All Chapters of 元カレのことを絶対に許さない雨宮さん: Chapter 531 - Chapter 540

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第531話

「昼間は運動する時間がないから、夜に長めに走るんだ」凛はその場で立ち止まり、陽一が自分と同じ段に上がってくるのを待ってから、二人並んで階段を上っていく。「……今日は先生が助けてくれなかったら、私たちはそのまま追い出されるところでしたわ」だが陽一は片手を軽く振り、「僕たちの間で、そんなに堅苦しくする必要はないよ。五日間で本当に足りる?もし足りなければ、もう一度学校側に掛け合ってみる」と柔らかく返した。「もう十分です」消防の件は区の消防署が絡んでいて、すでに改善命令も下されている。規定通りに進めるしかなく、校長が出てきても覆すことはできない。いずれにせよ遅かれ早かれ移転は避けられないのだから、陽一にこれ以上負担をかける必要はなかった。彼はすでに、何度も彼女を助けてくれているのだから。二人で歩みを揃えると、不思議と時間は早く過ぎていく。言葉を交わしたのはほんのわずかなのに、気がつけばもう七階にたどり着いていた。「先生、おやすみなさい。また明日」凛はドアを開けて部屋に入った。陽一は微笑んで言った。「また明日」彼女がドアを閉めてから、彼もようやく自分のドアを閉めた。書斎に入り、パソコンの前に座る。画面が点いた途端、朝日からのメッセージが次々と飛び出してきた——【おい、どこ行った?話してる途中でまた返信がこなくなったけど?】【まさか、また下に降りて走りに行ったんじゃないだろうな?】【いや……お前今夜だけで何度も行ったり来たりしてるけど、何が目的なんだ?】【陽一?何かに取り憑かれたのか?】【ったく!本当に走りに行ったのか?知らない人が見たら、道に金でも落ちてると思うぞ】【お前、今夜は明らかに様子がおかしい。夜に走る奴は見たことあるが、一晩で何度も出かける奴は初めてだ】【自分で確認してみろ、7時から今の10時までに何回出歩いたと思ってるんだ?】【もういい……データは自分で処理する。お前に期待した俺が馬鹿だった!】苛立ちから、やがて諦めへ。最後に朝日は静かにオフラインになった。陽一はさっきの光景を思い出した。凛がひとり薄暗い廊下に立ち、頭上の白熱灯が淡い黄の光を落とし、その細く儚い姿を際立たせていた。ひとりぼっちで……だが幸い、五度目に下へ降りたとき、ようやく彼女と出会えた。少なく
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第532話

土曜日、二日続いた雨がようやく上がった。冬の雨ごとに寒さは深まり、帝都の気温は一気に下がった。蒸し暑い夏はもう戻らず、肺に染みる冷気と身を切るような風だけが残った。凛は外出の支度を整え、綿入れのコートを羽織り、帽子とマフラーでしっかり身を包んだ。海斗はすでに階下で待っていた。こんな寒さの中、海斗は車を路地の向かいの路肩に停め、自分はアパートの入り口まで走って来て待っていたのだ。通りすがりの人々は思わず彼に目を留めた。それでも海斗は気にする様子もなく、ただアパートの出口だけを、祈るような眼差しで見つめ続けていた。陽一は実験室へ向かって出て行った。アパートを出た途端、海斗の姿が目に入った。当然、海斗も陽一を見た。視線がぶつかり合い、二人の目には隠しきれない敵意が宿った。陽一は海斗に強い嫌悪を抱いており、時也の方がまだましだとすら思っていた。別荘で本を運んだあの日、海斗が凛にしたことを思い出すと……陽一の視線が一気に冷たさを帯びた。「入江社長は今朝来たのか、それとも昨夜からいたのか」海斗は冷笑を浮かべた。「先生は本を読みすぎて、なんでも複雑に考えたがる。今朝来たかどうかなんて取るに足らない。大事なのは――」海斗は唇の端を吊り上げ、一語一語を区切るように言った。「凛は俺とのデートを受け入れた。今日は一緒に出かけるんだ」陽一の胸にまず浮かんだのは「そんなはずはない」という思いだった。だが凛が最近、実験室のことで奔走しているのを考えると……そのことと関係があるのかもしれない。陽一は思考を押し殺し、表情を変えずに口を開いた。「凛が君と会う約束をしたのなら、彼女なりの考えがあるのだろう」「デート」という言葉は、すぐさま「会う約束」にすり替えられた。先生が言葉を選べないはずがない。「ひとつ忠告しておく。男は貧しくても、醜くてもかまわない。ただ、品位だけは失ってはならない」海斗は眉をひそめた。「……それはどういう意味だ?」「女性を尊重し、意に反することはしない。それが男としての最低限の操守であり教養だ。肝に銘じることだ」そう言い終えると、陽一は海斗の脇を通り過ぎ、路地の出口へと歩いていった。足取りは落ち着いており、背中も淡々としていたが、見えないところで拳はゆっくりと握り締められ
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第533話

その頃、二人が付き合い始めて間もなく、凛はまだ恋人ができたことに慣れていなかった。海斗は本来、腹の中に怒りをため込んでいた。坊っちゃんとして育ち、人を待たされた経験などなく、いつも待たせるのは自分の方だった。だが、凛が申し訳なさそうに顔を伏せ、ひたすら「ごめん」と繰り返すのを見た瞬間、その怒りは――パチン、と音を立てて、跡形もなく消えてしまった。「……お前はいつも忙しかった。その後も、出かけるたびにほとんど俺が先に着いて料理を頼み、お前を待つことになった。いちばん長く待ったのは……確か大谷先生に連れられて学術シンポジウムに出た時だ。主催者が急に議事を変えたせいで終了が二時間も遅れ、お前が駆けつけた時には、レストランはもう閉店間際だった」凛は無表情のままだったが、その瞳がわずかに揺れた。それは二人の初めての喧嘩だった。結局、先に折れたのは海斗の方で、頭を下げて謝った。「それからもう一度、大谷先生と標本採集に行った時も、何の前触れもなく出発して、俺には一言もなかった。俺は学校の門で馬鹿みたいに待ち続け……午前中いっぱい待っても、お前は現れなかった」海斗は次々と思い出を口にしたが、凛は黙したままだった。「……凛、これらをまだ覚えているか?」「過去のことなんて、もう覚えていない」冷ややかな返答にも、海斗は怯むことなく、かえって笑みを浮かべた。「いいさ、そのうち思い出す」実際に味わった出来事を、そう簡単に忘れられるはずがない。忘れたふりをして、ただ認めようとしないだけなのだ。三十分後、車は郊外のワイン農園に停まった。海斗が手を差し出す。「降りよう、凛」凛はその手を取らず、自分で降りて立った。海斗は気にすることなく、目の前の農園に視線を向けて笑った。「ここを覚えているか?」忘れてしまいたかったが、凛の記憶は鮮明すぎた。この農園は実のところワインセラーで、かつて広輝が海斗とのカード勝負で負けて手放したものだった。海斗は人の集まる場所が好きで、休暇を楽しむような趣味もない。暇があれば悟たちと酒盛りやカード遊びをする方が性に合っていて、こんな人里離れた場所に足を運ぶことはまずなかった。だが凛は、一目でこの場所を気に入った。都会の騒ぎから遠く離れ、吹き抜ける風にさえ自由の匂いが混
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第534話

海斗が突然姿を現した。凛が喜んで駆け寄ろうとするより早く、彼は短く命じ、大勢のボディガードが一斉に荘園へとなだれ込んだ。この半月、凛が丹精込めて育ててきた花の苗は、根こそぎ引き抜かれていった。「よくもそんなことをしやがって!俺が花を買えないとでも思ったのか?自分で植えて、のめり込んで!?電話にも出ず、メッセージも返さない!その理由がこんな花や草か?全部引き抜いて、捨てろ!」三十分も経たないうちに、青々と茂っていた花壇は無残に荒れ果てた。凛の半月以上の成果は、一瞬で踏みにじられた。ボディガードたちが突入した時から、凛は茫然自失のままだった。海斗が命令を下し、暴挙が始まるのを、緑が荒れ地へと変わり、花の苗が無情に破壊されていくのを――ただ目を見開いて見つめるしかなかった。そして、それは自然災害ではなく――人為災害だった。二人はこれまでで最大の口論をぶつけ合った。海斗は怒声をあげた。「花を植えたり、休暇を楽しんだり、のんびりする時間はあるのに、俺の電話に出る暇はないってことか?お前に何かあったんじゃないかと本気で心配して、持てる人脈を総動員して、帝都じゅうを探し回った俺はただの馬鹿か?結果はどうだ?お前はここで花なんか植えてやがった!?凛……お前にとって、俺は学業より重要じゃない。俺たちの関係も、お前の将来より大事じゃない。それはいい、俺はお前の夢を尊重してきた。だから毎回、デートには俺が先に着いて、お前を待った。短いときは十分、長いときは何時間でも……俺は一度だって待たなかったことはない!だが今度は何だ?学業は俺よりも大事で、それは仕方がない。けど……今度は俺が、こんな花くれよりも価値がないってのか!凛、結局のところ……お前は俺を愛してなんかいないんだ!……凛、どうして俺を一番にしてくれないんだ…………『あと一週間、海外にいる』って伝えたとき、怒らないまでも少しは落ち込むと思っていた。なのに……まさか何の反応もないなんて!……凛、もう少しでいい……俺のことを大事にしてくれないか?……もう勉強はやめてくれないか。来年卒業したら、そのまますぐ結婚しよう……」凛は当初こそ怒りを覚えていたが、海斗の言葉ににじむ不安や、この関係への揺らぎを感じ取るうちに、結局は心を和らげてしまった
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第535話

凛は淡々と告げた。まるで全てが自分とは切り離され、もう何の関わりもないかのように。海斗の胸は重く塞がり、握り締めようとすればするほど砂が指の間からこぼれ落ちていくような、どうしようもない無力感に襲われた。かつては、凛が心を込めて育てた花の苗を自らの命令で引き抜かせた。そして今、彼は満園に咲き誇る花々で償おうとしている。だが凛は、それを一顧だにしなかった。「気に入らないなら、別の場所にしようか……」「違うわ、好きよ」凛は海斗を正面から見据え、澄んだ瞳で言った。「この花は本当に美しい。美しいものに心を動かされるのは、人としての本能だもの。でも、もしこれが私を取り戻すための手段で、花がそのための道具にされているのなら……その美しさは裏切られている。そんな裏切られ方、私は好きじゃない」海斗は呆然としながら、かすかに声を漏らした。「……ただ、過去の過ちを詫びたかっただけだ」「あなた自身が言ったでしょう、もう過去のことだって。過ぎ去ったことにこだわる必要はないわ。ここまで心を砕いて、これほどの花を育てたのなら、私の好みに振り回されるんじゃなくて、あなた自身が心から愛して楽しんでほしいの。たとえば……あなたの生活は、仕事と楽しみ、喜びと安らぎ、自由と快適さで満たされるべきよ。取り戻すべきじゃない感情にしがみついて、全部を台無しにするものじゃない。カイ、私たちはそれぞれ独立した存在で、目指すものも違う。だから進む道も違って当然なの。かつては同じ道を歩いたけれど、今は別々になった。再び出会ったとしても、交わすべきは挨拶であって、これからも一緒に歩けるかどうかなんて悩むことじゃない。もしかしたら、これから私たちはもっと良い人に出会えるかもしれない。過去を手放し、今をきちんと受け止め、そしてすべてが可能な未来に向き合う……それが私たちにできることじゃない?」一年ぶりに、海斗は凛の口から「カイ」という呼び方を再び聞いた。だがその瞬間、喜びはなく、目頭と鼻の奥がじんと熱くなるばかりだった。「もう……無理なんだ」過去を手放すことができない。凛より良い人に出会えることもない。「凛……本当に、俺たちにはもうやり直す可能性がないのか?」凛は静かに首を横に振った。二人は荘園で昼食をとった。料理が運ばれてきた瞬間、凛には
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第536話

……海斗らしくない。「念のために言っておくけど、日没まではあと六時間。今日もそれで終わりだから」「わかってる。本当は一分一秒でもお前と一緒にいたいけど……お前、冬は昼寝しないと午後はすごく眠くなるからな」凛はしばし黙したのち、口を開いた。「じゃあ、私は一人で寝る」海斗は笑みを浮かべたが、その目には苦い色が広がっていた。「最初からそのつもりだった……さすがに、そこまで卑しい真似はしない」凛は何も答えなかった。海斗の目に滲んだ苦さがさらに深まる。「あの時、別荘で……お前が本を運んですぐに帰ろうとしたのを見て、頭に血が上ってしまって。どうしてあんなことをしたのか……後で考えたんだ。なぜあの時、理性を失ったのかって。お前が何日も音信不通で、どうしようもなく会いたかったのと……それからお前を怖がらせて、自分から戻ってきてほしかったからだ」凛の視線には、言葉にできない複雑な思いが込められていた。理解できない荒唐さと、海斗への同情がないまぜになっていた。そう、同情だ。愛の伝え方すら知らない人間は、成長するまでにきっと数多の回り道をしなければならない。自分はただ、その道の始まりに立ち会っただけ。そして幸いなことに、それ以上ではなかった。凛は使用人に案内され、二階へと上がった。「雨宮さん、こちらのお部屋です。どうぞ」見慣れた調度が並び、窓辺には、かつて彼女が拾って置いた花瓶さえそのまま残っていた。そう、この部屋こそが、凛が大学三年の夏休みに過ごしたあの部屋だった。「どうぞごゆっくり。何かあればいつでもお呼びください」「ありがとう」使用人は静かにドアを閉めて部屋を後にした。凛は四十分ほどまどろみ、目を覚まして階下へ降りていった。リビングのソファには海斗が腰を下ろしていた。前には手をつけていない紅茶が置かれ、虚ろな目で何かに深く思いを沈めているようだった。螺旋階段から響く足音に気づいた途端、彼ははっと我に返り、慌ただしく立ち上がった。「凛、起きたのか?部屋に……何か不都合でもあった?すぐに使用人を――」「いいわ」凛は彼の言葉を遮った。「もう休めた。他に予定はある?」「……え?」海斗は一瞬、呆気に取られたように立ち尽くした。凛が自ら歩調を合わせるとは思ってもみなかったのだ。本来な
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第537話

二人は展望台に並んで立ち、共に夕日を眺めた。真っ赤な太陽が少しずつ沈み、まん丸だった姿が半分になり、やがて完全に地平へと隠れ、残されたのは散り残る夕焼けだけだった。「行こう、そろそろ帰る時間だ」凛がそう告げると、海斗はうなずいた。「わかった、送っていくよ」風がそっと吹き抜け、視線を交わした二人の目には、同じように静かな色が宿っていた。車の中——凛は電話に出ると、海斗に向かって言った。「学校まで送って。先生に呼ばれてるの」「わかった」空がすっかり暗くなりかけた頃、車はB大学の正門前に停まった。海斗は真っ先に運転席を降り、助手席に回って、自らドアを開けてやった。凛は身をかがめて車を降り、立ち止まるとゆっくりと顔を上げた。「約束したことは果たしたわ。今度こそ、破らないで」海斗は終始落ち着いた表情の凛を見つめ、思わずその手を取ろうとした。だが案の定、凛は一歩下がってそれを避けた。「凛、本当に反省してる。心からやり直したいんだ。もう一度チャンスをくれないか?」哀願めいた表情を浮かべる海斗を前に、凛はふっと笑った。「最初にその要求を出された時、私ははっきり断ったわ。でもよく考えてみて、いくつかはちゃんと伝えておくべきだと思ったから、承諾したの。私の意図はわかるでしょう?私が欲しかったのは、あなたが思うように一日の時間でもなければ、未練でも、復縁でもない。ただ、わかってほしかったの」海斗は直感した。この先に続く言葉は、自分が望むものではない、と。だが現実は、彼の意思などお構いなしに進んでいく。「割れた鏡は元に戻らない。一度ひびが入ったものは、もう二度と昔のままにはならないの。だから私に時間も精力も費やさないで。価値なんてないから。あなたはビジネスマンで、投資の理屈は私よりよくわかっているはず。リターンのないプロジェクトなら、深みに嵌まる前に切り捨てるべきよ。確かに少しは痛むかもしれない。でも、腐った肉をえぐり取らなければ、傷は完全には癒えない。必要なのは、ほんの少しの勇気と、十分な時間だけ。大丈夫。私たちはきっと大丈夫……さよなら」凛は軽く手を振り、大股でキャンパスの中へと消えていった。海斗はその場に呆然と立ち尽くし、彼女の背中が遠ざかり、ついには視界から消えるまで、ただ見送るしかなか
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第538話

案の定、男は相変わり返事をしなかった。亜希子はもう言葉をかけるのをやめ、ダウンジャケットをきつく羽織り直すと、ただ彼の隣で校門外の木製ベンチに座り続けた。冷たい風に吹かれながら、夜がじわじわと広がっていくのを見つめていた。やがて空が完全に暗くなり、街灯が一つ、また一つと点り、遠くの繁華街のネオンが一斉に輝き始めた頃、微動だにしなかった男はようやくゆっくりと立ち上がった。亜希子は思わずきょとんとし、「ちょっと──」と声をかけた。だが海斗は振り返らず、そのまま車に乗り込み、エンジンをかけて走り去ってしまった。その瞬間、亜希子の胸に、思いがけず凛への羨望が芽生えた。どうやって、あんなに傲慢な男を従わせ、忠実な犬のように尽くさせたのだろう。そして、豪華な車や高価な時計の誘惑にも、どうして心を動かされなかったのか。そう――さっき海斗が凛を大学まで送ってきた場面を、亜希子は確かに目撃していた。距離があったため二人の会話までは聞き取れなかったが、男の落胆した表情を見れば、凛が彼を拒んだことは明らかだった。それも、遠回しではなく容赦のない拒絶だった。亜希子はダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、次第に手のひらが温まっていくのを感じた。だが、この寒空の下で長いあいだ彼と並んで座っていれば、ロングブーツを履いていても足裏はすっかり冷え切っていた。それでも、亜希子には十分価値があった。さきほど男がふと顔を上げ、自分を認めるように視線を向けてきた。彼女は口元に笑みを浮かべ、車が消えていった方角を見つめながら、瞳の中の羨望はやがて「必ず手に入れてみせる」という決意へと変わっていった。初めて海斗に出会った時は、ただ少しこの男に興味を抱いただけだった。けれども何度も偶然顔を合わせるうちに、彼が自分の手の届かない階層の人間だと悟った。そしてそんな機会は、一度逃せば二度と巡ってはこないのだ。なら、迷う必要なんてない。ただ……思った以上に、彼は手強い相手のようだ。そう気づいた瞬間、亜希子は思わず眉をひそめた。だがすぐに、その瞳には挑戦を前にしたような輝きが宿る。難易度が高ければ高いほど、得られるものもまた大きい。大きなリターンがあるなら、挑む価値は十分にある。……海斗は魂の抜けたような足取りで
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第539話

目の前の見慣れた光景が、ことごとく皮肉に映った。どうしてだ。なぜあの時、あんな言葉を口にしたのか。今になって思えば、自分はまるで呪いにかかったようだった。ただ欲望のままに振る舞い、凛がその場で味わっていた苦しみや絶望には、少しも気づけなかった。たった一年で、凛はすでに大学のキャンパスに戻り、新しい生活を抱きしめている。それなのに自分は、まだこの個室に囚われたまま。出られず、出たいとも思わない。グラスを握る手に力を込め、指先が白くなる。次の瞬間、海斗はふっと笑い声を漏らした。かつて別れを告げた時はあれほど揺るぎなかったのに、今はその分だけ深く後悔しているのだ。悟はその様子に、深いため息をつかざるを得なかった。どれだけ言葉を尽くしても無駄なら、せめて――「さあ、海斗さん。俺が付き合うよ」そう言って盃を重ねるうち、ほどなくして海斗は完全に酔いつぶれてしまった。悟は彼を車に乗せ、別荘まで送り届ける。道中、海斗は目を閉じたまま、うわ言のように繰り返していた。「凛……凛……置いていかないでくれ……」その声を聞きながら、悟の胸は痛んだ。海斗さんと凛さん――二人の関係をずっとそばで見てきたのに、どうしてこんな結末になってしまったのか。悟は海斗を寝室のベッドに横たえたが、このまま置いて帰るのはどうにも心配だった。しばし迷った末に、携帯を取り出し、ある番号を押す。「もしもし、田中さん?入江家に戻ってた?今から別荘に来られない?」受話器の向こうでしばし沈黙があった。田中はついさっき、ようやくうたた寝を始めたばかりだったのだ。30分後、目の下に濃いクマをつくり、不機嫌そうな顔で田中が姿を現した。悟はタバコを二本吸い終えたところで彼女を見つけ、思わず顔を明るくした。「田中さん、やっと来てくれた!」田中はベッドに目をやり、ため息混じりに呆れ声を洩らす。「また酔っ払ったのですか?」毎日毎日、少しは静かに過ごせないのかと田中は心の中でぼやいた。悟は気まずそうに咳払いをして言った。「ええと……今日は気分が沈んでて、ちょっと飲みすぎちゃったんだ。悪いけど、世話を頼むよ」そう言い残すと、悟はさっさと帰ろうとする。「待ちなさい」田中の一声に、悟は目を丸くした。「え?」「部屋にゴミ箱があるでしょう
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第540話

「凛……まだ怒ってるのはわかる……でも、どうして自分を田中なんかと比べるんだ?凛……自分を卑下するなんて、許さない……」田中さんは首を傾げた。「????」はぁ?!どうして私と比べちゃいけないの?どこが卑下になるのよ?!「凛……」田中、ついにブチ切れた。「凛凛凛、うるさいわね!」そう怒鳴ると、パシンッと海斗の頭をひっぱたいた。気づいた瞬間、自分でもゾッとしたが、数秒後には口元が緩み、笑いを堪えるのに必死だった。そして不思議なことに、その一発で何かのスイッチが入ったのか、海斗はすぐに手を放した。田中は逃げるように去った。田中は狭い寝台の上で何度も寝返りを打った。苛立ちが胸の奥で燻り、同時にあの酔っ払いの顔が脳裏に浮かんで心配も拭えない。今夜はもう本宅へ帰れそうにない。はあ……雨宮さん、本当に戻ってこないのかしら?このバカを、これから誰が世話するというのだろう。考えれば考えるほど頭が痛み、気持ちは重くなるばかりだった。それでもやっとの思いで眠りに落ちたが、夜半、田中は突然はっと身を起こした。布団からもがくように起き上がり、物置部屋を出て二階へ上がり、主寝室のドアをそっと開けた。しょうがないわね……世話焼きの性分だもの……そう腹をくくった次の瞬間、鼻をつんざくような悪臭が襲いかかり、田中は思わずえずいた。目を凝らせば、ベッド脇の床には大量の吐しゃ物が広がっている。にもかかわらず、当の本人はぐっすり眠り込んでいるではないか!田中は天を仰ぎ、心の中で叫んだ……もう本当に、神様、いっそ私の命をお取りください!……翌日、海斗は人が変わったように早起きした。ひげをきれいに剃り、上等なスーツに袖を通し、全身を整えて昨夜の酒に溺れた姿などまるでなかった。台所では、田中がおかゆを炊き上げていた。勤勉さゆえではない。毎度のこと、坊っちゃんは酔った翌朝には必ず「田中さん、おかゆを炊いてくれないか」と言いつけるからだ。だが今回は、彼に言われる前に、先回りして答えることにした。椀に盛ったおかゆを主寝室へ運ぼうとした時、ちょうど階段を下りてくる海斗の姿が目に入った。「坊っちゃん、お出かけですか?おかゆを炊きましたから、少し召し上がってお体を温めてくださいませ」海斗はおかゆの椀をじっと見
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