ログインかつて裕貴は、自分が二年前から引きこもってしまった理由を話してくれた。博人の結婚がきっかけだと言い、少しだけ啓太郎は拍子抜けしたものだが、今なら理解できる。 兄弟という存在以上に、裕貴と博人は深く結びつき、互いを求め合っていたのだ。そのはずだったのに、博人が結婚してしまっては、裕貴が持つガラス細工のような世界は崩壊したも同然だ。 裕貴はいつも、啓太郎にウソはついていなかった。ただ、大事な部分をわざと言っていなかったのだ。 裕貴の中の基本も基準も、すべて博人が作ったという事実が、重かった。 血の繋がった兄弟で特殊な関係を持つことが世間ではどう見られるか、容易に想像できるが、裕貴自身の中におそらく罪悪感はない。自分たち兄弟だけに通じる道徳観を、博人は裕貴の中に植えつけたのだろう。 博人との関係を語る裕貴の口調からは、関係そのものに対する引け目のようなものは感じられなかった。「……いつから、博人さんとは……?」 「高校生になったときぐらいから、かな。それから、大学三年まで。――だけど、兄さんは結婚した。そのときわかったんだ。兄さんは、おれだけのものではいてくれないって。兄さんが、あの女と新婚生活を送るのかと思ったら我慢できなくなって、ここで一人暮らしを始めたんだ」 話しながら裕貴は、イスの上で抱えた両膝の上にあごをのせる。生々しいことを話しているとは思えないほど、あどけない仕草に見え、啓太郎は裕貴という存在に惑わされる。 髪を撫でてやりたい気分になったが、さきほど博人に言われた言葉が蘇る。 裕貴はいまだに博人のもので、啓太郎は少しの間だけ、裕貴を借りていただけなのだと。「だけど二年経って、また博人さんと関係を持ったんだな」 つい啓太郎の口調は咎めるものとなってしまう。これでも懸命に、感情的になるのを堪えているのだ。 裕貴はつらそうに唇を歪め、膝にかけた自分の手の甲に噛み付いた。そこに、裕貴なりの苛立ちが出ているようだ。「二年前、兄さんとは、もうそういうことをするのはやめようと決めたんだ。……変だよね。兄弟でそういうことをするのはなんとも思っていなかったのに、不倫は嫌だと思ってるんだ。」 「だったらどうして、博人さんとまた、そういうことを……。顔を合わせているうちに、やっぱり恋しくなったか」 「違うよっ」 思いがけず強い口調
バスルームから水音が聞こえ始めると、落ち着きなく室内を歩き回ってから、窓を思いきり開ける。一気に入り込んできた冷気が、あっという間に室内にこもっていた淫靡な空気を薄めていく。だが、完全に消し去ることはできない。 啓太郎はベランダに出て、大きく息を吸い込む。押し寄せてきたのは、その場に座り込みたくなるほどの脱力感だった。「どうしてだっ……」 裕貴が過去に、どんな相手とつき合っていようが啓太郎は気にしないつもりだった。少なくとも今、裕貴が身を任せてくれているのは自分だと思っていたからだ。 しかし裕貴が関係を持っていたのは、予想を超えた人物だった。そのうえ、いまだに関係は続いていたのだ。 裕貴に裏切られたのだという現実に、ようやく啓太郎は向き合う。 ベランダの手すりを握り締め、叫び出したい衝動を必死に堪える。この場から逃げ出したいのに、裕貴のことを知りたいという気持ちもあった。 啓太郎がベランダで頭を冷やしている間、裕貴も時間が必要だったらしく、シャワーの水音は三十分以上続いた。 ようやくバスルームから出てきたとき、裕貴は真っ赤に泣き腫らした目をしており、憔悴しきっていた。 裕貴のそんな姿を見て、ズキリと胸が痛む。怯えたような眼差しを向けられると、なおさらだ。一方で、そんな顔をするぐらいなら、どうして博人とあんなことを――、という気にもなる。 裕貴が寒そうに肩をすくめたのを見て、啓太郎は部屋に入って窓を閉めた。「……コーヒー、入れようか」 おずおずと裕貴が言ったが、啓太郎は首を横に振る。 裕貴をベッドに座らせようかと思ったが、あまりに生々しい気がして、結局テーブルにつかせた。「――……シャワーを浴びながら、啓太郎が帰ってくれていればいいのに、と思ったんだ」 啓太郎が正面のイスに腰掛けると、裕貴は自嘲気味な口調で話し始めた。「俺に、あれこれ聞かれるのが嫌だったか」 「聞かれるのが嫌というより、啓太郎がどんな顔しているか、見るのが嫌だった。……普通なら、みんな気持ち悪いって思うよね」 「お前は、どうなんだ?」 心のどこかで、博人が力ずくで裕貴を従わせていたと思い込みたがっていた。そうであれば、まだ救いがある。ただし、啓太郎にとっての救いだ。 もっとも、自分勝手な救いを求める気持ちは、簡単に一蹴される。 裕貴はテーブルに置
空ろだった目の焦点が定まり、それに伴い事態が把握できたのか、裕貴がゆっくりと目を見開く。すでに顔色はなくなっていた。「――……啓、太郎、どうし、て……」 裕貴は震えを帯びた声で呟くと、のろのろと体を起こそうとする。すかさず博人がベッドに歩み寄って支えようとしたが、差し伸べられた手を裕貴は弱々しく拒んだ。博人は表情を変えず、裕貴の腰から下を毛布で覆った。 数分ほど、三人は黙り込んでいた。啓太郎は頭が混乱して言葉が出てこず、裕貴は動揺を押し殺すように唇を噛み、ただ博人だけが悠然としている。啓太郎と裕貴のどちらかが言葉を発するのを待っているのだ。 ようやく裕貴が苦しげに口を開いた。「兄さん、もう、帰って……」 「お前がそう言うなら従うが――大丈夫か?」 最後の何げない一言に、啓太郎の頭に血が上る。露骨な含みがあったわけではないが、遠回しに、二人きりになった途端、啓太郎が裕貴に何かしでかしそうだと言われた気がしたのだ。 博人の存在は、今の啓太郎にとっては凶器そのものだ。些細な言動の一つ一つに、啓太郎の気持ちはたやすく荒んでいく。「……いいから、帰って」 博人は一瞬怖い顔をしてから、ジャケットとコートを羽織ると、黙って部屋を出ていった。 二人きりになると、沈黙が痛さを増す。この状況で裕貴から口火を切らせることは酷なのかもしれないが、啓太郎も何をどう切り出せばいいのかわからない。まだ、頭の中は真っ白だった。 一方の裕貴は、血の気の失せた顔色で、膝を抱えて呆然とした顔をしていた。さきほどまで紅潮して汗に濡れていた肌も、今は青白く、なんだか痛々しい。 この肌に、博人は唇や舌を這わせたのだ――。 生々しい想像をした途端、吐き気が啓太郎を襲う。生理的な嫌悪感からというより、感情が極限に達したがゆえの反応だ。 自分がまだ激しく動揺していることを知り、啓太郎はようやく口を開いた。「――裕貴」 呼びかけると、裕貴が肩を震わせ、怯えたような眼差しで見つめてくる。哀れみを誘うというより、加虐的なものを刺激する、危険な眼差しだった。「とにかく、シャワーを浴びてこい。……話が聞きたい。だけどその格好だと、お互い気になるだろ」 裕貴は少し間を置いてから、のろのろと動き始める。ベッドの下に落ちた服を取り上げると、腰を覆っていた毛布を取って、全裸のままバスル
「ど、して……」 呆然としながら啓太郎は掠れた声を洩らす。だがその声は、ベッドの上にぐったりとして横たわっている裕貴の耳には届かなかったらしい。 裕貴は全裸だった。汗に濡れた肌は艶かしく上気しており、剥き出しの胸は忙しく上下している。息も絶え絶えといった様子で目を閉じ、眉は苦しげにひそめられ、唇からは荒い呼吸が洩れていた。 寸前まで、ベッドの上で裕貴がどんな状態だったのかは明白だ。 上気した肌のあちこちに、一際鮮やかな赤い跡が残っており、上下する胸の二つの突起はどれだけ強い刺激を与えられたのか、熟して尖ったままだ。「……あんたは、自分の弟に……」 「他人がどう思おうが、俺たち兄弟には関係ない。互いを唯一の相手と認識して、繋ぎ止めておくためには、必要な行為だ。俺の結婚で少し関係がこじれて、修復するのに二年かかったが、ある意味、君には感謝している。頑固な裕貴の気持ちを解きほぐしてくれたんだからな」 「俺は、そんなつもりは、ないっ……」 博人が何を言っているのか、よくわからない。わからないなりに、築き上げた裕貴との関係を利用されたのだと思い、目も眩むような怒りが込み上げてくる。 それでいて博人に掴みかかれなかったのは、怒りを上回る戸惑いと混乱に、啓太郎の体が動かなかったからだ。「裕貴には何度も、実家に戻ってくるよう言った。温泉に連れて行ったときや、リフォームのことで実家に呼び出したときにキスや愛撫を与えると、二年前までと同じように反応するくせに、心だけは抗う。君と、恋人ごっこをするのが楽しいらしい」 「そういう言い方は、やめろ……」 裕貴の様子が最近おかしかったのは、博人が言ったような理由で間違いないだろう。 裕貴が温泉旅行に出かけるときに感じた嫌な予感は、実は正しかったのだ。 濡れた下腹部と、力を失った裕貴のものまで目にして、啓太郎は嫌でも事実を認めざるをえなかった。 そんな啓太郎に追い討ちをかけるように、隣に立った博人が言う。「裕貴は快感に対して素直で、脆い。そういうふうに、俺がした。大事にして、慈しんで、甘やかして、俺が与えるものだけで満たされるようにした。……可愛くてたまらない、大事な弟だ。世界にたった一人しかいない、俺の宝物といってもいい。だから、他人に渡すわけにはいかないんだよ」 啓太郎は目を見開き、博人を凝視する
酔っていたせいもあり、土産のデザートを買い忘れたのは痛いが、何日間かは時間的に余裕もできるので、裕貴が言えば、どこの店だろうが買いに行ってやるつもりだ。 啓太郎は、思わず声を洩らして笑ってしまい、すぐに咳で誤魔化す。 自分はどれだけ裕貴を甘やかしたくて仕方ないのかと考えると、笑えてきたのだ。裕貴の兄である博人の過保護ぶりが、他人事とは思えない。 マンション前でタクシーを降り、裕貴の部屋を見上げる。電気がついているのを確認すると、啓太郎は足早にマンションへと入った。 エレベーターの中で、裕貴がどんな顔をして出迎えてくれるか想像する。 驚いたように目を丸くしてから、屈託ない笑みを向けてくれるか、大人げないと言いたげに呆れた表情を見せるか。もしかすると裕貴なら、いきなり抱きついてくるかもしれない。 とにかく裕貴の言動は、啓太郎の想像を超えているところがある。そこがまた、一緒にいて楽しいと思えるのだから、惚れた欲目とは恐ろしい。 我ながら酔っているとは思えない颯爽とした足取りで、裕貴の部屋の前まで来ると、いつものようにインターホンを押した。 無意識に心の中で数をかぞえる。裕貴がどれぐらいの早さでドアを開けてくれるか、体が感覚として覚えてしまった。 だが今夜に限って、いつまで経ってもドアが開かない。 眠っていて聞こえないのだろうかと思い、もう一度、今度は数回立て続けにインターホンを鳴らす。一分ほど待ってからようやく、ドアの向こうから微かな物音が聞こえた。 チェーンを外す金属音に続き、鍵を解く音もする。ゆっくりと開けられるドアの向こうから、姿を現したのは――。「えっ……」 その人物の姿を見て、啓太郎は思わず声を洩らす。博人だったからだ。 この瞬間、啓太郎の全身に悪寒が走り、鳥肌が立つ。触れてはならないものに触れてしまったと、本能が信号を発したのかもしれない。 博人はなぜか、スラックスにワイシャツを羽織っただけの格好をしていた。はだけたワイシャツの下から素肌が見えているが、汗が滴り落ちている。 啓太郎は、端然とスーツを着込み、怜悧な雰囲気をまとった博人しか知らない。だが今、目の前に立っている博人は、格好もそうだが、雰囲気もどこか気だるげだ。それでいて、悠然として勝ち誇ったような表情を浮かべているのだ。 捕まってはいけない『何か』に、
**** おおっ、とモニターを覗き込んでいた社員たちの口から、感嘆とも安堵とも取れる声が洩れる。一方の啓太郎はといえば、感嘆も安堵も突き抜けて、虚脱感に襲われていた。 イスの背もたれにズルズルと体を預けながら、大きく息を吐き出す。「はあーっ、気が抜けた」 ずっと取り掛かっていたショッピングサイトのシステムの最終試験が終了し、怒涛の流れでシステムのリリースとなったわけだ。 完成したシステムを顧客に引き渡し、確認してもらうことをリリースというのだが、啓太郎はそもそも顧客の会社に出向いてシステムを作っていたので、完成までにどれだけのバグが出ていたか、すべて会社に筒抜けだ。 そういう意味では、リリースの瞬間も気楽なはずなのだが、万が一にもバグが起こったらと思うと、やはり緊張してしまう。 だが、心配は杞憂に終わった。システムは製品として啓太郎の手を離れたのだ。 すぐに姿勢を戻すと、啓太郎はアタッシェケースから書類を取り出し、このシステムの管理責任者に手渡す。リリースと引き渡しが完了したというサインをもらわなければ、仕事が終わったことにならないのだ。 連日、泊まり込みが続いていて、少し前まではぐったりしていた社員たちも、にわかに活気を取り戻したようだ。 当の啓太郎も、実は張り切っていた。少しの間とはいえ、これでハードワークから解放されるのだ。 ずっと自分が使っていたデスクの上を片付け、アタッシェケースに必要なものを放り込んでいく。「羽岡さん、この後、メシ食うのもかねて打ち上げの店を押さえたんだけど、ちょっと距離があるんだ。それで、タクシーに分乗するんだけど、いいよね?」 「えっ、打ち上げ、今日するんですか」 驚いた啓太郎は顔を上げる。システムが完成してからの打ち上げはよくあることだが、まさか、完成当日に行うとは思っていなかった。すでに店を押さえてあるというのは、手際がよすぎる。 男性社員は苦笑しながら言った。「疲れを取ってから派手に、といきたいところだけど、うちはまだ、業務に付随する細々としたシステム開発が残ってるからさ。だから、大きなシステムが完成した勢いで騒ごうってことになったわけ。そうでないと明日からのデスマーチに耐えられそうにない……」 システム開発者はお互い大変だと思いながら、啓太郎は頷く。「俺は大丈夫ですよ。まさか
** 妙なことになったと、そっとため息を洩らした啓太郎は、ダウンジャケットの袖をくいっと引っ張られて我に返る。隣を見ると、緊張のためかいつも以上に青白い顔色となった裕貴が、申し訳なさそうな上目遣いで見つめてきていた。 こいつでもこんな殊勝な顔をするのだと、啓太郎は笑みを向ける。 場所がエレベータの中で、しかも裕貴の兄――黒井博人と名乗った男が目の前に立っていなければ、裕貴の肩を抱き寄せるところだ。 三人がこれから向かうのは裕貴の部屋だった。 本来なら、裕貴と博人の二人きりで話すのが当然なのだろう。博人もそのつもりのようだった。だが裕貴が、どうしても啓太郎が一緒でな
「知識としては、わかっていたんだけどな。だけど、お前のここにまで触れるつもりはなかった。それが、俺たちの関係の境界線だと思っていたからだ。だけど最近は……、要領も何もわかってない俺が触れて、お前を傷つけたり、痛い思いをさせるのが怖かった」 そのはずだったのに今は、とにかく裕貴のすべてに触れたくて仕方なかった。そうでなければ啓太郎の欲望は鎮まらない。 裕貴が滴らせたもので濡れた指で、啓太郎は内奥の入り口を慎重にまさぐる。見る間に裕貴の全身は羞恥の赤に染まっていき、ぎゅっと目を閉じたまま啓太郎の手を押し退けようとするが、啓太郎は諦めなかった。「俺のことなら気にするな。抵抗があるなら、自分か
**** 翌朝、約束通りに啓太郎は、プリンを持って裕貴の部屋に立ち寄った。ついでに、数日ぶりに朝メシも食わせてもらうつもりだった。 ドアを開けた裕貴は、パジャマの上からいつもと同じカーディガンを羽織ってはいるが、頬に不自然な赤みもないし、全身から漂っていた倦怠感も抜けたようだ。「さっそく来たね」 そう言って裕貴は笑い、何より先に啓太郎の手からプリンが入った箱を受け取る。「お昼に食べよう」 啓太郎にさっさと背を向け、歌うように呟く裕貴に、思わず苦笑が洩れる。どうやら、完全復調のようだ。「おい、今朝はきちんと朝メシを食わせてくれよ」 啓太郎が声をかけると、くるりと振り返った
**** 自分の部屋のベッドに寝転がった啓太郎は、ぼんやりと天井を見上げる。自分の部屋にいながら、なんだか寛げなかった。 仕方なく起き上がると、冷蔵庫を開ける。缶ビールを取り出そうとして、その下の段に入れた箱に目が止まった。 ようやく仕事から解放されて気が抜けるのはいつものことだ。しかし最近は、それだけとも言えなかった。 自分の部屋にいるよりも、隣の部屋に入り浸ることのほうが多いからだろう。 裕貴のために買ってきたプリンは、まだこうして箱に収まって冷蔵庫に入っている。早めに渡してやろうと思い、起きているか確認のためメッセージを送ったのだが、返事がないのだ。 寝ていると