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名もなき丘の上。
平時なら静寂に包まれているはずの彼の地は、その夜、溢れかえるほどの人々で埋めつくされていた。たとえばそれは、泣き叫ぶ幼子。
あるいは、子を宥める親。 身を震わせ叫ぶ者たちもいた。反応はそれぞれ異なるが、確かなのは、誰も彼もが一様に悲嘆に明け暮れ、丘の麓で盛る劫火に、果てしのない喪失を重ねていたこと。
この者どもが住んでいた村は、僅か一晩の内に救いようもなく決定的に破壊された。
彼らにとっては最も忌み嫌うべき宿敵によって。「――――」
そんな凄惨たる状況の中で一人。
人々から少し離れたところで佇む青年だけが悲哀と無縁であった。飾らない灰色の髪に、鈍い光沢を放つ琥珀色の瞳。
青年はまるで感情が抜け落ちているかのような虚ろな表情で、周囲の者たちの止めどない慟哭を、彼方で激しく燃え上がる赤を、同じく虚ろな瞳で眺めていた。
もちろんこの場にいる以上、彼もその人々と無関係ではない。
彼は正しく、あの燃える炎の中にあった村に住んでいたし、それで尚こうして人形のように静かであった。
青年が残忍であるからと聞かれればそれは否であるが、青年には血も涙もないと聞かれれば、それは是であった。
矛盾していると思うだろうか。
だが文字通り、青年には血も涙もなかった。
本当に彼の肉体には血が通っておらず、未だ瞬き一つすらしないその瞳から涙が零れることはない。
はっきり言って青年は人間ではなかった。比喩的ではなく、生物学的な意味でだ。 だから、こんな時にどんな感情を拾って、どんな表情を貼り付けて、どのように振る舞えばよいのか、青年には何一つ分からなかった。悲嘆、憤慨、絶望。
短いヒトとしての生活を経て、どれも言葉の上でだけは知っている感情であるが、青年はいまだかつて己の内にそれらを感じたことがなかった。
圧倒的に経験に乏しく、感情を抱くまでに至っていない。
ゆえに青年は、こうして立ち尽くすことしかできないでいたのだ。そんな青年の内情は、もちろん周りの人間に理解できる類の話ではなかった。
無表情に立ち尽くす青年のその姿は、傍から見る人には薄情や冷血という言葉を想起させ、人によっては自分たち住んでいた村が滅んでしまったことを嘲っているようにも見えたかもしれない。
ともあれ、青年の振る舞いは周囲の反感を大いに買い、注目を浴び、やがて怒りの捌け口へとなってしまった。
呆然とする青年に対し、住人の一人であった男の拳が振るわれる。
「っ、お前の……お前のせいだ!! 村が焼かれることになったのも! あいつらがみんな死んじまったのも! お前が、魔獣どもを呼び寄せたからなんだろ!?」
単なる怒りの捌け口としてではなかったようだ。
青年を口悪く謗るこの男は、この幻のように儚い青年こそが、眼下に広がる災厄を招いたものだと見做したようだ。
確かに青年はヒトではないが、傍から見るとヒトとしての形を保っている。
魔獣のように醜く、卑しい本能に塗れた怪物とは程遠い外見。男の主張は、冷静さを欠いたことによる八つ当たりにしか思えないが、彼の暴行を目撃していた周囲の者も、青年自身も、男が指摘したことに異を唱えることはしなかった。
然したる防御もせず、真っ向から振るわれる拳を受けた青年は、空中に弧を描いて吹き飛び、その身体がやがて背中から地面へと叩きつけられる。
大の男の渾身の打撃を喰らっても青年は痛みを感じないのか、やはり無表情に夜空を見上げるばかりだった。
その様子に男はいっそう怒りを滾らせ、男と大差ないほどの恰幅の身体を胸倉を掴んで立ち上がらせると、もう片方の腕を振り上げた。
「もうやめて……! やめてください……!」
そして同じように拳が下ろされるだろう、そう誰もが思った刹那のこと、高く上げられたその腕を横から飛び出てきた女性が遮る。
紫紺の髪を靡かせる、妙齢の婦人であった。
「誤解です、きっと誤解なんです! この子がそのように酷い事をするはずがありません!」
「ぐっ、リ、リゼットさん……放してくれよ! 誤解だって言われてもなあ、俺は見たんだよ! 村が襲われる直前、こいつが魔人の姿をしていたところをなあ! それから魔獣どもが一斉に現れやがったのは、こいつの魔素に惹かれたか……もしくはグルだったからに違いねえだろ!?」
躊躇ったのは一瞬で、男は女性の華奢の手を乱暴に振り払う。
勢いのままにその場にへたり込む女性に、男は鋭く告げる。
「それに、あんたはこいつの正体を知っていながら俺たちに教えなかった。そればかりかこいつを匿い、人間だと見なして家族ごっこに興じていたんだ! そのあんたに俺を止める権利なんてねえ!!」
吐き捨てるような叫びと共に、男は青年が来ていた服を胸元の部分から強引に裂いた。
より露わになる喉、首筋、そして――。
「あ……」
「ははっ! あんたがこいつをやけに隠したがっていたからおかしいと思っちゃいたが……まさか本当に魔人だったとはなあ!! おい、皆見てみろよ! こいつの胸のあたりにあるモノ、魔獣に付いてるモンとそっくりだぜ!」
露わになった青年の胸元は、部分的には人間の肌と大差ないが、所々に漆黒に光る痣のようなものが見られ、まるで継ぎ接ぎのぬいぐるみのような奇怪な印象があった。
それだけなら、まだ火傷か何かだと言い逃れることもできようが、問題はそこに止まらない。
胸元の中心部、一際強い光を放つそこには、透き通るような黒で形成された塊が鎮座していた。
胸に石が埋め込まれているかのようなそれは、もちろんヒトの身体には存在しない器官。
黒い半透明の塊は、人間で言うところの心臓のような動きで明滅を繰り返しており、青年の非人間性をこの上なく残酷な形で周囲の者へと曝した。そしてその決定的な露出により、それまで虚ろだった青年の顔に初めて変化が生じた。
誰にも見せてはいけないといわれていたモノ。この世界の敵であるという証。
それが明るみに出てしまった事実は、劫火に耐える青年の心すらも揺るがしたようだった。
「ひっ……やっぱり本物の魔人……!?」
「なんという邪悪な光じゃ……!」
「彼の言葉は本当だったのか……気味が悪い……」
周りにいた元住民たちは青年の露出した胸元を見ると、忌々しく眉を歪めて各々が強い不快感を示した。
その声を耳にした青年の顔に、微かに悲しみのような表情が宿る。
周りからの共感と、青年の鉄の面に傷をつけたことに満足した男は、青年の方を見て冷笑を浮かべた。
「見ろよ、この反応! お前はたまたま運が良かっただけだが、所詮は魔獣どもと同じで俺らの敵なんだよ! おら、同類なんだろ? 俺たちの村を焼いた責任をとってもらおうか? いいよな? お前らバケモノが最初に奪ったんだ、なにも間違っちゃねえよなあ!?」
男は青年を殴り飛ばし、刃物を懐から取り出す。
たとえ無抵抗であっても、刃物で魔物を殺すことは難しい。
しかし何百何千と傷を付ければ、それも決して不可能ではないことで。
憤怒と狂気に塗れた瞳の彼にとって、それはきっと容易く行えることで。
周りの者たちも男を止める素振りを見せなかった。
恨みの籠った目で地に伏した青年を睨みつける者もいれば、あまつさえその行為を煽る者もいた。「魔人風情が人間の皮をかぶっていた上、俺たちの近くでのうのうと暮らしていたとはなあ……ああ、虫唾が走るぜ。まったく、存在が許されないゴミは駆除しないとなぁ……!?」
その声をよりいっそう冷たいものに変え、男はじりじりと青年との距離を詰めるが――。
「お、お兄ちゃんはバケモノでもゴミでもない!!」
またしても、青年を庇うように小さな影が割って入った。
先ほどの婦人によく似た容貌の少女である。
あどけなさが残るその顔は涙でくしゃくしゃになり、堰を切ったようにでたその声は怒りと恐怖に震えていた。脚に宿るは今にも折れそうなほどに脆く、今まで何一つ声を上げなかったのも頷けるほどに怯えている。
「き、君はリゼットさんの――」
しかし、たとえ吹けば飛ぶようなその身体でも。
幼き少女のなけなし勇気は、一瞬ではあるが男の歩を止め、青年の命が潰えるのを僅かに遅らせたのだった。
「アヤ、いけない! くっ……もう、こうなったら……!」
その一瞬だけ生まれた空白を、少女の母は見逃さなかった。
地につくばる身体を起こして立ち上がると、狼狽えて動きを止めている男を全力で後ろから突き飛ばす。
「な……クソっ!」
幸い、傍観していた人々と青年たちとの距離は幾らか空いていた。
女性は泣き喚く少女と呆然とする青年の手を急いで取り、その場からから逃れるように丘の上の方へと走り出した。
突然の出来事に、倒れた男も他の者もすぐには反応できない。
気付けば三者の背中は遠くなり、男は逃げていく彼らを苦虫を噛み潰したような表情で見据えた。
「ちっ、クソったれ! バケモノを庇うなんて……あんたらもどうかしちまったんじゃないか!? 逃げるってのなら勝手にしろ、どうせ野垂れ死ぬだろうがな!」
逃げる青年たちの背に男の負け惜しみにも似た声が刺さる。
彼は追ってまで青年を殺すつもりはないようで、青年を恐れていた者たちも、その脱出を見て安堵の表情を浮かべた。
男たちは青年に対する並々ならぬ敵意こそあったが、やはり逃げる彼らを追うものは一人としていなかった。
ここに至るまでに憔悴していたのもあるだろうし、恐ろしい魔人と関わり合いになりたくないと考えたのかもしれない。
もしくはこの夜分に丘を上って逃げても、決して無事には生きられないだろうという侮蔑だろうか。
いずれにしても、今の青年達には僥倖なことであった。
丘を登り、下り、そしてまた上り。そうして男たちの姿が見えなくなったころで、それまで全速力だった青年たちは足を止めた。
意図した動きというよりも、力が無意識に抜けてしまったといったほうがいい。
住処を失い、同じ住民で会った者たちに詰られ、ここまで駆けて。
精神的に疲弊していた彼らは、とにかく休息を渇望していたのだ。
「ここまで来れば、ひとまず大丈夫、かしらね……」
追っ手が来ていないことを確認すると、呼吸を整えつつ母親が笑みを浮かべる。
「お母さん……ぐすっ、わたし……」
それまで堪えていた不安が弾けた少女は母親に思いっきりしがみつく。その目には大粒の涙が溢れ、声もしゃがれている。
「……もう大丈夫よ、アヤ。怖かったわよね……よしよし……」
青年をかばうため、勇気を奮い立たせ男の前に立ちはだかっていたが、その実恐ろしくてたまらなかったのだろう。
再び泣き出してしまった少女の背を、母親の手が優しく慰める。 「――――」 そんな親子の絆を少し離れたところから眺めていた青年の目線が、ふと先ほど衣服を破られた自身の胸元に向けられた。継ぎ接ぎの肌の色と黒く明滅する塊。この状況を招いた元凶。
果たして本当に自分のこれが、魔獣たちを呼び寄せてしまったのか、今の青年には理解できなかった。
しかしこれがなければ、青年があの場にいなければ、あの親子と共にいなければ。
彼女たちがあんなにも傷つき、村を追われることはなかったはずであるのも確かだった。青年の意識に先ほどの男の言葉が蘇る。
「……世界の、敵……生きる場所が、ない……?」
青年の口からたどたどしく声が漏れる。それまで曖昧だった感情が、明確に彼の心に湧き上がる。
「バケモノ、魔人……存在が許されないゴミ……」
「……お兄ちゃん?」
ぶつぶつと呟かれる声に、平静をいくらか取り戻した少女が気づき青年に声をかける。
しかし、その声に反応する余裕が青年にはなかった。
その内にはかつてないほどの負の感情が渦巻いていた。絶望、罪悪感、諦念、疎外感、未知の感情に青年の心は嬲られてゆく。
自分の中の何かが決定的にしまったのを朧気に感じながら、青年はやがてある予感へと至った。
この出来事は自身にとって特別な意味を持つようになるだろうと。
逃れ難い罪として、それを背負ってこれから生きていかなければならないという罰として。
己の自由を奪い、魔人としての立場に縛り付ける軛として。
そうして、この件に端を発する彼らの放浪の旅は、人目を避ける生活は、約五年ものあいだ続くことになった。光の魔術師、ジェナ・パレットとの邂逅。アマルティアの魔人ミルドレッドが引き起こしたとされる魔獣の一件。そしてそれに巻き込まれる形となった、カイル・クラークの失踪事件から四日が経過したその日、アルトニーの詰所に一本の魔動通信が入ってきた。 差出人はロベール・オスマン。このオルレーヌ全国に配置された騎士各員の頂点に立つ選りすぐりの猛者その人である。齢五十に差し掛かろうとは思えない精悍な顔つきと鍛え抜かれた岩のような肉体。毅然とした態度で部下を指揮するその姿に部下からの信頼は厚く、密かに熱狂的なファンもついているという噂だ。 だが、傑物とすら謳われるその御仁からの直々の連絡、その内容というのは誰もが思いもしないものであった。『エルキュール・ラングレーという青年と話がしたい』 取次ぎに来たカーティス隊長からそんな伝言を受けたとき、月並みな表現にはなるがエルキュールは心底驚いていた。 王都に向かおうと準備を進めていた只中の連絡であるのもそうだが、そんな時宜に適った偶然性だけではない。 片や全国の騎士を束ねる大人物。片や人の目を避けながら生活する、表向きは単なる平凡な青年。 圧倒的な立場の違い。その中にいる両者に接点が生じるなど微塵にも考えていなかったというのが主たる理由だった。 しかもこの通信は公的な理由ではなく、あくまでもロベールの個人的な用件のために行われたのだという。 焦らずにはいられなかった。 ただでさえ最近は魔人である身でありながら、堂々と動きすぎたと反省していたところだったのだ。 その正体が明るみになってしまったのではないかと思うと、気が気ではなかった。 通信機を持つエルキュールの手は震え、体内の魔素が嫌に活発になっているのを感じていた。 だがそれを表に出すほどエルキュールも柔ではない。大事なのは平静を装うこと。十年に及ぶ生活で培った図太さを十全に発揮して、ロベールとの通話に臨んだ。「……はい、エルキュールですが」「ああ。お初にお目にかかる、オルレーヌ騎士団団長のロベール・オスマンだ……済まないね、突然無理を言ってしまって。しかし、どうしても君に話しておかなければならないことがあってな」 低く、微かに濁りが混じった声色。しかし、決して老いぼれているという印象はなく、どちらかと言えばくすんだ銀のような渋く、味わい深いものであると感
彼のヌール事件から八日が経ったセレの月・11日のこと。破壊された街を復興しようとする計画が開始され、それに先駆けて郊外の空き地には仮設住宅が設置されていた。 事件当時ヌールの外にいた住人、そして襲撃から逃げ延びた住人、それまで各地で難民生活を送っていた人々も、その動きに乗じて徐々にヌール跡地へと集まっている。 その何れもが、元居た住処を追われ、知人の多くを失うことになった。それでも彼らはその地で再会できたことを喜び、互いに街の復興に尽力しようと、青空のもとで誓いあったのだった。 ヌール復興には比較的体力のある元住民たちのほかに、王国騎士団本部からの要請で赴任した騎士が参加することになった。 先んじて行われたのは具体的な被害状況の確認。一見して全ての住宅が崩壊しているということもなく、細かく見ていけば生活に使えそうな物資がそのまま残っているかもしれないという希望があった。 念のため騎士連中が跡地内に魔獣の残党がいないかどうか魔素を探り、崩落の危険がないと分かったうえで、有志の住人たちは廃墟と化したヌールを探索することになった。 一連の動きは迅速で、元住民たちは我先へと内部へ入っていった。近くにいた騎士たちも、探索における危機はないとはいえその住民たちの勢いに注意の声を飛ばす。 ずっと帰りたかった場所がもう目の前にあるのだから、そんな簡単に止まるわけもない。 暫くしないうちに、その場にはお揃いの薄紫の髪が映える二人の女性のみが残された。 一人は物腰柔らかな壮年の女性。もう一人は利発な雰囲気を醸す少女。身体的特徴から母娘だと推測できる彼女たちは、先ほどまでここに集っていた元住民たちの一員であった。 だがどういう訳か、その脚は先へと進む素振りを見せず、何か焦っているようにも取れる表情で辺りを見回すばかりである。「……失礼、見たところあなた方もヌールの人間のようですが……中には行かれないのでしょうか? もし中の様子が心配でしたら、私が付き添うこともできますが」 これを不思議に思った騎士連中のうちの一人が彼女たちに尋ねる。少し圧倒されてしまうほどの長身と、人当たりの良い爽やかな笑みが印象的な青年だった。 対する母娘はまさか声をかけられるとは思っていなかったのか、動きを固くした。だが相手はどこからどう見ても一般の騎士である。そのことを認めた女性はすぐ
カーティス隊長とエルキュールらとの会合はそれからつつがなく終わりを迎えた。と言ってもあの話題以降のエルキュールは全くと言っていいほど頭が働かず、その内容の記憶もどこか朧気であった。 最低限の情報として、カーティス隊長が王都の騎士へ橋渡しをしてくれ、迎えを手配してくれること。その間エルキュールたちはこのアルトニーに滞在しなければならないことは、念のためグレンとジェナに確認を取ったが。 会合を終えたカーティス隊長はすぐにでも騎士団本部と連絡をしたいとのことで、一足先に詰所へと戻っていった。 何の偶然か泊っている宿が同じであったジェナとは、各々の部屋で別れるまで帰りを共にした。そのジェナも、相部屋であるグレンも、揃ってエルキュールを心配してくれていたのを覚えているが、エルキュールにはどうにも上手く返せた自信がなかった。 まるで意識に靄がかかってしまったかのような酩酊感の中。時間が過ぎゆく感覚すらも忘れ、気付けばエルキュールは暗くなった室内でベッドに寝転がっていた。 隣のベッドにいるグレンの煩いいびきが、鈍麻したエルキュールの意識にさざ波を立たせてくれたのだろうか。 それとも夜に混じる闇の魔素に、魔人としての本能が刺激されたのか。 光に群がる虫のように、もしくは糸で操られる人形のように。エルキュールの身体は無意識のうちに、暗闇に閉ざされた街へ誘われていた。 アルトニーの夜風に交じって舞う闇の魔素、空気中に含まれるそれを、エルキュールはやけに敏感に感じ取っていた。振り返れば今日は随分と力を消耗した、その反動で身体を形作る魔素質が反応しているのだろうとエルキュールは思った。 疲弊した身体には夜の散歩が丁度良い。エルキュールのコアも魔素質も、闇属性の魔素を中心に形成されているので、意図して魔素を吸収をしなくても闇の魔素を浴びることができるのだ。 欠乏したものが満たされていく感覚は心地よく、人の世界に生きる魔人にとって何より貴重なものだ。身体だけでなく精神もまた安らいだように感じられ、エルキュールの足取りも徐々に軽くなる。「……あ」 そうして黒く染まる道を闊歩していた足がふと止まる。今朝――ひょっとすると昨日の朝かもしれない――通り過ぎたアルトニーの広場、そこにはかつてのヌールと同じく魔動鏡が鎮座していた。 もちろん広場なのだから魔動鏡があるのは当たり
会合の約束を取り付けたエルキュールは、すぐさまクラーク一家と歓談していたジェナも来るように誘った。 当の本人は快諾してくれたのだが、彼女に懐いているカイルとサラは難色を示し、説得するのに少し手間取ってしまった。 どういう訳か、特にカイルはジェナが離れることに殊更に抵抗しており、事の発端のエルキュールを見る目は、まるで親の仇を見るような眼つきであった。 話を聞く限りジェナとカイルたちとは共にヌールに行く約束を交わしたらしく、それが果たされぬまま別れることを惜しんでいるようだった。 ヌールの街は崩壊した。だから約束も無効となる。簡単だが残酷な論理は十にも満たない幼子には受け入れ難いようで、説得するのには苦労した。 彼らはしばらくしたら故郷であるガレアに帰るとのことで、結局のところ時を見てガレアに遊びに行くというジェナの提案で、なんとか子供たちも了承してくれたのだった。 カイルたちがここまで渋るのも偏にジェナの人徳からなのだろうが、こういう場合にはそれすら面倒を起こす種になってしまうのだと、エルキュールは難儀したのだった。 一悶着ありはしたが、カーティス隊長の案内の下、件の店までやって来た一行。木の香りが心安らげる居心地の良い内装の店だったが、この時勢からか閑古鳥が鳴いており、悲しいほどすんなりと奥の個室に案内された。 席に着くや否や各々が注文を取り始め、エルキュールも渋々それに倣った。魔人である彼は食事を採らないためだ。 動力源となる魔素はもちろん料理にも含まれているが、そこに含まれる魔素の属性はまちまちな上効率もすこぶる悪い。 家族と同じ時間を共有するために、口に入れた料理を魔素に分解するという技能を身につけこそしたが、家族以外の人間、しかも複数人で揃って食事をするのは彼にとって中々心理的負担が重い行為だといえよう。 詰まるところ、食事を採りながらの会合を認めたとはいえ、エルキュールはこの食事会に対して消極的であった。 結局、エルキュールはお腹がすいていないという理由で簡単なサラダとスープを注文するに留めた。 共に食事をしたことのあるグレンはともかく、ジェナやカーティス隊長には疑問に思われることを覚悟していたのだが、それも杞憂だったようだ。 カーティス隊長からは「私も年なのか最近は食が細くなってしまいましてねぇ」などと共感を受けた。ある
アルトニーの森を脱したエルキュールとジェナが騎士団詰所に帰還したのは、もうすっかり陽が落ちてしまった頃であった。 詰所に先に逃げ延びていたグレンとカイル、未だ帰ってこないジェナたちを心配するクラーク一家は、二人の無事に大いに喜んだ。 クラーク夫妻は腰を痛めるのではないかと心配するほどエルキュールらに頭を下げていたし、ずっと不安と緊張を抱えていただろうサラは大声で泣きだす始末。事件の渦中にいたカイルは自分のした行いを猛省し、そんな妹に申し訳なさそうに何度も謝っていた。 それぞれが思い思いに感情を爆発させる様に、エルキュールはもちろんのことジェナやグレンも若干押され気味だった。 それに追い打ちをかけるが如く、遠くから騒ぎを駆け付けた騎士連中までもがその人の渦の中になだれ込んできた。 一兵卒の過失によるこの事件に責任を感じていたアルトニー騎士たち。もちろん全員ではないがカーティス隊長を筆頭に数人が集い、事件解決に動いてくれたエルキュール、グレン、ジェナの三名に丁寧な陳謝と賞賛を送った。 ここまで事が大きくなるとは思っていなかったエルキュールは、正直いって多くの人間に囲まれるというこの状況から逃げ出したくあったのだが。 彼の弱気に目聡く気付いたジェナとグレンによってそれも阻まれ、むしろかえって二人からの揶揄いを受けることになったのだった。 詰所内はまるで祭りでも催されているのかという程の賑わいを見せていたのだが、やはり勢いというのは時が立てば落ち着くもので、次第にそのほとぼりも冷めていった。 先ほどエルキュールらにお礼を述べてきた騎士などは、この時間になってもなお仕事に追われているらしく、早々とそれぞれ持ち場に戻っていった。 この街が抱えている問題は依然としてあることを再認識させられるが、とにかくこれからの展望について語るのなら、今が絶好の機会だろう。 疲弊した精神を癒すべく、集団から離れていたところで暫しの休憩していたエルキュールは、場の空気が落ち着いていくのを感じながら決意した。 王都へ至る道にグレンのほかにジェナが加わった。まずはそのことを知らせようと赤髪の彼を探す。 こういう時、背の高さは素晴らしいものだなと思う。部屋の隅の方でカーティス隊長と話しているグレンの姿を容易に確認できた。「そういえば、グレンの家はあのブラッドフォードだったな
「分かりやすいように、君が話してくれたことと照らし合わせて話すとしようか」 これから話すことの全容を知っているのは、エルキュール自身を除けばもはやグレンくらいしかいないだろう。あまり自分のことは周囲に語らないように心掛けてきたので、いざ核心に迫る部分を自ら曝け出すとなると緊張が抑えられなかった。「まず、そうだな。君が言っていたという黒づくめの男だが……あれは恐らく俺のことだ」「ん? え……? えぇぇええー!!?」 ジェナの叫びが木々を突き抜けこだまする。確かに今のは突拍子もない発言だった。訂正し、順序だてて補足する。「その、俺は元々家族とヌールの方に住んでいたんだ。そこで魔獣を狩り、そこから採れた素材を家計の足しにしていた。君が聞いたのは恐らくそのことだろう」「あー、そっか。確かにそうかもしれないけど……って、え? ヌールに住んでいたってことは――」 過去形の表現。もしくはそうでなくてもエルキュールが言ったことがどういう意味を持つか、ジェナには容易に知れたかもしれない。「……あの事件の日。魔獣の大量発生の知らせを受け、念のために俺はある組織について調べてみることにしたんだ」「アマルティア、だね」「そう。結果としてヌール近辺の平原で彼らの痕跡を見つけたが、それは意味を為さなかった。陽動にまんまと嵌り、何とか追いついたころには、彼らが魔獣を操って街を攻撃し始めた後だった」 感情の色を乗せず、淡々と語る。本題でもないところなのでさっさと流したいという思惑からだったのだが、聞いているジェナの表情は悲痛に溢れていた。 とはいえ既に飲み込んだこと。要らぬ感傷を与えないように、言葉を矢継ぎ早に繰り出す。「動機は不明だが、アマルティアは人間を汚染する他にも、俺という存在を仲間に引き入れたかったようだった。そんな勝手な都合のために、不幸にも無関係だったヌールの街が巻き込まれた」「……まるであなたにも非があるみたいな言い方だね」 それは実際そうだろうと、言いかけた口を噤む。ジェナは責めているのではなく、暗にそれを否定しているからだろうというのが理解できたからだ。自身がどう捉えるかは勝手だが、その健気な思いは無下にはしたくなかった。「それはどうだろうな。けど俺は、俺の大切なものを傷つけたアマルティアを許せなかったし、無力な自分にも嫌気がさした。だから一人
『この世界にお前らバケモノが生きる場所なんざねえんだよ!!』 ――これは誰の言葉だっただろうか? あの頃のことは朧気ながらにしか覚えていないらしく、生憎とこの言葉の主の顔は思い出せない。 記憶が蘇るたびに心を抉られてきたというのに、不思議な感覚だな。 思えば、これが始まりだったか。 この世界に俺の居場所など存在しない。その事件を経てからというもの、心の片隅ではずっとそう思っていたんだ。 それでもこの世界で何とか生きてこれたのは、間違いなく母さんとアヤのおかげだろう。
エルキュールがアマルティアと対峙していた一方、ヌール広場にて騎士の協力を得たグレンは、崩壊した街に逃げ遅れた市民の捜索をしていた。 あれからしばらく経ったが経過としては順調で、幾人かの市民を救助することが出来ている。 そして、今この瞬間にも――「危ねえ――!」 目の前でまさに倒壊しようとしている家屋の下、転んで足元を挫いたと思しき女性とそれを心配そうに見つめる少年がいるのをグレンは発見した。 その光景を目撃するや否や、グレンは考えるよりも早く親子に降りかかっていた瓦礫に向けて、銃大剣に備わる銃砲から火球を放出する。 火球の威力により、瓦礫は親子に直撃する前に塵と化した。そのこと
相対する魔人の顔は、この三年のヌールでの生活で見慣れたものであった。 鑑定屋の店主、アラン――今朝の鑑定屋での出来事は、まだ記憶に新しかった。 ところが、今目の前にいるアランの顔をした魔人は、人間のアランとは全く異なる姿形である。 エルキュールはもう一度彼の姿をその眼に焼き付ける。 相変わらず、人間よりも一際大きい身体には至るところに赤い魔素質の痣が広がっており、胸元の深紅のコアが魔人の纏う布の切れ端の隙間から覗かせている。 紛うことなき魔人なのだが、その相貌にはアランの面影がくっきり見て取れる。 それが意味することはもはや一つしかないのだが、エルキュールはそれを直視することが
言葉を選ぶようにゆっくりと、エルキュールは自身の体験を差し支えないように語り始める。 ザラームのほかにも、フロンやアーウェ、魔人と化したアランの存在。自身の事と「アマルティアのもう一つの目的」には触れずに、事実を連ねていく。「君には無理をするなと言われたんだが、結局捕まってしまった。だけど、奴らは俺に攻撃を加える前に何やら通信機のようなもので会話をし、そのまま退却していったんだ」「おいおい……結局無茶してんじゃねえか……!」 グレンから悲鳴にも等しい声が上がる。申し訳







