All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 361 - Chapter 370

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第361話

女秘書は、口元に微かな笑みを浮かべた。彼女は岸本と関係を持ってはいたが、割り切った女だった。そんな関係は、仕事を失わないための保険に過ぎず、加えて岸本からは月に四、五百万円ほどの手当が入る。四十歳手前の彼女にとっては、悪くない収入だった。ただ、意外だったのは——岸本が藤原笙子を妻に迎えようとしていることだ。「今はとにかく、妻が必要なんだ。一年か一年半もすれば、理由をつけて離婚すればいい。それと……弁護士に婚前契約書を用意させてくれ。今夜使う」岸本はそう、何でもないことのように言った。女秘書はまた笑った——やはり、そういうことか。……岸本が再び笙子を訪ねると、彼女は心の中で花が咲くような思いだった。だって、自分は「岸本の妻」になれるのだ。自分の出自では、岸本のような男は手の届かない存在——いや、天井のさらに上にいるような存在だ。子どもを産んで財産や人脈を手に入れたいと夢見たことはあっても、まさか本気で娶ってくれるとは思わなかった。その朝、待ちに待った知らせが届き、やっと岸本がやって来た。男の顔には何やら重たい影が差している。笙子はきっと赤坂瑠璃と揉めたのだろうと推測し、喜びを抑えて素直に外套を脱がせ、腕に抱きつきながら甘えるように言った。「おばさんがご飯を作ってくれたの。一緒に食べましょう」岸本は確かに機嫌が悪かったが、その一言に少しだけ表情を緩め、手に持っていたバーキンバッグを笙子に差し出した。「欲しがってたやつだ」包みを解くと、金具部分の保護フィルムが剥がされているのに気づく——きっと誰かに渡しかけたものだ。だが彼女は黙って、代わりにそっと岸本の頬に唇を寄せた。「ありがとう、あなた」岸本は笑ったが、訂正はしない。どうせ一年か一年半の結婚だ。今のうちに喜ばせておけばいい。離婚するときにマンションの一つでも渡せば十分だ。大事なのは婚前契約にサインさせること、そして避妊薬をきちんと飲ませることだ。笙子のような女と子どもを作るつもりはない。若くて体つきがいい以外に、語り合えるものなど何もないのだから。瑠璃なら話も合うが——あの女は、肝心なところで分別がない。岸本は食卓につき、シャツのカフスを外して食事を始めた。笙子は甲斐甲斐しく世話を焼き、温かい言葉を添えながら汁物やご飯をよそ
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第362話

その言葉に、岸本は呆然とした。——笙子が妊娠している。一瞬にして、彼の顔色は険しくなり、嵐の前のような重苦しい空気が漂った。笙子はその表情に怯え、そっと肩から身を離し、おずおずと弁解する。「あなたの子よ。この間ずっと、避妊なんてしてなかったでしょう?欲しいのかと思って……」岸本の目はさらに暗く沈んだ。「避妊しなかったのはな、俺と一緒にいる女は、自分から避けるもんだと思ってたからだ」笙子の顔から血の気が引く。やがて、震える声で問い返した。「じゃあ……私の子どもはいらないの?結婚するのは、長く続ける気がないから?赤坂さんがあなたと結婚しないから、私が……代わりなの?」その瞬間の岸本の顔は、もはや「険しい」では足りなかった。「子どもは下ろせ。結婚はするが、離婚のときは立都市に別荘を一つやる。それと……現金二億円だ」ぱっと見は何も考えていないような女に見える笙子だったが、この件に関しては一分の迷いもなかった。一度手放せば、二度と妊娠の機会は巡ってこない——岸本は、二度目を与える男ではないのだ。だが、彼女は真正面から反発はしなかった。目を潤ませ、儚げな微笑みを浮かべながら言う。「でも……これは私たちの愛の結晶よ。小さな命なの。私は結婚しなくてもいい……母になる権利は奪わないでほしいの。私が一人で育てるから……あなたは、たまに顔を見せてくれればいい」岸本は自分を「冷酷な人間」と自負している。だが、長く上に立つ者ほど、従順な女に甘くなる——たとえ、それが作られた芝居であっても、孤独な夜には耳に心地よく響く。すぐには返事をせず、黙り込む。本気で子どもを産ませれば、離婚はできない。生涯、笙子と添い遂げることになる。胸の奥に残るのは、彼女への不満だけではない。そこには——瑠璃の影がある。笙子と瑠璃は、彼の中で決して同列ではなかった。瑠璃には怒りも湧くが、笙子には何の感情もない。美しい操り人形……ただそれだけ。だが、その人形が子を宿した。岸本はズボンを履き、シャツを羽織ってバルコニーに出た。笙子は後を追わない。初秋の夜、薄く露が降りる。赤杉の枝先に点々と滴る夜露が、数珠のように輝いている。岸本は煙草を取り出した。この年齢になると健康を気遣い、普段は付き合い以外で吸う
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第363話

ふたたび、沈黙が落ちた。やがて、瑠璃がゆっくりと口を開く。「岸本さん。もう、言うべきことは全部言ったわ」彼女は聖母ではない。笙子の妊娠が理由で、岸本との復縁を拒んだわけではなかった。ただ——岸本という男が根っからのろくでなしだからだ。今見せている「誠意」も、笙子への不満と、彼女に子を産ませたくない一心から。瑠璃はそのための口実にすぎない。「瑠璃。そんなに意地を張るのか」低く沈んだ声が、受話器越しに響く。ここまで頭を下げているというのに——彼女は、一歩も退かない。瑠璃は通話を切った。そして、ふっと浅く笑う。もし彼女が「意地」を捨てられる女なら、とっくに周防輝と一緒になっていただろう。分かっている。こんな不器用さは時代遅れで、賢いやり方ではない。——それでも、自分を誤魔化すことはできなかった。夜は、ますます濃くなる。岸本が携帯を置くと、視線の先——寝室とバルコニーをつなぐ扉のそばに、笙子が立っていた。手には上着。どうしていいかわからず、そこに佇んでいる。きっと全部聞こえていたのだろう。目に溢れるのは羞恥と涙。立場はとっくに分かっていたはずなのに、こうもあからさまに言われれば、やはり心は傷つく。——金持ちであること以外にも、岸本には惹かれるものがあった。大人の男の色気。笙子の目からついに涙がこぼれ落ちる。母性という本能が、腹の中の小さな命を守らせようとするのだろう。彼女はかすかに震える声で言った。「そんなに望まないなら、下ろすわ」岸本は深く見つめ——しばしの沈黙のあと、声を和らげた。「産め。産んだら、俺が放っておくことはしない」ただ、それだけの言葉。だが、約束にも聞こえた。笙子は顔を覆い、泣きながら笑い、彼に飛び込みたくなる。だが岸本の胸には、別の痛みがあった。何か大切なものを失ったような——笙子は彼が「失恋」しているのだと悟る。妙な空気のまま、岸本はその夜を過ごさず、しばらくして上着を持って出て行った。車はまだマンションの下に停まっていた。乗り込み、しばらく考え込んだ末に、低く告げる。「瑠璃のマンションへ」運転席の男は、心の中で苦笑する。——この人は、あっちもこっちも愛しているつもりなのか。三十分
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第364話

岸本はポケットから携帯を取り出した。だが、しばらく迷った末——結局、発信はしなかった。「走れ」運転手に短く告げる。運転手は岸本の機嫌を察し、無言で頷く。エンジンをかけようとした、そのとき——マンションのエントランスから、大人と子どもが一人ずつ出てきた。瑠璃と、その娘・茉莉だった。茉莉は翌日の授業で使う工作の材料が足りず、母に連れられて買い物に向かうところらしい。小さな双つ結びの髪がぴょこんと揺れ、母の手を握ったまま、ぴょんぴょん跳ねるように歩く。一目で、愛情をたっぷり受けて育ったことが分かる、可愛らしく整った顔立ちの少女だった。岸本の脳裏に、自分の十歳になる息子の姿がよぎる。茉莉より四歳年上だ。——もし、一緒に育っていたら、どんなに良かっただろう。彼の視線は瑠璃を捉えるが、瑠璃は気づかない。その横顔は静かで、捨てられた女の影など微塵もない。むしろ、どこか解き放たれたような軽やかさがあった。それが、岸本には苛立ちと同時に惹きつけられる感情をもたらす。「あれについて行け」彼は顎をしゃくった。やがて、黒塗りの車が瑠璃たちの横に止まり、運転席の窓が開く。「赤坂さん、うちの社長が……お二人にお会いしたいと」瑠璃は一瞬きょとんとし、後部座席を見やった。そこには、窓を下げた岸本がいた。先ほどまでの苛立ちは消え、ただ深く澄んだ視線があった。瑠璃はじっと彼を見返す。茉莉がこっそり母の袖を引き、小さな声でささやいた。「この人が岸本のおじさん?……パパより背も低いし、パパほど格好よくない。お鼻もあんまり高くないし、着てる服もパパの方が素敵」たとえ瑠璃と岸本の関係が終わっていても、その言葉は場の空気を微妙にした。瑠璃が何か言いかけたとき——岸本が先に車を降り、茉莉の前にしゃがみ込む。これまで、彼は確かに瑠璃を粗末に扱った。婚約間近になっても、茉莉に正式に会ったこともなければ、まともな贈り物一つ渡していない。それを思い出しながら、小さな頭に手を置き、柔らかく声をかけた。「お母さんとお出かけか?」茉莉は元気に頷く。岸本は顔を上げ、瑠璃を見た。「送っていこう。ついでに、少し話したい」だが、瑠璃は首を振った。「結構です。違約金は払いますから、ご心配なく
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第365話

瑠璃の胸の奥がきゅっと縮む。娘の後ろ姿を見つめながら——その「人」のことは、何も聞かなかった。……数日後、岸本の結婚式が行われた。花嫁は笙子だった。もちろん、岸本には笙子の過去を押し隠す力があった。世間の目には、彼女は芸能界に入ったばかりの新人女優——ただ、岸本の目に留まり、思いがけず子を授かって娶られた幸運な女に見えた。一方で、瑠璃は世間の噂において「捨てられた女」として描かれた。だが彼女は、そんな声を気にも留めず、母と茉莉を連れて雲城市へ旅に出た。存分に遊び、帰ってきたのは深まりゆく秋——十月、街路樹は黄金色に染まっていた。帰宅後、瑠璃は茉莉の荷物を片づけ、茉莉はソファに寝転がって父と長電話をしていた。輝はほぼ隔日で娘に電話をかけてくる。いつも夜の七時前後——子どもの就寝を邪魔しない時間を選んで。茉莉の声は甘く、ぬくもりを含んでいた。抱きしめているのは、輝が英国から送ってきた白いウサギのぬいぐるみ。三十分ほどして電話を切ると、茉莉はそのままぬいぐるみを抱き、布団にもぐりこんだ。瑠璃が毛布をかけ、頬をそっと撫でると、娘はまっすぐに見つめ返してくる。「ママ、パパと何を話したか、知りたくない?」瑠璃は微笑んで首を振る。茉莉はそれ以上言わず、静かに目を閉じた。……その後、瑠璃は高級スキンケアブランドを扱う代理店を立ち上げた。登録資本金四億円、社員数八十名。創業間もなく、まだ軌道にも乗っていないため、ほぼ全ての業務を自分で見なければならなかったが、忙しさは心地よかった。一ヶ月後、【美桜】は初の大型契約を獲得——契約額は四億円。契約の場で、取引先の担当者は淡々と言った。「うちの清水社長は周防家の奥様と親しいんです。周防家と縁があると聞いて……それだけで、ほぼ審査もせずに御社に決めました」ペン先が、わずかに止まる。——周防家の奥様?周防輝の母のことか。本来、周防家の影響を利用するつもりはなかった。だがこの案件は、プロジェクトチームが何日も徹夜して勝ち取った成果だ。今さら断るのは現実的ではない。心中で幾度も逡巡した末、彼女は署名欄に名前を書き込んだ。その夜、【美桜】は盛大な祝宴を開いた。瑠璃は胸の奥に引っかかりを抱えたまま、薄酒をいくつも口にし、酔いが
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第366話

二年後——瑠璃は長い交渉を終え、携帯を取り出した。「おばさん、これから茉莉を迎えに伺います。今夜はデッサン教室がありますので」一年半前、母が大病を患ったとき、瑠璃は手一杯になっていた。そのとき手を差し伸べたのが周防寛の妻だった。以来、両家の間には一定の交流が生まれたが、瑠璃は常に距離を保っていた。周防家が茉莉を預かるとき、彼女は同行しない。迎えに行くときも食事には上がらない。——周防家との接点は、あくまで茉莉だけだった。……電話口で、寛の妻は何か言いかけて言葉を飲み込んだ。瑠璃はそれに気づかず、車を走らせた。三十分後、黒塗りのベントレーが周防家の邸宅にゆっくりと滑り込む。両脇に白樺の並木を抜け、母屋の前で停まった瞬間——瑠璃の視線は、一台の黒いレンジローバーに引き寄せられた。二年間、同じ場所に停められたままのその車は、黒い車体一面に埃をかぶっていた。その光景に、複雑な色が胸をよぎる。そのとき——足音。空気にかすかなタバコの香りが混じる。視界の端から、長い脚が現れた。瑠璃は反射的に顔を上げ、その瞳とぶつかる。深い淵のような漆黒の眼差し。胸が大きく波打つ。——周防輝。帰ってきたのだ。彼は玄関の階段に立ち、見下ろす位置から彼女を捉えていた。白い薄手のカシミヤニットに、黒のスラックス、そして黒いロングコート。清潔感を湛え、以前よりも穏やかに見える。だが、その眼の奥には、彼女には読み取れない何かが潜んでいた。不意の再会。輝は煙草をひと口吸い、脇に置いた灰皿で火を消す。再び視線を向けたときには、淡々とした声が落ちた。「茉莉を迎えに来たのか」瑠璃はようやく我に返り、機械のように頷く。「今夜はデッサンの授業がありますので」輝は小さく笑った。その笑みは軽く、まるで過去はすでに過去だと言わんばかりだった。「そんなに緊張することはないだろう。もう何年も経ったんだ……そうじゃないか?」瑠璃の目が潤み、しかし無理やり微笑を作る。「ええ……もう、終わったことです——周防輝、お久しぶりです」……男は応じず、意図的に間を置く。冷たい空気が流れた。瑠璃はおもしろくないと感じ、言葉を搾り出す。「これからは……もう来ません」その瞬
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第367話

茉莉は、寛の妻の部屋で宿題に向かっていた。柔らかな琥珀色の灯りの下、一筆一筆、丁寧に字を書き込んでいる。白く細長い顔立ちは、まさに周防家の血を引く証のようだった。そばでは、寛の妻が寄り添い、目を細めて孫娘を見つめている。愛情と誇らしさが、その視線から溢れていた。茉莉は愛らしく、しかも学年トップの成績——祖母にとっては、この上ない喜びだ。足音が廊下に響き、顔を上げると瑠璃が立っていた。「見てごらんなさい、この字。輝が子どもの頃よりずっと上手よ。次の保護者会、私が行ってもいいかしら?」茉莉は手を止めず、明るい声で返す。「本当はパパかママが行くものだけど……おばあちゃんが行きたいなら、先生にそう伝えるよ。おばあちゃんが特別に来たいって」その言葉に、寛の妻は顔をほころばせる。けれど、すぐに笑みを引っ込め、表情に影が差した。——輝が連れてきた若い女性。仕事仲間と言っていたが、目に映る距離感はどうにも曖昧で親密すぎる。それを、どう瑠璃に伝えればいいのか……心の中で迷いが巡る。瑠璃は、その逡巡を見抜いたように、ふっと笑った。「私とあの人は過去のことです。気にしていませんから、おばさんもお気になさらずに」寛の妻は何か言いかけ、結局ため息に変えた。茉莉は何となく空気を読み取り、顔を上げたときの顎の線が、まるで輝そのもので、どこか誇らしげだった。そこへ、使用人が入ってきて告げる。「夕食の準備が整いました。ちょうど京介様ご一家もお戻りで、旦那様が六品ほど追加で用意させ、大きな円卓で食べるようにと。それから、瑠璃様にもぜひ茉莉ちゃんと一緒に召し上がっていただきたいと。家がこんなに賑やかなのは久しぶりだそうです」寛の妻は、瑠璃に好感を持っていた。長年の付き合いに加え、茉莉の存在もある。心の天秤は、自然と彼女の方に傾いていた。「せっかくですし、茉莉と一緒に召し上がって。過去のことは過去としても、茉莉がいる以上、私や輝の父があなたを寂しい思いにさせるわけにはいかないから」瑠璃の目がかすかに赤くなる。胸の奥に温かさが差し込んだが、すぐに首を横に振った。「私は寂しくありません。でも……誰かが寂しい思いをするでしょう。茉莉はここで食べさせてください。私は外で少し時間を潰してから、また迎えに来ます」
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第368話

「お前、独身だろう?なら、そういう遠慮はないはずだ」彼の手の甲がかすかに瑠璃の腕に触れた。一瞬だけ、甘い温度を帯びたが、すぐに離れる。瑠璃は一日中の疲れを抱えていた。これ以上、輝とやり合う気力はない。だが、今この場で感情を乱すわけにもいかない。「私が独身かどうかなんて関係ありません。この二年間、一度も食事をご一緒していません——周防さん、通してください」「周防さん、ね」輝はその四文字を反芻し、口元に笑みを浮かべた。だが、その笑みは目に届かず、鋭い男の気配だけが漂う。次の瞬間、それも引っ込められた。階下から高いヒールの音、そして柔らかな女声が響いたからだ。「輝、台所から食事の用意が整ったそうよ」女はまるでこの家の女主人のような立ち居振る舞いで現れ、瑠璃の足場を一層狭める。——その場を去るときの足取りは、わずかに早まっていた。車に乗り込んでようやく息をつくと、ダッシュボードに置いたスマートフォンが震えた。画面には「周防輝」の名前。開くと、一行だけ——【久しぶりだな】力が抜けるような感覚が全身を覆う。——輝が、帰ってきた。この二年、直接の連絡はなかった。けれど、彼のことを伝える人はいた。英国で手がけた新エネルギー事業が成功したとか、栄光グループの取締役を辞し、全株を周防京介に譲って新会社を準備しているとか——それが、こんなに早く、彼の姿を目にすることになるとは。瑠璃はシートにもたれ、窓の外に暮色が滲むのをただ見つめていた。もう動く気力もなく、車内で待つことにする。空腹が余計に自分の立場の痛みを際立たせる。やがて、前方に二つの影が浮かび上がった。一人は輝、もう一人は茉莉。瑠璃は身を起こし、車を降りて後部座席を開け、娘を抱き上げてチャイルドシートに座らせる。茉莉は紙袋を差し出した。「おばあちゃんから!エビとサラダだよ。太らないって」「ありがとう……次に会ったら、お礼を言っておいてね」瑠璃は紙袋を受け取り、娘の髪を撫でる。「パパ、またね!私、デッサン教室に行くから」茉莉が手を振ると、輝は身をかがめ、小さな頭に軽く口づけた。「二日後に迎えに行くよ」その声に、茉莉は嬉しそうに笑った。後部座席のドアを閉め、瑠璃は夜の中で輝を見つめた。
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第369話

輝は、車が門を抜けていくのをじっと見送っていた。その瞳は深く、暗く、底なしの色を湛えている。やがて、右の掌をそっと持ち上げる。——そこは、さきほど瑠璃に触れた場所。その瞬間の感触は、まだ生々しく残っていた。可笑しい。自分を拒んだ女に、まだ反応しているなんて——その事実が、彼にはひどく癪だった。……二階のバルコニーでは、京介と舞が、静かにその様子を見下ろしていた。舞は夫の肩に身を預け、囁く。「輝、明らかに瑠璃を忘れられないのに、どうしてあの絵里香を連れて帰ってきたの?瑠璃が離れてしまうとは思わないのかしら」京介は視線を妻に落とし、穏やかに微笑んだ。この二年で、彼はさらに落ち着きと風格を増していた。深秋の夜、薄手のウールのスリーピースを纏い、引き締まった長身を際立たせている。どこへ行っても注目を集めるが、彼は決して愛想を振りまかず、若い女性が気軽に近づける雰囲気はない。さらに、左手の薬指には常に結婚指輪。名分はなくても、結婚指輪を盾に堂々と寄り添う。それが、京介の言う「既婚者の自律」だった。舞は思わず小さく息を漏らす。京介は視線をバルコニーの下から外し、妻に向けて微笑んだ。「忘れたいんだろうな」京介はよく知っている。——英国へ発った時点で、輝はこの恋を終わらせたつもりだった。まさか、その後で瑠璃と岸本の関係が破綻するとは思わずに。話題を変えるように、京介が目を細める。「そういえば、先日新しく採用したアシスタントを家に連れてきたとき、お前……何度も見てなかったか?まさか年下好みになった?」舞は手を弄びながら、さらりと言う。「背が高くて、黒シャツがよく似合ってたわ。あなたが若い頃の雰囲気に少し似てた……でも、ねえ周防社長。中年になると、どんなに頑張っても、ほんの少しだけ、あの頃の味わいは薄れるのよ」京介の瞳がきらりと光る。その声音は驚くほど優しかった。「俺が女の部下を一瞥しただけで、あれだけ拗ねたのは誰だったかな?」舞は彼の肩に片手を置き、にやりと笑う。「真っ白なワンピース……あれ、周防社長の好みだったんじゃない?」視線が絡む。次の瞬間、京介は彼女を腰から抱き上げた。「これから、その好みを教えてやる」朝霞川の川辺、白いワンピース
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第370話

長い間、瑠璃は視線を遠くに投げていた。——ある人間は、生涯の中で嵐のように現れる。短い静けさなど、ただの前触れにすぎない——苦く笑みを漏らし、煙草の火をもみ消す。そろそろ休もうとしたそのとき、スマートフォンが鳴った。画面に浮かんだ名前は——岸本。岸本の結婚は、奇妙なものだった。笙子と生涯を共にすると決めた矢先、出産の最中に彼女は羊水塞栓で命を落とし、赤ん坊の娘だけが残された。この一年余り、瑠璃とは仕事で顔を合わせる程度。それ以上はなかったが、岸本は彼女を追っていた。——「お得な後妻」として。瑠璃は頑として首を縦に振らない。強く迫られたとき、彼女はさらりと言った。「あなた、女を不幸にする人だから」岸本はその言葉に、苦笑いしか返せなかった。用件を済ませ、夕食を共にしながら細部を詰めようということになった。電話を切ろうとしたそのとき、低い声が耳に届いた。「あいつが帰ってきたんだろ?ますます俺のことは断るんだな」瑠璃は少し黙ってから答える。「私たちのことに、彼は関係ないわ」「俺は間違いを犯した……でも、チャンスをくれないか?うちの二人の子は、お前のことが大好きだ。俺も……茉莉ちゃんが、本当に可愛くて好きなんだ。俺は……お前となら、完璧な家族になれると思う」瑠璃の返事は変わらない。「私は命が惜しいの」岸本は苦笑交じりに言った。「じゃあ、そのうち占い師にでも見てもらうか」電話を切った後、瑠璃は半月を仰ぎ見た。淡い光が天際に滲む。その光を、しばらくの間ただ見つめていた。……翌日、夜七時半。瑠璃は市内のレストランに姿を見せた。岸本との商談がまとまれば、四億円の利益になる。金を嫌う理由はなかった。店に入ると、岸本はすでに着席していた。きっちりとスーツを着こなし、立ち上がって椅子を引く。「やっと来たな。お前はほんと、大物ぶりだ。仕事以外じゃ、なかなか会ってくれない」「わかってるなら、それでいいじゃない……仕事の話をしましょう」瑠璃は微笑みながら腰を下ろす。岸本は二人のグラスに赤ワインを注ぎ、自嘲気味に笑った。「おかげさまで、この街の女たちには『女を不幸にする男』って噂が広まったよ。誰も嫁に来たがらない……俺がお前を追うのも当然だろ?
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