All Chapters of 離婚届は即サインしたのに、私が綺麗になったら執着ってどういうこと?: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

真吾が前に出て遮った。「正気か?」空気を裂くように、紙の破れる音が響き渡った。今度は柚香だけでなく、江里子まで目を見開いた。数十億円の価値があるはずの絵が、こんなにもあっけなく引き裂かれてしまったのだ。真吾は怒りに震えた。「お前、気でも狂ったのか?よくもそんな真似を!」遥香は冷然と答え、裂けた紙を皆の前に広げて見せた。「偽物の絵なら、恐れる理由はないでしょう。見てください。この木漿紙は、スプランドゥール・エ・プロスペリテの作者が使っていた画紙とはまるで違います。スプランドゥール・エ・プロスペリテの作者は竹や絹の紙しか用いなかったんです。紙からして間違っているのに、本物であるはずがないでしょ?」今度は真吾さえも呆然とし、反論しようと口を開いたものの、一言も出てこなかった。「この絵が本物のように見えたのは、実際に真作をなぞって転写したからです。ただその線は原本ほど流麗ではなく、だからこそ友人が『生気がない』と評したのも筋が通じます」展示会に贋作が並んでいた――骨董界にとっては大きな笑い種だ。柚香の顔は青ざめたり蒼白になったりと変わり、周囲は修矢の顔を立てて余計なことは言わなかったが、会場では一点の品も売れなかった。柚香のデビューは、結局のところ笑いものに終わった。帰り道、江里子は思わず手を打って笑った。「さっきの柚香の顔を見たら、本当に胸がすっとしたわ!」「でも、明日の展示に集中しよう。今日柚香に恥をかかせたぶん、明日は陰で何か仕掛けてくるかもしれない」翌日、彫刻展覧会が幕を開け、会場には人の流れが途切れることなく続いていた。遥香は責任者として入口に立ち、来客を迎えていた。何しろ鴨下家が出資した展示会だ。保は早々に姿を見せていた。今日はレトロ調のスーツに身を包み、昨日の柚香の展示会に現れたときのラフな装いとはまるで対照的だった。「鴨下社長、今回の展示会は見事ですね。会場の選び方も素晴らしいし、展示品も市場ではめったに見られないものばかり。本当に心を砕かれたのでしょう」そう褒められると、保は自然に話題を遥香へと向け、隠すことなく称えた。「今回の彫刻展は遥香が丹念に準備したものだ。確かに相当な労力を費やしている」「こちらがハレ・アンティークの新しいオーナーですね?」保の紹介もあって、来場者のほとんど
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第112話

鴨下の祖父は感嘆の声を上げた。「これほど壮大な彫刻展覧会は見たことがない。見事だ、本当に見事だ」遥香は軽く頷いて応じた。「おじい様、ほとんどの展覧会は都心で開かれますが、地代が高すぎます。私たちはあえて郊外で行きました。その分、広く自由に空間を使えたのです」「人が来ない心配はなかったのか?」遥香は壁に飾られた玉石で形作られた「鴨下」の字を指差した。「おじい様がこうして見守ってくださっていますもの。お客様が来ないはずがありません」わずかなやりとりで鴨下の祖父は上機嫌になり、そばの保は思わず親指を立てた。あの気難しい祖父をこんなにあっさりとご機嫌にさせたのは、長い人生で遥香が初めてだった。「お姉……」澄んだ甘い声が響いたが、その先は途中で遮られた。遥香が振り向くと、それは柚香だった。川崎の母はその呼び方を聞くや否や、すぐさま柚香の腕を引き、首を横に振った。柚香は慌てて言い直す。「遥香さん」その様子を見た保が鼻で笑った。「川崎家には芸術を鑑賞する目なんてないと思っていたがな」遥香は保の前に立ち、争う気もなく、今日の場を荒立てるつもりもなかった。「どうぞ中へ」修矢の黒い瞳が遥香をとらえ、光を宿した。声をかけようとしたが、彼女は一度も目を向けなかった。「君が尾田社長か?」鴨下の祖父は笑みを浮かべて言った。「なるほど立派な風貌で、若くして有望だ」「鴨下社長、お名前はかねがね伺っておりました」修矢は礼儀正しく手を差し出した。鴨下の祖父は軽く握り返し、感慨深げに言った。「若い世代には本当に優れた人材が揃っている。ただ惜しいのは、人を見る目や物事の運び方に、まだ経験が足りないということだ」その言葉には、褒めながらも皮肉を含ませる響きがあった。優秀で美しい遥香を差し置いて、どこから見ても劣る川崎家の養女を選ぶとは――修矢の目利きも大したことはない。その含みを聞き取り、遥香は口元に小さな笑みを浮かべた。修矢は表情を変えずに眉をわずかに上げ、謙虚に答えた。「鴨下社長のおっしゃる通りです。やはり年の功には及びません。若輩として、学ぶべきことがまだまだ多いです」二人のやり取りには、言葉の裏に鋭い棘が潜んでいた。鴨下の祖父は作り笑いを浮かべながら口にする。「もちろんだ。鴨下家はまだ新参者で、これからは尾田社長にぜひご
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第113話

すぐに遥香は、その空いた場所に一枚の絵を掛けた。掛けられた途端、人々の視線が一斉に引き寄せられる。「これは枯れた桔梗の絵か?」「まあ、なんて美しい……桔梗は枯れても、決して折れることはないのね」「右下のこの一滴の涙が画竜点睛だわ。絵に命を吹き込んでいる!」人々は次々とその絵に心を奪われた。修矢も例外ではなく、絵の前に立ち尽くして見入った。見れば見るほど、胸の奥に懐かしさが込み上げる。修矢の視線は右下の、ほとんど気づかれないほど小さな署名に止まった。それが遥香の作品であることを、一目で理解した。だが、遥香がいつこの絵を描いたのか。そこから滲み出ているのは、沈んだ孤独と絶望にも似た悲哀の気配で、見ているだけで胸が締めつけられるように切なくなった。絵は画家の心の内を最も映し出すものだ。遥香がこの絵を描いたとき、どれほど深い悲しみを抱えていたかが伝わってくる。「修矢、何を見ているの?」柚香が近づくと、修矢は一枚の絵に見入っていた。彼女も視線を追うと、さきほど壊れてしまった展示品の場所に、新たに掛けられた絵があった。その絵は強く人々の目を引き、称賛の声が次々と上がっていた。柚香の目に一瞬、歪んだ感情がよぎった。修矢を連れ出そうとしたそのとき、傍らで誰かが遥香に問いかけるのが耳に入った。「川崎社長、この絵は競売に出すことができますか?」「この絵は名のある画家の作ではありませんが、一度見たら忘れられない、まさに稀有な佳作です!」「そうですよ川崎社長、この絵も競売に出してください!」次々と声が上がり、まるで先ほどの騒ぎなどなかったかのように、人々の視線は遥香に向けられ、そこには賞賛と好意があふれていた。このような絵を展示会場に並べられるということ自体、遥香に確かな実力が備わっている証だった。遥香は求められればほとんど断らない。「はい、皆さまがお気に召したのなら、後ほどこの『枯れ桔梗』を競売に加えます」誰かが拍手しながら声を上げた。「それは楽しみだ!もう待ちきれない。この絵をぜひ手に入れたい!」その盛り上がりはあまりにも大きく、保でさえ視線を向けてきた。掛けられたその絵を見た瞬間、保の瞳がわずかに収縮し、思わず遥香へと目を向ける。まさか彼女が、この絵を公開するとは――人々の期待の眼差し
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第114話

入札合戦はついに修矢と保、二人だけのものとなり、値は際限なく吊り上がっていった。尾田家と鴨下家の当主が同時に競り合うほどの絵――人々はますます、その作者に関心を寄せずにはいられなかった。修矢と長年取り引きのある人物が、場を和ませるように口を挟んだ。「鴨下社長、主催者なのに、どうして私たちと絵を取り合うんです?」保は唇をゆるめ、余裕の笑みを浮かべた。「俺もこの絵が気に入ったんだ」「おお……」と誰かが声を上げ、ただならぬ気配を感じ取る。「川崎社長、この絵の作者はどなたですか?」遥香は目を細め、柔らかく笑んだ。「この絵は、私が描きました」この言葉を耳にした瞬間、柚香の瞳孔はきゅっと縮み、指先が白くなるほど強く握りしめられ、嫉妬に唇を噛み切らんばかりだった。またも遥香!その時、客席から驚きの声が上がった。「なんだ、この絵が川崎社長の作品だったのか!それなら鴨下社長が競りに加わるのも当然だ!」「どういう意味だ?」「まだニュースを見てないの?川崎社長と鴨下社長が遊園地でデートしてる写真がもうトレンド入りしてるよ!」「本当だ……川崎社長と鴨下社長って、まさか……」修矢は思わずスマホを開き、ニュース速報を確認した。大きな見出しが目を刺すように映り込む。【ハレ・アンティークのオーナー尾田遥香と鴨下保が交際中、まもなく結婚】添えられた写真は、あの日遊園地で二人が並んで歩いている姿だった。修矢の指先は無意識に強く握られ、遥香を見つめる瞳には複雑な感情が渦巻いていた。保?どうしてあんな男を好きになる?だが彼女は否定もしなかった……周囲の人々は二人を意味ありげに眺め、口々に鴨下の祖父へ祝辞を述べた。「鴨下社長、おめでとうございます!才能も美貌も備えたお孫嫁ができて、鴨下家の慶事ももうすぐですね」遥香の笑みは一瞬固まった。隣の保に視線を向けると、彼は涼しい顔で祝福を受け入れ、彼女のために弁解する気配などまるでなかった。遥香は眉をひそめた。あの日保が自分を遊園地に連れて行った意図を、その瞬間に悟り、胸の奥に嫌悪が込み上げた。あの写真はきっとその時に盗み撮られたもの。すべては保の仕組んだ筋書きだったのだ。保はその視線に気づいたのか、振り返って彼女を見やり、含みのある笑みを浮かべた。「笑ってみせろよ」「私に芝
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第115話

「遥香さん、あまり楽しそうじゃないけど?」のぞみは遥香の淡々とした表情を見て、思わずきょとんとした。彼女も自分と同じように喜んでくれるものと思っていたからだ。今回の展示会は、遥香が最初から最後まで自ら企画し、心血を注いできたもの。どれほどの努力を重ねてきたか、想像に難くない。だが遥香は小さく首を振った。無理に「嬉しい」と言うことはできなかった。ふと、のぞみは「あっ」と声を漏らし、自分の頭を軽く叩いた。「そうでした、遥香さん。鴨下社長と保さんがずっと遥香さんを探しているの。ご挨拶に行く?」今となっては、晴香と保の関係は特別なものに見られている。世間で噂されている通りなら、鴨下家の慶事もそう遠くはないのかもしれない。遥香はうなずき、内厅へ向かって歩を進めた。彼女には保に話したいことがあった。このまま帰らせるわけにはいかない。だが姿を見せた途端、どこからともなく父と母が現れて道を塞ぎ、その傍らには柚香と、戻ってきた修矢の姿もあった。遥香の瞳がかすかに光を帯びる。両親が非難の言葉を発する前に、柚香が意味ありげに、ずっと眉を曇らせていた修矢に視線を流し、にっこりと笑った。「お姉ちゃん、本当に鴨下家の御曹司とお付き合いしているの?」伏せられた修矢の睫毛がかすかに震え、無意識のうちに遥香を見やった。その瞳の奥には、抑えきれない期待がにじんでいた。傍らで父は冷ややかな笑みを浮かべ、責め立てた。「遥香、お前が鴨下家の御曹司と付き合っているなら、なぜ俺たちに言わないのか?俺たちはお前の親だ。何をするにも黙っていて、私と母さんを一体どう思っているんだ?」「パパ、怒らないで。お姉ちゃんはきっとわざと隠したわけじゃないと思う。何か事情があるのかもしれない」遥香が何も言う前に、柚香が先にかばうような言葉を口にした。だが母はそれを聞いてますます怒りを募らせた。「遥香に事情なんてあるはずがない!柚香、余計なことを言わないで!」遠くにいた保は、遥香が両親や柚香に取り囲まれているのを見て、ゆったりと歩み寄った。「どういうことだ?遥香が恋をするのに、いちいちそっちに報告が要るのか?」保はそう言いながら、修矢をちらりと意味深に見やった。保の姿を認めると、父の怒りはたちまち引っ込み、川崎家は鴨下家に逆らえる立場ではないことを思い知らされ
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第116話

「俺が何を望んでいるか、君は分かっているはずだろう?」保は鼻で笑い、探るように言葉を投げた。「遥香、今日の結果には満足しているか?」彼が言っているのは展示会のことだと、遥香にはすぐに分かった。彼女は目を細め、低く問いただす。「今回の展示会は、あなたが彫刻の回数と引き換えにしてくれたもの。借りがあるのは認める。でも私はあなたとは無関係なのに、どうして私たちの関係をはっきり否定しないの?」「否定する必要があるのか?」保は理解できないという顔で言った。「これで利益は最大化される。分からないのか?」「それはあなたの利益であって、私のじゃない」遥香は無表情のまま告げた。「明日までに、私とあなたの関係をはっきり否定して。私はもう、あなたと何の関わりも持ちたくない」彼女は堪忍袋の緒が切れ、本音をぶつけた。保は彼女を追い詰め、自分が仕掛けた罠へと一歩一歩誘い込んでいる。たとえ協力相手であっても、そこに彼からの敬意は一片もない。こんな相手は、遥香が求めるパートナーではなかった。だがその言葉も、保の耳には痛くもかゆくもなかった。ただ意に介さず、余裕の笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてくる。そして見下ろすように彼女を眺め、からかうように口を開いた。「川崎さん、君に選択肢や権利があるとでも思っているのか?」遥香は掌をぎゅっと握りしめ、目元に冷たい光を宿した。保が手を伸ばし、彼女の耳にかかる髪に触れようとした瞬間――遥香はさっと顔をそらし、それをかわした。彼を見据える瞳には、はっきりとした嫌悪が浮かんでいた。触れることはできなかったが、保は怒るどころか、ゆったりと手を引き、含みのある声で言った。「君は頭がいいんだ。どうすべきか、分かっているだろう」遥香は冷ややかに笑い、瞳に鋭い光を宿した。「それは……鴨下社長の期待には応えられそうにないね」保は眉をひそめた。普段なら、こんな口を利いた相手などとうにサメの餌にしているところだ。だが相手が遥香である以上、彼は珍しく少しばかりの忍耐を見せた。「急ぐことはない。考える時間をやろう」ポケットに手を突っ込み、保は淡々と告げた。「おじいさまが、明日一緒に本宅で食事をとおっしゃっている。迎えに行く」遥香はきっぱりと拒絶した。「行かないわ」「行くかどうかは、君
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第117話

遥香の目がぱっと輝き、妙案を思いついた。「たいしたことじゃないわ。今日は暇だから、私が薬を取りに行ってあげる」そう言って遥香は外へ出ていき、のぞみは訳がわからず立ち尽くした。外に出ると、遥香は博幸に行く手を塞がれた。「川崎さん、もう治りましたか?」遥香は彼をにらみ、「病院で薬をもらってくるわ。付いてきたいなら勝手にすればいい」と言った。博幸は疑わしげだったが、遥香は保に特別に大切にされている存在だ。これ以上強く出ることはできなかった。しばらくして彼は道を譲った。「どうぞ」遥香は軽く頷き、タクシーで病院へ向かった。慌ただしく降りて歩き出した彼女は、傍らを擦れ違った品田に気づかなかった。品田が声をかけようとした矢先、遥香がまっすぐ産科へ向かうのを目にして、目玉が飛び出しそうになった。「社長、先ほど病院で遥香様を見ました。産科に入っていきました」品田は一刻も遅らせず、すぐにそのことを修矢へ報告した。「何だって?」修矢の呼吸が止まった。抑えようとしても、あの熱に浮かされた夜が脳裏によみがえる。まさか……修矢の目に光が宿り、病院へと急いだ。品田はずっと産科の前に張り付いており、修矢が姿を現すとすぐに声を上げた。「社長、こちらです!」修矢は速足で近づき、思わず産科の方へ視線を向け、焦りの色を浮かべながら聞いた。「彼女は出てきたか?」「まだですが、そろそろだと思います」遥香が入ってから、すでにかなりの時間が経っていた。品田が言い終えるか終えないうちに、遥香が書類を手にして産科から出てきた。「社長、遥香様が出てきました!」品田の声に気づき、遥香の視線がこちらに向いた。産科の外に修矢の姿を認めた瞬間、彼女の胸には無数の思いが去来したが、結局すべてを素早く押し殺した。「遥香、君……君は……」修矢は遥香の前に立ち、彼女の手にした書類を見つめながら、これまでにない緊張を覚えた。「何?」遥香は理解できない様子で彼を見た。「私に用事があるの?」優しく柔らかな瞳と視線が合った瞬間、修矢の胸に熱がこみ上げ、思わず言葉が飛び出した。「遥香、離婚を取り消しに行こう!」「何だって?」今度は遥香が驚く番だった。彼女の目の中で感情が次々と揺れ動く。修矢が彼女の腹と手にした書類をじっと見
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第118話

保は遥香を長いこと待ったが、ついに待ちきれなくなった。彼女を連れ帰れなければ、祖父に言い訳が立たない。保の姿を見た遥香は、胸の内の乱れた思いを押し込め、冷笑して言った。「いいわ、鴨下家に行きましょう」着替えのように態度を変える遥香を見て、保のまぶたがなぜかぴくりと震えた。まるで何か企んでいるように見えたのだ。だが祖父が急かしている以上、考えている暇はない。保は低い声で警告した。「鴨下家では、言っていいことと悪いことを弁えるんだ」遥香は冷たい顔でそれに応じた。鴨下家に着くと、保はようやく笑顔を作り、遥香を客間へと案内した。「遥香ちゃん、よく来たな!」遠くから鴨下の祖父は遥香と保の姿を見て、二人の間にただならぬ空気を感じ取り、立ち上がって尋ねた。「保が何か失礼をしたのか?」「おじい様」遥香は鴨下の祖父に向かってにこりと笑みを見せた。彼女と保の確執は鴨下の祖父とは無関係だ。これまでずっと善意を示してくれた年長者に対して、彼女もまた相応の敬意を払いたいと思っていた。傍らの保が冗談めかして言った。「おじい様、遥香とは仲良くやってますよ」鴨下の祖父はそれを聞いて大笑いした。「仲がいいなら、いつ結婚するつもりだ?」「おじい様、私から一つご説明させていただきたいのです。私と保さんの間には何の関係もありません。遊園地に行ったのも、ただの偶然でした」遥香の澄んだ声が落ちると、鴨下の祖父の笑みはたちまち消えた。「遥香!」保の笑顔も瞬時に消え、陰鬱な目で彼女を睨みつけ、警告の色をにじませた。傍らで様子を眺めていた彰瑛が、不意に感慨深げに言った。「川崎さんと兄さんは恋人じゃなかったんだね」「余計な口を利くな」保は冷たい視線で彰瑛を睨みつけ、鴨下の祖父へ向き直って説明しようとした。「おじいさま、さっき遥香は冗談を言っただけです。ちょっとした小さな行き違いがあったんです」遥香は淡々と口を開いた。「おじいさま、私と保さんの間には喧嘩もなければ、付き合ってもいません」鴨下の祖父は眉をひそめ、保へと視線を向けた。保は心の中で遥香を罵りつつも、笑顔を作って説明した。「おじいさま、今は俺が遥香を追いかけているところで、まだ答えてもらえていないんです」「なるほど、そういうことだったのか」鴨下の祖父の険しかった
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第119話

遥香はあらかじめ用意していた検査結果と薬を取り出し、保に差し出して冷静に言った。「これは今日受けた検査の結果よ。信じられないなら監視カメラを確認すればいいわ」保は険しい顔のまま、博幸に監視映像を確認させた。映像を待つ間、保は遥香の顔を射抜くように見つめ、考えれば考えるほど腹が立ち、拳でシートの背を叩いた。遥香は思わず身をすくめ、やはり一刻も早く保と縁を切るのが正しいと確信した。「俺が怖いのか?」保は彼女の動作を見て、眉をひそめた。「安心しろ、俺は女を殴らない」遥香は冷静に言った。「あなたには私を殴る勇気もないわ」保は嘲るように口元をゆがめた。「おじいさまの寵愛を盾にして、自覚はあるんだな」遥香は白い目を向けた。やがて監視カメラに、病院の産科前で遥香と修矢が揉み合っている姿が映ると、保は不意に映像を切った。保のこめかみがぴくぴくと痙攣した。「子供は修矢の?」そう問われ、遥香はまばたきをしたが、肯定も否定もせず沈黙を守った。しかし彼女が黙っているほど、保の疑念は深まっていく。彼は目を細めて詰問した。「あいつの子を宿しながら、離婚するつもりか?」遥香は核心を避けて答えた。「これは子供とは関係ない」「よくもやったな」保は歯ぎしりしながら遥香をにらみつけ、一語一語、脅すように吐き出した。「俺を騙していたらどうなるか、分かってるな」遥香は無意識に手のひらを握りしめた。鴨下家に真相を公表させるためこの手を使うのは危うい賭けだったが、保から早く離れられるなら後悔はない。ただ、修矢のことは……遥香は唇をかすかに噛み、今は考えないことにした。保は遥香を鋭くにらみつけ、しばらくしてから歯の隙間から絞り出すように言った。「いいだろう。今は妊娠しているから手は出さない。だが、君はまだ俺に一度、彫刻を作る約束を残している。それを忘れるな」「忘れてないわ」遥香は彼を睨み返した。「約束したことは守るつもりよ」「そうであればいいが」保は冷ややかに鼻を鳴らし、ドアを開けた。「さっさと消えろ」遥香はできる限りの速さで車を降りた。たとえ保が紳士らしからぬ態度で山腹に彼女を置き去りにしたとしても、少しも不快には思わなかった。保のような人間とは、距離を置くに限る。保が鴨下家へ戻ると、門の外で彰瑛
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第120話

悪夢よりも恐ろしい名前。遥香は携帯を握る指に力がこもった。「すみません、何か用?」相手は数秒沈黙し、やがて低く言った。「今日は、役所に行く日だ」遥香は呆然とし、額と手のひらに冷や汗が一気ににじんだ。今日は二人の離婚が正式に認められる日だった。「ご苦労様、よく覚えてらしたわね」彼女は自嘲気味にそう言った。彼はこの日を長く待ち望んでいたに違いない。ようやく柚香に正式な立場を与えられる。遥香は目を伏せ、「はい」と言いかけて、慌てて言葉を引っ込めた。いや、今は役所へ行けない。昨日、保に向かって妊娠していると大見得を切ったばかりだ。今日になって離婚だなんて、矛盾にもほどがある。「あの……」遥香はわざと大きく咳払いをして言った。「私、体調が悪くて、今日は調子が優れないの。三年も我慢したんだから、あと一日くらい待てるでしょ」そう言い残し、遥香は慌てて電話を切った。相手に不審を悟られるのが怖かった。心臓は早鐘を打ち、呼吸も速まる。初めての嘘に、遥香は震えが止まらなかった。少なくともあと数日は引き延ばさなければ。保の監視の目が緩むまでは。彼女は再びベッドに潜り込み、頭の中は真っ白だった。尾田家、鴨下家、ハレ・アンティーク――絡まり合ってほどけない糸ばかりだ。ピンポンピンポン——インターホンが鳴り響き、遥香は即座に警戒した。ドアスコープからのぞくと、そこには修矢の姿があった。何のために来たのか。「遥香、ドアを開けろ。具合はどうだ?病院に行く必要はないか?開けないなら鍵屋を呼んで入るぞ」彼は何しに来たの?遥香の心臓は喉まで跳ね上がった。この男は絶対に狂っている。そんなに離婚を急いでいるの?ここまで焦るなんて。ドアの外で修矢はチャイムを鳴らし続けていた。修矢の心は焦りに駆られていた。遥香が他に好きな人をいると知っているからこそ、早く離婚したがって何度も切り出してきたのに、今になって突然行かないと言い出した。重病でなければあり得ない、本当に具合が悪いに違いない。一枚のドアを隔てて、二人はそれぞれ別の思いを抱えていた。「遥香!」修矢の声がさらに大きくなり、ドアを激しく叩いた。遥香にはわかっていた。彼は本気で怒っているのだ。「待って、服を着てないから、すぐに開けるわ」「わかった」遥香の声を聞いて、修矢の心はよ
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