All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話

その日の午後――勤務を終えて病院を出た玲奈は、ちょうど昴輝と出くわした。どうやら彼は、あらかじめ彼女を待っていたらしい。彼女の姿を見つけると、穏やかな笑みがふわりと浮かんだ。玲奈が近づくと、昴輝は控えめに声をかける。「今夜、同窓会があるんだ。一緒に行かないか?」玲奈は一瞬ためらった。頭に浮かんだのは、まだ入院中の邦夫のこと。今の状況では、とても気楽に出かける気分にはなれない。断ろうと口を開きかけた、その時――背後から智也の低い声が響いた。「玲奈。じいちゃんが、もう俺たちを待ってる」振り向くと、病院の駐車場に智也の車が停まっていた。運転席の窓を下げ、彼はそこから顔を出していた。降りてくる気配もなく、ただ冷静な口調でそう告げる。玲奈は目を伏せ、昴輝に向き直る。「ごめんなさい、先輩。今日はどうしても外せない用事があるの。また今度、機会があったら誘って」昴輝はいつもの穏やかな笑みを保ったまま、静かにうなずいた。「そうか......じゃあ、また今度」落胆の色を隠しながらも、無理に引き留めることはなかった。玲奈は小さく手を振って別れを告げ、智也の車に乗り込んだ。彼女はいつものように、助手席ではなく後部座席に座る。その様子を見送る昴輝の口元には、どこか寂しげな笑みが浮かんでいた。邦夫が入院しているのは、玲奈の勤める病院ではなかった。久我山でも最も設備の整った総合病院――そこへ向かうには、ここから三十分以上かかる。車内には重い沈黙が落ちていた。玲奈は窓の外を見つめ、智也もまた口を開かない。代わりに、彼はスマホを手に取り、上の方に固定されたトークをタップした。画面には、名前の代わりにキスの絵文字だけ。そのアイコンを選び、ビデオ通話をかける。ほどなくして、画面の向こうに沙羅の顔が映った。「智也?どうしたの?」彼は片手でハンドルを握りながら、ちらりと画面を見て言った。「少し愛莉の顔が見たくなって」沙羅の表情がぱっと明るくなり、柔らかな声に変わる。「愛莉、こっちにおいで。パパが見たいって」電話越しに、弾むような声が返ってくる。「やった!今行くー!」その無邪気な声を聞くだけで、玲奈の胸が締めつけられた。沙羅
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第292話

「ララちゃん、先生が言ってたの。来週末に秋の遠足があるんだって!一緒に行ってくれる?」「雅子おばあちゃん、お水飲む?愛莉が入れてあげる!」――電話の向こうからは、笑い声と弾むような会話が途切れることなく聞こえてきた。穏やかで温かい家庭の風景。まるで一枚の絵のように、音だけで幸福が伝わってくる。智也は運転しながらも、時折会話に加わっていた。彼の身体は車の中にあっても、心は完全に小燕邸の家族のもとにあるようだった。その声の端々には、楽しげな柔らかささえ混じっている。後部座席の玲奈は、できるだけ身体を小さくして座っていた。まるで自分の存在が見えなくなることを願うように。ビデオ越しに沙羅が自分の姿を見てしまうのが、たまらなく怖かった。――自分こそが、智也の妻であり、愛莉の母親なのに。それなのに、今この瞬間、まるで余計な人間のように感じてしまう。車窓の外を流れる木々の影を、彼女はただ数えていた。ひとつ、ふたつ、みっつ......でもすぐに、どこまで数えたのか分からなくなった。そのくらい、胸の奥は混乱していた。ようやく車が停まり、智也は沙羅に二言三言、短く言葉を交わしたあと通話を切った。お見舞いに行く前に、玲奈は花屋へ立ち寄り、淡い色の花束を選んだ。さらに、季節の果物を詰めた大きなバスケットも買った。けれどそれが思った以上に重く、持ち上げると手が震えた。それを見た智也が、当然のように歩み寄って言った。「俺が持つ」玲奈は抵抗せず、静かに手を離す。バスケットは智也の手に渡り、彼女の腕の中には花束だけが残った。二人は並んで病院へと向かう。ただ並んで歩いているだけなのに、どこかぎこちない距離があった。病室の前に着くと、中にはすでに多くの人が集まっていた。実、美由紀、薫、洋――そして邦夫の古い友人たち。VIP病室の広い空間でも、息苦しさを覚えるほどの熱気が漂っていた。玲奈と智也が入ってくると、一斉に視線が二人へと注がれた。邦夫は、彼女たちに気づくと穏やかな笑みを浮かべ、手を伸ばした。「おいで、玲奈さん。こっちへ来て、私のそばに座りなさい」玲奈は花束を持ったまま、静かに歩み寄った。花を花瓶に挿し終えると、柔らかく言う。「おじいさん、
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第293話

玲奈にはすぐに分かった。薫がこんなふうに噛みついてくるのは、沙羅のために正義感を振りかざしているつもりなのだ、と。だから、彼女の声には軽蔑が滲んだ。「――面白くもなんともないわ」薫の眉がわずかに動く。その眼差しには、興味と嘲りが混じっていた。彼の記憶の中の玲奈は、いつも控えめで従順な女。なのに今、彼女は真っ直ぐに目を合わせ、怯む気配すらない。薫は一歩、また一歩と近づいた。その大きな影が、玲奈の全身を覆い隠す。あからさまな圧力の中で、彼は真正面から問い詰めた。「智也がずっと愛してるのは沙羅だ。おまえはまだその妻の座にしがみつくつもりか?」玲奈は一歩も退かなかった。まっすぐに見上げて、きっぱりと言い返す。「譲る気なんてない。――それがどうしたの?」その毅然とした態度に、薫は鼻で笑った。乾いた笑いが二度、三度、廊下に響く。だが次の瞬間、笑みはすっと消えた。冷たい声が落ちた。「やっぱりおまえら春日部の女は下品だな。あの義理の姉と同じで、骨の髄まで卑しい」その一言で、玲奈の胸の奥が爆ぜた。怒りが血管の奥で弾け、声が震える。「......今、なんて言った?」薫は両手をポケットに突っ込み、見下ろすように言い放つ。「聞こえなかったか?おまえも、おまえの義理の姉も同じだ。下劣な女だよ」言い終える前に、乾いた音が響いた。玲奈の掌が彼の頬を強く打っていた。「――黙りなさい!」薫の顔が横に弾かれる。舌で腫れた頬の内側を押しながら、口の端から血が一筋流れ落ちた。玲奈の手のひらは痺れていた。全力で叩いた証拠だった。「私を侮辱するのは勝手にすればいい。でも、お義姉さんのことだけは絶対に許さない。あなたなんかに、彼女を貶める資格はないわ」薫はゆっくりと指先で血をぬぐい、それを見つめると、ふっと笑い出した。「――下品じゃない?じゃあ言ってみろ。おまえのその義理の姉は、俺の前で裸になって、自分から俺を誘ったんだぜ?」その下卑た笑みとともに、声が低く湿った廊下に落ちていく。玲奈の顔が凍りついた。「そんなはずない。彼女はそんな人じゃない」「はっ。信じるかどうかはおまえの勝手だ」薫の口元がゆがむ。さらに彼は
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第294話

玲奈は、智也が帰宅するのは沙羅と愛莉のもとだと分かっていた。だが、その事実をどう言葉にすればいいのか分からなかった。喉まで込み上げた思いを飲み込もうとした瞬間、通話は「通話中」に変わり、切れてしまった。彼女はもうかけ直さなかった。ただ静かにスマホを閉じ、鏡の前で身なりを整える。傍から見ても問題がないことを確かめると、ようやく病院をあとにした。自宅に戻ると、リビングの灯りがまだ点いていた。綾乃がソファに腰かけており、まるで誰かを待っているようだった。薫の吐いたあの下劣な言葉が頭をよぎり、玲奈の胸が痛む。――綾乃がそんな人のはずがない。彼女は信じていた。扉の前で深呼吸をしてから、玲奈は中に入った。綾乃が顔を上げ、柔らかく笑う。「玲奈ちゃん、帰ったのね」「綾乃さん、もう遅いのに、どうしてまだ起きてるの?」今夜の綾乃は外出用の服を着ていた。いつもならこの時間にはすでに入浴を済ませ、就寝準備をしているはずだ。「秋良がまだ会社で残業なの。だからちょっと様子を見に行こうと思ってね。今夜は帰りが遅くなるかもしれないから、明日の朝、陽葵を保育園に送ってくれる?」「こんな時間に?私も一緒に行くよ」玲奈は不安げに言った。綾乃は笑いながら手を伸ばし、彼女の頬を軽く撫でる。「大丈夫、一人で行くわ。陽葵が目を覚まして私たちがいなかったら、泣いちゃうもの」「でも......」「心配しないで。もう行くから、あなたは上に上がって顔を洗って、陽葵のそばにいてあげて」穏やかな声でそう言われ、玲奈もそれ以上は言えなかった。綾乃がリビングを出て行ったあと、玲奈はしばらくその場に立ち尽くしたが、どうにも胸騒ぎがおさまらず、急いで後を追った。玄関に出たとき、綾乃はすでに車に乗り込むところだった。運転席には見覚えのある顔――薫の助手だった。車が発進する。ヘッドライトの光が闇を切り裂くのを見送りながら、玲奈は立ち尽くした。――どうして薫の部下の車に?本当にあの男の言ったことが......?いや、そんなはずはない。綾乃さんがあんな人のはずがない。落ち着かない胸を抱えたまま、玲奈は兄に電話をかけた。「兄さん、今夜は帰ってくる?」少し間を置いて、秋良の低い声が
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第295話

位置情報を受け取った玲奈はすぐに返信した。【分かった。綾乃さんの様子、しばらく見張ってて。すぐ向かうから】送信ボタンを押すや否や、ドライヤーの途中だった髪もそのまま、上着をつかんで部屋を飛び出した。車を走らせ、現場に着くまで二十分。店の前で待っていた心晴が、彼女の車を見つけて駆け寄ってきた。「こっちよ!」二人は並んで店内に入り、心晴が指さした先――福乃苑と書かれた個室を示した。「お義姉さんは、あの中よ」玲奈は深く息を吸い、拳で扉を叩いた。中から低い男の声がした。「追加の料理はいらない」すぐに薫の声が続く。「明人、もう酔い潰れてる。さあ、連れて行けよ。せっかくのチャンスだ、こんな女を逃す手はないだろ?」別の男の声が応じた。「分かった。じゃあ、もらっていく」そのやり取りを聞いた瞬間、玲奈の全身が凍りついた。何をしようとしているのか、すぐに分かった。考えるより早く、彼女の足が動いた。ドンッと鈍い音を立てて扉が蹴り開かれる。中の男たちが一斉に振り向き、驚きと怒りが入り混じった視線が玲奈に突き刺さる。彼女の目に映ったのは、テーブルに突っ伏した綾乃、そして彼女の身体に手を伸ばそうとしていた男。部屋には薫と、見知らぬ男の二人。男が眉をひそめて怒鳴る。「なんだおまえ、死にたいのか?」玲奈の手には護身用のナイフ。震えひとつせず刃先を男に向けた。「お義姉さんに、指一本でも触れたら殺すわ」男の目に好奇の色が宿り、舐めるような視線を向ける。そのとき薫が苛立ちを隠さず吐き捨てた。「玲奈、おまえは本当にどうしようもない女だな。人の邪魔しかできないのか?」玲奈は怯まず、テーブルの皿を掴んで投げつけた。ガシャンと割れる音が響く。「薫、ふざけないで!お義姉さんに酒を飲ませて、その隙に誰かに連れて行かせるつもりだったの?そんなこと、絶対にさせない!」そこへ心晴も部屋に飛び込んできた。玲奈の隣に立ち、冷然と言い放つ。「警察にはもう通報済みよ。言い訳があるなら、署でどうぞ」その言葉を聞いた途端、薫と男の顔色が変わった。二人は一瞬視線を交わし、無言で立ち上がって部屋を出る。去り際に薫は玲奈を冷たく一瞥し、もう一人の男が笑み
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第296話

彼の言葉はあまりに率直で、つまり、明人が好きなように動くことを黙認したという意味だった。……春日部家へ戻る車の中。ハンドルを握るのは心晴、後部座席では玲奈が座り、綾乃はその膝に頭を預けていた。道中ずっと、綾乃はうわごとのように手を振り回し、ときおり口からいくつかの言葉をこぼした。「高井社長、高井グループの資金はずっと私たちの金融プラットフォームを通して流れてきたんです。これまで何のトラブルもなく、技術も万全です。どうか契約を切らないでください、お願いです」「高井社長、冗談はやめてください。私には夫がいます。既婚の身で、どうしてあなたと寝るなんて......私なんか、あなたに仕える資格もありません」「深津さん、私、どこであなたを怒らせてしまったのでしょうか?教えてください。ちゃんと改めますから......」綾乃の口からあふれる錯乱した言葉の断片をつなぎ合わせ、玲奈はようやくすべての事情を理解した。春日部家は金融業を営み、大企業との取引があってこそ収益を得てきた。だが、長年の取引先であった薫が突然契約を打ち切り、会社は資金難に陥ったのだ。綾乃はその危機を救おうと、一人で薫のもとへ直談判に出向いた。玲奈には分かっていた。綾乃はきっと頭を下げ、必死に頼み込んだのだろうと。だが、薫の口にした言葉は、明らかに作り話だった。この家のために、綾乃はどれほどの犠牲を払ってきたか。たった一縷の望みにすがり、自分の身を顧みず向かったのだ。そのことを思うと、玲奈の目に熱い涙がこみ上げ、頬を伝ってこぼれ落ちた。綾乃を自室に運び、玲奈は片時も離れずに看病を続けた。手を拭き、身体を拭き、着替えをさせ、綾乃は二度も吐いた。ようやく落ち着いたころ、深い眠りに落ちていった。玲奈はそのまま傍らで見守り、夜半を過ぎたころ、綾乃がゆっくりと目を覚ました。目覚めて最初にしたことは、自分の体を確かめることだった。服が替えられているのに気づくと、彼女は反射的に自分の頬を打った。その音に驚き、玲奈は慌てて手を掴む。「お義姉さん、違うの。私が着替えさせたの。大丈夫、何もされてないわ」玲奈の声を聞いた瞬間、綾乃の喉元までせり上がっていた恐怖が、ようやく静まっていった。玲奈はそっ
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第297話

病院の前。夜の退勤ラッシュはまだ終わっておらず、車の列が途切れることなく流れていた。玲奈と智也は並んで歩道に立ち、人の往来とざわめきに包まれていた。街灯の光はやや暗く、二人の顔に橙色の薄い光が落ちている。玲奈は智也を見つめ、その返事を待っていた。──きっと、断られるだろう。そう思っていた。なぜなら、あの日のあとで心晴が彼女に教えてくれたのだ。綾乃に酒を飲ませたあの夜、薫と一緒にいた男は――沙羅の実の兄、明人だったのだと。その夜の出来事がどうであれ、明人にとっては、玲奈が「邪魔をした女」に違いない。しかも、明人は沙羅の兄。そして、智也はその沙羅を心から愛している。そんな複雑な関係の中で、彼が自分に手を貸してくれるはずがない。けれど玲奈は、綾乃が取引のために頭を下げる姿も、兄の秋良が徹夜続きで働き続ける姿も、もう見たくなかった。だからこそ、今日こうして彼に頼んだのだ。智也は少しのあいだ考え込んだようだったが、やがて静かに口を開いた。「いいだろう」玲奈は思わず息を呑んだ。まさか、承諾してくれるとは思っていなかった。「......どうして?」驚きのまま問い返すと、智也は淡々と答えた。「お前のお兄さんの会社は悪くない。検討する価値はある。双方にとって利益になる話だろう?」玲奈は眉をひそめた。「でも......明人も最近、同じように提携先を探しているはずよ」智也が沙羅をどれほど大切に思っているかを考えれば、彼女の兄に便宜を図る方を選ぶはず。そう思っていたのに、意外にも違った。智也は彼女の意図を察し、かすかに笑みを浮かべて言った。「言いたいことは分かってる。沙羅の兄が始めた金融会社のことは調べた。まだ立ち上げたばかりで、安定していない。お前が頼まなくても、あそこを選ぶつもりはなかった。それに──彼女はそんなことで怒ったりしない。俺を信じてくれているし、何より、いつだって俺を最優先に考えてくれる」一拍置いて、彼は続けた。「彼の会社がきちんと軌道に乗ったら、その時に別の案件で協力すればいい」玲奈はその言葉を聞き、何も言えなかった。智也の口から語られる沙羅への信頼と愛情に、胸の奥がひどく冷たくなった。「......分かったわ」そ
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第298話

もし新しい案件が見つからなければ、春日部グループのフィナンシャルは、そう長くはもたないだろう。電話の向こうで、勝はまだ何か言おうとしていた。だが、秋良はそれを遮り、そのまま通話を切った。無機質な切断音が室内に響く。玲奈は思わず口を開きかけたが、秋良が顔を上げ、先に言葉を放った。「もう新しい取引先は見つけてある。大手じゃないが、基盤を支えるには十分だ」そして、静かに続けた。「お前と智也は、もうすぐ離婚するんだろう。会社が危機にあるのは事実だが、だからといって、お前が身を屈してまで智也と取引する必要はない。あいつが手を差し伸べてきたのは、うちの会社の実力を認めたからじゃない」玲奈は黙って俯いた。秋良はそれ以上何も言わず、笑みを浮かべて口調を和らげた。「さあ、食べよう。この二日間のことは、もう終わったことだ」玲奈は兄を見つめた。それでも気がかりで、「兄さん、どこと契約したの?」と尋ねた。秋良は箸を動かしながら答えた。「宇宙関連の会社だ。規模は中くらいだが、これでしばらくは持ち直せる」「じゃあ、この二日間、ずっとその話で動いてたのね?」「ああ」短く答える兄の声。その隣でずっと黙っていた綾乃が、その言葉を聞いた瞬間、ふいに目を赤くし、涙をこぼした。「どうした?」秋良がティッシュを差し出すと、綾乃は首を振り、震える声で言った。「......なんでもないの。ただね、あなたに嫁いでよかったって、心から思っただけよ」秋良は彼女を抱き寄せ、穏やかにささやいた。「俺だって、お前を妻にできたことが、いちばんの誇りだ」こうして春日部家の危機は、ようやくひと息ついた。玲奈の胸の奥にあった重い石も、少しだけ軽くなった。そのころ、羽生家の邸宅。珍しく、仲間たちが全員そろっていた。真言はすでに寝室におり、リビングに残っているのは、颯真、拓海、明の三人だけだった。テーブルの上には赤ワインのボトルと三つのグラス。明は窓際で電話をしており、拓海はソファに沈み込み、颯真は背筋を伸ばして静かに座っていた。ガラス越しに、窓の向こうで話す明の姿が映っている。やがて電話が終わり、彼はグラスを持つ二人のもとへ戻ってきた。拓海が身を起こし、焦ったように尋ねる。「
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第299話

翌日の夕暮れ。玲奈が仕事を終えて外に出ると、またしても智也が迎えに来ていた。だが今回は、車の中ではなく――屋外駐車場で、ボンネットに背を預け、煙草をくゆらせていた。遠くからでも、その姿はすぐにわかった。玲奈はまっすぐ彼のもとへ歩いていき、そのまま車に乗り込もうとした。けれど智也が後部座席のドアを押さえ、低い声で言った。「前に座れ」玲奈は顔を向け、薄い煙に包まれた彼の表情を見つめた。強い煙草の匂いの中に、かすかに異性の香水の香りが混じっている――間違いなく、沙羅の香りだった。玲奈は一歩、後ずさる。手で煙を払いながら、冷えた声で言った。「離れて。あなたの匂い、気持ち悪いわ」智也は眉をひそめ、自分のシャツの襟元を嗅いでから、不思議そうに首を傾げた。「悪くない匂いだろ?どうして気持ち悪いんだ?」玲奈はもう、何も言う気になれなかった。彼の中では、沙羅の匂いが「香り」で、自分の不快感など取るに足らない。――もう、言い争うだけ無駄だ。そう思い、彼女は後部座席に乗り込んだ。智也は仕方なく運転席に戻り、邦夫が待っていることを思い出して、エンジンをかけた。だが走り出してからずっと、彼は窓を全開にしたままだった。冷たい風が車内を吹き抜ける。玲奈は姿勢を正したまま、ふと視線を落とした。運転席と助手席の間――小物を入れるトレーの中に、二本の口紅と、ひとつのパウダーが見えた。どちらも高級ブランド。智也の車に、当然のように置かれている。言うまでもなく、それは沙羅の持ち物だ。玲奈はしばらくそのまま見つめ、やがて静かに視線を外した。四枚の窓はすべて開け放たれたまま、外の空気は容赦なく冷たかった。久我山の街はもう初冬。夜風は刺すように肌を切りつけ、玲奈の髪を乱し、頬に張りつけた。彼がわざとそうしていることなど、分かりきっていた。「寒い」と言わせたくて。「閉めて」と頼ませたくて。だが玲奈は、一言も発さなかった。やがて車が止まると、彼女はゆっくりと髪を整え、服の裾を直した。智也がバックミラー越しに彼女を見て、口の端を上げて言った。「どうだ?今はいい香りになったか?」玲奈は黙って車を降り、そのまま彼のほうを見た。智也も車から降りたとこ
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第300話

エレベーターを降りるとき、智也は振り返り、そっと玲奈の手を取った。目の前に邦夫がいたため、玲奈もその手を振り払うことはできなかった。彼はそのまま玲奈の手を引き、邦夫のもとへ歩み寄る。その様子を見て、邦夫の顔には、いっそう深い笑みが浮かんだ。もともと少し気晴らしに外へ出るつもりだったらしいが、二人が来たのを見て、再び病室へと戻っていった。病室にはすでに見舞い客の姿はなかったが、果物や花束、贈り物が所狭しと並んでいた。邦夫はベッド脇の椅子に腰を下ろし、二人にもソファに座るよう促した。全員が席についたところで、ふと邦夫が尋ねた。「愛莉はどうした?一緒じゃないのか?」今日が二人の付き添い当番だと知っていたため、様子を聞きたくなったのだろう。智也は静かに答えた。「愛莉は明日幼稚園があるから、今日は小燕邸でお留守番だ。宮下がついているから、心配いらないよ」その言葉を聞いた邦夫は、眉をひそめて口を開いた。「それはいかんな。宮下は使用人にすぎん。親とは違う。......今日は仕方ないが、明日は私が小燕邸へ行って様子を見てくる」玲奈は黙って座っていたが、思わず智也の方へ視線を向けた。――どんな反応をするか、見てみたかった。案の定、智也は一瞬だけ動揺し、声がかすれた。「......じいちゃん、愛莉に会いたければ、明日俺が連れてくる。まだ体調が戻ってないから、今は病院を離れないほうがいいよ」その言葉の裏に込められた意味を、邦夫は気づかなくても、玲奈にははっきり分かった。――身体を気遣っての発言に見せかけて、実際は、小燕邸で沙羅を囲っているのを見られたくないだけ。邦夫は不満げに声を荒げた。「何だと?私が小燕邸に行ってはいけないのか?」智也は表情を変えず、淡々と答える。「退院してから、また来て」「......私のことを厄介に思っているのか?」邦夫の声が一段と厳しくなる。智也はすぐに否定した。「そんなことはないよ。ただ、心配なんだ」だが邦夫は聞く耳を持たず、顔を横に向け、玲奈を見た。「玲奈さん、君も私に来てほしくないのか?」突然の問いかけ。玲奈は少しも慌てず、穏やかな目で彼を見返した。口を開こうとした瞬間、袖口がわずかに引かれた。―
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