LOGIN冬の澄み渡る夜空から、絶え間なく舞い降りる白い雪。学園の敷地全体が静寂の底へと沈み込む中、ライネルは私室のデスクで数枚の調査報告書と対峙していた。窓を小突く雪の音だけが部屋に響く。「……やはり、出てこないか」ライネルは溜息をつき、書類をデスクの上に放り投げた。報告書に記載されていたのは、エルミナ・レーヴェンに関する徹底的な身元調査の結果だった。王家の諜報部隊をフル稼働させて調べ上げたにもかかわらず、彼女が十二歳で辺境の修道院へ保護される以前の足取りは、まるで最初からこの世界に存在していなかったかのように完全に空白だったのだ。コンコン、と控えめなノックの音が聞こえたのは、その時だった。「ライネル君、入ってもいいかしら?」「ルシエラ……! ああ、入ってくれ」ドアが開くと、厚手のショールを羽織ったルシエラが足を踏み入れてきた。外の冷気をほのかに纏った彼女の手に乗っていたのは、湯気を立てる二つのカップだった。「マルタがハーブティーを淹れてくれたのよ。少し、お話ししてもいいかしら?」「もちろんだよ。ありがとう、助かる」ライネルはデスクの書類をさりげなく伏せ、ルシエラを応接用のソファへと促した。暖かい温もりが手元から伝わり、二人の中に束の間の安らぎが広がる。「ライネル君……エルミナのこと、考えていたのでしょう?」ルシエラはカップに視線を落としたまま、ぽつりと切り出した。ライネルが伏せた書類を見落とすような彼女ではない。「……隠し事はできないな。ああ、そうだよ。国家政策として大規模な聖職者公募が始まり、エルミナが志願した。……彼女の決意が本物であると分かっていても、どうしても引っかかるんだ」ライネルは真面目な顔でルシエラを見つめた。「以前も話した通り、エルミナの過去は完全に空白だ。家族も、出身地すら分からない。それほどの素性不明の少女が、学園へ突如現れ、君を破滅寸前まで追い詰めるほどの巨大な『聖女の力』を持っていた。……そして今、教会の全滅に乗じるようにして、国の聖職者の中枢へと進もうとしている」「偶然ではない……そう言いたいのだわね?」「ああ。彼女自身に悪意はなくとも……彼女という存在そのものが、悪魔や何者かによってあらかじめ配置された『駒』だったとしたら……?」ライネルの言葉に、ルシエラは否定
公爵邸での事件から季節は巡り、学園にはしんしんと冷たい雪が舞い散る冬が訪れていた。一年生の冬。白銀の雪景色に包まれた校舎では、国家規模の極めて異例な「通達」が全校生徒に向けて発せられていた。『教会機構の再建に向けた、聖職者および聖導士候補者の大規模公募について』教会の聖職者たちが謎の全滅を遂げて以来、王国の神聖防壁と浄化機能は崩壊寸前の危機に瀕していた。事態を重く見た国王レオンハルトは、危機的な聖職者不足を補うため、学園から優秀な人材を直接集めて国家の政策として育成する特例措置を打ち出したのだ。大食堂の掲示板の前には、多くの生徒たちが集まっていた。「……国家政策としての聖職者公募、ですか」掲示された書状を見上げるのは、エルミナだった。その隣には、ルシエラとライネル、そしてマルタが静かに佇んでいる。「エルミナ、貴女……」「私、志願しようと思うの。ルシエラちゃん」エルミナは振り向き、どこまでも澄んだ瞳でルシエラを見つめた。その表情には、迷いや怖れは一切なかった。「悪魔に操られていた時……私の中に眠っていた『力』が何なのか、自分でも少しずつ分かってきたの。悪魔は私の力を利用して人を苦しめたけれど……本当は、この力は傷ついた人を癒やすためのものなんだって。だから、今度こそ自分の意志で、この聖女としての力を国のために……みんなのために使いたいの」「エルミナ……」ルシエラはそっとエルミナの手を包み込んだ。かつて洗脳の渦中で狂気に侵されていた少女はもういない。自分の過去の過ちを経験として受け止め、未来へ進もうとする強い決意がそこにはあった。「素晴らしい覚悟だわ、エルミナ。貴女なら、きっと多くの人々を救う素晴らしい聖女になれるわ」「ありがとう、ルシエラちゃん……!」微笑み合う二人を見つめながら、ライネルはひとり、顎に手を当てて深い思索に沈んでいた。(エルミナ・レーヴェン……)ライネルの脳裏に、以前父や調査機関から受け取った彼女に関する報告書が浮かび上がる。学園に入学した当時から、エルミナの存在には解けない謎が存在していた。彼女はある日突然、辺境の修道院からの推薦という形で学園に現れた。だが、その修道院の過去の記録をいくら遡っても、彼女の生家や出生を示す戸籍、あるいは幼少期の明確な足取りはどこにも存在し
学園の最奥に位置する『大聖堂』。悪魔の気配が霧散した今も、この場所にはどこか張りつめた冷気が漂っていた。放課後の誰もいない聖堂内で、静かに膝を折り、胸の前で手を組んで祈りを捧げる一人の少女がいた。3年生――セレス・オーガスト。かつて聖職者の頂点に君臨し、そしてルシエラを前世の『大天使』であると見破った男、故オーガスト枢機卿のひとり娘である。「神よ……どうか、父の魂に安らぎを……。そして、私の犯した愚かな罪に……お裁きを……」震える声で紡がれる祈り。セレスの瞳からぽろぽろと零れ落ちた涙が、冷たい石畳を濡らした。彼女の記憶には、今もなお鮮明に刻まれている。父であるオーガスト枢機卿が、ルシエラを名乗るおぞましい悪魔の手によって命を奪われた、あの凄惨な光景が。そして――父を失い、絶望の淵に叩き落された己の隙を突かれ、悪魔の甘美な洗脳に深く呑み込まれてしまった屈辱と恐怖が。(私は……父様を殺した悪魔の傀儡となり、ルシエラ様やライネル殿下を追い詰める片棒を担いでしまっていた……!)正気を取り戻した今、セレスの胸を苛むのは凄絶な罪悪感だった。3年生として、本来ならば後輩たちを導き、学園の秩序を守るべき立場にありながら、悪魔の毒に侵され、偽りの平穏の中で虚ろに笑っていた己の弱さ。どれほど涙を流そうと、犯した過ちも、父が還ってこないという現実も変わりはしない。「セレス先輩」澄んだ声が、静かな聖堂内に響いた。セレスがハッと息をのんで振り返ると、そこには聖堂の扉を開けて入ってきた人物――学園に戻っていたルシエラの姿があった。「ル、ルシエラ様……っ! ライネル殿下……!」セレスは慌てて立ち上がろうとしたが、罪の重さに耐えかね、その場に崩れ落ちるように再び膝をついた。「申し訳……申し訳ございませんでした……! 私……私は、父を殺した悪魔の手先となり、貴女様方を追い詰めるような真似を……! どのような処罰でも受けます! どうか……どうか私にお裁きを……っ!」床に額を押し付け、悲痛な叫びを上げるセレス。そんな彼女の元へ、ルシエラは静かな足取りで歩み寄り、優しくその肩に手を置いた。「顔を上げてください、セレス先輩」「っ……ルシエラ様……」「貴女が謝る必要など、どこにもありません。先輩もまた、大切なご家族を奪
王都へ向かう馬車が風を切る頃。学園の裏手に広がる静かな厩舎(きゅうしゃ)には、夕闇の静寂が降り積もっていた。「よしよし……良い子で待っていましたね」手慣れた手つきで馬の毛並みをブラシで整えているのは、ルシエラ専属メイドのマルタだった。ブラシが通るたび、愛馬は気持ちよさそうに短い鼻鳴らしを上げる。手入れを終えたマルタは、乾いた藁を補充し、桶に澄んだ水を汲んでやると、そっと馬の額を撫でた。ルシエラが生まれてから今日に至るまで、その成長のすべてを一番近くで見守ってきたのは、他の誰でもないマルタだった。幼少期の冷遇、冷たかったヴァルハイト公爵邸の空気、そして学園での過酷な孤立。どんな時も、ルシエラの小さな手を握り、涙を拭い、気高き令嬢としての誇りを失わないよう大切に育て上げてきた。マルタにとって、ルシエラは単なる主状を超えた、命を代えても守るべき宝物そのものだった。「お嬢様……どうかご無事で」ぽつりと漏らした呟きは、夜の風に溶けて消える。ライネル殿下と共にヴァルハイト公爵邸へと向かった主を想い、マルタは胸元に手を入れた。そこには、ルシエラから託された小さな御守りが収まっている。「……マルタさん?」静かな厩舎の入り口から、遠慮がちな声が響いた。振り返ると、そこには薄暗がりの中に立つエルミナの姿があった。まだどこか病み上がりの儚さを残した佇まいで、申し訳なさそうに身を縮めている。「エルミナ様……。このような夜更けに、いかがされましたか?」マルタは即座に居住まいを正し、隙のない洗練されたメイドの礼を捧げた。「あの……ルシエラちゃんが、公爵邸へ向かったとお聞きして……。私、どうしても心配で……」エルミナは胸元で小さな手を固く握りしめた。その瞳には、かつて悪魔に侵食されていた頃の禍々しさはなく、友を真摯に案じる純粋な光が宿っている。「私のせいで……ルシエラちゃんに、あんなに酷い思いをさせてしまったのに。私が悪魔に隙を見せたから……っ。なのにルシエラちゃんは私を許してくれて、また微笑みかけてくれた……。私、ルシエラちゃんのために何もしてあげられないのが、悔しくて……」ぽろぽろと零れ落ちるエルミナの涙。それを見つめるマルタの眼差しは、冷たくもあり、どこか包み込むような温かさも含んでいた。「エルミナ様」マルタは
崩れ去った極彩色の巨塊と、灰となった煙の匂いが残る地下聖堂。 倒れ伏していた護衛騎士や執事たちは、悪魔の精神干渉から解き放たれ、ただの深い眠りへとついていた。命に別条はない。公爵邸を覆っていた直接的な恐怖の毒気も、一旦は去った。 しかし、ライネルとルシエラを包む静寂は、勝利の喜びとは程遠い、重く冷ややかな緊張感に満ちていた。 「学園での出来事も、このヴァルハイト公爵家での失踪も……すべては僕たちの目を逸らし、膨大な負の感情と魔力を集めるための『仕掛け』だったというのか」 ライネルは握りしめた『アルヴァ=クレイド』の柄を固く締め直した。 父から託された神聖剣の輝きは今も白銀に冴え渡っている。だが、敵の正体はその一閃の届かないどこか遠く――いや、もっと身近で巨大な闇の奥に隠れ潜んでいるのだ。 「ええ……」 ルシエラは枯れ果てた蔦の残滓を見つめ、静かに、けれど痛切に胸の内を明かした。 「学園でエルミナを通じて放たれた魔力も、この地下で人々から吸い上げられていた生命力も……この場所で消費されていたわけではないわ。まるで、目に見えない巨大な導管(ライン)を通じて、王国のどこかへ『転送』されていたような感覚があったの」 「魔力の転送……」 ライネルの頭の中で、点が線へとつながっていく。 国王である父レオンハルトが語っていた言葉。 『教会の聖職者どもが不審な全滅を遂げた』という事実。 聖職者が消え、神聖な防壁が瓦解した王国。その陰で、学園や大公爵家という主要な拠点で集められた不浄な魔力。それらがすべて、ひとつの目的地へと集約されているのだとしたら――。 「王都……! 悪魔の狙いは、王国の心臓部か!?」 ライネルの叫びに、ルシエラも深紅の瞳を大きく見開いた。 「ええ、その可能性が極めて高いわ、ライネル君。この大都市全域に根を張り巡らせ、私たちが拠点(公爵邸)の異変に気を取られている隙に、集めた魔力で何か致命的な術式を完成させようとしている……!」 「くっ……! どこまでも僕たちの先を行こうというのか……!」 ライネルは悔しさに歯を食いしばった。 学園での平和も、公爵家での安息も、すべて悪魔の手のひらの上での踊りに過ぎなかったのだ。 ◇ 地下から地上へ戻った二人は、まだ現実を受け止めきれず震えているアレクシ
地下聖堂に充満する極彩色の胞子。操られた無数の人間たちが肉の壁となって立ちふさがる中、ライネルとルシエラは背中を合わせ、刃と神聖魔力を構え続けた。「ライネル君、人間たちを傷つけずに無力化するわ! 合わせて!」「了解だ!」ルシエラが大天使の威光を解き放ち、広範囲に慈愛の聖光を降らせる。光に包まれた護衛騎士や執事たちは、糸が切れたようにその場に崩れ落ち、一時的な昏睡状態へと陥った。肉の壁が取り払われたその一瞬。ライネルは地を蹴り、神聖剣『アルヴァ=クレイド』に己の限界を超える白銀のマナを流し込んだ。「切り裂け……『アルヴァ=クレイド』ッ!!」閃光の一閃。白銀の刃が、ついに花開こうとしていた巨大な蕾の核を真っ二つに断ち割った。ズバァァァンッ!!爆発的な聖光が地下空間を埋め尽くす。極彩色の汁液が撒き散らされ、巨塊は悲鳴のような破砕音とともに崩れ落ち、黒い煙を上げて灰へと変わっていく。周囲を覆っていた粘着質な蔦も次々と枯れ果て、不快な圧迫感が引いていった。「やったのか……?」息を荒らげるライネルが、剣を構えたまま警戒を解かずに呟く。倒れ伏した人間たちは息をしており、命に別条はない。公爵邸を侵食していた異様なマナも、潮が引くように消え去っていた。だが――。「……違うわ」ルシエラは駆け寄ることなく、ただ硬直したまま、灰となった蕾の跡地を見つめていた。深紅の瞳に宿るのは、討伐の達成感ではない。底知れぬ寒気と、凍てつくような絶望だった。「ルシエラ……? どうしたんだい?」「ライネル君……これじゃないわ。これも……悪魔の本体なんかじゃない」「な……なんだと!?」ルシエラは己の胸にそっと手を当て、絞り出すように言葉を繋いだ。「前世の私が覚えている……あの悪魔の本質は、こんな手応えではないわ。いま倒したのは、公爵家の絶望や恐怖を集めて作られた、単なる『巨大な魔力の貯蔵庫』に過ぎない……!」「貯蔵庫……!?」「ええ。本隊は……悪魔の意志の核は、最初からここにも、学園にもいなかったのよ」ライネルの背筋に冷や汗が伝った。学園での騒動も、この公爵邸での失踪事件も、すべてはただの「撒き餌」であり「集魔器」に過ぎなかったのだ。自分たちが学園で勝利に酔い、公爵邸の事件に足止めされている裏で、蓄