する、執着。

普通の人間なら「重い」「怖い」と逃げ出すかもしれない。

だが、私は違う。

三百年間、誰からも求められなかった私にとって、この重すぎる愛情は心地よいものでしかなかった。

「わかっているわ。あなたはずっと、私のそばにいてくれるのよね」

「はい。永遠に」

アシュは美しい微笑みを浮かべ、私の横顔をじっと見つめていた。

その視線が、まるで獲物を逃さない蛇のようにねっとりとしたものであることに、私はまだ気づいていなかった。

◇ ◇ ◇

数日後。

珍しく、森の奥の洋館に客がやってきた。

「ごきげんよう、ヴェラ殿」

応接室に通されたのは、派手な装飾の服を着た、恰幅の良い中年男性だった。

王都の貴族、バルバトス伯爵。

彼の背後には、護衛の騎士が二名控えている。

「何の用かしら、バルバトス伯爵。私は人間との関わりを絶っているはずだけれど」

私が冷たく言い放つと、伯爵は脂ぎった顔に下品な笑みを浮かべた。

「冷たいことをおっしゃる。実は、隣国との国境付近で少しばかり紛争の火種がありましてな。我が国としては、是が非でも『黒夜の魔女』殿のお力をお借りしたいのですよ」

「断るわ。私は戦争には加担しないと、国王にも伝えてあるはずよ」

「まぁそう言わずに。報酬は弾みますぞ? それに、魔女殿もそろそろ人間の後ろ盾が必要ではありませんかな?」

伯爵はニヤニヤと笑いながら、私に顔を近づけてきた。

「美貌は衰えておられんようだが、いつまでも孤独に森に引きこもっていては気が狂いましょう。どうです、私があなたのパトロンになって――」

伯爵が私の手に触れようとした、その瞬間。

「――お下がりください」

氷のように冷たい声が、応接室に響き渡った。

私の背後に控えていたアシュが、音もなく私の前に立ち塞がっていた。

「な、なんだお前は!」

伯爵が驚いて手を引っ込める。

アシュは完璧な礼装を身にまとい、表情一つ変えずに伯爵を見下ろしていた。

「申し訳ありませんが、ヴェラ様はお疲れなのです。不躾な接触はご遠慮願えますか」

「平民のガキが、貴族に向かってなんという口の利き方だ! おい、つまみ出せ!」

伯爵が怒鳴ると、背後の護衛騎士二人が剣の柄に手をかけた。

だが。

「……動くな」

アシュが、ぽつりと呟いた。

たった一言。

しかし、その言葉には、空気を凍らせるほどの凄まじい殺気と魔力が込められていた。

「ガッ……!?」

「な、体が……っ!」

剣を抜こうとした二人の騎士が、その場に縫い止められたように硬直する。

冷や汗を滝のように流し、ガチガチと歯を鳴らして震え始めたのだ。

「ひぃっ……!?」

伯爵もまた、アシュの赤い瞳に見つめられ、腰を抜かしてソファーにへたり込んだ。

「ヴェラ様の大切なお時間を、これ以上奪うことは許しません。お引き取りを」

アシュの顔には、完璧で美しい、けれど全く笑っていない微笑みが張り付いている。

「わ、わかった……! 帰る! 帰るから、その化け物をどうにかしろっ!」

伯爵は護衛たちに抱えられるようにして、逃げるように屋敷を出て行った。

応接室に、再び静寂が戻る。

「……やりすぎよ、アシュ」

私がため息をつきながら言うと、アシュはすぐに振り返り、困ったような子犬の表情を作った。

「申し訳ありません、ヴェラ様。ですが、あの男の目……ヴェラ様を汚らわしい欲望の目で見ているのが、どうしても許せなくて」

「まあ、気持ちはわかるけれど。あまり威嚇ばかりしていると、あなたが悪者にされてしまうわ」

「ヴェラ様のためなら、俺は悪魔にでもなります」

アシュは私の前で跪き、私の手を取って恭しく口づけた。

「俺の使命は、ヴェラ様をすべての害意からお守りすること。あの程度の塵芥に、ヴェラ様の美しい手を煩わせるわけにはいきません」

「ふふ、頼もしいわね」

私は彼の忠誠心に満足し、その銀髪を優しく撫でた。

彼が私を守ろうとしてくれる気持ちは、痛いほど伝わってくる。

少し過保護すぎる気もするが、男の子というのはこういうものなのだろう。

私は彼を、心から信頼していた。

――そう、信頼しきっていたのだ。

◇ ◇ ◇

その日の深夜。

アシュの自室。

鍵がかけられた部屋の奥には、さらに隠し扉が存在していた。

彼が自分の魔法で巧妙に偽装し、私にすら存在を隠している『秘密の部屋』。

冷たい石造りの小部屋の中は、異様な空気に包まれていた。

壁一面に貼られているのは、私の姿を描いた無数のスケッチ。

本を読んでいる私、紅茶を飲んでいる私、眠っている私。

どれも、狂気的なほどの執念で精密に描かれている。

そして、部屋の中央に置かれた豪奢なガラスケース。

アシュはうっとりとした表情で、そのガラスケースを開けた。

中に入っているのは、宝石でも金貨でもない。

私が使って古くなったリボン。

欠けてしまったティーカップ。

私が落とした、数本の黒い髪の毛。

そして、私が三年前のあの日、彼の血を拭ってあげたハンカチ。

「あぁ……ヴェラ様……」

アシュはガラスケースの中から、黒い髪の毛の一本を指で摘み上げ、愛おしそうに頬擦りをした。

「今日も、あなたは美しかった。あの豚のような貴族があなたに触れようとした時、俺は本当に……あの男の腕を切り落として、目玉を潰してやりたかった」

アシュの赤い瞳が、暗闇の中でらんらんと輝く。

「でもダメだ。ヴェラ様は賢くて優しい方だから、俺が残虐な真似をすれば、きっと悲しまれる。俺は、ヴェラ様にとっての『完璧な理想の夫』であり続けなければならない」

彼は、私の抜け毛にそっと口づけを落とした。

「裏の仕事は、誰にも見つからないように、完璧にこなさなければ」

アシュはクスクスと笑いながら、一枚の紙を取り出した。

そこには、今日やってきたバルバトス伯爵の屋敷の見取り図と、護衛の巡回ルートが詳細に記されていた。

「ヴェラ様を不快にさせた罪は、命で償ってもらわないとね」

狂気に歪んだ笑顔。

「あぁ、ヴェラ様。俺の神様。俺のすべて。早く、もっと早く大人になりたい。俺のこの手で、あなたを完全に囲い込み、他の誰一人としてあなたを見ることができない世界を作りたい」

秘密の部屋に、甘く、重く、狂おしい愛の囁きが反響する。

私が無邪気に「順調な育成」を喜んでいる間にも。

アシュの愛は、私という存在を核にして、世界を焼き尽くすほどの毒を孕みながら、恐ろしいバケモノへと羽化しようとしていた。

――そして、彼が本格的に『排除』を始める日は、すぐそこまで迫っていた。

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