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流産の日、夫は愛人の元へ のすべてのチャプター: チャプター 181 - チャプター 190

454 チャプター

第181話

毎年、家族と近しい親族だけが参列する康平の命日に、美宜はいったいどんな立場で足を運んだのか。素羽は、司野がいつものように使用人に先に追い払わせるのだろうと思っていた。まさか自ら出向いて会いに行くとは、夢にも思わなかった。素羽は思わず両手を握りしめる。「司野は何しに行ったの?」もともと悲しみに沈んでいた琴子も、席を立つ司野の動きに気づいた。素羽は正直に答えた。「美宜が来たのよ」琴子は一瞬、言葉を失った。「こんな時に……どうして夫を行かせたの?」それは司野自身の判断であって、素羽の手に負えるものではない。それに、止めたところで彼が耳を貸すはずもない。式はまだ続いており、締めくくりは息子である司野が務めるべきだった。幸雄が尋ねた。「司野はどこだ?」琴子は慌てて答える。「会社からちょうど電話があったみたいで……対応しに行ったんです」幸雄は返事をしなかったが、翔太が先に口を開き、含みのある声音で言った。「兄貴もずいぶん『気が利く』よね。こんな大事な時に、わざわざ時間を割いて用事を済ませに行くなんて」言いながら、彼の視線はちらりと素羽へ向けられた。その意図は、素羽にもはっきりと分かった。翔太も、美宜が来たことを知っているのか。幸雄はそれ以上何も言わなかったが、琴子は素羽を急かし、早く司野を呼び戻すよう促した。本当は行きたくなかったが、この場で拒むわけにもいかない。墓地を出て、素羽は使用人に司野の居場所を聞き、直接探しに向かった。前庭の松の木の前――美宜は涙を湛えた目で司野を見つめていた。司野は素羽に背を向けていたため表情は見えなかったが、美宜の涙を拭う司野の動きは驚くほど優しく、その憐憫は隠そうともしていなかった。雪のように白いその姿が眩しく、素羽は目が焼けるような痛みを覚えた。「素羽さん……?」素羽の姿を認めた美宜は、驚いたように声を上げた。司野も声に反応し振り返ったが、その表情は落ち着いていた。「どうして来たんだ?」「お邪魔だったかしら?」美宜は慌てて言った。「素羽さん、私たち何もありません。本当に、考えすぎです」その瞬間、素羽はふと、白い雪が彼女によく似合うと思った。純粋無垢な雰囲気が、いっそう際立って見えた。口元をひきつらせ、素羽は嘲るように言う。「私が考
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第182話

琴子は入口の方へと絶えず意識を向けていたため、素羽と翔太が続けて姿を見せるのを当然のように感じていた。細めた目は、まるで値踏みするかのようだった。司野もほどなく戻ってきた。今回の式は、彼の采配によって滞りなく終えることができた。……翌日、大晦日を迎えた。須藤家で過ごすのは、これで五度目の新年だった。須藤家では年越しを共にするのが習わしで、当主である幸雄が座している以上、他の者が先に席を立つことなど許されなかった。普段、裏側でどれほど荒れていようとも、それはあくまで普段の話だ。この日ばかりは須藤家全体が穏やかに見え、和やかな空気が家中を満たしていた。新年の鐘が鳴り響き、夜空には鮮やかな花火が咲いた。素羽はその光の束を仰ぎながら、心の奥でそっと自分に語りかける。「明けましておめでとう、素羽」その瞬間、隣から司野の声がした。「明けましておめでとう。正月のプレゼントだ」そう言いながら、彼はまばゆい光を放つネックレスを取り出した。夜の闇でさえ、その輝きを覆い隠すことはできなかった。司野は素羽の首筋にかかる髪をそっと掻き分け、自らそのネックレスをつけてやった。冷たく硬いダイヤモンドに触れながら、素羽は胸に湧き上がる疑問を口にした。「どうしてそんなに、私にダイヤモンドを贈りたがるの?」司野は答えず、問いで返す。「嫌いか?」素羽は短く答えた。「好きよ」全部お金なんだから。嫌いなわけがない。家のあちこちから子どもたちの元気な「あけましておめでとうございます」の声が響き、幸雄は一人ひとりにポチ袋を手渡していた。結婚している素羽たちにも、例年通り家族の一員としてのしきたりが続けられていた。素羽は両手で赤い封筒を受け取り、「おじいさん、ありがとうございます」と丁寧に礼を述べた。普段は厳しい表情を崩さない幸雄の頬も、この時ばかりはふっと緩んでいた。「来年は子どもを連れてくるといい。家族が増えれば、そのぶん福も増えるからな」司野も自分の分を受け取り、幸雄の言葉に合わせるように言った。「来年こそは、家族が増えるよう頑張りますので」こうした催促にも、素羽は笑顔を崩さず応じた。ふたりが席を下がると、また別の者が新年の挨拶にやって来た。「お義姉さん、明けましておめでとうございます」ずっと人目を避けていた
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第183話

司野は、約束した時刻になっても戻ってこなかった。冬はそもそも昼が短く、夜が長い。素羽は芳枝をこれ以上待たせたくなくて、司野に電話をかけた。通話は繋がったものの、「こっちはまだ時間がかかりそうだから、もう少し待っててくれ」との返事だった。時間を見計らい、素羽は「私、先に行ってるね。あなたは、仕事が終わったら来て」と告げた。司野は「分かった。こっちが片付いたらそっちに行くよ」と言った。電話を切ると、素羽は自分で車を運転して病院へ向かった。病院に着き、車を停めてお歳暮を手に降り立つ。数歩も歩かないうちに、少し離れた場所から騒々しい声が響いてきた。思わず声の方へ視線を向けると、華奢な女性が、中年の男と女に両側から腕を掴まれ、なお何かをぶつぶつと言い募っていた。「お前には何日も猶予をやったんだぞ。前にはきちんと約束したじゃないか。今さら反故にするつもりか?」揉み合う中で、素羽はその女性の顔をはっきりと捉えた。柚月だった。数日見ない間に、彼女は明らかにやつれていた。「叔父さん、叔母さん、もう少しだけ待ってください。時間をください。お金は必ず工面して返します。本当に返しますから……」婦人は、唾を飛ばす勢いで罵倒した。「返せるわけないだろうが!あんたの持ってる金は全部、あの病気の父親に注ぎ込んでるんだよ。返す金なんて残ってるわけないじゃないか!」「返します。必ず返します……」「返せるって言うなら、今すぐ返しな!」「もう少しだけ時間を……」「今すぐ金を返すか、それができないなら今井敦(いまい あつし)と結婚しろ。彼と結婚すれば、貸した金は帳消しにしてやるよ」その名を聞くやいなや、柚月の顔はさっと青ざめ、目には怯えと絶望が溢れた。「彼とは結婚しません……嫌です!お金は返しますから……」婦人はその言葉を一笑に付し、柚月の意志など無視して強引に車へ押し込もうとした。泣き叫ぶような懇願は痛ましいほどだったが、親族の心を動かすには至らなかった。「あなたたち、何をしているんですか?」最初は余計な騒ぎに関わるつもりなどなかったのに、気づけば素羽はすでに歩み寄っていた。三人は、揉み合った動きを止め、一斉に素羽の方を振り向いた。柚月の目に驚きが宿り、そのあと羞恥がさっと走った。婦人は目を吊り上げて言い放
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第184話

柚月はしっかりと立ち直ると、「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。素羽は「どういたしまして」と柔らかく返す。それだけ告げると、素羽は長居せず、入院病棟へ向かって歩き出した。柚月も、彼女と同じ方向へ足を運ぶ。「お見舞いですか?」「ええ。うちのおばあちゃんがここに入院してるの」頷きながら素羽が言うと、柚月はどこか気まずさを紛らわせるように、「うちのお父さんもここに入院してるんです」と続けた。素羽は短く頷き、それから問いかけるように言った。「どうして承諾しないの?」「え?」唐突な質問に、柚月は思わず足を止めた。「さっき、あんたがお嫁に行けって言われてた相手のことよ」代理出産まで請け負うような人間だ。倫理観の柔らかさは、ある意味で理解できる。だが柚月は、その言葉を聞いた瞬間、血の気が引いたように顔を青ざめさせ、恥ずかしさに身を縮めた。数秒ほど硬直したのち、かすれた声で、「……あなたも、私が厚かましいって思ってるんでしょ?」と搾り出した。「ううん。ただ、気になっただけ」素羽の声は淡々としている。確かに柚月は倫理観に柔軟なところがある。けれど――「あの男、DVなの。前の奥さん三人、みんな殴られて、それぞれ身体に障害が残ったらしいわ」結婚しようと思えばできる。でも、生きていたい。須藤家に子を産み落とすというのは、世間の常識から大きく外れる選択だ。そして敦と結婚すれば、最悪命を落とす。命を落としたところで、誰も柚月の無実を証明してはくれない。父親でさえ、巻き込まれれば同じ運命を辿りかねなかった。なるほど、そこまで拒む理由があるのだ。素羽は柚月の瞳に沈む、深い落胆と絶望の影を見つめた。「あなたのお父さん、何の病気なの?」「白血病です」「叔父さんの家族に、借金はいくらあるの?」「……一千万円です」叔父一家が多額の金を貸してくれたことに、柚月は感謝している。だが、敦との結婚だけは受け入れたくなかった。借金は返すつもりだ。しかし、あの要求だけは飲めない。素羽はふいに言った。「その借金、私が代わりに返してあげる」柚月は言葉を失い、まるで幻でも聞いたように素羽を見つめた。借金を、代わりに返す?「もちろん、これはただであげるお金じゃないわ。ちゃんと
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第185話

素羽は、胸元をすり抜ける風にヒューヒューと鳴るような感覚を覚えた。冷え込みは骨の髄まで染み込み、スマートフォンを握る指先は力が入りすぎて白くなっていた。目を閉じて深く息を吸い込み、張り裂けそうな思いを胸の奥深くへ押し込める。気持ちを整えると、口元に無理のない笑みをつくり、病室のドアをそっと開いた。「おばあちゃん、明けましておめでとう」素羽の顔を見るなり、芳枝の表情はぱっと明るくなった。「よく来てくれたのね」だがその視線はすぐに素羽の背後へ向けられ、ひとりで来たと気づくと、ほんのわずかに不満の色が浮かんだ。素羽はその変化を見逃さず、すぐに言葉を添えた。「司野は急な仕事が入っちゃってね。終わったらすぐ来るって。これ、全部司野が買ってきたものだよ」そう言って、司野が用意した贈り物を見せる。芳江は真偽こそ分からなかったが、素羽を困らせまいと、「ええ、どれも私の好きなものばかりよ」と微笑んだ。素羽は寺で授かったお守りを取り出し、「これ、お願いしてもらってきたの。おばあちゃんにつけてあげるね」と言った。「去年ももらったばかりじゃないの」と芳江が言うと、素羽は古いお守りを外しながら答えた。「新年だもの。新しいのを使わなくちゃ」心から手を合わせれば、おばあちゃんはもっと長生きしてくれる――そんな願いを胸に。松信が芳江を家へ連れて帰らないことは素羽も知っていた。そのため、今日は特別にシェフに頼んでいくつか料理を作ってもらい、芳江と年越しの食卓を囲むつもりでいた。だからこそ、司野が本当に来るとは思っていなかった。「おばあちゃん、明けましておめでとう」外気をまとって司野が入ってきた。素羽は驚きに目を瞬かせ、芳江は彼の姿を見ると、笑みを一層深くした。親というものは、子の幸せを何より望むものだ。まして祐佳の件を経たあとでは、芳江は素羽と司野の間に溝ができることをずっと心配していた。「さあ、お入りなさい。ちょうど一緒にご飯を食べましょう」三人は小さな食卓を囲んだ。芳江の顔の細かな皺一つ一つまでもが笑っているようで、彼女は自ら司野に箸を手渡した。「おばあちゃん、自分でできるよ」司野に熱心に気遣い続ける芳江を見て、素羽の胸は締めつけられるように痛んだ。素羽には、その理由が分かっている。少しでも素羽が須藤
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第186話

素羽はその様子を見た瞬間、胸が締め付けられるように苦しくなった。松信に、人のことをとやかく言う資格があるのだろうか。息子として母を敬うこともせず、挙げ句の果てには「縁起が悪い」などと言い出すなんて。素羽は堪えきれず口を挟んだ。「お父さん、私たちは今、年越しのご馳走を食べているのよ」松信は鼻で笑った。「病院で年越しのご馳走だと?そんなものがうまいわけないだろう。行くぞ、司野くん。外で食べよう。ちょうど仕事のことで話したいこともあるしな」素羽は顔が熱く、羞恥で耳まで赤くなるのを感じた。どうして松信は、ここまで厚かましくなれるのだろう。芳枝が静かに口を開いた。「松信、今日は正月じゃないか。何かあったって、年が明けてからでもいいだろう?」だが松信は苛立ちを隠そうともせず言い放った。「お袋に何がわかるんだよ。仕事の話に口出しするな。年明けまで待ってたら遅いんだよ。家事もしたことないくせに物の値段がわかるか?衣食住、どれひとつタダじゃねぇんだ。お袋は年中病院で楽してりゃいいが、この金がどれだけ苦労して稼いだ金か、わかっちゃいないくせに。簡単に言ってくれるよな」道徳心の強い老人ほど、子に負担をかけることをひどく恐れるものだ。芳枝は瞬く間に顔を赤らめ、唇を震わせ、何も言い返せなくなった。素羽は静かに、しかしはっきりと松信を見据えた。「お父さん、おばあちゃんの治療費、あなた一人で出してるわけじゃないわ」松信の眉間に皺が寄る。「俺一人じゃないだって?じゃあ言ってみろよ。俺が出してないって言うのか?」母の治療費を出すのは、子として当然の務めではないのか。おばあちゃんは、彼を産み、育ててくれた母親なのに。素羽はきっぱりと言った。「お父さんが一銭も出さなくても構わないわ。おばあちゃんの治療費は、私が全部責任を持つ」「お前が責任を持つ?何をどうやってだよ。元を辿れば、その金は全部俺の金だろうが。ここまで大きく育ててやったのに家になんて一度も金を入れやしないで、よくそんな偉そうな顔ができるもんだな。家の商売がピンチの時には、どこで何してやがった?能書き垂れる前に、できることをしてみろよ」その言葉で、素羽はようやく理解した。松信がここへ来た本当の目的。それは、司野に金銭的援助を求めるためだった。
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第187話

芳枝が手術室へ運ばれていったというのに、松信はなお、何を優先すべきか理解していない。母親を案じる素振りも見せず、ただ商売への執着だけを剥き出しにしている。司野が電話に出るために外へ出ただけなのに、松信は首を長くして彼の帰りを待ち構えていた。「もうすぐ司野くんが戻ってくるから、お前も俺と一緒に彼を説得してくれよ」背後で赤々と灯る手術中のランプに、どうして気づかないのか。素羽は、芳枝があまりにも不憫でならなかった。「何見てるんだ?お前に話しかけてるんだぞ、聞いてんのか?」松信は白目を剥き、怒気を帯びた声をぶつけた。「この前お前が妹のためにうまく事を運べなかったから、うちは今こんな状況なんだぞ?うちがこれ以上成り上がれなかったら、お前の妹はどうやっていい男に嫁ぐんだ?」しばらく素羽が口を開かずにいると、松信は堪えきれず続けた。「お前、口きけなくなったのか?司野と結婚したからって、自分が偉くなったとでも思ってんのか?俺はお前の父親なんだぞ。お前をここまで育てたんだ、人間らしい心があるなら、恩の一つくらい返そうって思わねぇのか」鼻を刺す消毒液の匂いと、耳元で響く甲高い声。その対比が、あまりにも鮮烈だった。「おばあちゃんは今、緊急手術中なのよ、知ってる?」そう問いかけても、松信の良心が揺さぶられることはなかった。逆に彼の威圧的な態度はさらに膨れ上がる。「お前は俺に人生を説くつもりか?」素羽は恨みを押し殺した声で言った。「あなたたちが来なければ、おばあちゃんは倒れなかったわ」「誰がお前にそんな口をきいていいと言った?俺のやることにいちいち口を出すとは、いい度胸じゃねぇか!」目を吊り上げる松信に、倫子がさらに油を注ぐ。「この娘、完全に調子に乗ってるわよ。私たちが大人になるまで育ててやらなかったら、今みたいな良い暮らしができてると思ってるの?」倫子は昔から素羽を気に入らなかった。媚びたように見える顔つきも、ただ視界に入るだけで癪に障った。孤児のくせに、どうして私の娘より良い家に嫁げたの?かわいそうな祐佳のことを思うと、胸が締めつけられる。素羽さえいなければ、須藤家に入ったのは祐佳だったはずだ。わざわざ司野に罠を仕掛け、そのうえ計画が失敗してただ損だけするなんて、そんな結末にはならなかったの
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第188話

司野は冷ややかな眼差しで夫婦を一瞥し、「素羽は今、俺の妻であり、須藤家の人間だ。あなたたちが勝手に手を出せる相手じゃない」と言い放った。権力の前では、年齢など取るに足らない。あれほどまでに面目を潰されながら、松信は怒りを飲み込み、悔しさを滲ませたまま言葉を失っていた。倫子にいたっては、口を挟む勇気すらなかった。素羽は司野の背中に目を奪われた。高くそびえる山のように威厳があり、その姿に見とれているうちに、松信たちが立ち去ったことすら気づかなかった。「お前は馬鹿なのか?それとも足でも悪いのか?」不意に耳元で響いた声に、素羽ははっと我に返った。顔を上げると、司野が不機嫌そうに眉を寄せていた。「あいつがお前を殴ろうとしたのに、避けなかったのか?」素羽は握られた手をそっと振りほどき、「あの人が、私のお父さんだから」と答えた。司野は引っ込められた手を見つめ、「それで?」と静かに促す。素羽は短く、「もう次はない」と言った。その言葉に、司野の眉間の皺はいっそう深く刻まれた。だが素羽は彼の表情の変化に気づかず、ただ手術室に運ばれていった芳江のことが気がかりで仕方がなかった。どれほど待っただろう。祈りが届いたかのように、ようやく手術室の扉が開いた。素羽は勢いよく立ち上がったが、長時間座っていたせいで足がもつれ、よろめいたところを司野が素早く支えた。「ゆっくりしろ」だが素羽に、ゆっくりしている余裕などなかった。「先生、おばあちゃんは……?」素羽の切迫した声に、医師は静かに告げた。「脳卒中の兆候が見られます。今後は患者さんを感情的に刺激しないよう気をつけてください。もともと身体が弱っていますから、養生を怠れば脳出血に発展する恐れがあります」素羽は青ざめ、何度も何度も頷いた。「……はい、気をつけます」芳江は静かにベッドに横たわっていた。胸の上下がなければ、生きているのかどうかさえ疑いたくなるほど、動きは微かなものだった。病室は、芳江が倒れたときのまま。食卓には食べかけの団欒の名残が残り、すっかり冷え切っている。正月二日。ヘルパーも休みで、夜の付き添いは素羽が担当することになった。司野も帰らず、そばに残っていた。誰一人として言葉を発さない病室では、加湿器の作動音だけがかすかに響いていた。素羽は芳
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第189話

司野の表情がこわばり、室内は再び深い静寂に沈んだ。互いの呼吸まで聞こえそうな、張り詰めた沈黙だった。その静けさを破ったのは、やはり司野だった。「せっかくの正月だぞ」素羽は、彼の放つ威圧感を肌で感じながらも、どこか無関心な様子で言った。「今日、本当に会社に行ったの?」その問いに、司野は目を細める。「俺を尾行したのか?」素羽は小さく苦笑した。「私にそんな芸当はないわ」彼に気づかれず尾行できるほど器用ではない。「美宜よ。彼女が教えてくれたの。あなたがお昼に、彼女のご両親と会っていたって」素羽はまっすぐに司野を見据え、静かに言葉を重ねた。「とっくに言ったはずよ。身を引くつもりだって。あなたと美宜の邪魔にはなりたくないの」離婚すれば済むことなのに、なぜ司野は苦しむ状況を甘んじて受け入れ続けるのか。疲れないのだろうか。彼は平気でも、素羽はもう疲れ切っていた。司野は、品定めするような視線を引っ込め、淡々と告げた。「お前が考えているようなことじゃない」また、その答え。「私が考えているようなことじゃないなら、どんなことなの?正月に実家に帰る日だというのに、私を置いてまで美宜のご両親に会いに行く理由って、何?」司野は唇を閉じ、瞳の奥に一瞬、感情をよぎらせた。「会いに行かなきゃいけない理由があった。でも、俺と美宜の間には何もない。お前の誤解だ」その言い訳、何の説明にもなっていない。それは、風俗店に通う男が「ズボンを脱いだだけで悪いことはしていない」と言うのと、いったい何が違うというのか。不倫には程度の差があるっていうわけ?買春にも成功と失敗があるとでも?素羽は静かに言った。「誤解かどうかは重要じゃない。ただ、もうこれ以上は続けたくないの。どうせ私たちの結婚なんて最初から間違いだったし、あなたも不満だったんでしょう。もう間違いを正す時よ」司野は短く応じた。「離婚しないと言ったはずだ」「私は離婚したい」司野は焦りも見せず、低く言った。「お前の意見など聞いていない」素羽は一瞬、言葉を失った。「訴訟を起こせば、裁判所は受理するわ」「北町の弁護士で、誰が引き受けると思う?」素羽が答える前に、司野が続けた。「また小池に頼むつもりか?」素羽は唇を閉じる
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第190話

あの時の素羽は、たとえ司野が死んだとしても、一生彼のために貞節を守るだろうとさえ思っていた。けれど今は違う。司野は生きている。彼にとって唯一無二の存在になれないのなら、身を引くまでだ。それのどこに問題があるというのだろう。素羽「……だって、もう好きでいたくないから」その言葉が落ちた瞬間、病室はまた静まり返った。まるで長いあいだ封じられていた秘密が、いま陽の下にさらされたかのように、二人は息を潜めた。「お前……俺のことが好きなのか?」司野の顔に、驚愕の色が露わになる。素羽はその変化を見届け、胸の内で静かに苦笑した。司野の周りにいる人間は皆、素羽が彼を好きだと知っているのに、肝心の本人だけが気づいていないなんて。どれだけ鈍くて、どれだけ素羽に無頓着なら、そんなことにも気づかないのだろう。好きでなければ、生死すら分からない男の妻になるはずがない。好きでなければ、衣食住を整えてやり、献身的に世話をして、あれほどまでに看病に尽くすはずもない。もし、好きじゃなければよかったのに。好きじゃなければ、気にすることも傷つくこともなく、ただ須藤司野の妻として彼の金を使っていればよかった。結局、自分が欲張りすぎて、望みすぎてしまっただけだ。素羽「もう好きじゃないし、これからも好きになることはないわ」司野は生まれて初めて、素羽からの告白を受け取った。それはあまりにも意外で、不可解で、信じがたいことで、どう扱っていいのかも分からないほどだった。彼は、素羽が自分を好きだなどと一度も考えたことがなかった。素羽は須藤家という家柄を選んだのだと、もし自分が須藤家の人間でなければ、素羽が生死不明の自分と結婚するはずがない、とずっと信じていた。彼女の目的は富と権力を貪るためだと、勝手に思い込んでいたのだ。過去を思い返すと、素羽の無条件の優しさに触れるたび、胸の奥でわずかな罪悪感が芽生えてくる。どうやら、自分は彼女を誤解していたらしい。「……知らなかった」「どうでもいいわ。私があなたを好きだったことに免じて、私と離婚して」司野は目を伏せ、素羽の前に歩み寄ると、そっと彼女の頭に手を置き、優しく撫でた。「俺は今まで、お前の気持ちを本気で考えたことがなかった。だけど、お前がどう思おうと、俺は離婚なんて一度
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