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第112話

Author: ルーシー
沙羅は智也の視線を追い、その先に玲奈と拓海の姿を見つけた。

その瞬間、笑顔を浮かべていた沙羅の口角がわずかに下がった。

周囲には大勢の人がいて、あからさまな反応はできない。

何事もないかのように智也の腕を軽く揺らし、「智也、何を考えていたの?」と問いかける。

智也はようやく我に返り、沙羅に振り返り尋ねた。

「......弾き終わったのか?」

「ええ」

「じゃあ、帰ろう」

そう言って足を踏み出そうとしたが、沙羅が慌てて腕をつかむ。

「智也、まだ撮影があるわ」

智也は数秒沈黙してから頷いた。

「ああ」

会もここまでくれば、進行はほぼ終盤に差しかかっていた。

一方、玲奈と拓海は料理の並ぶテーブルで軽食をつまみ、ワインを飲んでいた。

時折、拓海の商売仲間がグラスを手に挨拶に訪れる。

智也のほうも同じように、人々が入れ替わり立ち替わり声をかけていた。

やがて会も終わりに近づき、主催者から最後の記念撮影が告げられる。

被写体になるのは、もちろん顔の利く有力者たち。智也も拓海もその中に名を連ねていた。

撮影時の立ち位置は、拓海と玲奈が中央――いわゆるCポジションに配置された。

地位や肩書きではなく、今夜の拓海の大きな出費が理由だった。

そしてその隣が、智也と沙羅。

本来は拓海がその場所に立つはずだったが、彼はそこを玲奈に譲る。

結果、玲奈の隣には智也が並ぶことになった。

今夜初めて、二人の距離がこんなにも近くなった。

手と手が触れそうなほどの距離――智也の鼻に、玲奈の淡いボディソープの香りがふわりと届いた。

やわらかいその香りに、彼は思わず惹きつけられる。

しかし撮影はすぐに終わり、会場の人は次々と退出していく。

玲奈も帰るつもりでいたが、拓海が行く手を阻む。

「ベイビー、送っていくよ」

笑みを浮かべ、本心か冗談か判別のつかない声のトーンだった。

その時、不意に智也が歩み寄ってくる。

「宮下から電話だ。愛莉が少し風邪気味で、お前に会いたいって騒いでる」

その言葉に、玲奈は表情を変えた。

「......分かった、すぐ帰る」

そう答えてから、拓海の方を見た。

「須賀さん、娘の様子を見に行かないと。今日はここで失礼するわ」

そう言い終えると、スカートの裾を持ち上げて足早に会場を出た。

拓海も慌てて追い、「ベイビー
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