All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 581 - Chapter 590

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第581話

澄佳は、それ以来一度も戻らなかった。彼女の私用の携帯番号も使われることはなく、翔雅の世界から忽然と姿を消したかのようだった。最初のうち、一ノ瀬夫人は口うるさく澄佳のことを気にしていたが、やがて諦めたのか、息子の縁談話をせっせと持ち込むようになった。何人かと顔を合わせたものの、翔雅の心が動くことはなく、ただ年齢だけが重なっていった。そんな折、悠が時折一ノ瀬家を訪ね、翔雅の母と一緒に料理を作ったりして過ごすことがあった。悠が映画「風のささやき」に出演した後、驚くべきことに芸能界を去り、大学へ戻って学業を続けた。この潔い選択に、多くのネットユーザーは星耀エンターテインメントへ好感を抱き、「芸能界の良心みたいな存在だ」と口々に称えた。だが、悠自身はよく分かっていた——それは、澄佳が自分にだけ向けてくれた特別な庇護だったのだ。二年余りが経ち、「風のささやき」は映芸大賞にノミネートされた。その年、翔雅は三十三歳を迎えていた。授賞式の夜。悠は主演男優賞の有力候補と目され、会場の注目を一身に集めていた。出資元は耀石グループ。翔雅も招待を受け、最前列の席に座っていた。両隣には名のある映画監督やプロデューサーが並び、「一ノ瀬社長」と声をかけられれば、彼は礼儀正しく微笑み、静かに握手を交わした。ただ一人、悠が近づいてきたときだけ、肩を軽く叩いて「緊張するな」と囁いた。「ありがとうございます、翔雅さん」悠が頭を下げると、翔雅はもう一度肩を叩き、席を促した。会場には星々のような光が集まり、きらびやかな夜が続いていた。各賞が次々と発表され、「風のささやき」はこの夜の主役となった。最優秀音楽賞、最優秀撮影賞、最優秀監督賞、最優秀脚本賞、さらに最優秀助演賞まで……だが、本番はここからだった。最後に残された最優秀主演男優賞。会場の空気は一気に張りつめ、誰一人として大きな息すら吐かない。その緊張をほぐすように、司会者が軽く冗談を口にし、そして客席へ向けて手を差し伸べた。「それでは——この映芸大賞、最優秀主演男優賞を発表していただきましょう。星耀エンターテインメントの社長、葉山澄佳さんです。どうぞ!」ぱちぱちと盛大な拍手が湧き起こり、会場中の視線が一斉にステージへと注がれた。誰もが心の中で囁いていた。——葉山澄佳が壇上に
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第582話

翔雅の視線が揺れた。本当は伝えたい言葉がいくつもあった。だが、いざ口にしようとすると、すべてがよそよそしく感じられる。二人の婚姻はたった一か月。だが、離れてからは二年半。再び会えたとしても、あの頃の軽やかな言葉はもう似合わない。結局、翔雅が口にできたのは——「ああ、久しぶりだな」という当たり障りのない挨拶だけだった。間を置いて彼は続けた。「この二年、どうだった?」澄佳は淡く微笑んだ。「元気にやってたわ。あなたは?」翔雅は答えられなかった。正直に言えば、この二年半は決して良いものではなかった。だが、それを彼女に打ち明けるわけにもいかない。彼女は聞きたいとも思わないだろう。時間が二人の距離を削り取り、再会はまるで他人同士のよう。怒りでも怨みでもなく、ただ静かな隔たりだけがそこにあった。翔雅は無理に近づこうとはせず、冷静さを取り戻す。——二年の歳月のあいだに、彼女にはすでに恋人がいるかもしれない。短い婚姻など、彼女にとってはとうに過去。未練も、割り切れぬ思いも、背負っているのは自分だけだ。それでも礼として一言だけ添える。「今度、食事でもしよう。お前の帰国祝いに」「ええ。じゃあ私は先に行くね、監督に挨拶してくる」「そうか、当然だな」澄佳が背を向けかけた瞬間、翔雅は思い出したように手を伸ばし、思わずその細い手首を掴んでしまった。「待ってくれ」澄佳は驚いて彼の手元を見下ろす。翔雅はその視線を受け止め、低く告げた。「連絡先を教えてくれないか。お前の番号、もう使えなくなってるだろう」しばしの沈黙ののち、澄佳は小さく頷き、そっと手を引いた。翔雅がスマホを差し出すと、彼女の長い指が淡々と番号を打ち込み、柔らかい声で言う。「この番号でLINEも使えるから、それで加えて」——LINEを、俺に?その声音は春風のように胸を撫でていった。けれど、その風はすぐに遠ざかってしまう。澄佳はドレスの裾を軽く持ち上げ、次の挨拶へと歩いていく。社交の場での彼女は堂に入ったもの。変わらぬ美貌に、成熟した女性の艶やかさが加わっていた。翔雅は赤ワインを仰ぐように飲み干し、再び彼女を見やった。その黒い瞳に宿るものは、男にしかわからぬ複雑な色だった。……宴が終わり、十月の夜風が冷たさを増
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第583話

蘭クラブ。宴司がやって来るなり、翔雅はいきなり噛みついた。「お前があの日、遅れなければ……俺が香坂に絡まれることもなかった。あれがなければ澄佳と別れることもなかった!」宴司はむっとして言い返す。「車が故障したんだ。俺のせいにするなよ。香坂がしつこく迫ってきたとき、お前だって振り払えただろ。それに、俺は離婚しろなんて一言も言ってない。結局は自業自得だ。 澄佳に謝るどころか、スキャンダルで散々迷惑をかけて、彼女が深夜まで必死に火消ししてくれたその日のうちに、お前は逆に離婚だと言い出したんだ。そんなもの、向こうが呑み込めるはずがない。周防家は名門だぞ。お前のわがままに付き合う安い嫁じゃないんだ。晩餐会で見ただろ、澄佳が現れた途端、何人もの若手俳優が名刺を差し出して、少しでも顔を売ろうと群がっていた。あそこは名利の場であって、捨て場じゃないんだ」「澄佳が若い俳優に言い寄られても、まさか本気でなびくと思うか?」翔雅が低く吐き捨てると、宴司はわざとらしく目を細めた。「さあな。桐生みたいな顔立ちが彼女の好みなんだろ?ほら、松宮に対してのあの溺愛ぶり、まるで桐生の代わりを見てるようじゃないか。お前みたいに精悍なタイプは、澄佳の審美から外れてるんじゃないか?」「黙れ」翔雅はグラスを突き出した。「くだらねえ話はやめろ。ただ飲むだけだ」「へいへい、慰めてやってんだろ。心が焼け焦げてんのに、見てられねえんだよ」「うるせえ、黙って飲め」グラスを重ね、夜は更けていく。翔雅は黙々と酒をあおり、宴司は控えめに飲みつつ、時折肩を叩いては宥めていた。思えば、宴司自身も澄佳を狙っていたことがあった。だが横から奪っていったのは、ほかならぬ翔雅だったのだ。——深夜一時。翔雅は半ば酔ったままバーを後にする。運転は専属ドライバーが担っていたため、宴司は同伴せずそのまま別れた。黒塗りの車の後部座席。窓ガラスに映る横顔は、街灯に照らされて陰影を深め、いっそう鋭く見えた。そのとき、スマホが震えた。LINEの通知音。翔雅は反射的に手を伸ばす。——澄佳が、友達追加を承認したのだ。【あなたは一葉章芽と友達になりました。これからチャットできます】一葉章芽……?翔雅は思わず吹き出した。——澄佳、いつからこんな文芸趣味になった
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第584話

澄佳がふと振り返ると、そこに智也の母の姿があった。思わず目を見張ったが、すぐに静かに表情を和らげる。——過去のことだ、と。彼女は再び母との会話に戻った。智也の母は呆然と見つめ、胸中には様々な思いが渦巻いていた。その隣で小さな桐生瑶(きりゅうよう)が無邪気に囁く。「おばあちゃん、あの人すごくきれい」智也の母の心はさらに複雑になる。瑶はスプーンでスイーツを掬いながら、ぽつりと呟いた。「ママよりきれい。パパの秘書よりも」智也の母は胸の奥でため息をついた。——あの娘に初めて会ったのは、もう何年も前。二十そこそこの若さだったけれど、あまりに美しく、家柄も申し分なく……その完璧さがかえって怖かった。静香の言葉もあって、智也と長く続くはずがないと踏んだ。ならば、笑われる前にこちらから引いた方がいい。そう考えたのは、自分自身だ。少し離れた席で、舞も智也の母に気づいた。彼女はただ、ごく淡い笑みを浮かべただけだった。……三十分ほどして、澄佳たちは買い物を終え、ミニバンに乗り込んだ。地下駐車場を出たところで、路肩に一人の老婦人が倒れているのが見えた。隣で幼い少女が声を上げて泣きじゃくっている。幼すぎて状況を説明できず、ただ必死に老婦人の手を引いていた。運転手が避けようとすると、澄佳は窓越しに顔を確かめ、静かに言った。「止めて」車が急停車する。降りて近づくと、やはり智也の母だった。周囲に人は集まっていたが、誰も救急車を呼ぼうとはしない。このままでは命に関わるかもしれない。澄佳は迷わず指示を飛ばした。「もう一台空けて。すぐ病院へ」「お嬢様、ご存じの方ですか?」「ええ。古い知り合いです」彼女は幼い少女が怯えないように、一人のベビーシッターを残して付き添わせ、自分は智也に電話をかけ、事情を伝えてから先にその場を離れようとした。小さな瑶が泣きながら澄佳の指を掴んだ。「おねえちゃん……」澄佳は頭を撫で、柔らかく笑った。「一緒に車に乗って、病院でおばあちゃんを待とうね。すぐにパパが来るから」少女は涙を拭い、こくりと頷いた。車に戻ると、澄佳の胸には複雑な思いが渦巻いた。——智也と静香が離婚したことは、とうに知っていた。けれど嬉しさなど微塵もなく、ただ「因果だ」と感じるばかりだっ
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第585話

——一ノ瀬翔雅の子ども?智也は驚愕した。だが次の瞬間、合点がいった。澄佳が再婚するには早すぎる。離婚の時、すでに身ごもっていたのだ。智也は沈黙した。智也の母は彼を見上げ、含みのある声で言う。「今ならまだ間に合う。あんたは独り身だし、今の立場なら、澄佳に相応しいでしょう……母さんもやっと分かったよ。あの子は本当にいい娘だった。母さんが偏見を持ったせいで、二人は一緒になれなかったんだ」「母さん、もう昔のことは言わないで」智也はかすかに首を振る——その話題は、彼にとって永遠に疼く傷だった。智也の母は、息子を見つめながら、何か言いかけては口をつぐんだ。……三日後の夕方。澄佳は仕事を終えた。明日は秋分。母の好物であるおはぎを買おうと思い立った。以前は祖父が毎年買ってきていたが、今は澪安か澄佳が都合をつけている。専用エレベーターで一階に降りると、受付の女性が声をかけてきた。「葉山社長、桐生様がお二時間ほどお待ちです」澄佳は意外に思い、そちらを見やると——本当に智也がいた。その隣には、瑶の姿も。少女は父の隣でおとなしく座り、澄佳を見ると、大きな瞳を潤ませながら小声で「おねえちゃん」と呼んだ。過ぎ去ったことは水に流す主義の澄佳は、きっと礼を言いに来たのだと察した。歩み寄り、少女の頭を撫でてから智也に言う。「お礼なら、交通費を振り込んでくれれば十分よ。わざわざ来ることないわ」智也の目が深く澄佳を捉える。やがて、本当にスマホを取り出して一万円を送金した。澄佳はそれを受け取る。「夕食を一緒しないか。お礼も兼ねて、帰国祝いも」声は少し掠れていた。澄佳が考えていると、瑶が彼女の手をぎゅっと握り、期待に満ちた瞳で見上げてきた。澄佳は少女の頬を軽く撫で、あっさりと答える。「いいわ。どこで?自分で運転していく」「留白レストラン」澄佳は検索してみる。すぐ近くだ。承諾した。ちょうど智也に頼みたい仕事があった。担当責任者が智也の熱心なファンである四十代の富裕な女性だったのだ。澄佳は食事の席でこの話を持ち出し、智也に少しだけ顔を立ててもらおうと考えていた。それは、彼が母親を救った自分への恩に報いることでもある。澄佳は徹底したビジネスウーマンだった。情と利をきっちりと分けて考えるのが、彼女
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第586話

澄佳は挑むような眼差しで言った。「どうしたの?あなたって、そんなに偉い人なの?」翔雅は言葉を失った。けれど、目の前の鮮やかな顔立ちを見つめ、あの挑発的な光を宿す瞳を見つめていると、心の奥がざわめき始めた。まるで初めて出会ったあの日のように——胸を打たれ、同時に奥歯を噛みしめる感覚。智也はというと、落ち着いた様子だった。三年の歳月で、文芸青年から今や一端の実業家に変わり、ずいぶん円熟していた。彼はメニューを翔雅へ差し出し、にこやかに言う。「一ノ瀬さんさえ気になさらなければ、ご一緒にどうです?」翔雅が嫉妬しているのを、智也には分かっていた。この男は澄佳を愛しているのだ。けれど、どうしてあの時あっさりと離婚してしまったのか。子どもの存在を知らないのだろう、そうでなければ今の態度はあり得ない。その時、隣の小さな声が弾んだ。「叔父さん」澄んだ瞳で呼んだのは、智也の娘——小さな瑶だった。翔雅は、いくら嫉妬と苛立ちで胸が煮えたぎっていても、子ども相手に怒りをぶつけることはできない。しかも、母をなくした子だ。彼は小さな頭をそっと撫で、ふと智也が羨ましくなった。たとえ妻に問題があっても、彼には子がいる。自分は澄佳と一か月愛し合ったというのに、一つの命すら授かれなかった。胸の奥に広がる不公平感。彼はメニューを受け取り、にやりと笑いながら卵料理ばかりを次々と注文した。——結婚して一か月、子どもの気配どころか卵の影すら見なかった。せめて料理だけでも並べてやる。「オマール海老のふわとろオムレツ、トリュフ入りスクランブルエッグ、出汁巻き玉子松茸あんかけ」……一通り注文を終えた後、翔雅はわざとらしく問いかける。「問題ないだろう?」智也はちらりとメニューを見やり、少し笑みを含んで返す。「もし調子が悪いなら、一度泌尿器科にでも行ってみては?食べたものが効くなんて俗説、あまり当てになりませんよ」「俺はその方面は絶好調だ」翔雅は言い切った。「へえ、この二、三年、ずいぶん華やかな私生活を送っていたようだな」智也が軽く返す。「桐生さんほどじゃない。富裕な女性の前で、さぞかし顔が立っただろう」二人の応酬に、瑶が不思議そうに首をかしげる。「富裕な女性って、なあに?」その瞬間、二人は同時に口をつぐんだ。
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第587話

澄佳は二秒ほど彼を見つめた。——本当に整った顔立ち。思わず心の中でつぶやく。章真が大きくなったら、きっと女の子たちを夢中にさせるに違いない。けれど……翔雅は、確か会食だと言っていたはず。こんなに早く終わったの?夜は墨を流したように深い。だが、その闇よりもなお翔雅の瞳は濃く沈んでいた。彼は元妻を見据え、助手席のドアを開ける。「乗れ」澄佳は話すべきことがあった。ためらうことなく車に乗り込む。翔雅は彼女のドアを閉め、自ら運転席に回り、シートベルトを締めてハンドルを握った。「俺の送ったメッセージ、見たか?どう思った」メッセージ?澄佳は一瞬きょとんとしたが、やがて思い出す。「あなた、取り消したじゃない。だから見ていない」横顔で彼女を見つめながら、翔雅はようやく正面から彼女を見られた。以前よりも美しい容貌。以前と変わらぬ挑発的な気配。胸の奥が嫉妬でざらつき、口調はますます険しくなる。「本当に見る暇もなかったんだろうな。全部の時間を智也との逢瀬に費やして。未婚同士、ちょうどいいじゃないか。昔の恋が燃え上がるには」「翔雅、わざわざそれを言うため?」澄佳は眉をひそめる。「じゃあ何を言えばいい?お前、彼と逢引してたんだろう?」「そうよ!デートしてたわ!しかも私はこれからおまけの継母にもなるつもり。それで満足?」言葉が落ちると同時に、男は彼女の顎を乱暴に掴み、その唇を奪った。澄佳は容赦せず、彼の舌先を噛み切るほど強く噛んだ。だが翔雅は放さない。荒々しい言葉を吐きながら、シートベルトを外し、さらに深く押し込んだ。「お前があんなに決然と離婚したのは、結局あのガキのためだったんだろ?」女は突然力いっぱい彼を突き飛ばす。強引に再び唇を重ねようとした翔雅は、彼女の瞳の端に滲む涙を見て、動きを止めた。低く、震える声が響く。「翔雅!二年半経っても何も変わっていない。本当に私を愛してなんかいない。未練なんかじゃない。ただ智也に負けるのが我慢できないだけ。もし本当に私を幸せにして、尊重してくれていたら、どうして離婚にまで至ったの?あなたにとって私は、ただの所有物にすぎなかった」彼女は息を整え、言葉を継ぐ。「私が今日会ったのは、智也のことでも、私たちのことでもない。伝えたかったのは——子どもがいるとい
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第588話

澄佳は革張りのシートに身を預け、夜の闇を見つめながら、かすれた声で言った。「どうやって言えばよかったの?あの夜、あなたは酒を飲みに行っていたでしょう。香坂に口紅をシャツにつけさせても平気な顔で帰ってきた。挙げ句、『別居なんて要らない、離婚だ』って言ったのはあなたじゃない。確かに、私たちの結婚は愛から始まったものじゃなかった。でも……あんなみじめに終わることはなかったはずよ」思い返せば、わずかな甘さも苦味にかき消される。今となっては——章真と章真の父母でしかない。澄佳は涙を見せる人間ではなかった。だが、目尻がかすかに濡れ、すぐにそれを隠すように横を向いた。「時間がある時に章真と章真を見に行って。あなたのお母さん、きっと喜ぶわ」車内は暗い。時折ビルのライトが射し込み、白い肌と赤くなった鼻先を浮かび上がらせる。その表情はまるでいじめられた少女のようで、翔雅は目を奪われる。気づけば、彼女の鼻先に小さなそばかすが二つ。悪くはない。むしろ愛らしさを増していた。——出産のせいだろうか。その瞬間を想像しただけで、翔雅の血が沸き立つ。彼は低く、夫のように柔らかい声で尋ねた。「出産は……痛かったか?自然分娩だったのか、帝王切開だったのか」「……」澄佳は歯を食いしばった。「今さら聞いてどうするの?余計なことよ」それでも翔雅は穏やかなまま、別人のように柔らかい調子で言う。「聞きたいんだ。言わないなら、手で確かめるしかない」——この人は、本当にどうしようもない。澄佳は鼻で笑い、冷たく返す。「自然分娩よ」「へえ……いい子だな」翔雅はわざとらしく褒める。澄佳はジロリと睨みつけて、ピシャリと言った。「子犬扱いしないで!」澄佳が切り返すと、次の瞬間、彼女の手が大きな掌に包み込まれた。ただそれだけで、強く握ることもなく、優しく。「もう、喧嘩はやめよう。子どもに会いたいんだ」「運転して」彼女は否定しなかった。翔雅はアクセルを踏む。「周防家の本宅に住んでいるんだろう?」「そう。家族が多い方が、子どもたちの世話をしてくれるから」ハンドルを握りながら、翔雅はさりげなく切り出す。「俺の家も部屋は余ってる。母さんだって子どもの世話をしてくれる。いっそ、うちに移ったらどうだ?」その打算は顔に出
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第589話

翔雅と澄佳が最初に周防家へ着いた。九時前。二人の赤ん坊はまだ眠っておらず、すでに風呂を済ませ、パジャマのロンパース姿で並んでベッドに寝転がり、小さな手をしゃぶりながら「あーうー」とお喋りしていた。翔雅が部屋に入ると、世話をしていた使用人が振り向いて笑顔を見せる。「葉山様、お帰りなさい。そして、こちらが章真と芽衣のお父さんですね。いやぁ、さすがお父さん。お子さんにそっくりですよ」翔雅はそっと子ども用ベッドに近づき、身をかがめて二人を見つめた。ふっくらとして、健康そのもの。兄の章真は少し大きく、妹の芽衣はやや小柄。並んで寝ている姿はなんとも愛らしい。つぶらな黒い瞳で彼をじっと見上げ、最初に声を発したのは芽衣だった。「パパ?」小さな両手を伸ばし、抱いてほしいとせがむ。その瞬間、翔雅の胸の奥がとろける。彼は恐る恐る腕に抱き上げる。柔らかく温かい小さな身体。壊してしまいそうで、思わず大切に包み込む。もちろん章真も忘れない。翔雅はもう片方の腕で兄を抱き上げ、両腕に子どもを一人ずつ。「パパ」芽衣は小さな手で父の顔を撫でた。高い鼻、きれいに剃られた頬、黒く豊かな髪。小さな手でむんずと掴み、引っ張る。使用人が慌てて止めようとしたが、翔雅は目を潤ませて笑った。「大丈夫だ」やがて芽衣はあきらめ、すぐに手を放した。章真は兄らしく落ち着いていて、初めて会う父にすぐ寄り添い、じっと見つめた。写真よりもずっと格好いい。彼もまた心から好きになった。——翔雅は、この時すでに人生の頂点に立っていた。心の奥から、じわりと感情が込み上げてきた。父親としての実感——それは自分の子を抱いたときにしか味わえないものだ。翔雅は芽衣の頬にそっと口づけ、続けて章真にも軽く唇を触れさせる。どう愛していいのか分からないほど、胸の奥が熱くなる。涙が零れそうになるが……それだけは堪えた。少なくとも澄佳の前で泣くわけにはいかない。あまりにも格好がつかないからだ。二人はすでに二歳。走って跳ねられる年齢だ。だが眠る前の柔らかく甘い時間、翔雅は何度も抱きしめ、何度も頬を寄せ、愛おしさを噛みしめた。……周防邸の灯りが次々と点る。やがて京介と舞の夫妻が到着した時、ちょうど一ノ瀬家の両親とも鉢合わせになった。かつての親族同士、感慨深
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第590話

母と子の心は通じ合う。一ノ瀬夫人の一瞥で、翔雅はすぐに意を悟った。考える間もなく、彼は「ドン」と音を立てて京介の前に膝をついた。「お義父さん……すべて俺の過ちでした。これからは償わせてください。澄佳と子どもたちのために」一ノ瀬平川は居心地悪そうに眉をひそめる。身長一九〇近い大の男が、こうして真っ直ぐ膝を折り、妻を取り戻そうと頭を垂れている。傍らで一ノ瀬夫人は、ハンカチで目頭を押さえる仕草をした。だが涙は出ていない。芝居がかった動きにすぎない。——うちの息子も、なかなかに柔軟じゃないの。内心でそう呟き、満足げにうなずく。京介は隣の舞に目をやった。——ほら、見ろよ。あれこそ場慣れってやつだ。一ノ瀬家の舞台役者は、あの一ノ瀬夫人一人で十分だな。舞は黙って頷いた。とはいえ、京介としてもいつまでも跪かせておくわけにはいかない。人目もある。「若い者のことに、私や妻は口を出さない。澄佳が離婚したのも、澪安が外で好き勝手するのも、いちいち干渉したら嫌がられるだけだ。お前と澄佳のことも、結局は縁に委ねるしかない。あとは、彼女自身の気持ち次第だろう」舞は頃合いを見て翔雅を支え起こし、相槌を打った。「ええ、結局は縁に委ねるよ」その一言で、一ノ瀬家は追い払われた格好になった。一ノ瀬夫人は胸中で歯噛みするが、焦っても仕方ないと悟る。夜も更け、長居はできない。最後に孫たちの寝顔を見て、翔雅に言葉を残し、夫妻は帰っていった。——翔雅は残った。両親を見送った後、彼は澄佳の部屋に戻る。まだ人の出入りがあり、彼女は仕事帰りのまま、ジャケットを脱ぎ、タイトなワンピース姿で雑誌を開いていた。月が高く昇り、二つの影を落とす。静けさが漂う。翔雅は子ども用ベッドのそばにしゃがみ込み、双子の寝顔を何度も確かめると、ようやく立ち上がり、澄佳の隣に腰を下ろした。「もう遅いわ。帰った方がいい」澄佳は目を落としたまま静かに言う。翔雅は腕で顔を覆い、長い沈黙の後、掠れた声でつぶやいた。「澄佳……ここに泊まらせてくれ。二人の子がいるんだ。もう一度、夫婦に戻れないか」澄佳はふっと笑った。「十月もお腹に抱えたのは私。痛みに耐えて産んだのも私。勝手なことばかり言うのね。翔雅、私と一緒になれる男は他にもいる。どうし
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