LOGIN病室の前の廊下で、玲奈は長椅子に座っていた。雅子は病室の入口に立ったまま、落ち着かない様子で中を窺っている。今夜は妙に静かだった。いつもの嫌味も、ねじれた言い方もない。ただ、何かを怯えるような顔をしている。玲奈は首をかしげた。面倒くさくて話す気がないだけなのか。そう思いかけた、そのとき——病室の中から、沙羅の声が聞こえた。「愛莉が......いなくなったの......」その言葉を聞いた瞬間、玲奈の体が硬直した。頭で理解するより先に、身体が動いた。玲奈は病室へ駆け込むと、智也が目の前にいようが構わず、沙羅を睨みつけて荒い声で詰め寄った。「愛莉はあなたのところに付き添ってたんでしょ?どうしていなくなるなんてことが起きるの!」沙羅も今は体裁を取り繕う余裕がない。必死に言い訳するように答えた。「愛莉が、自分で言い出したの。果物を買ってくるって。私は止めたのに......でも、どうしても行くって聞かなくて。それで出ていってから、戻ってこなくて......」玲奈の声は冷えきっていた。「いつからいないの?」沙羅は目を伏せ、言葉を探す。それが誤魔化しだと分かって、玲奈の苛立ちはさらに跳ね上がった。「沙羅。嘘つかないで。正直に言って」追い詰められた沙羅は、ようやく口を割った。「......三......いえ、一時間前」だが、その一時間すら短く見せた数字だった。愛莉が病室を出てから、実際にはもう何時間も経っている。玲奈がさらに鋭い視線を向けると、沙羅は声を震わせながら訂正した。「ごめん。三時間......前」三時間。玲奈の中で何かが切れた。「三時間......?」顔から血の気が引き、逆に目だけが赤く燃える。母親として、今この瞬間、何だってできる気がした。玲奈は沙羅に顔を近づけ、低い声で言い切った。「沙羅。もし愛莉に何かあったら......私は絶対にあなたを許さない」その言葉は脅しではなく、誓いだった。智也はベッド脇に座ったまま、同じように顔色を変えていたが、沙羅に向かっては何も言わなかった。けれど玲奈は、智也も同罪だと切り捨てる。玲奈は振り返り、智也を睨んだ。「智也、あなたも同じ。愛莉に何かあったら.
雅子は、沙羅が汗だくで取り乱しているのを見て、ようやく事の重大さに気づいた。そもそも雅子は愛莉が好きではなかったから、沙羅が「出ていったきり戻らない」と言っても、最初は大して気にしていなかった。だが、もう夜の十時を回りかけている。――まさか、本当に何かあったのでは?ここに来て、雅子も顔色を変えた。沙羅に頼まれるまま、雅子は慌ただしく病院を飛び出した。ところが二十分ほどして、雅子は汗だくで病室へ駆け戻ってきた。しかも、ひとりで。愛莉がいないのを見た瞬間、沙羅の喉元に引っかかっていた不安が、一気にせり上がる。「お母さん......どう?まだ見つからないの?」沙羅はベッドの背もたれに寄りかかり、青い顔で問いかけた。雅子はコップを掴むと、水を二口、がぶ飲みしてから首を振る。「......うん。病院中探したけど、どこにもいない」沙羅は焦りで額を叩き、声を震わせた。「まさか、本当に何かあったんじゃ......愛莉に何かあったって分かったら、智也は私を許さない......結婚の話だって、なくなる......!」沙羅の怯えきった様子に、雅子はたまらず抱き寄せ、背中をさすって宥めた。「沙羅、あなたのせいじゃない。愛莉はあの二人の子なんだから、親が面倒を見るのが筋でしょ。それにあなたは足を怪我してる。病人が、別の世話される側まで見るなんて無理よ」そう言われても、沙羅の不安は消えない。「でも......あの子、私を看病するって言って残ったんだよ。だから......」雅子は冷たい顔で遮った。「看病?笑わせないで。あの子は、いないほうがよっぽど迷惑がない」沙羅はなおも落ち着かず、必死に頼み込む。「お願い、お母さん......もう一度探して。お願い」雅子は断りかけたが、沙羅の必死さに押され、渋々うなずいた。「......分かった」立ち上がって病室のドアへ向かい、取っ手に手をかけた、その瞬間。扉を開けた雅子は、外から入ってきた智也とぶつかりそうになった。智也は反射的に身を引き、雅子はよろめきながらも体勢を立て直す。相手が智也だと分かった途端、雅子は明らかに動揺した。それでも声を絞り出す。「......智也なのね」智也は、目を泳がせ
玲奈が「愛莉を迎えに行こう」と自分から言い出したのを聞き、智也の顔には笑みが浮かんだ。そして嬉しそうに言った。「やっぱり、母親のお前は気が利くな」その言葉が、玲奈の胸をちくりと刺した。——笑いたくなる。かつて智也は、彼女に「お前は母親に向いていない」と言い放ったのに。真実と嘘が混ざり合う言葉の中で、いったいどれが本音なのか。玲奈は何も返さなかった。返事がないことなど気にした様子もなく、智也はそのまま勝との通話を続ける。一方、玲奈のスマホにはラインの未読が十件以上溜まっていた。開くと、拓海からの連投だった。【玲奈、お前がクズだ】【クズ、クズ。お前はクズだ】【聞いてんのか?】【とぼけんな】【智也の前にいるからって返さないつもりか?今すぐ小燕邸に乗り込んでやるぞ】【?】【返事しろ。返さないと本気で怒る】【もう一度言う。あいつに触らせるな。離婚のために我慢してるって言っても、俺はもう認めない】【聞いてんのか?】そのあとも拓海は何度か電話をかけてきた。玲奈はマナーモードにしていたため、智也は気づかない。着信をいくつか切ってから、玲奈はようやくメッセージを返した。【分かった。もう送らないで】拓海は即レスする。【さっき何してた?】玲奈は短く返す。【何もしてない】拓海は釘を刺してきた。【いいか、言うこと聞けよ。智也のあのクソ野郎に触らせるな】玲奈が【うん】とだけ返した、その瞬間。智也がふいに顔を寄せてきた。気配を感じ、玲奈は慌てて画面を消した。こそこそした様子から、智也は誰かとやり取りしているのだと察した。相手が拓海かどうかは、確信できない。だが智也は怒らなかった。むしろ、にやりと笑って玲奈の目を覗き込む。「そんなに顔赤くして。......また俺に隠し事か?」玲奈は顔を背け、答えない。智也もそれ以上は迫らなかった。少し考えたあと、今度は沙羅に電話をかける。向こうはほとんど秒で出た。沙羅の弾む声が響く。「智也?病院に来てくれるの?」智也は淡々と答える。「ああ」そしてすぐ、付け足した。「それと、愛莉に支度させておけ。俺が連れて帰る。明日も幼稚園だろ」沙羅
結婚してから今日まで、祖父の前で仲のいい夫婦を演じるとき以外、智也が玲奈をこんなふうに呼んだことはなかった。その「玲奈」という一言を耳にした瞬間、玲奈の胸はずしんと重く沈んだ。拓海もその呼び方を聞いて、顔色が一気に陰った。次の瞬間、彼は智也に向かって大声で怒鳴りつける。「智也!気持ち悪ぃんだよ!」智也は拓海の焦った声を聞いても、聞こえなかったみたいに振る舞った。顎を上げ、玲奈を連れて傲然とその場を去っていく。その姿はまるで、勝ち戦でも終えたみたいだった。得意げな表情が、やけに腹立たしいほどに映る。玲奈が階段を下りながら、横目で拓海を見た。怒っている。苛立っている。けれど、拓海は動かなかった。玲奈は胸の奥がちくりと痛み、申し訳なさが込み上げた。口を開きかけたが、隣に智也がいると思うと、結局なにも言えなかった。智也に引かれるまま車へ向かい、後部座席に乗せられる直前、玲奈はもう一度、拓海のいた場所を振り返った。拓海もこちらへ顔を向け、深い視線で見返してくる。視線がぶつかった、その一瞬――拓海が玲奈に向けて、ウィンクした。たったそれだけで、玲奈の心臓が一拍、抜け落ちた気がした。拓海は顔もいい。背も高い。金もある。何より、女の心をくすぐるやり方を知っている。玲奈でさえ、あの仕草に簡単に揺さぶられてしまう。智也は酒を飲んでいたため、代行運転を呼んでいた。だから二人とも後部座席へ座った。智也が乗り込むとき、身体を寄せて玲奈を覆い、空気の中で交わっていた視線を遮った。ほどなく車は走り出す。智也は横目で玲奈を見た。彼女の顔に波風がないのが、かえって胸に刺さる。自分は勝ったつもりでも、玲奈の心は動いていない――そんなふうに見えたからだ。そのとき、智也のスマホが鳴った。勝からの電話だ。智也は通話に出ると、玲奈に意識を向けなくなった。同時に、玲奈のスマホにもラインの通知が入った。画面を見ると、拓海からだった。開くと、メッセージが表示された。【玲奈。今夜は早く帰ってこい。一緒に寝たい】玲奈の胸が、どくんと二度跳ねた。だが、彼女はすぐに打ち込み返す。【沙羅は病院にいるわ】拓海からの返信はすぐだった。【?】玲奈はは
智也は玲奈の言葉を聞き、胸の奥がじわじわと酸っぱくなった。だが、結局は力なく説明するしかなかった。「俺が洋に話したのは、先に知っておいてほしかったからだ。全部知った上で、それでも心晴にちゃんと向き合うっていうなら、俺はもう止めない。ただ......こういうことは、隠したままじゃいけない」玲奈は視線を逸らし、智也の言葉には答えなかった。どう返せばいいかも分からないし、正しいか間違っているかを評する気にもなれない。玲奈自身、智也の言葉が正しいのかどうか、判断できなかった。智也は玲奈の手を強く握り直し、言う。「洋には時間をやれ。自分でちゃんと考えさせたい」玲奈は小さく「うん」とだけ返し、足を進めて店の外へ向かった。智也も追い、二人は並んで回転扉を抜ける。店を出たその瞬間、玲奈は顔を上げ、階段の下から大股で上がってくる人物を見た。拓海――そしてその隣には、一人の女がいた。朱里だ。拓海と朱里も、玲奈たちに気づいた。智也も階段下へ視線を落とし、次の瞬間、玲奈の手をさらに強く握り締めた。その強引さは、どう見ても彼女は自分のものだという誇示だった。拓海の顔は、智也が玲奈の手を握っているのを見た途端に陰った。だがそのとき、朱里がふいに距離を詰め、拓海の腕に絡みついた。拓海はその気配を感じると、すぐに腕を彼女の抱え込みから抜き取った。そして、にやりともしない笑みを浮かべながら、朱里の明るく整った顔を見下ろして言う。「俺から離れてろ。俺の大切な人に見られたら、嫉妬される」わざと声量を上げた。玲奈と智也に聞かせるためなのは、誰の目にも明らかだった。朱里は面子を潰されたように、顔を真っ赤にした。拓海は視線を外さず、容赦なく続ける。「お前は俺の秘書だ。一線を越えるな。越えたら、お前のおじさん相手でも俺は遠慮しない」どのみち拓海の立場は、三浦家より上だ。面子を立てるかどうかは、拓海次第だった。朱里は拓海を見つめたまま、彼の目に宿る凶さに呑まれ、身体が小さく震えた。それ以上、言葉が出ない。だが次の瞬間、拓海は急に笑った。「......怖くなった?」朱里は首を振る。勇気をかき集めて拓海を見上げ、言い切った。「怖くない」そうだ。怖くない
ケーキを配り終えると、洋は玲奈をちらりと見た。それから立ち上がり、玲奈の右隣に座っていた人物に席を替わってほしいと頼んだ。玲奈の左隣には、智也が座っている。洋の行動に、玲奈は少し戸惑った。洋は座るなり身を乗り出し、声を潜めて玲奈に尋ねた。「玲奈さん、心晴さんは。最近何してるの?グルメ動画も、更新が止まってるみたいで」洋が急に心晴の名を出したので、玲奈は頭が真っ白になった。一方、洋の様子をずっと気にしていた智也は、その言葉を聞いた瞬間、眉間をきつく寄せて洋を見た。智也の表情が張り詰めたのを見て、洋は慌てて笑い、説明する。「そうだ、智也。彼女の仲のいい友達の心晴さんって、前に俺が話しただろ。俺が気になってる子だよ」洋があまりに堂々としているので、智也は思わず目を見開いた。そして次の瞬間、玲奈が振り返り、疑うように智也を見た。周囲が緊張した空気になるのを感じ、洋は訳が分からず口にした。「......どうしたんだ?」智也は玲奈を一度見てから、洋に言った。「お前とは合わない」たった一言だが、智也の態度は明確だった。それを聞いた玲奈は、胸に重いものが落ちたように感じた。理屈では、智也が友人のために言っているのだと分かっている。それでも玲奈は、智也が薄情な男だと思わずにはいられなかった。洋は何が起きたのか分からないまま、笑って智也に言う。「智也、合わないとかないだろ。俺たちは商売人で、心晴さんはネットで活動してる子だけど、俺はあの子がいい。特に、あの子が口が悪いとき、あれがすげえカッコいいんだ。率直なところも好きだし、ストレートなところも好きなんだよ」智也の表情はますます硬くなった。智也は立ち上がり、洋に言った。「来い。外で話す」手の傷には、紙がもう皮膚に貼りついている。それでも智也は気にも留めず、真剣な顔で洋を連れ出した。洋は首をかしげながらも立ち上がり、智也のあとを追って包厢を出た。二人が出ていくと、玲奈は俯いた。急に目の奥が熱くなり、込み上げるものを抑えきれなくなった。その胸の酸っぱさは、自分のためでもあり、心晴のためでもあった。智也と一緒に過ごしてきた年月の中で、玲奈は洋を「いい人」だと思っていた。妙な男女関係もな
薫がその送られてきた動画を受け取った頃、智也と洋がちょうど目の前でプロジェクトの話をしていた。その動画を見終わると、薫は驚いた様子で智也のほうへ目を向けた。視線を感じて智也は薫のほうへ向いて尋ねた。「どうした?」薫は立ち上がり、智也と洋の真ん中に割って入って腰をおろした。それと同時に、薫はその動画を智也に見せた。智也は携帯のほうへ視線を落とし、その動画を見ている時、薫はどうも訳が分からないといった様子で尋ねた。「智也、お前、彼女をベッドで満足させてやっていないのか?この女、同時に二人も探しに行ってんぞ」智也はその動画を見終わった後、何も感じていないかのように表情は変えて
拓海はいつもこのように軽い感じだった。玲奈がすでに結婚して子供もいる女性であるのに、誘うような言葉をかけてくるのだ。彼なら雌であれば他の動物にでも、思わず口笛を吹いて声をかけるかもしれない。このようなタイプの男だから、その口から出てくる言葉など信じられるだろうか。しかし、今は拓海の人となりがどうであれ、昔彼女を助けてくれた事実には嘘偽りなどないのだ。その恩を玲奈はずっと忘れていない。彼女の車の隅のほうに縮こまり、拓海が山のように彼女の体に覆いかぶさっていた。彼の容姿はかなり良いのに、道徳的にどうかと思うようなことをしてくるのだ。この頼りない男を前にして玲奈は思っ
拓海の言葉に、玲奈は首を横に振った。「......ないわ」その態度はどこかよそよそしく、機嫌の悪さが隠しきれていない。拓海は理由を察していた。智也と沙羅がすぐそばにいるからだ。彼は身を寄せ、声をひそめて囁く。「ベイビー、上と下、どっちが好き?」玲奈は思わず背筋を伸ばし、真っ赤になって拓海を見た。「あんた......」拓海は姿勢を戻し、笑みを浮かべる。「ほら、また変なふうに考えてる」真面目な口調でそう言われ、玲奈はやっとほっとした。ところが次の瞬間、拓海がぐっと顔を寄せ、唇が頬をかすめるほどの距離で囁く。「で、ベイビーは上と下、どっちが好きなん
「何を取られるのが怖いというんだ、どう見ても俺たちに紹介したくないだけじゃないか」「そうそう。須賀さんって昔からそうだよな」声をかけてきたのは、拓海と取引のある顔なじみばかりだ。冗談交じりのやり取りも、許される関係だった。しかし拓海は、彼らの冗談を受け流さず、玲奈を背後から自分の隣へ引き寄せ、堂々と紹介した。「この人はな......特別だ。俺の大切な人だ」その言葉に、周囲の男たちは「はいはい」と言わんばかりに笑みを浮かべる。拓海が女性を連れているときは、誰に対しても「大切な人」と呼ぶのは有名な話だ。彼らは何度も同じ台詞を聞いており、驚きもしない。玲奈も拓海の