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第2話:泥まみれの原石と、はじめての『甘やかし』

last update publish date: 2026-05-29 11:45:12

彼を拾ったのは、純粋な合理性からだった。

完成された理想の男がいないなら、真っ白な子どもを一から育て上げればいい。

三百年間生きてきて、なぜこんな簡単なことに気付かなかったのか不思議なくらいだ。

「……っ、おい、どこに行くんだよ」

路地裏から引きずり出された少年――アシュは、私の手を振り払おうと必死に抵抗していた。

だが、ひ弱な少年の力で、魔力で身体強化をしている私から逃れられるはずもない。

「どこって、私のお家よ」

「はなせ! 俺をどうする気だ! 奴隷商人か!? それとも怪しげな儀式の生贄か!?」

「嫌だわ。そんな野蛮なことしないわよ」

私はふふっと笑いながら、彼の灰色の髪を撫でた。

泥と血でカピカピに固まっているが、洗えばきっと綺麗な銀糸になるだろう。

「あなたは今日から、私の『理想の夫候補』になるの。大切に、大切に育ててあげるわ」

「は……? おっと、夫……?」

アシュはぽかんと口を開け、赤い瞳を瞬かせた。

無理もない。

スラムでその日暮らしをしていた孤児にとって、「結婚」や「夫」などという概念は、宇宙の果ての話より縁遠いものだろう。

「ええ、そうよ。だからまずは、綺麗にしないとね」

私はアシュの手を引いたまま、人通りのない裏路地の奥で立ち止まった。

そして、指先で空中に複雑な魔法陣を描く。

「な、なんだこれ……光って……」

「舌を噛まないようにね」

パチン、と指を鳴らす。

次の瞬間、視界がぐにゃりと歪み、凄まじい浮遊感が私たちを包み込んだ。

空間転移魔法。

魔力消費が激しく、正確な座標計算が必要な高等魔法だが、私にとっては息をするように簡単なものだ。

一瞬の暗闇ののち、視界が開けた。

「う、おえぇ……っ」

「あらあら、初めての転移は少し酔うわよね。深呼吸して」

アシュは石畳の床に膝をつき、必死に吐き気を堪えていた。

私は彼の背中を優しくさすりながら、周囲を見渡す。

王都から遠く離れた、深い森の奥。

そこにあるのは、私が長年住み処としている巨大な洋館だった。

黒大理石で作られた柱、磨き上げられた床、天井から吊るされた豪奢なシャンデリア。

「ここは……王宮、か……?」

顔を上げたアシュが、呆然と呟く。

スラムの路地裏しか知らない彼にとって、この屋敷はあまりにも異世界すぎたのだろう。

「私の家よ。広すぎるのが難点だけど、今日からあなたが一緒に住んでくれるから、少しは賑やかになるわね」

私は微笑みかけ、再び彼の手を取った。

「さあ、まずはその泥と血を洗い流しましょう」

 ◇ ◇ ◇

屋敷の巨大な浴室。

湯気が立ち込める中、アシュは脱衣所の隅でガタガタと震えていた。

警戒心からではない。

私が「さあ、服を脱いで」と言った途端、顔を真っ赤にして防御姿勢をとったのだ。

「……な、何で、あんたがいるんだよッ!」

「何でって、私があなたを洗うからよ?」

私は腕まくりをしながら、不思議そうに首を傾げた。

「ふざけんな! 俺は一人で入れる!」

「だめよ。背中までちゃんと洗えないでしょう? それに、あなたは私の『夫』になるのだから、遠慮なんていらないのよ」

「意味がわかんねえよ! あんた、女だろ!」

アシュは必死にボロボロの服の裾を握りしめ、私を睨みつけている。

十二歳の少年とはいえ、一応は男としての羞恥心があるらしい。

だが、私にとって彼はまだ保護すべき『子ども』であり、これから自分好みに育て上げる『素材』だ。

恥じらう要素などどこにもない。

「抵抗するなら、魔法で服を消し飛ばすわよ?」

「……っ!」

私が指先に魔力を集めて見せると、アシュはヒッと喉を鳴らし、涙目で自身の服を脱ぎ始めた。

合理的でよろしい。

だが、ボロ布のような服が床に落ちた瞬間。

私は、思わず息を呑んだ。

「……ひどい、わね」

アシュの痩せこけた体には、無数の傷跡が刻まれていた。

鞭で打たれたような痕。

刃物で切り裂かれた痕。

火傷の痕。

そして、古くからある栄養失調特有の肋骨の浮き出し。

これが、彼が今まで生きてきた『世界』の残酷さだった。

「……見るなよ」

アシュが自身の体を隠すように腕を交差させ、顔を背ける。

その声は、どこか諦めと、微かな恐怖に震えていた。

汚いものを見るような目をされるとでも思っているのだろうか。

「……腹が立つわね」

私の口から、低い声が漏れた。

アシュがビクッと肩を揺らす。

「やっぱり、気持ち悪いだろ……俺みたいなゴミ――」

「違うわ」

私はアシュの前にしゃがみ込み、その細い腕を優しく退けた。

「私のものになる予定の体に、勝手に傷をつけた連中に腹を立てているの」

「え……?」

アシュが赤い瞳を丸くして、私を見下ろす。

「これからは、私があなたを管理するわ。だから、勝手に傷つくことも、誰かに傷つけられることも、私が絶対に許さない」

それは、私の歪んだ独占欲だったのかもしれない。

だが、この時の私にとって、それは純粋な『庇護』の誓いだった。

私はアシュの胸に手を当て、魔力を流し込む。

淡い光が彼の体を包み込んだ。

古い傷跡が薄れ、皮膚が再生し、健康的な肌の色が戻っていく。

「な、なんだこれ……傷が、消えて……」

「治癒魔法よ。さあ、綺麗になったところで、しっかり洗いましょうか」

私は呆然としているアシュを湯船に押し込み、最高級の石鹸でその体をゴシゴシと洗い始めた。

アシュはされるがままになりながら、信じられないものを見るような目で、じっと私を見つめていた。

 ◇ ◇ ◇

入浴後。

私の魔法でサイズを調整した、上質な白いシャツと黒いズボンを着せた。

見違えるようだった。

灰色の髪はサラサラと輝き、栄養を与えれば間違いなく美しい青年になるであろう顔立ちがはっきりとわかる。

「やっぱり、私の目に狂いはなかったわ。素晴らしい素材よ」

私がウンウンと頷いていると、アシュの腹の虫が、盛大に「ぐきゅるるる」と鳴った。

アシュは顔を真っ赤にして、お腹を押さえる。

「……笑えばいいだろ」

「笑うわけないじゃない。成長期の男の子がいっぱい食べるのは、良い夫になるための絶対条件よ」

私は彼の手を引き、ダイニングルームへと案内した。

長いテーブルの上には、あらかじめ魔法で保温しておいた料理が並んでいる。

温かいクリームシチュー、ふかふかの白パン、ローストビーフ、新鮮なサラダ。

スラムでは絶対にお目にかかれない、貴族の食卓のような光景。

アシュはテーブルの前で立ち尽くし、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「さあ、座って。好きなだけ食べていいわよ」

私が席を勧めると、アシュは恐る恐る椅子に座った。

だが、目の前の湯気を立てるシチューを見つめたまま、手を出そうとしない。

「どうしたの? 熱いのが苦手?」

「……毒が、入ってないって証明しろ」

アシュは鋭い目を私に向けた。

なるほど。

見ず知らずの他人が突然優しくしてきて、豪華な食事を与える。

裏社会で生きてきた彼にとって、それは「罠」以外の何物でもないのだ。

なんて可哀想で、なんて愛おしい警戒心だろう。

「いいわよ」

私は立ち上がり、アシュの隣に立った。

そして、彼のお皿のシチューをスプーンですくい、自らの口に含む。

パンもちぎって一口食べ、ローストビーフも一切れ食べた。

「ほら、死んでないでしょう?」

私が微笑むと、アシュはしばらく私をじっと見つめ……やがて、震える手でスプーンを握った。

そして、シチューを一口、口に運ぶ。

「…………っ」

アシュの動きが止まった。

赤い瞳が見開かれ、ぽろりと、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「美味しい……なんだこれ、あたたかい……」

彼は泣きながら、夢中でシチューをかき込み始めた。

パンをちぎって口に詰め込み、むせそうになりながら肉を噛みちぎる。

獣のような食べ方だったが、私は止めることなく、ただ優しく背中を撫で続けた。

「ゆっくりでいいわ。おかわりはたくさんあるから」

「う、うっ……うぐっ……」

アシュは泣き咽びながら、それでも食べるのをやめなかった。

生まれて初めて知る、「安全な食事」。

誰にも奪われる心配のない、温かい場所。

彼の中で、世界に対する認識が根底から覆っていく音がした。

そしてそれは同時に、私という存在が、彼にとっての『絶対的な神』へと昇華された瞬間でもあった。

「よしよし。いっぱい食べて、強くてかっこいい私の夫になってね」

「……ん、ぅん……っ」

アシュは涙とソースで顔をぐしゃぐしゃにしながら、私の言葉に何度も、何度も頷いた。

 ◇ ◇ ◇

夜。

私が用意した客室のベッドで、アシュは毛布にくるまっていた。

高級な羽毛布団の感触に、落ち着かないのか何度も寝返りを打っている。

「どう? 寒くないかしら」

私がベッドの縁に腰掛けると、アシュは毛布の中から顔だけを出した。

お風呂に入り、お腹いっぱいになり、ようやく年相応の子どもの顔になっている。

「……なあ」

「ん?」

「本当に、俺を売ったりしないのか?」

アシュの声には、まだ微かな怯えが混じっていた。

「何度も言っているでしょう。あなたは私の理想の夫になるの。売るわけないじゃない」

「『おっと』って、なんだよ。俺は孤児だぞ。字も読めないし、剣も振れない」

「これから私が全部教えてあげるわ。文字の読み書きも、礼儀作法も、魔法も。あなたを世界で一番完璧な紳士に育て上げるのよ」

私はアシュの灰色の前髪をかき分け、その赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。

「だから、あなたはただ、私に守られていればいい。私のそばから離れず、私だけを見ていればいいの。そうすれば、一生安全で、幸せになれるわ」

普通の人間に言えば「狂っている」と逃げ出されるような、束縛の言葉。

だが、すべてを奪われ続けてきたアシュにとって、それは究極の『救済』だったのだ。

アシュの赤い瞳が、揺れた。

警戒や怯えは完全に消え去り、代わりに、熱に浮かされたような強烈な感情が渦巻いている。

「……ずっと、ここにいていいのか?」

「ええ。あなたが望む限り、永遠に」

「……誰も、俺を殴らない?」

「私が全員殺してあげるわ」

淡々と、しかし本気でそう告げると、アシュはふっと笑った。

それは今日出会って初めて見せた、年相応ではない、酷く妖艶な笑みだった。

「わかった」

アシュは毛布の中から手を伸ばし、私のドレスの袖をギュッと握りしめた。

その小さな手は、白くなるほど強い力で私をホールドしている。

「俺は、あんたのものになる。あんたの望む『おっと』でも何でもなってやる」

「いい子ね」

「だから――」

アシュは、私の瞳を射抜くように見つめ、低く、這うような声で言った。

「絶対に、俺を捨てないでくれよ。もし捨てたら……俺は、あんたをどうするかわからない」

「あらあら」

私は小さく笑った。

捨てられる不安からくる、強がりな威嚇。

なんて可愛いらしいのだろう。

「心配しなくても、絶対に捨てたりしないわよ」

私は彼の小さな額に、お休みのキスを落とした。

私が部屋の明かりを消して出て行こうとしても、アシュは私の袖を掴んだ手を決して離そうとはしなかった。

結局、その夜は彼が眠りにつくまで、ベッドの横で手を握り続けることになった。

私は満足感に浸っていた。

順調だ。彼は間違いなく、私に依存し始めている。

このまま愛情を注ぎ続ければ、絶対に私を裏切らない、理想の夫が完成するはずだ。

――だが、私は気づいていなかった。

眠りについたふりをして、薄く開かれたアシュの赤い瞳が、暗闇の中でらんらんと輝いていたことに。

その瞳に宿っていたのは、捨てられることへの恐怖などではない。

『この神様は、自分だけのものだ』という、狂気じみた独占欲と、重すぎる執着の炎だった。

理想の夫を育てるはずの私の婚活は、第一歩目から、致命的な方向へと進み始めていた。

 

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