All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 331 - Chapter 340

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第331話

小夜は異議を唱える勇気もなく、慌てて頷いたが、躊躇いがちに尋ねた。「あの、出国制限はどれくらい続くのでしょうか?具体的に何日くらいですか?」相手は答えず、そのまま立ち去った。すぐに部屋には一人きりになった。しばらく待っていると、先ほど「長官」と呼ばれていた男が入ってきて、随行の隊員がドアを閉めた。男は椅子を引き寄せ、小夜の前に座った。その表情は冷厳で、声は落ち着いていて重みがあった。「なぜ、ここへ来た?」……小夜は返答に窮した。目の前の男に見覚えがあったからだ。一度だけ、圭介と結婚して間もない頃、本家での食事会で会ったことがある。言葉を交わしたことすらないが、その圧倒的な威圧感と特殊な身分ゆえに、印象に強く残っていた。この人は、圭介の従兄――長谷川亮介(はせがわ りょうすけ)だ。身分だけではない。さらに重要なのは、あの冷酷非道で傲岸不遜な圭介が、父親の顔さえ立てないのに、この従兄にだけは敬意を払い、心服しているということだ。圭介を諌められる人間がいるとすれば、祖父ではなく、目の前のこの男だけだろう。奇妙な話だ。従兄弟同士の方が、実の弟である佑介よりも遥かに親密なのだから。佑介はまるで部外者のように扱われ、幼い頃から遠ざけられていた。まるで血の混じらぬ他人のように隅に置かれている。親疎の差は歴然だった。これは結婚して長年、自分が最も不思議に思っていたことの一つだったが、もう関係のないことだ。従兄弟同士がこれほど親密な理由。それはおそらく、亮介の父、つまり圭介の叔父が早世し、公務中に命を落としたため、圭介の両親が彼を我が子のように育てたからだろう。亮介は幼い頃から沈着冷静で、圭介よりも年上だったため、兄であり、父のような存在だった。そして、長谷川家の中で最も立場が安定している人物でもある。若くして特務機関に入り、長年家を空けていたが、兄弟の絆が薄れることはなく、むしろ深まっていた。結婚後、自分はたまに圭介が亮介と電話で話す姿を見かけたが、その時の彼は親しげで、珍しく穏やかな表情をしていたものだ。まさかこんな場所で、長年会っていなかった亮介に遭遇するとは。……沈黙の後、小夜は引きつった笑みを浮かべ、小声で挨拶した。「長官……こんにちは」亮介はわずかに頷いた。
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第332話

亮介の口調は平坦で冷ややかだった。離婚を思いとどまらせようとしているようには聞こえず、まるで何か厳粛な公務を執行しているかのような響きがあり、無言の圧力を感じさせた。小夜は言葉を失った。まさか亮介がこの話題を持ち出すとは思わなかった。本当に「出来た兄」だこと……返答に窮し、その場に沈黙が流れた。しばらくして、乾いた笑いを浮かべて口を開いた。「長官、いっそのこと、圭介を説得していただけませんか?私の離婚協議書はもう何枚も破り捨てられました。彼はあなたの言うことなら一番聞くはずです。あなたが口添えしてくだされば、彼もこれ以上私を困らせないでしょう。あなたも仰った通り、七年も連れ添った夫婦です。仇のように私を扱う必要はないはずです。円満な別れとはいかなくても、せめて穏便に済ませられないのでしょうか?」その言葉には、明白な決意が込められていた。一切の余地を残さないほどの。小夜の意志が固いことを悟ったのか、亮介はそれきり口を閉ざし、部屋は再び静寂に包まれた。息苦しさに耐えかねそうになった時、突然ドアがノックされ、外から軍人が入ってきた。「報告します、長官。車の準備が整いました!」「彼女を『陽光の都』へ送れ」亮介はそれだけ言い残すと、多くを語ることなくきびすを返し、部屋を出て行った。小夜は再び黒い布を被せられ、部屋から連れ出されると、車に乗せられ、前方へと運ばれていった。……帝都。一台の黒塗りの車が、蒼然たる朝の光の中、古風な屋敷の門をくぐった。圭介は高級な黒のスーツに身を包み、車を降りると、軽く袖口を整え、大股で書斎へと向かった。その全身からは、隠しきれない気品と冷徹さが漂っていた。書斎に入った瞬間、杖が床を激しく叩く音が響いた。バン!続いて、当主・栄知の怒号が飛んだ。「圭介!自分が何をしているか分かっているのか!女一人を探すために帝都中をひっくり返し、これ以上恥を晒すつもりか!敵に付け入る隙を与えるのが怖くないのか!」圭介の、普段は感情を見せない妖艶な瞳に、ようやく波紋が広がった。「ありえません」書斎の奥にいた栄知は突然沈黙し、執事の馬場に支えられて椅子に座ると、呼吸を整えた。その眼光は依然として鋭く、ゆっくりと口を開いた。「圭介、お前は幼い頃から自立心が強く、わ
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第333話

――簡単には自分から離れられない。――ずっと自分のそばにいることになる。心を鬼にしなければならない。そう決心したはずなのに、遠くから聞こえる小夜の嗄れた泣き声や、必死に門を叩く音を耳にすると、圭介の手は無意識に震えていた。雨水が頬を伝い、目元を濡らすが、その瞳は光を失い、死んだように虚ろだった。彰は、そのすべてを見ていた。一瞬、分からなくなった。雨の中で門を叩き続ける小夜と、雨の中に立ち尽くす圭介。一体どちらが、より絶望しているのだろうか。二人とも、骨の髄まで強情な人間だ。佳乃が呼んだ使用人たちが彼女を抱きかかえて屋敷に入れるまで、圭介の表情は強張ったままだった。それから間もなく、彼のスマホが震えた。母、佳乃からだった。「すぐに戻りなさい」圭介は外でしばらく待ち、気持ちを落ち着かせてから、彰に車で送らせた。車を降り、屋敷に入ろうとしたところで、顔面蒼白の佳乃に一喝された。「雨の中で跪きなさい!」彰も初めて目にした。いつも温厚で慈悲深い奥様が、これほど激昂し、声を荒らげる姿を……傍らでは雅臣が佳乃をなだめていたが、圭介への叱責を止めることはなかった。圭介は言われるがままに跪いた。土砂降りの雨が、すでに濡れていた服をさらにずぶ濡れにしていく。佳乃からの「どうしてあんな非道なことができるの!」「責任を取りなさい!」という罵声を浴びても、彼は一言も発さなかった。その時、屋敷の中から誰かが飛び出してきた。「旦那様、奥様!あのお嬢様が突然倒れました!」静かに雨に打たれていた圭介は弾かれたように立ち上がり、屋敷の中へと走った。彼は騒然とする部屋へ飛び込むと、ベッドの上で蝋細工のように青白くなった彼女の顔を正視することもできず、ベッドサイドの医師の腕を死に物狂いで掴んだ。声は震え、半ば言葉にならなかった。医師は慌てて答えた。「若様、落ち着いてください。このお嬢さんは精神的に不安定な状態で雨に打たれ、失神しただけです。命に別状はありません」圭介は震える声で言った。「子供は……子供は無事か……」この子だけは、絶対に失うわけにはいかない!「ご安心ください。脈を診ましたが、お腹のお子さんにも多少の影響はあるものの、大きな問題はありません。安静にしていただければ大丈夫です。元々、お
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第334話

バン!「今、誰と結婚するつもりだと言った!」白髪交じりで、鋭い眼光を放つ栄知が、力任せに圭介の背中を杖で打ち据えた。凄まじい音が響く。老いてなお、その威厳は衰えていない。圭介は顔色一つ変えずに答えた。「高宮小夜です」「何の利益ももたらさず、家柄も平凡以下の女だぞ。遊びなら目をつぶってやるが、まさか本気で迎え入れるつもりか!」バン!再び杖が振り下ろされる。圭介は背筋を伸ばし、微動だにしない。ただ一言だけを返した。「俺の結婚は俺が決めます。利益の交換材料にするつもりはありません。今日ここで打ち殺されようとも、俺は彼女がいいです」「自分が決めるだと?」栄知は冷笑し、杖で床を重く突いた。「いいだろう。お前は以前、家業を継ぐのを先延ばしにして、コンピューター学科とやらを学びたいと言っていたな。夢を追いかけたいと。選択肢をやろう。夢か、女か。自分で選べ!」圭介が沈黙すると、栄知は鼻で笑った。「時間はやる。霊堂へ行き、先祖の位牌の前で頭を冷やして考えろ!」霊堂の中、蝋燭の火が明るく揺らめいている。座布団は撤去され、圭介は冷たい床に直に正座していた。目の前には先祖代々の位牌が並び、蝋燭の光が背中を長く引き伸ばし、炎と共に揺らめかせている。薄暗い堂内では、すべての音が鮮明に聞こえた。自分の心臓の鼓動さえも。圭介は薄暗がりの中で正座し、静寂の中で自分の沈着な鼓動を数えていたが、時が経つにつれ、一日、また一日と過ぎるごとに、そのリズムは乱れていった。思慕の情が、堰を切ったように押し寄せてくる。どれくらい経っただろう?小夜に会えなくなって、どれくらいになる?抱きしめたい。キスしたい。本来なら表情を変えないはずの、正座していても背筋の伸びた圭介の顔はやつれ、その妖艶な瞳には突如として迷いが揺らめき始めた。目の中で蝋燭の火が揺れ、激しくなる鼓動と呼応するように震え、その振幅は次第に大きくなっていく。七日七晩。先祖と対峙しながら霊堂に跪いていたが、その魂は山海を越えて押し寄せる思念の轟音に震えていた。魂を揺さぶるほどの轟音だ。ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!心臓が早鐘を打つ。ついに、自分の本心を悟った。過去の本能的な惹かれ合い、無意識の接近、膨れ上がる欲
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第335話

だが、小夜の心は自分にはない。チャンスは一度きりだ。今回を逃せば、あの女は二度と自分に機会を与えないだろうし、今以上に好機が巡ってくることもないだろう。時も場所も、すべてが揃った今、掴み取るしかない。ドゴッ!栄知は怒りに顔を歪め、杖で圭介の背中を力任せに打ち据えた。圭介は衝撃に体を震わせたが、栄知は問い詰めた。「あの女のどこが、そんなにいいと言うんだ!」どこがいいのか?圭介の虚ろな視線は前方へと落ちた。その顔はやつれて蒼白だったが、口元には微かな笑みが浮かんでいた……自分自身にも、うまく説明できなかった。だが、一つだけ分かっていることがある。たとえ小夜の身分が低く、泥のように卑しく、世間に舞う塵芥と変わらないとしても、自分にとっては唯一無二の塵芥なのだ……構わない。塵でも、泥でもいい。自分がこの世で最も美しい宝石箱に入れ、毎日目の前に置いて愛でれば、それは宝物になる。「俺は、彼女がいいんです」再び口を開き、断固として告げた。栄知は、圭介の強情さを誰よりもよく知っていた。他にも手はあるが、これ以上追い詰めて圭介との関係を壊したくはない。それに、圭介が一つのことに対してこれほどまでに逆らったのは初めてのことだ……頑固な子供を前にして、折れるのはいつだって年長者の方だ。栄知は重くため息をした。すると、圭介の温かく、懇願するような低い声が聞こえてきた。「祖父様、彼女は俺の子を宿しています。俺は彼女と家庭を築きたい。心から、そう願っています」その声は低く、まるで哀願のようだった。栄知の目が不意に赤くなった。長い間立ち尽くしていたが、やがて無言で背を向け、去っていった。陽光の下、その少し曲がった背中は、急に老け込んだように見えた。霊堂の中。圭介は深く平伏し、額を床に打ち付け、三度、深く礼をした。額から鮮血が滲む。「ご先祖の方々、どうかお守りください!」……書斎にて。圭介の意識は少し朦朧としていた。目の前にいる栄知は、七年前よりもさらに老いて見えた。圭介は微かに目を赤くし、七年前と全く同じ言葉を口にした。「祖父様、俺には彼女が必要なんです」栄知は深く息を吸い込み、怒りに体を震わせた。傍に控えていた執事の馬場が慌てて茶を差し出し、背中をさすってなだめる。ようやく落ち着
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第336話

航は叫んだ。「だめだ!彼女の身に何かあったに違いない!」「陽光の都」。薄明かりの中、現地の警察署は騒然としていた。航が、警察官たちと激しく対峙している。航は発狂寸前だった。小夜が夜警の最中に姿を消したのだ。足跡は森の方へと続いていた。さらに、その晩に途中から合流した二人の若い男も行方不明になっていた。探しに行こうとしたが、取り押さえられた。夜の森は危険だという理由で。すぐに救助隊が到着したが、彼らは航の言い分を聞こうともせず、強引に全員を「陽光の都」の警察署へ連行し、尋問を繰り返した。航は警察に通報したが、相手は「あの二人の男は密輸業者だったらしく、現在調査中だ」と言うばかり。小夜のことに関しては「捜索中だ、落ち着いて待ってください」の一点張りだった。どうやって落ち着いて待てと言うんだ?もし彼女に何かあれば、実家の長老たちに殴り殺される以前に、自分自身が一生その罪悪感を背負って生きていくことになる。ようやく気の合う友人ができたというのに。生死を共にするパートナーだ。それなのに、自分のそばで彼女がいなくなった?自分を許せず、気も狂わんばかりだった。「待てって、いつまで待てばいいんだ!人探しも犯人逮捕もしないで、俺たちを閉じ込めて尋問ばかりして、俺たちが犯人だとでも言うのか?」航は怒鳴り声を上げた。「もういい、どうしても動かないなら俺が自分で探す!何かあっても自己責任だ!あんたたちに責任は取らせない!」そう言って、外へ飛び出そうとした。「馬鹿な真似はやめろ!」数人の警察官が慌てて止めに入り、揉み合いになった。強硬手段で取り押さえられそうになったその時、不意に優しい女性の声が響いた。「航?」今まで暴れていた航が、突然動きを止めた。止めようとしていた警察官たちは勢いを殺せず、誤って航を地面に押し倒してしまった。だが、航は怒らなかった。地面から這い起きると、服の汚れも気にせず、入り口に立っている女性の元へ突進した。その腕を掴み、くるりと回らせて怪我がないか確認する。小夜は苦笑した。「私は無事よ。あなたは?」軍用車で頭に布を被せられたままここまで送られ、到着するなり中から航の怒鳴り声が聞こえたため、慌てて入ってきたのだ。問いかけに対し、航は答えなかった。その代
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第337話

航は大笑いした。十九歳。まさに意気盛んな年頃だ。行き交う人々の目も気にせず、衆人環視の中で声を上げて笑い、胸の内に噴き出す豪快な気分を思いのままに発散していた。小夜もその空気に感染し、心からの笑顔を見せた。時折、通行人が視線を向けるが、多くの者は気にも留めず、自在に通り過ぎていく。ここにいる人々の多くは世界各地から集まった、この世で最も自由な魂を持つ者たちだからだ。自由な魂と、究極のロマンが凝縮されたこの都市は、すべてを受け入れてくれる。笑い疲れてお腹が鳴り出した二人は、顔を見合わせて笑い、朝食の店を探そうとした。その時、全身を旅装で包んだ一人の男に呼び止められた。手には大きなカメラを持ち、顔は日焼けして赤黒くなっているが、その瞳は驚くほど明るかった。カメラマンのようだ。「すみません、今お二人の写真を撮らせていただいたんですが、展示してもよろしいでしょうか?もちろん、謝礼はお支払いします」「写真?」小夜は少し意外そうな顔をした。航はすでに「見せてくれ」と騒いでいる。カメラの画面には、風に舞う漆黒の長髪、絶世の美貌を持つ女性と、少し伸びた黒髪の風流で端整な航が、忙しなく人が行き交う通りに立っている姿が映し出されていた。背後には朝日を浴びて黄金に輝く雄大な雪山。しかし、写真の焦点はあくまで二人であり、その笑顔は燦然として屈託がない……画面から飛び出してきそうなほど、自由とロマンに満ち溢れた一枚だった。小夜と航は顔を見合わせ、同時に笑って声を揃えた。「ご自由にどうぞ!」言い終わると、二人は呆気にとられるカメラマンを置いて、写真のデータも欲しがらず、笑いながら大股で去っていった。風が二人の服の裾を揺らし、会話をさらっていく……耳を澄ませば、何を食べるかで言い争っている楽しげな声が聞こえた。カメラマンは、その洒脱で生き生きとした背中を見送った。無意識にカメラを構えようとしたが、すぐに下ろした。あの自由に羽ばたく魂までは撮れないと悟ったからだ。出会えただけで十分だ。カメラマンは画面の中の、思いのままに大笑いする二人を見て、笑いながら首を振った。やはりこの場所には、様々な驚きが満ちている。笑ってきびすを返し、遠ざかる二人とは逆の方向へとゆっくり歩き出した。……朝食の店。航は大き
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第338話

雪に覆われた白銀の山脈。空を舞う雪の中、果てしなく続く石段の上に、現地民族の衣装を纏った二つの人影が立っていた。深紅の衣装を身に纏った小夜と、鮮やかな黄色の衣装を着た航だ。二人は新しく厚手の民族衣装に着替え、ニット帽を被り、車を飛ばしてここまでやって来たのだ。道中で休息をとったおかげで、気力は充実していた。「行くぞ」航が先に石段を一歩踏み出し、自信に満ちた笑顔を見せた。「ええ、行きましょう」小夜も微笑んで応えた。季節は四月だが、万年雪に覆われたこの高原の雪山では、依然として雪が舞っている。二人は舞い散る雪を浴びながら、石段を一歩一歩登っていった。石段の尽きるところに、寺院がある。最終的に選んだのは、「陽光の都」に林立する数多の寺院ではなく、雪山の深奥に隠されたこの寺院だった。一目見た時から、ここに来たいと思っていたのだ。最初は、旅の途中で出会った面白い出来事などを語り合い、笑い合っていた二人だったが、次第に口数は少なくなっていった。車で徐々に高度を上げてきたおかげでまた高山病にはならなかったが、露出した肌に吹き付ける寒風は刺すように冷たかった。体力を温存するため、自然と無口になる。しばらく歩いたところで、航がふと見上げた。遥か上方、風雪の中に佇む寺院の黄金の屋根が、日光を浴びて燦然と輝いているのが見えた。彼はその光景に心を奪われたように立ち止まった。小夜も足を止め、不思議そうに彼を見た。「どうしたの?」「義姉……いや、小夜。俺がどうして無理にでもついて来たか、覚えてるか?」航は山頂に微かに見える寺院を眺めながら、低い声で尋ねた。もちろん覚えている。あの漫画『赤ずきん冒険記』のためだ。彼は小夜こそが作者の「夢路」だと信じ、漫画にハッピーエンドを求めたのだ。「赤い帽子のロボット」が死なず、最後には月を追いかける願いを叶えてほしいと願って、ここまで追いかけてきたのだ。小夜が何か言おうとした時、航が遮った。「もう、そんなことはどうでもいいんだ」言葉を失った。航は真っ直ぐにこちらを見つめていた。いつものふざけた態度は消え、初めて見せる真剣な表情をしていた。その瞳は明るく、黄金色の太陽を映し込んで鮮やかに輝いている。「小夜!絶対に幸せになれよ!必ずだ!過去の何倍も、何
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第339話

それは祝福であり、祈りだった。航は白銀の世界に浮かぶ鮮やかな紅を見上げ、そっと手で目元を覆った。その紅い影を視界から遮ったが、口元には笑みが浮かんでいた。十九年の人生で、こんな旅は初めてだった。これほどまでに――魂を震わせる旅はきっと、一生忘れないだろう。手のひらの下から、熱い雫がこぼれ落ち、足元の雪に染み込んで深い痕跡を残したが、すぐに新たな雪に覆われて消えた。風雪は、ただ静かに吹き抜けていく。……山頂、寺院。小夜は本堂の前に立っていた。足は鉛のように重く、一歩を踏み出すのもやっとで、呼吸をするたびに肺が痛んだ。「よく参られた」開け放たれた扉の奥、深紅の法衣を纏った僧侶が、背を向けたまま座っていた。その声は少し枯れていたが、遥か彼方から響いてくるような深みがあった。小夜は呆然とした。「私が来ることをご存知だったのですか?」「いや」僧侶の声は穏やかだった。「ただ、山を登る足音が聞こえただけだ。難儀な道のりだったろう。座って、熱い茶でも飲みなさい」深く息を吸い、重い足を引きずって堂内に入り、僧侶の前に回った。そこには小さな卓があり、湯気を立てる二杯の茶が置かれていた。少し驚いたが、何も言わずに卓の前の座布団に座り、礼を言って茶碗を手に取った。一口すすり、そして一気に飲み干した。熱い液体が喉を通り、凍えた体に染み渡る。僧侶が急須で継ぎ足してくれ、恐縮しながら礼を言い、立て続けに三杯飲んだ。ようやく体が温まってきた。その時、僧侶が不意に立ち上がった。伏し目がちのその顔は慈愛に満ちていた。彼は古井戸の水面のように静かな口調で言った。「そなたの心に迷いはないようだ。仏に伝えたいことがあるのだろう。思うままになさい」小夜は慌てて立ち上がり、合掌して礼をした。顔を上げると、いつの間にか本堂の扉は閉ざされ、風雪の音は遮断されていた。堂内は静寂に包まれ、自分一人だけが残されていた。呆然とした。座布団に正座し、祭壇の奥に鎮座する巨大な仏像を見上げた。言葉が出なかった。ついに、ここまで来たのだ。何を言えばいいのか分からなかった。答えはすでに出ている。僧侶が言った通り、迷いはない。ここに来たのは、ただ決着をつけるため。この旅に円満な終止符を打つためだ。長い沈黙の後、静かに語り始め
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第340話

パシッ!雪山の石段で、乾いた音が響いた。航は強烈な平手打ちを食らってよろめき、目の前に立つ怒り心頭の父親、遠藤学を驚愕の眼差しで見つめた。「クソ親父、殴ったな!」「殴って当たり前だ!この馬鹿息子が!自分が何をしたか分かっているのか。圭介の奥さんを連れ回して、何日も音信不通になりおって。私を気絶させる気か!」学は怒りで発狂寸前だった。長年培ってきた教養も、このドラ息子を前にしては形無しだ。「親父、説明は後でする!」航はきびすを返し、上の寺院へ駆け戻ろうとした。さっき圭介が彰を連れて、鬼のような形相で駆け上がっていくのを見たのだ。上では、間違いなく何かが起きる。心配だった。小夜が酷い目に遭うのではないかと。だが二歩も進まないうちに、数人のボディーガードに取り押さえられ、担ぎ上げられて山を降ろされそうになった。足をバタつかせて叫ぶ。「離せ!クソ親父、降ろせよ!知ってるだろ、兄貴はイカれてるんだぞ!あいつは何するか分かったもんじゃねえ!」学は冷ややかな顔で言い放った。「お前には関係のないことだ。これからは国内にいる必要もない。さっさと海外へ留学に行け!」「クソ親父、おま……んぐっ……んーっ!」……本堂の扉が、轟音と共に開け放たれた。狂ったように吹き込む風雪が、床に跪いて祈っていた女性を包み込む。反応する間もなく、強大な力で引きずり起こされ、圭介の懐に抱きすくめられた。氷のように冷たい口づけが、顔に、唇に、狂おしく、容赦なく降り注ぐ。一瞬凍りついた。何が起きたのかを理解した次の瞬間、強烈な吐き気が胸の奥から込み上げ、脳天を突き抜けた。自分を押さえつけて口づけを続ける男の頭を力任せに殴り、髪を掴んで引き剥がそうとした。死に物狂いで抵抗し、ようやく拘束を解くと、そのまま床に這いつくばり、喉を押さえて激しくえずいた。体は本能的に震え、目の前が暗くなり、目眩がした。この瞬間、思い知らされた。かつて部屋に監禁された日々、暗闇の中で受けた精神的な破壊、声なき陵辱とお仕置き……それらすべてはずっと昔のことだと思っていたが、ここ数日で脳裏に蘇り、まるで昨日のことのように鮮明にフラッシュバックしていた。圭介に会わなければまだよかった。だが、その姿を見、その気配を感じた瞬間、本能的な拒絶反
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