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黒き魔人のサルバシオン
黒き魔人のサルバシオン
작가: 鈴谷凌

プロローグ「萌芽」

작가: 鈴谷凌
last update 게시일: 2026-04-02 18:27:56

 名もなき丘の上。

 平時なら静寂に包まれているはずの彼の地は、その夜、溢れかえるほどの人々で埋めつくされていた。

 たとえばそれは、泣き叫ぶ幼子。

 あるいは、子を宥める親。

 身を震わせ叫ぶ者たちもいた。

 反応はそれぞれ異なるが、確かなのは、誰も彼もが一様に悲嘆に明け暮れ、丘の麓で盛る劫火に、果てしのない喪失を重ねていたこと。

 この者どもが住んでいた村は、僅か一晩の内に救いようもなく決定的に破壊された。

 彼らにとっては最も忌み嫌うべき宿敵によって。

「――――」

 そんな凄惨たる状況の中で一人。

 人々から少し離れたところで佇む青年だけが悲哀と無縁であった。

 飾らない灰色の髪に、鈍い光沢を放つ琥珀色の瞳。

 青年はまるで感情が抜け落ちているかのような虚ろな表情で、周囲の者たちの止めどない慟哭を、彼方で激しく燃え上がる赤を、同じく虚ろな瞳で眺めていた。

 もちろんこの場にいる以上、彼もその人々と無関係ではない。

 彼は正しく、あの燃える炎の中にあった村に住んでいたし、それで尚こうして人形のように静かであった。

 青年が残忍であるからと聞かれればそれは否であるが、青年には血も涙もないと聞かれれば、それは是であった。

 矛盾していると思うだろうか。

 だが文字通り、青年には血も涙もなかった。

 本当に彼の肉体には血が通っておらず、未だ瞬き一つすらしないその瞳から涙が零れることはない。

 はっきり言って青年は人間ではなかった。比喩的ではなく、生物学的な意味でだ。

 だから、こんな時にどんな感情を拾って、どんな表情を貼り付けて、どのように振る舞えばよいのか、青年には何一つ分からなかった。

 悲嘆、憤慨、絶望。

 短いヒトとしての生活を経て、どれも言葉の上でだけは知っている感情であるが、青年はいまだかつて己の内にそれらを感じたことがなかった。

 圧倒的に経験に乏しく、感情を抱くまでに至っていない。

 ゆえに青年は、こうして立ち尽くすことしかできないでいたのだ。

 そんな青年の内情は、もちろん周りの人間に理解できる類の話ではなかった。

 無表情に立ち尽くす青年のその姿は、傍から見る人には薄情や冷血という言葉を想起させ、人によっては自分たち住んでいた村が滅んでしまったことを嘲っているようにも見えたかもしれない。

 ともあれ、青年の振る舞いは周囲の反感を大いに買い、注目を浴び、やがて怒りの捌け口へとなってしまった。

 呆然とする青年に対し、住人の一人であった男の拳が振るわれる。

「っ、お前の……お前のせいだ!! 村が焼かれることになったのも! あいつらがみんな死んじまったのも! お前が、魔獣どもを呼び寄せたからなんだろ!?」

 単なる怒りの捌け口としてではなかったようだ。

 青年を口悪く謗るこの男は、この幻のように儚い青年こそが、眼下に広がる災厄を招いたものだと見做したようだ。

 確かに青年はヒトではないが、傍から見るとヒトとしての形を保っている。

 魔獣のように醜く、卑しい本能に塗れた怪物とは程遠い外見。

 男の主張は、冷静さを欠いたことによる八つ当たりにしか思えないが、彼の暴行を目撃していた周囲の者も、青年自身も、男が指摘したことに異を唱えることはしなかった。

 然したる防御もせず、真っ向から振るわれる拳を受けた青年は、空中に弧を描いて吹き飛び、その身体がやがて背中から地面へと叩きつけられる。

 大の男の渾身の打撃を喰らっても青年は痛みを感じないのか、やはり無表情に夜空を見上げるばかりだった。

 その様子に男はいっそう怒りを滾らせ、男と大差ないほどの恰幅の身体を胸倉を掴んで立ち上がらせると、もう片方の腕を振り上げた。

「もうやめて……! やめてください……!」

 そして同じように拳が下ろされるだろう、そう誰もが思った刹那のこと、高く上げられたその腕を横から飛び出てきた女性が遮る。

 紫紺の髪を靡かせる、妙齢の婦人であった。

「誤解です、きっと誤解なんです! この子がそのように酷い事をするはずがありません!」

「ぐっ、リ、リゼットさん……放してくれよ! 誤解だって言われてもなあ、俺は見たんだよ! 村が襲われる直前、こいつが魔人の姿をしていたところをなあ! それから魔獣どもが一斉に現れやがったのは、こいつの魔素に惹かれたか……もしくはグルだったからに違いねえだろ!?」

 躊躇ったのは一瞬で、男は女性の華奢の手を乱暴に振り払う。

 勢いのままにその場にへたり込む女性に、男は鋭く告げる。

「それに、あんたはこいつの正体を知っていながら俺たちに教えなかった。そればかりかこいつを匿い、人間だと見なして家族ごっこに興じていたんだ! そのあんたに俺を止める権利なんてねえ!!」

 吐き捨てるような叫びと共に、男は青年が来ていた服を胸元の部分から強引に裂いた。

 より露わになる喉、首筋、そして――。

「あ……」

「ははっ! あんたがこいつをやけに隠したがっていたからおかしいと思っちゃいたが……まさか本当に魔人だったとはなあ!! おい、皆見てみろよ! こいつの胸のあたりにあるモノ、魔獣に付いてるモンとそっくりだぜ!」

 露わになった青年の胸元は、部分的には人間の肌と大差ないが、所々に漆黒に光る痣のようなものが見られ、まるで継ぎ接ぎのぬいぐるみのような奇怪な印象があった。

 それだけなら、まだ火傷か何かだと言い逃れることもできようが、問題はそこに止まらない。

 胸元の中心部、一際強い光を放つそこには、透き通るような黒で形成された塊が鎮座していた。

 胸に石が埋め込まれているかのようなそれは、もちろんヒトの身体には存在しない器官。

 黒い半透明の塊は、人間で言うところの心臓のような動きで明滅を繰り返しており、青年の非人間性をこの上なく残酷な形で周囲の者へと曝した。

 そしてその決定的な露出により、それまで虚ろだった青年の顔に初めて変化が生じた。

 誰にも見せてはいけないといわれていたモノ。この世界の敵であるという証。

 それが明るみに出てしまった事実は、劫火に耐える青年の心すらも揺るがしたようだった。

「ひっ……やっぱり本物の魔人……!?」

「なんという邪悪な光じゃ……!」

「彼の言葉は本当だったのか……気味が悪い……」

 周りにいた元住民たちは青年の露出した胸元を見ると、忌々しく眉を歪めて各々が強い不快感を示した。

 その声を耳にした青年の顔に、微かに悲しみのような表情が宿る。

 周りからの共感と、青年の鉄の面に傷をつけたことに満足した男は、青年の方を見て冷笑を浮かべた。

「見ろよ、この反応! お前はたまたま運が良かっただけだが、所詮は魔獣どもと同じで俺らの敵なんだよ! おら、同類なんだろ? 俺たちの村を焼いた責任をとってもらおうか? いいよな? お前らバケモノが最初に奪ったんだ、なにも間違っちゃねえよなあ!?」

 男は青年を殴り飛ばし、刃物を懐から取り出す。

 たとえ無抵抗であっても、刃物で魔物を殺すことは難しい。

 しかし何百何千と傷を付ければ、それも決して不可能ではないことで。

 憤怒と狂気に塗れた瞳の彼にとって、それはきっと容易く行えることで。

 周りの者たちも男を止める素振りを見せなかった。

 恨みの籠った目で地に伏した青年を睨みつける者もいれば、あまつさえその行為を煽る者もいた。

「魔人風情が人間の皮をかぶっていた上、俺たちの近くでのうのうと暮らしていたとはなあ……ああ、虫唾が走るぜ。まったく、存在が許されないゴミは駆除しないとなぁ……!?」

 その声をよりいっそう冷たいものに変え、男はじりじりと青年との距離を詰めるが――。

「お、お兄ちゃんはバケモノでもゴミでもない!!」

 またしても、青年を庇うように小さな影が割って入った。

 先ほどの婦人によく似た容貌の少女である。

 あどけなさが残るその顔は涙でくしゃくしゃになり、堰を切ったようにでたその声は怒りと恐怖に震えていた。

 脚に宿るは今にも折れそうなほどに脆く、今まで何一つ声を上げなかったのも頷けるほどに怯えている。

「き、君はリゼットさんの――」

 しかし、たとえ吹けば飛ぶようなその身体でも。

 幼き少女のなけなし勇気は、一瞬ではあるが男の歩を止め、青年の命が潰えるのを僅かに遅らせたのだった。

「アヤ、いけない! くっ……もう、こうなったら……!」

 その一瞬だけ生まれた空白を、少女の母は見逃さなかった。

 地につくばる身体を起こして立ち上がると、狼狽えて動きを止めている男を全力で後ろから突き飛ばす。

「な……クソっ!」

 幸い、傍観していた人々と青年たちとの距離は幾らか空いていた。

 女性は泣き喚く少女と呆然とする青年の手を急いで取り、その場からから逃れるように丘の上の方へと走り出した。

 突然の出来事に、倒れた男も他の者もすぐには反応できない。

 気付けば三者の背中は遠くなり、男は逃げていく彼らを苦虫を噛み潰したような表情で見据えた。

「ちっ、クソったれ! バケモノを庇うなんて……あんたらもどうかしちまったんじゃないか!? 逃げるってのなら勝手にしろ、どうせ野垂れ死ぬだろうがな!」

 逃げる青年たちの背に男の負け惜しみにも似た声が刺さる。

 彼は追ってまで青年を殺すつもりはないようで、青年を恐れていた者たちも、その脱出を見て安堵の表情を浮かべた。

 男たちは青年に対する並々ならぬ敵意こそあったが、やはり逃げる彼らを追うものは一人としていなかった。

 ここに至るまでに憔悴していたのもあるだろうし、恐ろしい魔人と関わり合いになりたくないと考えたのかもしれない。

 もしくはこの夜分に丘を上って逃げても、決して無事には生きられないだろうという侮蔑だろうか。

 いずれにしても、今の青年達には僥倖なことであった。

 丘を登り、下り、そしてまた上り。

 そうして男たちの姿が見えなくなったころで、それまで全速力だった青年たちは足を止めた。

 意図した動きというよりも、力が無意識に抜けてしまったといったほうがいい。

 住処を失い、同じ住民で会った者たちに詰られ、ここまで駆けて。

 精神的に疲弊していた彼らは、とにかく休息を渇望していたのだ。

「ここまで来れば、ひとまず大丈夫、かしらね……」

 追っ手が来ていないことを確認すると、呼吸を整えつつ母親が笑みを浮かべる。

「お母さん……ぐすっ、わたし……」

 それまで堪えていた不安が弾けた少女は母親に思いっきりしがみつく。その目には大粒の涙が溢れ、声もしゃがれている。

「……もう大丈夫よ、アヤ。怖かったわよね……よしよし……」

 青年をかばうため、勇気を奮い立たせ男の前に立ちはだかっていたが、その実恐ろしくてたまらなかったのだろう。

 再び泣き出してしまった少女の背を、母親の手が優しく慰める。

「――――」

 そんな親子の絆を少し離れたところから眺めていた青年の目線が、ふと先ほど衣服を破られた自身の胸元に向けられた。

 継ぎ接ぎの肌の色と黒く明滅する塊。この状況を招いた元凶。

 果たして本当に自分のこれが、魔獣たちを呼び寄せてしまったのか、今の青年には理解できなかった。

 しかしこれがなければ、青年があの場にいなければ、あの親子と共にいなければ。

 彼女たちがあんなにも傷つき、村を追われることはなかったはずであるのも確かだった。

 青年の意識に先ほどの男の言葉が蘇る。

「……世界の、敵……生きる場所が、ない……?」

 青年の口からたどたどしく声が漏れる。それまで曖昧だった感情が、明確に彼の心に湧き上がる。

「バケモノ、魔人……存在が許されないゴミ……」

「……お兄ちゃん?」

 ぶつぶつと呟かれる声に、平静をいくらか取り戻した少女が気づき青年に声をかける。

 しかし、その声に反応する余裕が青年にはなかった。

 その内にはかつてないほどの負の感情が渦巻いていた。

 絶望、罪悪感、諦念、疎外感、未知の感情に青年の心は嬲られてゆく。

 自分の中の何かが決定的にしまったのを朧気に感じながら、青年はやがてある予感へと至った。

 この出来事は自身にとって特別な意味を持つようになるだろうと。

 逃れ難い罪として、それを背負ってこれから生きていかなければならないという罰として。

 己の自由を奪い、魔人としての立場に縛り付ける軛として。

 そうして、この件に端を発する彼らの放浪の旅は、人目を避ける生活は、約五年ものあいだ続くことになった。

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