夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する! のすべてのチャプター: チャプター 391 - チャプター 400

534 チャプター

第391話

航平はにこやかに立ち上がり、紳士的に星の椅子を引いた。「君が遅いんじゃない。私が早すぎただけだよ」星はこれまで恋愛をしたことがなく、最も親しく接してきた異性といえば奏だった。だが二人はあまりに気心が知れすぎていて、食事の場でこうした気遣いを意識することもなかった。雅臣と結婚してからは、外で食事を共にする機会はほとんどなく、たまに出かけても彼が椅子を引いてくれることなど一度もなかった。だからこそ、航平のさりげない紳士ぶりに、星は少し戸惑いを覚えた。彼女は店員を呼び、航平に向き直る。「好きなものを頼んでね、遠慮しないで。この食事は私に出させて」航平は穏やかに微笑んだ。「ありがとう。そうさせてもらうよ」少し離れた席に座る二人の若い女性が、その様子を見て肩を落とした。「やっぱり彼女持ちだったんだ......もうチャンスないわ」「でも彼女もすごく綺麗。ほんとお似合いだよね」「どうして素敵な人ってみんな彼女がいるんだろう」星は二人のひそひそ話を耳にして、思わず笑みを漏らした。入店したときから彼女たちには気づいていた。ずっと航平をちらちら見ては、「あなたが声をかけてよ」「いや、あなたでしょ」などと押し付け合っていたのだろう。彼女は長い睫毛をそっと持ち上げ、向かいでメニューを選ぶ男に視線を向ける。もし雅臣が遠い月の光だとしたら、航平は春の陽だまりそのもの。柔らかく、温かで、心地よい安心感を与えてくれる存在だった。航平が数品を選んで顔を上げる。「注文したよ」星は彼が口にした料理名を聞き、目を見開いた。「あなたも、この料理が好きなの?」航平は優しく笑った。「ああ。雅臣や勇とここで食事するときは、いつも頼んでいた。......君も好きなのか?」星は頷いた。「ほんと偶然ね。あなたが頼んだもの、どれも私の好物よ」航平の目が一瞬、きらりと光る。「でも、君と一緒に食事したときに、これを頼んだことはなかったよな。君は淡泊なものが好きだと思っていた」その言葉に、星の笑みがわずかに揺らぐ。思い出されたのは、離婚前の息苦しい日々。「当時は、雅臣と翔太の体調を優先してたの。二人共胃腸が弱かったから、毎回彼らに合わせて、消化のいいものを選んでいた
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第392話

星の手がかすかに震え、グラスの水が指先にこぼれた。航平は彼女の変化に気づかないふりをしたまま、静かに続ける。「勇が言っていた。綾子夫人の考えでは、雅臣に清子を娶らせたいらしい。最近はずっと清子が翔太くんの世話をしていて、どうやら綾子夫人は二人の仲を深めさせようとしているようだ」星はうつむいたまま黙っていた。航平は言いすぎたと思ったのか、すぐに言葉を引っ込める。「悪い、余計なことを言った」「違うわ」星は顔を上げ、淡々と口を開いた。「彼らが清子を好んでいるのは、今に始まったことじゃない。私はもう慣れてるわ。ただ......綾子夫人の態度は少し意外だった。てっきり雅臣には、家柄の釣り合う相手を選ぶと思っていたから」「綾子夫人は清子の才を認めるようになったんだろう。それに、嫁いできた女が翔太くんを邪険にしないかと案じてもいる。翔太くんに好かれなければ意味がない。だから清子を推している。勇の話では、もう雅臣に急かして、清子との結婚を進めろと言い出しているらしい」星はすでに雅臣と離婚していた。それでも、その話を聞いた瞬間、心の奥に妙な滑稽さがこみ上げてくるのを止められなかった。かつて綾子夫人は二人を引き裂かなかったのなら、今さら自分が関わる理由なんて、どこにもないはずだ。それなのに、今になって二人を取り持とうとする。――なんとも不可解な話だった。そのとき、料理が次々と運ばれてきた。皿が並び終えるのを待ち、航平が口を開く。「星。今日こうして呼び出したのは、実は別の話があったからなんだ」「何の話?」これまで航平が連絡を寄こすときは、いつも有益な情報をもたらしてくれた。彼の黒い瞳は深海のように澄み、まっすぐに彼女を見据えている。「......君はスターを知っているか」その眼差しを見ただけで、星はすべてを悟った。航平は、すでに自分の正体を突き止めていたのだ。「私がスターよ」星は隠さずに告げた。「どうして、わかったの」航平の口もとに微かな笑みが浮かぶ。「ある人に頼まれて、スターを調べた」星は思い当たる顔を脳裏に浮かべる。「......雅臣、でしょう?」航平は賞賛するように頷いた。「その通りだ。清子はスターが専属作曲家に
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第393話

「神谷社長、それでは......別の作曲家を探してみますか」誠の問いに、雅臣の瞳は深く沈む。「必要ない。スターの居場所を突き止めろ。俺が直接会って話す」誠は目を見張った。「......承知しました。すぐに取りかかります」スタジオでは、星が最新作の曲を奏でていた。それは、コンサートの幕開けに用いる予定の一曲。澄んだ旋律が泉のように流れ出し、聴く者の心を揺さぶる。窓辺に立つ彼女の姿は、一枚の絵画のように優美だった。薄いカーテンを透かして降り注ぐ陽光が、彼女の全身に金のヴェールを纏わせる。曲が終わった瞬間、扉の方から拍手が響いた。「パチ、パチ、パチ」振り向いた星の目に映ったのは、航平の姿だった。「いつからそこにいたの?」彩香が答えた。「さっき演奏を始めてすぐよ。鈴木さんが、邪魔しない方がいいって言うから呼ばなかったの」昨夜の食事の席で、航平は彼女のスタジオを見てみたいと口にした。今は昼間のほとんどを練習に費やしているし、いずれ商業活動をするうえでも場所を隠す必要はない。だから快く承諾したのだが、まさかこんなに早く訪れるとは思わなかった。「素晴らしかったよ」航平の声は低く温かい。「ありがとう」星は彩香に向かって言う。「もうすぐ応募者が来るから、接客お願いね。私は先に航平を案内してくる」「わかったわ。行ってきて」星は航平を連れて、スタジオ内を案内した。この場所は、まだ離婚する前に奏が借りたものだった。独立して自分のチームを持とうと考え、大規模なスタジオを契約したのだ。広さはおよそ八百平方メートル。建物は三層に分かれ、演奏ホール、練習スペース、オフィスなどが整っている。星はそのうち一層を仮に借り受けているが、家計を切り盛りしてきた彼女の蓄えでは、この規模の家賃や内装費をまかなえるはずもない。今は借金として抱え、少しずつ返済していくしかなかった。星は自分の階を案内したあと、残りの二層も見せて回った。ひととおり歩き終えると、再び彩香のもとへ戻った。その背後から、航平の視線が静かに注がれていた。普段は穏やかで落ち着いたその眼差しが、このときだけは熱を帯びて揺らいでいる。だが星は気づくことなく、ふたたび部屋へ入っていった
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第394話

彩香が笑って言った。「きっと面接希望者が来たんじゃない?」振り返った彼女の表情は、部屋に入ってきた二人を見た瞬間に固まった。入ってきた人物は周囲を見回しながら、まるで人の視線など意に介していない様子だった。「なかなか悪くない内装だな」清子が柔らかい声で続ける。「場所はちょっと人里離れているけど、周りは静かだし、裏には湖もある。確かにいいところね」勇は得意げに胸を張る。「ここなら前のスタジオに負けないだろ?大家の話じゃ、ここも音楽スタジオとして使われてたそうだ。清子にぴったりだと思うぜ」清子の顔に、ようやく笑みが浮かんだ。ここ数日はスタジオへの嫌がらせで顔が曇りきっていた彼女だが、このときだけはほんの少し明るさを取り戻した。勇はその笑顔を見て、自分の存在意義が認められたような満足感を覚える。「よし、じゃあ大家に話をつけてくる......」そこまで聞いて、彩香がとうとう声を上げた。「ちょっと!誰が入っていいって言ったの?人の許可もなく勝手に入るなんて、不法侵入よ」星と彩香の姿を認めた勇は、思わず目を見開いた。「お前たち......ここにいたのか!」彩香は腕を組み、冷ややかに返す。「それ、こっちの台詞でしょ」勇の視線がふと背後へ流れ、黙って立つ航平の姿に気づいた。口をぽかんと開け、絶句する。「航平......お前、なんでここに?」勇が航平に気づいた瞬間、星と彩香の表情も強張った。まさかこんなところで勇と鉢合わせるとは。航平はずっと裏で情報を流してくれていた。それを勇に知られたら、親友の縁など簡単に断ち切られてしまうだろう。――いや、彩香からすれば、勇や雅臣のような奴との「親友関係」など失っても惜しくない。けれど航平は誠実な人間だ。彼が友人との絆を絶つ姿は、見たくなかった。航平が口を開こうとした瞬間、星の声がそれを遮った。「二人がここに来た理由と同じよ。鈴木さんも見に来ただけ」勇の顔に納得の色が広がる。「そうか、航平もこのスタジオが清子にふさわしいと思ったんだな」彼は清子に向き直り、嬉しそうに言った。「ほらな、やっぱり航平の情報は一番確かなんだ」星の取り繕った言葉に勇は疑念を抱かなかった。ちょうど数日前、航平
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第395話

「わきまえないと痛い目を見るぞ。雅臣が出てきたら、こんな穏便には済まないからな」「人の物を横取りして、よくもまあそんなに堂々と言えるものね」星の声は冷ややかだった。「でも、そこまで言うなら譲ってあげてもいいわ」彩香の顔色が変わる。「星......」勇の唇に、勝ち誇った笑みが浮かぶ。「わかればいいんだ」だが星は続けた。「ここは五年契約で借りて、半年以上かけて内装したスタジオよ。だから家賃、内装費、違約金を補償してもらう必要があるわ。それに、私には目前に控えたコンサートがある。新しい場所を探せば練習に支障が出る。精神的な損害を請求するのも当然でしょ」勇は苛立ちを隠さず吐き捨てた。「理屈はいい。金額を言え」星は数秒考えるふりをしてから、淡々と告げた。「顔見知りのよしみで切りのいい額にしてあげる。二十億ね」「な、なんだと?」勇は耳を疑った。「二十億払うなら、ここを譲るわ」「星!お前は詐欺師か!二十億あればこのスタジオ丸ごと買えるぞ!」勇は星がふっかけてくるとは思っていた。だが、口にする額が桁外れだとは夢にも思わなかった。まるで二十億を二十円と勘違いしているかのように――星は平然と返す。「それなら買えばいいじゃない。そうすれば誰とも争わなくて済むでしょ」勇の顔に血が上り、怒りで理性を失いかけた。「買ってやるよ、俺は......」言いかけたところで、航平の声が冷静に割り込んだ。「勇。最近は無駄な金を使いすぎだ。もう首が回らないんじゃないのか」氷水を浴びせられたように、勇の頭が一気に冷えた。二十億でスタジオを買うなど、愚か者のすることだ。星をにらみつける勇の目には、怒りと悔しさが入り混じっていた。――この女は本当に悪知恵ばかりだ。わざと自分を煽り、罠にはめようとしたに違いない。思えばオークションでも、彼女のせいですごい額を散財した。星の悪評をネットに流したときも、結局「強欲な資本家」と叩かれ、火消しに莫大な金を注ぎ込んだ。山田家の株価はいまだに回復せず、手元資金も尽きかけている。――危なかった。航平に止められなければ、また星の罠に落ちるところだった。勇は星をにらみつけ、吐き捨てる。「
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第396話

星と彩香が振り返ると、若い女性が入り口に立ち、落ち着かない様子で周囲を見回していた。星が歩み寄る。「ここは星野奏スタジオよ。あなたは面接に?」彼女は小さくうなずいた。「篠宮凛(しのみや りん)と申します。ピアノ演奏者の面接に伺いました」そう言って、履歴書を差し出した。星が受け取って目を通すと――凛はヴァイオリンでも優れた成績を収めた実力者で、ピアノは最高レベル。国際的なコンクールでも数々の成果を残していた。どれも高い評価を得たものばかりだった。星は頷く。「一曲、弾いてもらえる」凛はうなずき、ピアノの前に腰を下ろすと、音を確かめ、鍵盤に触れ、演奏を始めた。確かな技術。指先の動きに迷いがない。けれど――緊張からか、一つの音を外してしまった。演奏中のミス自体は、大きな問題ではない。すぐに立て直せば済むことだ。だが凛は怯えた鳥のように硬直し、音は途切れ、低い濁音だけが響いて止まった。顔は血の気を失い、声が震える。「す、すみません......失敗しました」瞳は潤み、今にも崩れ落ちそうに見えた。星は穏やかに言葉をかける。「大丈夫。音をひとつ間違えただけよ。もう一度弾いてみて」励ましを受け、凛は再び鍵盤に向かう。今度は完璧だった。滑らかで美しい音色が、部屋いっぱいに広がる。彩香が手を叩く。「篠宮さん、すごい腕じゃない。どうしてそんなに自信がないの」彼女は凛の弱点をすぐに見抜いていた――過度の自信のなさ。凛は気恥ずかしそうに答える。「五年近くピアノから離れていたんです。ずっとブランクがあって......もう前みたいには弾けないんじゃないかって」「五年も?」星が問いかける。「どうしてそんなに長く弾かなかったの」凛の長い睫毛が震える。「当時、恋人が交通事故で視力を失い、ずっと彼を支えてきました」星と彩香は思わず視線を交わす。彩香が言葉を選びながら口を開く。「彼の事情はお気の毒だけど......私たちの仕事は全国各地での公演がある。付き添いが必要な恋人を抱えているなら、難しいんじゃないかしら」凛は慌てて首を振った。「あ、いえ大丈夫です。彼の目は三年前に回復しました。ただ......私が気持ちを引き
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第397話

かつて、彼は全力を尽くしてその初恋相手を手に入れた。そのために常軌を逸したことまでやり、すべてを彼女に捧げた。だが交通事故で突然視力を失ったとき、彼女はあっさり別れを告げ、国外へ去っていった。失明の衝撃と恋人の裏切りに彼は打ちのめされ、命を絶とうとしたことさえある。そのそばで支え続け、励まし、看病したのが凛だった。二人が正式に恋人になったのも、その頃だった。三年前、彼の視力は治療で戻り、去年には家業の会社を継いだ。そして今年――初恋相手が帰国した。凛はこれまでの経緯を一から語った。同情を買うためではなく、自分がもう後戻りしない覚悟を伝えたかったのだ。長い年月を無駄にし、これ以上時間を捨てるわけにはいかない。彼女は履歴書をいくつも送り、面接にも通った。だがどこへ行っても拒まれた。やがて、同情した人事担当者から真実を耳打ちされた。――凛は触れてはならない人の逆鱗に触れたのだと。その人物が誰か、凛にははっきりわかっていた。だからJ市にはもういられない。彼女はS市へ活路を求めてやって来た。ただし、履歴書の輝かしい経歴はもはや過去のもの。長く舞台を離れた彼女には、かつての優位性はなかった。「......わかったわ」星の声が、凛の思考を遮った。「星野さん、じゃあ......採用していただけるんですか!」凛の瞳が一気に輝く。星は微笑みながら頷いた。彩香は口を開きかけたが、結局ため息とともに飲み込み、何も言わなかった。翌週の月曜からの勤務が決まると、凛は心から嬉しそうに顔を輝かせた。その瞳は久しく失っていた光を取り戻し、きらきらと輝いていた。凛が去ったあと、彩香はようやく思いを口にした。「星......凛はJ市の人間なのに、わざわざこっちで職探しをしてた。あの必死な様子、絶対に向こうで嫌がらせを受けてたんだと思う」敏腕マネージャーとしての直感は鋭い。「しかも、さっきの話......元恋人が家業を継いだって言ってたでしょ?十中八九、そいつが裏で手を回してるわ。そんな人間を受け入れたら、私たちも狙われるかもしれない......ほんと、どうして世の中はこんなに恩知らずのろくでなしが多いのかしら」彩香は苦々しく吐き捨てる。「善人の姿はどれも似たよう
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第398話

星はしばし黙り、静かに口を開いた。「わかったわ。すぐ向かう」スタジオ。壁には無惨にペンキが塗りつけられ、音楽機材は壊されて散乱していた。彩香の顔は険しく、凛も目を伏せていた。自責と不安に揺れる声で凛がつぶやく。「......やっぱり、私、別の仕事を探した方がいいのかもしれません」このところ何度も門前払いを食らい、ようやく掴んだ仕事だった。ここを失えば、もう演奏の仕事にはありつけず、飲食店でピアノを弾くような仕事しかないかもしれない。諦めかけていたときに出会ったのが星と彩香。やっと運が巡ってきたと思った矢先の惨状――これでは不安にならないはずがなかった。彩香は手を振った。「星が来てから考えましょ。これはあなたのせいじゃないかもしれないし」三十分後、星がスタジオに姿を現した。「他の階はどうなってる?」彩香が答える。「外壁や扉にはペンキをかけられたけど、中は無事よ。荒らされたのは私たちの階だけ」星は驚きも怒りも見せず、ただ淡々と頷いた。「狙いははっきりしてるわね」凛がおずおずと口を開く。「星野さん......私のせいで巻き込まれたのでは?」星は首を振った。「違うわ。もしあなたの人間関係が原因なら、まず彼女を雇うなって忠告が来るはずよ。壊されたのは私たちの階だけ。他は無傷。つまり狙い撃ちよ」誰の仕業か、答えは明白だった。数日前、勇と清子がここに来ていたのだから。彩香が首をかしげる。「でもどうして、うちの階だけ?全部壊せばいいじゃない」星は冷静に言い切った。「全部壊したら、自分たちがここを使えなくなるからよ」彩香は怒りをあらわにする。「清子あの女、どういうつもり?星はもう雅臣と離婚したのに、わざわざちょっかいを出して......ほんと、馬鹿なのか何なのか。こっちから願い下げなのに、わざわざ目の前に現れて!」そして鼻で笑った。「むしろ雅臣に、あんたの存在を忘れさせたくないんじゃないの」星は扉の方を見やり、問いかけた。「監視カメラは?」その言葉に彩香の顔色が曇る。「確認したけど、壊されてた」「大丈夫」星は部屋の隅に歩み寄り、微笑を浮かべた。「中に仕掛けたのは無事だから」彩香は目を丸く
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第399話

「奴ら、完全に身を隠してるじゃない。これじゃ警察に出したって、特定は無理じゃない?」彩香が眉をひそめると、星は落ち着いた声で答えた。「どんなに隠そうと、警察の捜査力なら割り出せるはずよ」そう言いながら、画面の一人を指さす。「彩香。この体つき、勇に似てると思わない?」彩香は身を寄せ、しばらく凝視したあと頷いた。「確かに......だらしない歩き方、間違いないわ」どれほど偽装しても、染みついた癖や仕草までは隠せない。まして勇のような放蕩息子なら、なおさらだ。彩香も何度か会った経験があり、映像の人物が勇だとすぐに見抜いた。「でも不思議ね。人を雇って壊させたら済む話なのに、なんで自分まで出てきたのかしら」星は意外そうにもせずに答える。「自分の手で鬱憤を晴らしたかったんでしょうね」「そうね」彩香は納得するように笑った。「このところ、あんたに散々恥をかかされて、警察にまでしょっ引かれたんだもの。恨み骨髄で当然よ」二人が映像を見ていると、そこから聞こえてきた怒鳴り声が耳を打った。「壊せ!思い切りやれ!全部ぶち壊せ!一つも残すな!」彩香は絶句した。「......バカね。顔を隠し、監視カメラを壊す頭はあっても、声を残すなんて」彼女は肩をすくめて溜息をつく。「勇の頭のできを高く見積もりすぎたわ」彩香は星に向き直る。「星、このあとどうするつもり?」「こんな足を引っ張る味方を抱えて、清子と雅臣も大変ね」星の唇に薄い笑みが浮かぶ。「この映像をネットに流すわ。あとはネット民に任せる。推理ゲームが大好物の彼らなら、必ず見つけ出す」「なるほど!」彩香の目が輝いた。二人の会話は凛の前で隠すことなく交わされた。凛は耳を傾けながら理解する。――彼女たちもまた、自分と同じように敵に回したくない人間を相手にしている。けれど逃げるのではなく、正面から立ち向かっていた。その姿に、死んだように冷えていた胸の奥が熱くなる。――この人たちと一緒なら、きっと退屈な日々とは無縁だ。いまや星はネットの大人気者。映像を公開してわずか一時間で、たちまちトレンドの頂点に躍り出た。もちろん勇の目にも届く。「ははは!ネットで犯人探し?監視カメラ
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第400話

勇はぽかんとした。「なんでわざわざ星に会う必要があるんだ。トレンドに上がっていようが、俺たちに関係ないだろ」雅臣は怒りを押し殺した声で言った。「勇。お前、本気で顔を隠せば誰にも気づかれないとでも思ってるのか?あの映像にはお前の声がはっきり残っていた。親しい人間どころか、行きつけの店の従業員だって判別できる」勇は慌てて背筋を伸ばす。「映像......?なんのことだ」「星が監視映像を流した」勇は呆然とした。「はあ?」彼が目にしたのは、スタジオが破壊されたというトレンド記事と数枚の写真だけ。募集形式での情報提供にすぎないと思っていた。監視カメラは自分が壊したのだ。映像が残っているはずがない。だが雅臣の声は冷たく響く。「監視カメラの映像だ」勇は思わず口を滑らせた。「あり得ない!監視カメラは壊したはずだ」言った瞬間、己の失言に気づく。「......雅臣、これは清子のためにやったことなんだ。ただの報復だよ」しかし心の奥では恐怖が広がっていた。星は雅臣の元妻であり、翔太の母親。彼女に手を出したと知れれば、いくら勇でも雅臣の前では強気に出られなかった。長い沈黙ののち、雅臣は口を開く。「星は室内に監視カメラを仕掛けていた。顔は映っていないが、声は鮮明に録られていた。その映像は俺が押さえてある。だが、彼女の影響力を考えれば、長くは封じ込められない。これが最後の助けだ。後は自分で始末しろ」言い終えるや、雅臣は電話を切った。――その夜。押さえられていたはずの映像は、結局ネットに出回った。勇は得意げに構えていた。顔も服装も変装しており、気づかれることなどない――そう信じていた。だが公開から二時間も経たないうちに、すべてが暴かれていく。愛用の腕時計、靴、指輪。腰に巻いたベルト。過去にSNSに投稿した写真と照合され、瞬く間に特定された。匿名のユーザーは面白がって彼の交友関係まで掘り返し、画像や発言をさらし始める。ほんの数時間で、勇の素性は丸裸にされた。勇の胸に、初めて恐怖が走った。「嘘でしょ......このネット民、どんだけ有能なの......もう特定したって?」彩香は画面を見て口をあんぐりさせた。
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