All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 201 - Chapter 210

558 Chapters

第201話

景苑別荘の外には、楓華の車が止まっていた。素羽が姿を現すと、楓華はすぐに車を降り、荷物を運ぶのを手伝った。車内には暖房が効いており、体にまとわりついていた冷えを少しずつ追い払ってくれる。楓華はそのまま車で素羽を自宅まで送り届け、荷解きの手伝いにまで付き合ってくれた。「いいルート、ないかな。これ、全部売りたいんだけど」素羽は、部屋いっぱいに並べられたきらびやかな宝石を見渡しながら言った。「全部、売るの?」素羽は静かに頷いた。すべて、現金に換えるつもりだった。「伝手はあるけど……もし離婚するなら、これらの宝石を勝手に処分するのは、難しいかもしれないよ」「どうして?」素羽が問い返すと、楓華は落ち着いた口調で説明した。「男性が、女性個人への贈与だってことを、書面ではっきり合意していない限り、これらは夫婦の共有財産になるの。あなた個人の資産にはならないわ」考えるまでもない。司野がプレゼントを渡すたびに、そんな書類を交わすはずがなかった。贈るときは気前よく、豪勢に振る舞う。けれど、いざ計算の段になれば、一本の毛ほどの得も与えないつもりなのだろう。素羽は愕然とした。「じゃあ、これ全部……わざわざ運んできた意味、ないってこと?」素羽を落胆させたくはなかったが、楓華はそれでも頷き、この残酷な現実を肯定した。素羽は、思わず苦笑いを浮かべた。いったい、何なんだろう。五年もの間、無償で働いてきて、挙げ句の果てに、司野という「オーナー」から報酬を返せと言われるようなものじゃないか。見識の広い楓華は、裕福な家庭における結婚が、しばしば一種のゲームに過ぎず、決定権が弱い立場にはないことをよく知っていた。楓華は素羽の肩を軽く叩き、慰めるように言った。「それより、今はどうやって離婚するかを考えるべきよ」しかし、素羽の胸は軽くならなかった。むしろ、不安は増すばかりだった。この結婚が、そう簡単に終わるはずがないことを、彼女自身がよく理解していたからだ。司野が口にした「須藤家には離婚の前例がない」という言葉は、決して建前だけではない。家に存在する私生児たちを見れば、その異常さは一目瞭然だった。須藤家では、女性を伴っての浮気など、問題にもならない。ましてや司野は、外で人の命を奪うような大騒動を起こした
Read more

第202話

素羽は口元を引きつらせ、嘲るような笑みを浮かべた。「私が司野に会うのに、あなたみたいな部外者の許可が必要なわけ?」その言葉に、美宜は一瞬だけ目つきを変えたが、何かを思い出したのか、結局その場を退こうとはしなかった。「司野さんに憧れる人が多いのは確かですけど……素羽さん、どうかご自分の行動をわきまえてください。頻繁に押しかけて、皆の仕事を邪魔しないでいただけますか」その言葉は、はっきりと素羽に「恥知らずで、しつこい女」というレッテルを貼るものだった。含みのある言い方を聞き流すことなく、素羽は声を低くして言い放った。「もう一度言うわ。どきなさい」すると、美宜の取り巻きである谷口里沙(たにぐち りさ)が、待っていましたとばかりに割って入ってきた。「素羽、いい加減にしなさいよ。調子に乗るにもほどがあるんじゃない?人の話、聞けないの?この前追い出されたこと、もう忘れたの?美宜、こんな女と無駄話しないで。あんな、ベッドに潜り込もうと必死な不倫女なんて最低よ。さっさと追い払えばいいの。話をしてあげてるだけでも、感謝されるべきなんだから」素羽は特に表情を変えなかったが、美宜の顔にはわずかな変化が走り、目の奥に不快感がよぎった。その視線を逃がさず、素羽は美宜を見据え、含みを持たせた口調で言った。「彼女の言う通りだと思うわ。不倫女って、本当に最低よね。あなたも、そう思わない?」里沙は美宜の表情の変化にまったく気づかず、なおも攻撃を続ける。「自分が最低だって分かってるなら、外に出るときくらい、もう少し恥を知ったらどうなの?」「罵る相手を間違えているわよ」素羽の視線は、里沙を素通りして美宜の上に静かに落ちた。「その『最低』って言葉、私に使うべきじゃないわ。美宜、そうでしょう?」里沙からは見えない角度で、美宜は憎悪に満ちた眼差しで素羽を睨みつけていた。この邪魔な女さえいなければ、司野の妻の座は本来、私のものなのに。それなのに、よくも私を侮辱できるものだわ。素羽は、彼女たちと口論するためにここへ来たわけではない。軽く身をかわし、そのまま司野のオフィスへ向かって歩き出した。「ちょっと待ちなさい!誰が入っていいって言ったの!?」美宜が反応するより早く、里沙が先に声を上げ、素羽の腕を掴んで引き戻そうとした。
Read more

第203話

司野の視線は険しかった。素羽はそれに目もくれず、淡々と続ける。「例の件だけど、いつになったら私と一緒に片づけてくれるの?」司野は顔をしかめ、冷え切った声で吐き捨てた。「もういい加減にしてくれないか?ここはお前が騒ぎ立てる場所じゃない!」それを聞いた素羽は、口元を歪め、嘲るように笑った。「じゃあ、ここはどんな場所なの?」そう言いながら、寄り添う二人へと視線を向け、さらに言葉を重ねる。「あなたが愛人を囲っている場所?あなたと美宜の関係がどういうものか、今さら私が説明する必要がある?」その一言で、周囲の空気が一変した。居合わせた人々の視線が、一斉に怪訝な色を帯びる。今の言葉、どういう意味だ?愛人?二人の関係?美宜は、社長の妻じゃないのか?探るような視線が集まるのを感じ取り、美宜の視線は落ち着きを失った。自分が司野の妻ではないという立場を、ここで明かすわけにはいかない。彼女は苦しげにうめいた。「司野さん……頭が、痛い……」その声に、司野は美宜を抱きかかえ、そのまま立ち去ろうとする。だが、素羽が再び彼の前に立ちはだかった。「皆に知られても、構わないわよ」美宜は素羽を睨みつけた。この女、正気じゃない。こんなことを口にして、何の得があるというのか。司野を怒らせれば、なおさら自分の立場が悪くなるだけなのに。司野は眉をひそめ、不快感を隠そうともせずに言った。「いい加減にしろ。気でも触れたのか!」それほどまでに、美宜が噂の的になるのが我慢ならないのだろうか。素羽は内心、そう呟いた。そして、バッグから一通の書類を取り出し、司野の胸元へ叩きつけた。「これにサインしたら、もう騒がないわ」離婚協議書は司野の胸から美宜の体をかすめ、最後には床へと落ちた。周囲の人々は、思わず身を乗り出して覗き込もうとした。だがその前に、岩治がすばやく動いた。ちらりと目に入った「離婚」の二文字を確認した瞬間、即座に皆の視線を遮るように書類を拾い上げた。もし社長が離婚するなどと知られたら、どれほどの醜聞になることか。美宜は近くにいたため、「協議」という二文字しか見えなかったが、頭の回転は早かった。それが何を意味するのかを悟ると、彼女の目に一瞬、きらめきが走る。そして、わざとらしく
Read more

第204話

岩治は慎重に言葉を選んだ。「奥様、離婚は決して軽々しく扱える問題ではありません。どうか、十分にお考えになってからご決断なさってはいかがでしょうか」素羽は彼のほうを振り向いたが、答える代わりに問いを投げ返した。「あなたは、自分の妻が毎日あなたを裏切って浮気をするのを、許せる?」「……」岩治は言葉を失った。素羽は静かに言った。「あなたたちが受け入れられないことを、どうして私だけが受け入れなければならないの?」私はいったい、どれほど卑しい人間だというのだろう。エレベーターが一階に到着し、素羽はそのまま外へと出ていった。岩治はうんざりした。いや、そもそも彼は独身だ。そんな身で、いきなり浮気を呪うような言葉を浴びせられて、どうしろというのか。岩治の表情には、あからさまな不満が浮かんでいた。「奥様、どちらへ?お送りしましょうか」不幸な結婚をしている相手と、これ以上言い争う気はない――そんな態度だった。素羽は振り返りもせずに言い放った。「結構よ。あなたは未来の社長夫人のお世話でもしていなさい」本当は岩治に八つ当たりするつもりなどなかった。それでも、どうしても感情を抑えきれなかったのだ。命令に従ったとはいえ、あれほど乱暴にエレベーターへ押し込まれては、平静を保てるはずがない。不満を抱えたまま、岩治は踵を返し、再び上の階へと戻っていった。オフィスにいた同僚たちは、その姿を目にすると、好奇心を抑えきれず、すぐさま集まってきて矢継ぎ早に問いかけた。「戸田さん、素羽さんの言っていたことって、どういう意味なんですか?美宜さんと社長の関係って、いったいどうなってるんです?それに、素羽さんと社長の関係は?あの書類って、何だったんですか?」岩治はちらりと視線を向け、重くも軽くもない口調で言った。「……知りたいか?」相手は、小鳥が餌をついばむように、何度もこくこくと頷いた。「社長に直接聞け」その一言で、相手はたちまち言葉を失い、おとなしくなった。よほど肝が据わっていなければ、社長の前で真正面から踏み込むことなどできない。岩治が立ち去った後も、噂好きの集団はすぐには散らず、あちこちでひそひそと話し続けていた。里沙は熱心な美宜派だった。彼女は鼻で笑いながら言った。「あなたたち、本当に勘繰るのが好き
Read more

第205話

司野は目を伏せ、記憶の中の人物にどこか似た面影を持つ美宜を見つめ、呆然とした表情を浮かべた。埃をかぶっていたはずの記憶が、再び動き出す。記憶の中のその人は、生き生きとしていて、あまりにも鮮やかだった。ぼやけていた輪郭が次第に鮮明になり、一コマ一コマが彼の心を激しく揺さぶる。だが、高鳴っていた心の琴線は、やがて素羽の穏やかで優しい姿へと移ろっていった。いつも静かに傍らに寄り添っていた素羽。こちらを見つめる瞳には、しばしば深い愛情が宿り、彼を「司野」と呼んだ。その呼び声が、瞬時に司野を現実へと引き戻した。あの人は、もういない。これからの新しい人生から、目を背けてはいけない。司野は一度目を閉じ、そして再び開いた。胸中に渦巻く感情を無理やり押し払い、はっきりと言い切った。「俺は離婚しない。素羽は俺の妻だ。そして、俺たちの未来の子供の母親でもある」その言葉と同時に、美宜の瞳に宿っていた星のような輝きが、すっと翳った。内心の動揺を必死に抑え込みながらも、表情には彼のためを思って喜んでいるかのような微笑を浮かべる。「お姉さんが、あなたが元気だと知ったら、きっと喜ぶわ」千尋の名が出ると、司野の眉間には思わず柔らかな色が宿り、しかしすぐに哀しみが影を落とした。「……ああ、そうだろうな」美宜は布団の下で手を強く握りしめ、その瞳に一瞬だけ、抑えきれない嫉妬の色が走った。……夜、司野は車を走らせ、自宅へと戻った。もう一度、素羽ときちんと話し合うべきだ。これ以上衝突を重ねるのは、誰にとっても良い結果を生まない――彼はそう感じていた。景苑別荘。司野が上着を脱ぐと、森山がそれを受け取り、黙ってハンガーに掛けた。背を向けた森山の姿を見つめながら、司野は薄い唇をきゅっと引き結ぶ。かつては、こうしたことはすべて素羽がしていた。自分の身の回りのことは、何から何まで、彼女がきちんと整えてくれていたのだ。いつから、素羽はこんなにも気まぐれになったんだ?いつから、俺のことを気にかけなくなった?どうやら、美宜が戻ってきてから、素羽は変わり始めたらしい。司野には理解できなかった。素羽には、はっきりと何度も伝えたはずだ。それなのに、なぜ彼女は聞こうとしない?なぜ、ここまで頑なに反発する?以前の素羽は、素直で分別のある
Read more

第206話

結婚生活が破綻しているなどという現実を、素羽は受け入れられなかった。ましてや夫を他の女と分かち合うなど、断じて許せるはずもなかった。ぴたりと足を止め、司野はゆっくりと振り返った。「美宜とは、清い付き合いだ。やましいことなど何もない。それに、素羽と離婚するつもりはない」私に弁解されても困る。説明すべきは奥様だろうに……森山は心の中で毒づいた。その奥様が、あなたとの離婚を望んでおられるのだ。遠ざかる司野の背を見送りながらも、森山は心のどこかで、旦那様が奥様を宥め、連れ戻してくれることを願わずにはいられなかった。司野が素羽を深く愛し、思いやっていることは分かっている。それなのに、なぜ二人の仲は、離婚寸前にまで追い詰められてしまったのだろうか。いずれ生まれるであろう二人の子どもの世話をする、という自らのささやかな願いも、もう叶わぬ夢と消えてしまうのだろうか。素羽の行き先など限られている、と司野は踏んでいた。実家である江原家と病院という選択肢を消し、彼がまず向かったのは楓華の家だった。楓華は拍子抜けするほどあっさりと扉を開けた。玄関の壁に背を預け、腕を組みながら皮肉を滲ませた声で言う。「あら、珍しいお客様。こんな鳥の巣のような家に、あなたほどの大物がわざわざお越しくださるなんて。とんだご縁もあったものね」もっとも、この縁が禍根とならなければいいが。司野は単刀直入に切り出した。「素羽はどこだ」楓華は唇の端を歪めて言い放った。「王子様にエスコートされて、どこかへ」司野は一瞬視線を落とし、すっと眇めた目で彼女を射抜いた。楓華は鼻で笑い、怯むことなく言い募る。「何を睨んでいるの。あなたには焦がれる女がいて許されるのに、うちのお姫様に王子様が一人や二人いたって構わないでしょう?教えてあげるわ、素羽に言い寄る男なんて、それこそ海外まで行列をなしているのよ。彼女の選択肢があなただけだとでも思ってる?選択肢ならいくらでもある。あなたから解放されれば、彼女の人生はもっと豊かで楽しいものになる。ただそれだけのことよ」素羽ほどの女が、司野を至上の宝物と崇め、彼なしでは生きられぬなどということは、万に一つもあり得なかった。司野は室内に視線を走らせたが、素羽の姿は見当たらない。彼女がここにいないのは明らかだ
Read more

第207話

そちらに手があるというのなら、こちらにも打つ手はある。素羽の通報によって警察署へと連行された司野だったが、彼はすぐさま報復に出た。警察を素羽の許へと向かわせたのだ。ドアスコープを覗き込んだ素羽の目に、管理人の背後に続く二人の制服警官の姿が映った。てっきり、連行された司野の処遇について報告に来たのだと素羽は思った。だが、まさか自分が逮捕される側になろうとは。窃盗容疑――それが、彼女に突きつけられた罪状だった。あの司野が、家宝のアクセサリーを盗んだなどという偽りの罪で自分を警察に突き出すとは、素羽には想像もつかないことだった。司野は自らの身分を明かすことで、その訴えに重みを持たせた。彼が名門・須藤家の人間であると知るや、警察の動きは俄かに素早くなった。司野はドアの陰から姿を現すと、臆面もなく素羽の領域へと足を踏み入れた。そして振り返り、玄関前に立つ警察たちへ申し訳なさそうな表情を向ける。「夫婦喧嘩ごときで、お時間を取らせてしまい申し訳ありません」夫婦間のいざこざと判断した警察は、形式的な聴取でその場を収めると、早々に引き上げていった。素羽は両の拳を固く握りしめ、煮え繰り返る思いで男を睨みつけた。「司野……なんて恥知らずな人なの!」だが司野は、彼女の怒りなどまるで意に介さず、氷のような声で言い放つ。「荷物をまとめろ。俺と家に帰るんだ」素羽はくるりと背を向けて部屋へ戻ると、やがてスーツケースを一つ手に提げて現れた。そして、それを司野の眼前に突きつける。「あなたの物はこれで全てよ。さあ、それを持って私の家から出て行って!」スーツケースに詰め込まれていたのは、かつて景苑の別荘から素羽が持ち出した宝飾品のすべてだった。換金すら叶わぬのであれば、持っていても意味がない。司野はスーツケースから素羽へと視線を移し、言った。「お前が妙な気を起こさなければ、これらはすべてお前のものだ」素羽は唇の端を歪め、嘲るように言い返す。「司野、私は物乞いじゃないのよ」彼の気まぐれな施しなど、こちらから願い下げだ。たとえ本物の物乞いであっても、矜持というものはある。まるで仇敵にでも向かうかのような素羽の剣幕に、司野は心底うんざりしたように深くため息をついた。「いい加減、駄々をこねるのはやめてくれないか」この男は、いつもこうだった
Read more

第208話

押し合ううち、素羽のパジャマのストラップが肩から滑り落ち、透けるように白い肌が露わになる。司野のいる角度からは、彼が愛してやまないその胸の谷間までが、はっきりと見て取れた。衣服の下に隠された柔らかな肢体が、どれほど抗いがたい魅力で己を惹きつけるか、司野は骨の髄まで知り尽くしていた。その眼差しに欲の光が宿るのを、素羽も見逃さなかった。司野は元来、己の欲求に忠実な男である。しばらく妻に触れていなかったことも手伝って、沸き上がった熱が思考のすべてを焼き尽くし、衝動のまま、彼は素羽の体へと覆い被さった。素羽は身を捩って必死に抵抗する。「妻を力ずくで犯すつもり?」司野は彼女の両手首を掴んで頭上へ押さえつけ、まるで当然のことのように言い放った。「俺たちはまだ、法の上では夫婦だ」言うが早いか、司野はその白い肩に唇を埋めた。「触らないで、汚らわしい!」素羽の叫びも意に介さず、司野は片手でその顎を掴むと、乱暴に唇を塞いだ。長年連れ添った夫婦でありながら、二人が唇を重ねた回数は、指で数えるほどしかない。司野にとって、口づけとはそれほどまでに親密な者同士が交わす特別な行為だったからだ。改めて味わう唇の柔らかさは、存外に心地よい。司野は衝動を抑えきれず、貪るように素羽の唇を求め始めた。だが、なされるがままの素羽ではない。意趣返しに、司野の唇を強く噛みしめた。司野は苦悶の声を漏らして眉根を寄せたが、痛みにもかかわらず唇を離さない。素羽が本気で噛みついたことで、鉄錆の味が瞬く間に互いの口内を満たした。それでも司野は彼女を解放せず、それはさながら意地の張り合いだった。互いに相手を屈服させようと一歩も譲らず、どちらも敗北を認めようとはしない。決着のつかないかに見えた二人の攻防は、しかし、思わぬ外部からの介入によって唐突に幕を下ろすこととなる。美宜から電話がかかってきたのだ。着信画面の名を目にした素羽の瞳に、あからさまな嘲りの色が浮かぶ。対する司野は無言のまま即座に通話を切り、スマートフォンを放り投げた。その手はためらいなく素羽の衣服の下へと滑り込み、乾いた大きな掌が、柔らかな膨らみを過たず捉える。長年連れ添った夫婦である。互いのどこに触れればどうなるかなど、知り尽くしている。どれほど素羽が意識の上で拒絶しようと、身体の正直
Read more

第209話

司野は途中で行為を止めたが、素羽は少しも驚かなかった。すべて予想通りだったのだ。素羽は背を向け、そのまま布団に身を沈め、体を丸めた。翌日、浴室の鏡の前で。一夜明けても、司野が残したキス痕は薄れるどころか、むしろ色を濃くしていた。素羽はコンシーラーでそれらを丁寧に隠し、そのまま出勤した。会社に着くやいなや、亜綺が自ら近づいてきて声をかけてきた。「あなたもトライアンフのコンテストに申し込んだって聞いたんだけど?」この「も」という一言が、妙に引っかかる。ということは、亜綺自身も参加しているということだろうか。そう考えた瞬間、その推測はすぐに裏づけられた。亜綺は顎をわずかに上げ、傲慢な眼差しで言い放った。「私がいる限り、あなたに目立つことはさせないわよ!」素羽は落ち着いた声で返した。「上には上がいるって、知らないの?それに、あなたのライバルは私だけじゃないでしょう。ここで私に張り合う暇があるなら、自分の作品に集中したら?」亜綺は鼻で笑った。「私が怖いんでしょ」素羽は一瞬、言葉を失った。亜綺がどうしてそんな結論に至ったのか、まるで理解できなかった。確かに亜綺には専門的な能力がある。しかし思考力の面では、どこか決定的に欠けているように思え、素羽は内心で呆れるばかりだった。朝から愚かな相手と口論する気はなかった。素羽は給湯室へ向かい、自分のためにコーヒーを一杯淹れた。そこへ外から入ってきた清人が、「大変だったね」と声をかけてきた。素羽は一瞬戸惑い、その言葉の意味が分からず、「何のこと?」と問い返した。清人も自分のコーヒーを淹れながら、「亜綺だよ」と簡潔に答えた。それで、すべて腑に落ちた。馬鹿に絡まれるのは確かに煩わしいが、それ以上に厄介に感じているのは、きっと別の誰かだろう。素羽は冗談めかして言った。「あなたのほうが、よっぽど大変そうね」人は皆ゴシップが好きで、素羽も例外ではなかった。彼女はちらりと外を見やり、興味本位で尋ねた。「あなたの将来のパートナーって、彼女なの?」清人は家族に頼まれたと言っていたが、その家族が亜綺の父親でないことは明らかだった。海外にいた頃、清人は亜綺の父親からの誘いを断っていたのだから、となると、それは清人の実家の意向なのだろう。清人は少し間を置い
Read more

第210話

どうやら司野は、美宜とは何でも打ち明け合える関係になっているらしく、こんなことまで彼女に話していたようだ。美宜は終始、素羽の表情の変化を注意深く観察しており、その胸に小さな歓喜が閃いた。やはり、自分の勘は正しかった。美宜は再び口を開く。「手助けできるわ」「あなたが、私を?」美宜は静かに頷く。「ええ。私が手伝うわ」「結構よ」素羽は掴まれていた手を振りほどき、冷ややかに言った。突然現れて、こんなことを口にする以上、美宜が何か企んでいるとしか思えなかった。美宜の顔色が、わずかに変わる。「あら……まさか、別れたくないの?」素羽は淡々と答えた。「私が別れようと、別れまいと。いつ別れようと。あなたには関係ないわ」余計なお世話よ。そう言い残し、踵を返して立ち去ろうとした。だが美宜は、しつこいハエのように再び素羽を引き止める。素羽は露骨に嫌悪感を示し、いい加減にしてほしい、と心底思った。「手を放して!」美宜は一瞬、素羽の背後に視線を投げ、次の瞬間、密かにその腕を強く掴んだ。鋭い痛みに、素羽は反射的に美宜の手を振り払う。次の瞬間、美宜は糸の切れた凧のように、あっけなく後方へ倒れ込んだ。その光景を見て、素羽は心の中で冷ややかに突っ込む。また始まった。相変わらず下手な芝居。だが直後、その「芝居」の意味を、素羽は即座に理解した。司野が、まるでスーパーマンのように素早く割って入り、倒れた美宜を抱き起こしたのだ。司野は素羽を睨みつけ、不機嫌さを隠そうともせず言った。「お前、なんで美宜を押したんだ?」素羽は「か弱そうな」美宜にちらりと視線を向ける。すると美宜は、すべて分かっているかのように、素羽の代わりに口を開いた。「司野さん、私がうまく立てなかっただけよ。素羽さんとは関係ないわ」素羽は無表情のまま、静かに言った。「聞いた?私とは関係ないって」司野は非難の色を帯びた眼差しを向ける。「彼女が親切にかばってくれてるのに……お前、本気でそう言うのか?」――素羽、お前はいつから、こんなにも横暴で理不尽な女になった?素羽は淡々と返す。「もともと私のせいじゃないんだから。どうして認めちゃいけないの?」司野は眉間に深く皺を寄せ、納得のいかない表情で言った。「素羽……お前の心は
Read more
PREV
1
...
1920212223
...
56
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status