Se connecter「分かった。引き続き監視しろ」圭介は微かに笑い、手にしていた飲みかけのワイングラスをドンと重々しくテーブルに置いた。グラスの中で鮮やかな深紅の液体が波打ち、まるで血のように赤く輝いた。「奴の方から、必ず動いてくるはずだ」……すべてに問題がないことを確認すると、圭介は寝室へと戻った。ベッドで布団にくるまり、横向きになって身じろぎひとつせず眠っている小夜の姿を一瞥する。圭介の顔には、自然と安堵の笑みが浮かんだ。軽くシャワーを浴びた後、彼も布団に潜り込み、そっと彼女を腕の中に抱き寄せ、その肩に顎を乗せて静かに目を閉じた。彼の呼吸は、すぐに穏やかな寝息へと変わった。腕の中で熟睡しているように見えた小夜が、その時、ゆっくりと目を開けた。彼女の瞳の奥には冷たい嵐が吹き荒れ、骨の髄まで凍りつくような冷ややかな光が宿っていた。先ほどドア越しに耳にした会話を思い返す。標的?どうりで、頑なに計画の内容を教えてくれなかったわけだ。こんな考えを持っていたなら、当然だろう……自分を囮にするつもりだったのだ。計画を知れば、自分が拒絶するとでも思ったのか。けれど、一体何のため?コルシオをおびき寄せるためだろうか?本当にそんなことができるのか?自分がコルシオにとって、そこまで価値のある存在だとは思えなかった。だが、もしそのためでないとしたら、一体何のために?先ほど二人が交わした会話では、計画の詳細は語られていなかった。ただ分かったのは。自分がこの計画において重要な役割を担っているということ。しかし同時に、大して重要でもないということだ。何しろ、危険の渦の中心に放り込まれる囮だ。一歩間違えれば、命を落とすことだってある……相手は冷酷非道なコルシオなのだ。あの恐ろしい男のことを思い出すと、小夜の左手の手のひらや肩の、まだ完全には癒えていない傷口が疼いた。あの古城での悪夢のような日々を、彼女は忘れることができない。心の奥底にこびりついた暗い影。自分はきっと、計画のただの犠牲品に過ぎないのだ。そもそも、いつの時代も、囮として使われて無事で済んだ試しなどあるだろうか?ふっ。最近、この身勝手な男が急に機嫌を取るようにあれこれと尽くしてくれた理由も、ようやく理解できた……心のどこかで罪悪感を覚え、少しでも罪滅ぼし
あの男がどれほど恐ろしいか、小夜は嫌というほど知っている。一瞬たりとも気は抜けなかった。「そんなに気を張るなって」圭介は運転席の彰に軽く手を振ると、小夜の手を取ってレストランへ歩き出した。声は穏やかだった。「言っただろう、全部こっちで整えてあると」「私には何も教えてくれないのに、心配するなって言われても無理よ」小夜は眉をきつく寄せた。「もうここまで来てるのに」「大丈夫だ」圭介は笑った。「この先何が起きるにしても、飯くらい食うだろ? ちゃんと予約してある」「……」まあ、たしかに、食事は大事だ。噴水が一望できる席に通され、注文を済ませた後、圭介の話でようやく知った。このレストランは、イタリアが誇る本物の美食の殿堂らしい。ローマで一番うまい店と名高く、完全予約制だという。料理を待っている間に、スタッフが細身のクリスタルの花瓶を運んできた。露に濡れたような瑞々しい薔薇が一輪、小夜の傍らにそっと置かれる。一瞬きょとんとして周りを見回すと、どのテーブルにも同じように薔薇が飾られていた。この店の流儀なのだろうと、気にしないことにした。窓の外の噴水をぼんやり眺めていると、いつの間にかステージに楽団が上がっていた。ゆるやかな前奏が始まる。澄んだ弦の音色が空気を震わせ、水のように柔らかく彼女の意識に染み込んでくる。知らず知らずのうちに寄っていた眉間がほどけ、胸の奥にわだかまっていた焦燥が、少しずつ溶けていった。気持ちが、ほんの少し凪いでいく。小夜が音楽に聴き入っていると、隣からそっと声がかかった。「腹、減ってないのか」目の前には、薄くスライスされたレモン風味の牛フィレ肉が置かれていた。小夜は唇を引き結び、圭介を無視してナイフとフォークを手に取った。一切れ口に運ぶ。じっくり火の通った牛肉が舌の上でほろりとほどけ、レモンの清涼な香りがふわりと広がる。さっぱりとして、しつこさがない。――おいしい。だが数口で、手を止めた。隣の圭介が軽く眉を上げたが、何も言わず、残りをさらりと片づけた。その後の料理も、同じことの繰り返しだった。品数は豊富で、食材はどれも馴染みのあるものだが、組み合わせや調理法に工夫が凝らされていた。一皿の量は少なく、繊細な仕上がり。ただ小夜は食が進まず、どの皿もほんの数口
夕暮れ時。冷たい潮風が吹き抜ける中、船は静かに港に接岸した。浅い眠りから目を覚ました小夜は、まだ少し寝ぼけ眼のまま、ふんわりとした袖のダークブルーのシフォンドレスに着替えて甲板に出た。そして岸に広がる、煌びやかな光に彩られた夜の千年古都を目にして――ようやく状況を理解した。ローマに着いたのだ。歴史の中で一時代を築き上げた古代ローマ帝国の首都であり、人々が誇る「永遠の都」。そして、彼らの旅の終着点でもある。「小夜、行くぞ」甲板の上を、端正な顔立ちの優雅な圭介が近づいてきた。仕立ての良い黒のスーツの裾が、海風に軽く翻っている。微かに微笑みながら差し出された彼の手を、小夜は避けるように身をかわし、目も合わせずにその横を通り過ぎた。圭介は少しだけ笑みをこぼした。差し出した手を自然な動作で引っ込めると、彼は向き直って後を追い、その細い腰に強引に腕を回した。そのまま有無を言わせず彼女を密着させ、船を降りた。フランシスは呆れたように首を振りながら、二人の後に続いた。船から降りて、港で待ち受けていた人物の顔を見て、小夜は少しだけ驚いた。彰だったのだ。あの島で見かけなかったため、圭介は今回の海外渡航に彼を同行させなかったのだと思っていたが、どうやらローマで待機していたらしい。考えてみれば当然のことだ。コルシオを追い詰めるというこれほど重大な作戦に、圭介が最も信頼する片腕を外すはずがない。あらかじめローマに入り、準備を進めていたのだろう。「旦那様、奥様」彰が静かに声を掛けた。その表情は相変わらず冷徹で落ち着き払っていた。彼は身を引いて車のドアを開け、二人が乗り込むのを静かに待った。だがその時。後方から歩いてきたフランシスが、不意に口を開いた。「圭介、俺はここで抜けるぜ」圭介は振り返りもせず、手を振って応えた。車に乗り込み、窓の外でウインクしながらふざけて見せる赤毛の男を見つめて、小夜は不思議そうに首を傾げた。「あの人は一緒に行かないの?」ここ最近、フランシスと深く関わる機会は多くなかったが、彼が大の酒好きでありながら無理やり禁酒させられていることだけは知っていた。この数日間、ずっと圭介と一緒に何かの計画を練っていたはずなのに、ここに来て急に別行動をとるというのだろうか?「あいつには、別の仕事
佳乃は、そこで言葉を止めた。小夜の胸が、ずきんと痛んだ。……どうして知っているのだろう。仕事を辞めたこと自体は、それほど重大なことではない。問題は、あの頃――圭介との縁を完全に断ち切るために、「仕事が忙しい」と嘘をついて、佳乃からの誘いを何度も断っていたことだ。それが嘘だったと知られた今、自分がずっと彼女を騙していたことも、筒抜けになってしまった。彼女はいつだって、自分を信じてくれていた。大切にしてくれていたのに。なのに自分は、彼女に嘘をついていた。黙り込んだ小夜の様子に、電話の向こうの佳乃が慌て始めた。「気にしないでいいのよ、小夜ちゃん。怒ってないって分かっただけで十分だから。きっと何か事情があったんでしょう?元気なら、それだけでいいの。余計なこと聞いちゃったわね……」「ごめんなさい」佳乃の声が止まった。「……え?」小夜の目が赤く潤んだ。大きく息を吸い込み、まっすぐな声で言った。「あの頃、少し気持ちが沈んでいて……仕事のこと、嘘をついてしまったの。本当にごめんなさい」少しだけためらい、胸の内でひとつ息をついてから、彼女はついにその呼び名を口にした。「お母さん……許してくれる?」「そんな、許すだなんて……」佳乃の声は少し乱れていたが、やがて静かに落ち着いた。「私の方こそ、ごめんね。小夜ちゃんがつらかったこと、気づいてあげられなくて……ずっとしつこく連絡しちゃって……」「お母さんのこと、大好きだよ」小夜は佳乃のしどろもどろな言葉を優しくさえぎり、とびきり柔らかな声で言った。「お母さんから連絡もらえるの、いつも嬉しかった。迷惑だなんて、一度も思ったことないよ。だから、そんなふうに自分を責めないで。ね?」電話の向こうが、ほんの少し静かになった。それから、涙まじりの弾けるような声が返ってくる。「うん、うん……!」そして、すぐに照れたように付け足した。「私も小夜ちゃんのこと大好き。世界で一番よ」「知ってるよ」小夜は思わずふふっと笑い声を漏らした。隣にいる圭介の視線など気にも留めず、リラックスして椅子に座り直し、穏やかな声で尋ねる。「ねえお母さん、最近どうしてる?絵は描いてる?いっぱいお話ししよう」佳乃に対してだけは、小夜はいくらでも気長で、甘くなれるのだった
「俺に直接聞けばいいだろ」船室から出てきた圭介は、絞りたてのレモンジュースを小夜のそばに置き、笑いながら声をかけた。小夜は見向きもせず、返事もしなかった。ダイビングから戻って以来、どこか落ち着かない感覚がずっと小夜にまとわりついていた。彼が何をしようとしているのかは薄々分かっている。だからこそ、もうこれ以上圭介と関わりたくなかった。できることなら一言も口をききたくない……彼女はよく分かっていた。圭介という男は、その気になりさえすれば、たいていの女の心を簡単に揺さぶることができるのだと。それはあの顔立ちの良さだけの話ではない。だが同時に、彼がこんなふうに甘い空気を纏わせてくるのは、たいてい男の気まぐれに過ぎないことも知っている。獲物が食いつけば満足し、あっさりと手を引くのだ。その悲惨な幕切れを、彼女は身をもって何度も味わってきた。今回も、よくこんな手の込んだ演出を思いついたものだ。あの海中都市は確かに壮観だった。だが残念ながら、小夜はこの男のことを知りすぎている。とうに心の壁は築いてあるのだ。絶対に、溺れたりしない。もう二度と、痛い思いはしたくない。「なあ、どうして無視するんだ?」タブレットから頑なに顔を上げない小夜を見て、圭介は小さく笑い、不意に身をかがめて彼女の頬にキスを落とした。唇が触れたと思った瞬間には、もう離れていた。小夜はびくりと身を引いたが、その拍子に手がグラスに当たってしまった。レモンジュースが倒れ、甲板に落ちて甲高い音を立てて砕ける。とっさにしゃがんで破片を拾おうとしたところを、圭介に腕を掴まれた。呆れを含んだ声が降ってくる。「触るな。後でスタッフが片付ける……怪我はないか?」小夜は唇を引き結んだまま、何も答えなかった。無言の攻防が続く中、圭介のスマホの着信音が鳴り響いた。圭介はやむなく電話に出たが、二言三言応じただけで、すっと表情が変わった。小夜の耳にも、通話口から漏れ聞こえる声がかすかに届いた。佳乃の名前が出たような気がした。何かあったのだろうか。……あの古城から逃げ出して以来、小夜は佳乃にまつわる話題をずっと避けてきた。圭介にも一度も尋ねていない。自分が今どんな気持ちなのか、うまく整理がついていなかったのだ。古城で、自分がなぜ攫われ、脅され、飢え
いくら小夜が抵抗したところで、結局は準備運動に付き合わされ、潜水時のルールや注意事項をインストラクターからひと通り聞かされる羽目になった。観念したのか、彼女も真剣に説明に耳を傾けた。もはや断れない以上、遊び半分で海に潜るわけにはいかない。細心の注意を払うのは当然だ。傍らの圭介はダイビングに慣れているらしく、小夜が不安そうにしているのを見ると、微笑みながら耳元でそっと囁いた。「心配するな。これから潜るのは浅いポイントだから、経験がなくても問題ない。俺がついてる」――あんたがいるから不安なんだってば!小夜はまだ不安げに尋ねた。「インストラクターさん、本当に深くないんですか?」インストラクターはがっしりとした体格の、よく笑う中年男性だった。彼は豪快に笑いながら答えた。「ご安心ください。水深は一番深いところでも十メートルほどで、大半は四、五メートル程度です。海の中の景色は本当に見事で、カップルにもとても人気のあるスポットなんですよ。怖がって見逃してしまうのはもったいないですよ」「カップルじゃありません、ただの他人です。無理やり連れてこられただけなんです」小夜はすかさず否定した。すると圭介が涼しい顔で付け加えた。「たしかにカップルではないな。俺たちは夫婦だ」「もう離婚してます!」インストラクターはただの痴話喧嘩だと思ったのだろう、笑顔のまま何も言わなかった。とはいえ、水深が浅いことと、プロのスタッフが海上で常時待機していることを確認すると、小夜もようやく腹をくくった。準備を整え、ウェットスーツとダイビング機材を身に着けた後、圭介に手を引かれながら、ゆっくりと海へ足を踏み入れる。足元を波が洗っていく。ほんの一瞬ためらった隙に、隣の圭介に引き込まれるようにして、陽光がきらめく透明な海中へと沈んでいった。――彼女は息を呑み、目を大きく見開いた。胸の奥が、激しく震える。広がっていたのは、想像をはるかに超えた光景だった。この辺りの海はもともと透明度が高く、太陽の光が遮られることなく海底まで届いていた。浅い海底は異様なほど明るく照らし出され――その眼下には、古く壮大な海中都市が横たわっていたのだ。同時に、装着していた防水イヤホンからダイビング用のガイド音声が流れ始めた。「皆様の眼下に広がるのは
恐怖と威圧。一ノ瀬千尋(いちのせ ちひろ)は怯えて首をすくめ、騒ぐのをやめたが、まだめそめそと泣き続けていた。小夜は何も言わず、顔に無理やり笑みを貼り付け、平静を装いながら衆人環視の中で千尋の手を引き、外へと歩き出した。これ以上、騒がせるわけにはいかない。……寮を出て。小夜はそこで初めて知った。来ていたのは千尋だけでなく、父親の高宮明孝(たかみや めいこう)、そして叔父まで揃っていたことを。明らかに、善意の訪問ではない。千尋が言っていたホテルには行かず、小夜は近くのレストランで個室を取り、彼らをそこへ連れて行った。先に二人で中に入る。個室に入った途端、千
真冬。帝都大学、研究所。プロジェクトの第一段階がついに完了し、オフィスは歓声と安堵の溜息に包まれていた。メンバーたちは今夜の打ち上げ場所をどこにするか、賑やかに相談している。だが、片隅にいたはずの小夜と、プロジェクト責任者である青山の姿はすでに消えていた。「みんなに黙って抜け出して、本当に大丈夫?」こっそりと逃げ出した小夜は、少し心配そうに尋ねた。「大丈夫だよ」青山は微笑み、慌てて出てきたせいで歪んでいた彼女の白いニット帽を、手で優しく直してやった。「帽子をちゃんと被って。風邪を引くよ。それに、助手にはもうボーナスを送金しておいたからね。責任者なんて、み
雨は上がったが、夜の冷気は骨身に染みるほど深かった。テントの中に縮こまっていると、外の岩肌から滴り落ちる水音や、得体の知れない動物の鳴き声が聞こえてくる。テントの中には暖色の灯りが点いていた。航が点けておきたいと言い張ったのだ。彼はあの泣き声を、小夜の高山病による幻聴だと断じていたが、実際には彼自身が怯えていたのだ。図体はでかいのに、オカルトめいたものをこれほど怖がるとは。小夜はそれほどでもなかった。不思議には思っていたが、意外にも恐怖は感じていなかった。ただ、時折針で刺されたような鋭い頭痛が走り、意識が朦朧として辛かった。考え事をしようとすると、頭が割れるように痛
朝日が昇り、薄明かりが世界を包み始めた。雪山に囲まれ、奇岩が立ち並ぶ中、渓流のほとりの草地に、数張りの黒いテントが張られている。少し離れた場所では、数十頭のヤクが水を飲み、ゆっくりと歩き回っていた。テントの頂上から突き出た煙突からは、白い蒸気が立ち上っている。赤い民族衣装を身に纏った少年が、一つのテントから別のテントへと駆け込み、大声で叫んだ。「お義姉さん、甘いお茶があるってよ!」テントの中。小夜も同じく赤い民族衣装に身を包んでいた。航が入ってくるのを見て、少しぼんやりしていた瞳に光が戻る。差し出された、ミルクティーに似た温かいお茶を受け取り、一口飲む。熱い液体が喉