All Chapters of 暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める: Chapter 121 - Chapter 130

152 Chapters

第121話

その姿はあまりに愛らしく、思わず抱きしめて頬ずりしたくなるほどだ。「お姉ちゃん」と呼ばれ、真琴は顔をほころばせた。子供目線の優しい声で応える。「会いに来てくれてありがとう、天音ちゃん」ドアの縁に隠れるようにして、小さな手でノブを握りしめ、天音は甘えるように尋ねた。「お姉ちゃん……一緒に遊んでもいい?」時計を見ると、もう十一時四十分。午前の仕事は片付いている。真琴は優しく頷いた。「いいわよ。遊ぼうか」許可を得て、天音はようやくドアを大きく開けた。嬉しそうに、けれど少しはにかみながらオフィスに入ってくる。デスクの前まで来ると、精一杯背伸びをして、チョコレートを数個、デスクの上に置いた。「これ、お姉ちゃんに」少女からのプレゼントに、真琴の表情が緩み、胸の奥が温かくなる。子供とは、なんと愛おしい生き物なのだろう。席を立ち、天音と一緒に遊ぶ。五歳半の天音はまだ小さい。真琴と話す時は見上げなければならない。だから、真琴はしゃがみ込み、目線を同じ高さに合わせて話しかける。その仕草はどこまでも優しい。年齢差はあるが、二人はまるで親友のように打ち解けていた。その頃。商談を終えた信行は、智昭に見送られて階下へ降り、真琴のオフィスへと向かっていた。ドアの前まで来た時、天音の前にしゃがみ、楽しそうに遊ぶ真琴の姿が見えた。天音を見つめる彼女の瞳は輝き、慈愛に満ちている。一瞬、信行はドアを開ける手を止めた。真琴が母親になったら、きっと……誰よりも優しく、良い母親になるだろう。幼くして母を亡くした彼女は、自分が得られなかった愛情を、全てわが子に注ぐに違いない。「片桐社長」「片桐社長」ドアの前でしばらく立ち尽くし、すれ違う社員たちに声をかけられてようやく我に返った信行は、真琴のオフィスのドアをノックした。天音の前にしゃがんでいた真琴は、ノックの音に顔を上げる。信行だと分かると、慌てて立ち上がり、笑顔で挨拶する。「いらしたのですね」そして尋ねる。「社長との契約の話ですか?もうサインは?」オフィスに入りながら、信行は何気なく答える。「いや、まだ詰めが残ってる」それを聞いて、真琴はお茶を淹れようと背を向ける。信行は、彼女の後をついて回る天音を見下ろした。その眼差しも、いつになく
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第122話

真琴はちょうど、自分用のカップにお茶を注いだところだった。子供を作ろうと言われ、口に含んだお茶を危うく吹き出しそうになる。激しくむせ返り、顔も耳も真っ赤になった。カップを置き、呼吸を整えて彼を睨む。必死に話題を変えた。「……社長との商談は順調だったはずですよね。どうして今日サインしなかったんですか?」信行は淡々と答える。「急な変更があってな。まだ協議中だ」「そうですか……」真琴は短く応じ、気を取り直して尋ねる。「まだお昼食べてないですよね。何か出前でも頼みましょうか?」「いらん」信行は腕時計を見た。「まだ用事があるから、行くぞ」「分かりました。お引き止めしません」そう言って彼を見送り、真琴は出前を頼んで天音と一緒に昼食をとった。……翌日の午前。真琴がオフィスで仕事をしていると、手元の電話が鳴った。画面を見ると、由美からだ。下のカフェで会いたいと言う。本来なら断るところだが、由美は食い下がった。「真琴ちゃん、もし降りてくるのが面倒なら、私がそっちに行くわ」それを聞いて、真琴は即答する。「……降りますから、少し待っていてください」電話を切り、やはり下へ降りることにした。由美にアークライトのオフィスに来てほしくない。前回、彼女が来た時に信行と親しげにしていたせいで、その後数日間、同僚たちの視線には同情が混じっていた。あんな惨めな思いは、もう御免だ。程なくして、カフェのガラスドアを開ける。奥のボックス席で、由美が優雅に手を振っているのが見えた。「真琴ちゃん、こっちよ」席に着き、ラテを注文する。店員がカップを置いて去るのを待ち、真琴は単刀直入に切り出した。「由美さん、ご用件をどうぞ」その言葉に、由美はまず眉をひそめ、深々とため息をついた。「実はね……アークライトが急に、峰亜の参加を拒否してきたの。だから信行も契約できずに、膠着状態なのよ」それを聞いて、真琴は納得した。どうりで一昨日、サインをしなかったわけだ。そういうことだったのか。カップを持ち上げ、ラテを一口すする。「それで……私にどうしたいのですか?」由美は隠そうともせずに言う。「高瀬社長と話してくれないかしら。峰亜を締め出さないようにって。高瀬社長は真琴ちゃんのことを
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第123話

去っていく真琴の後ろ姿を見つめ、由美の表情が歪む。あれが……昔知っていた真琴?何も言わず、口答えもせず、何でも言う通りにしていたあの真琴なのか?随分と……薄情になったものだ。……カフェを出てアークライトに戻る時、オフィスビルのロビーで智昭と鉢合わせた。「お疲れ様です、社長」真琴は丁寧に挨拶する。「ああ」智昭は手元の資料を閉じ、何気なく応える。エレベーターホールへ。真琴はボタンを押し、開いた扉に二人で乗り込む。上昇する密室で、智昭が口を開いた。「天音が君をとても気に入ってな。また遊びたいと言ってるよ」真琴は頬を緩めた。「天音ちゃんは可愛くて物知りですから、私も遊んでいて楽しいです」そして、真琴は話題を変えた。「ところで社長。どうして急に、峰亜工業を外すことにされたんですか?」この件について口添えをするつもりはない。ただ、なぜ急に気が変わったのか、その理由が知りたかった。その問いに、智昭は彼女がたった今、誰と会ってきたのかを察した。資料を持った手を後ろに組み、何気ない調子で答える。「峰亜には資格がない。それに……人生、全てが思い通りにはいかないものだ。内海さんは他で十分幸せだろうし、多くのものを持っているだろう。アークライトとの提携が少し残念な結果になったところで、大したことではないはずだ」本来、真琴と信行の関係など気にしていなかった。だが、あの夜。病院のエレベーターの扉が閉まる瞬間、真琴が由美の視線に気づいたかどうかは分からないが、智昭は見ていた。真琴を見る由美の目に宿っていた、あの勝ち誇った色と……隠しきれない挑発の色を。だから、考えを変えた。あまりに個人的な理由に、真琴は思わず吹き出した。「……社長がそんな哲学的なことを仰るなんて、知りませんでした」それを聞いて、智昭が横目で釘を刺す。「まさか、峰亜を入れてやってくれなんて頼みに来たわけじゃないだろうな」真琴は首を振った。「そんなつもりはありません。決めるのは社長ですから」信行がどう選ぶか。峰亜を切るか、それともアークライトとの提携を諦めるか。それは彼自身の問題だ。真琴が情けをかけなかったので、智昭は安堵した。もし彼女にその程度の気骨も強さもなければ、アークライトに残る必要もない。
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第124話

真琴の言葉に、信行はページをめくる手を止めず、ちらりと彼女に視線を流した。「俺は急いでない。何をそんなに焦ってる?」髪をゆっくりと拭きながら、真琴は彼を見つめる。本当に、少しも心配していないようだ。彼女が株を売り払い、金を持ち逃げするとは、微塵も疑っていない。じっと見つめても彼が何も言わないので、真琴は立ち上がって洗面所へ向かった。ドライヤーで髪を乾かし、戻ってくると、自分の側のベッドに静かに腰を下ろす。サイドテーブルの専門書を手に取り、開こうとした矢先だった。信行が顔を向けて尋ねる。「マンションを見に行ったのか?」真琴は弾かれたように顔を上げ、彼を見る。信行をじっと見つめているが、その表情は読めない。ただの世間話のつもりなのか、マンションの購入の意図までは察していないようだ。まばたきをし、あの日、仲介所で拓真に見られたことを思い出す。実際、真琴も拓真を見かけた。彼は若い女性と一緒に手続きをしていたはずだ。挨拶しようかと思ったが、気づかれていないようだったので、知りたい情報を得て先に帰った。それを思い出すと、信行に隠すことなく頷いて答えた。「ええ、見に行きました」ただ、気に入った物件を買う資金がまだ足りないだけだ。真琴が認めると、信行は本を伏せた。体を少し傾け、サイドテーブルの引き出しを開ける。そこから書類を一冊取り出し、何気なく真琴へ差し出した。手渡された書類に目を落とす。不動産の権利書だ。顔を上げ、信行を見て尋ねる。「……どういう意味ですか?」離婚の話なら、権利書だけ渡すはずがない。協議書もあるはずだ。受け取ろうとせず、不審そうに見つめる真琴に、信行はゆっくりと告げた。「もし本当に別れることになったとしても、株の10%は渡せないが、一文無しで追い出すような真似はしない」そこまで言われては、真琴も何も言えず、手を伸ばしてそれを受け取る。「……ありがとうございます」遠慮しなかったのは、遠慮して離婚話が長引くのを恐れたからだ。切り出した以上、もう引き延ばしたくはない。ただ、権利書を受け取ろうとした瞬間、彼の薬指の指輪が目に入り、思わず動きが止まり、じっと見つめてしまった。指輪は綺麗だ。誰が見ても、彼に相手がいること、結婚していることが分かる。ぼん
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第125話

早くひ孫を見たいなら、離婚を急いで、他の人と再婚した方が早いはずだ。真琴の提案に、信行は本から顔を上げ、気だるげに言う。「お前は俺の顔を見るたびに、離婚の話しかできないのか?」そう言われ、確かにここ数日、何度かその話をして急かしていたことに気づく。真琴は気まずそうに視線を逸らし、もうその話はしないことにした。同じようにベッドに寄りかかり、本をめくる。眠くなってきたので本を置き、彼に声をかける。「もう遅いですから、早くお休みになってください」言い終えて、やはり我慢できずに一言付け加えた。「……手続きのこと、早めに時間を作ってくださいね。済んでしまえば、もう二度と言いませんし、誰も急かさなくなりますから」淡々と言い終え、目を閉じる。その瞬間、信行が視線を落として自分を見ているのが見えた。真琴は薄い布団をかぶり、もう何も言わない。ただ、ふと思う。アークライトとの提携……信行は峰亜を切って進めるのか、それとも由美と一蓮托生を選ぶのか。隣で、真琴の言葉を聞くと、信行は彼女を見下ろす。夜も更けている。もし彼女がもう横になっていなければ、叩き起こしてその頭の中を覗いてやりたいところだ。しばらく睨みつけていたが、結局起こすことはせず、リモコンで照明を落とし、本を置いて自分も横になった。……翌日の午後。真琴がオフィスでデータレポートを作成していると、紗友里から電話がかかってきた。出張から戻ったので、食事に行こうという誘いだった。このところ会えずにいたし、話したいことも山ほどある。真琴は二つ返事で承諾した。定時になると、残業せずにデスクを片付けて退社する。オフィスビルのエントランスに着くと、紗友里の車がすでに待っていた。真琴は助手席のドアを開け、笑顔で乗り込む。車が発進するなり、紗友里は会社のことや業界のことをぺちゃくちゃと話し続ける。助手席で、真琴は真剣に耳を傾ける。そして……一緒になって憤慨した。レストランに到着し、テーブルに向かい合って座る。自分の話を終えた紗友里は真琴を見て尋ねる。「で、真琴はどう?最近、信行とはどうなの?母さんから、先週二人で実家に帰ってきたって聞いたけど」紗友里にスープをよそいながら、真琴は落ち着いて答える。「相変わらずよ。離婚の話も進んでない
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第126話

「それに……ここ数年で、もう疲れ果てちゃったの。これ以上は続けられない」真琴は一息ついて、言葉を継いだ。「転職してからは、気分もだいぶ楽になったしね。離婚して、実家に戻っておじいちゃんと住むか、一人でマンションでも買えば……もっと自由になれると思う」うつ病のことは、心配をかけたくなくて紗友里には言っていない。片桐家の人たちにも知られたくない。ただ早く離婚して、彼との関係をきっぱりと断ち切り、新しい生活を始めたいだけだ。芦原ヒルズの家には、恐らく住まないだろう。あそこには辛い記憶が染みつきすぎている。向き合いたくもないし、思い出したくもない。離婚を固持する真琴に、紗友里は言う。「真琴は相変わらずね。普段はこれでもかってくらい我慢するくせに、一度決心したら梃子でも動かないんだから。まあ、信行も確かにどうしようもない男だしね。分かった、もう止めない。離婚したら、いい人紹介してあげるわ。信行を見返して、後悔させてやりなさいよ」それを聞いて、真琴はふふっと笑った。「分かった。じゃあ、期待して待ってるよ」紗友里は胸を張る。「任せといて。絶対、信行よりいい男捕まえてくるから」そこで言葉を切り、紗友里は眉を寄せて大きなため息をついた。「真琴はもう計画があるからいいけど、私なんて最近、両親に見合いを迫られて気が狂いそうよ。正直、真琴と信行を見てると……結婚なんてしたくなくなるわ」紗友里の皿に料理を取り分けながら、真琴は慰める。「みんなが私たちみたいなわけじゃないわよ。お義父様とお義母様は仲がいいし、他のみんなもそうじゃない。私たちがうまくいかないのは、単に彼が私を好きじゃないから。好きな人と一緒になれば、きっと幸せになれるわよ」口ではそう言いながらも、胸の奥が痛む。自分で古傷をえぐっているようなものだ。それを聞いて、紗友里は遮る。「もういいってば、真琴。気を使わないでよ。友達とご飯食べてるんだから、私の世話なんてしなくていいの」真琴は笑う。「今日はなんだか、お疲れみたいだから」「もう、本当に両親に追い詰められてるのよ……」その時、紗友里のそばに置いていた携帯が鳴った。拓真からだ。画面を確認し、スライドして応答する。気だるげな声で。「はいはい。篠井社長、何のご用?」電
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第127話

真琴はスープを一口飲み、静かに言った。「麻雀なんてできないし……それに、信行さんもいるんでしょう?私は遠慮しておくわ」今日は金曜日だ。信行がそちらにいるなら、どうせ由美もいるに決まっている。わざわざお邪魔虫になりに行く趣味はない。それに、結婚してからの数年、真琴は彼らの集まりを避けてきた。信行に疎まれている以上、顔を出しても空気が悪くなるだけだからだ。最後に同席したのは、拓真の誕生日の時だったか。あの日、バルコニーで信行と拓真の会話を聞いてしまった。信行が離婚協議書にサインしないのは、財産分与を惜しんでいるからだと。真琴の言い訳を、紗友里は容赦なく突き崩す。「真琴、どうせ由美がいるから嫌なんでしょ?でもね、信行の正真正銘の妻は真琴よ。由美なんて、信行にすり寄ってコネを作ってるだけの寄生虫じゃない。真琴が遠慮する必要なんてないわよ。恥ずべきなのはあの馬鹿二人であって、あなたじゃない。私が真琴の立場なら、乗り込んでいって鼻柱をへし折ってやるのに」腹を立てると身内にも容赦なく毒づく紗友里の様子に、真琴は思わず吹き出した。紗友里にどう返そうか迷っていると、拓真から着信が入った。電話に出ると、拓真の声が響く。「真琴ちゃん、今、紗友里と飯食ってんだろ?明日は休みなんだし、一緒に遊びにおいでよ」拓真の誘いに、真琴は向かいの親友へ目配せする。紗友里は即座に言った。「行くって言いなさい」紗友里の剣幕に押され、真琴は観念した。「分かりました、拓真さん。では後ほど、紗友里とお伺いします」その後、拓真から詳しい場所を聞き、電話を切った。食卓の向かいで、真琴が誘いを受けたのを見て、紗友里は満足げに頷いた。「それでいいのよ。まさか将来、信行と離婚したら、私たちとも会わずに避けるつもり?友人たちとも縁を切るつもり?」紗友里の自信満々な様子に、真琴は笑って答える。「はいはい、紗友里お嬢様の仰る通りです。これからはお嬢様の指示に従います」軽口で返したが、真琴は内心では分かっていた。信行と結婚して彼に冷遇され始めた頃から、拓真や司たちとは本当の意味で親しくはなれないと。何といっても、彼らは信行の親友なのだ。彼らが自分に良くしてくれたのは、あくまで「信行の妻」だからに過ぎない。二人が食事を終えた頃、拓
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第128話

さっきは真琴に「乗り込んでいって鼻柱をへし折ってやれ」と勧めた紗友里だったが、実は裏でこっそり拓真にメッセージを送った。【汚らわしいものは見たくないから、何とかして】拓真からは「安心しろ、由美はいない」と返事があったはずなのに。それなのに、ドアを開ければ由美が堂々と信行の隣に座っている。紗友里の機嫌が悪くなるのも無理はない。傍らで、真琴も由美と信行の姿を目にしたが、波風ひとつ立てず、淡々とその光景を受け流していた。予想通り。見慣れた光景だからだ。麻雀卓の方で、拓真は真琴と紗友里が来たのに気づき、慌てて立ち上がって出迎えた。彼が近づいてくると、紗友里は腕を組み、由美を冷ややかに一瞥してから、不機嫌そうに問い詰めた。「これはどういうこと?」拓真は弁解するように説明する。「悪りぃ!最初は居なかったんだよ、マジで。さっき信行に連絡した時に、勝手について来ちまって」そう言いながら、二人を中へ促す。「まあまあ、とりあえず中へ入れって。な?」拓真に背中を押され、不承不承、中へと入る。由美は二人を見るなり、満面の笑みで手招きした。「あら、真琴ちゃん、紗友里ちゃん。来たのね。さあ、座って」真琴は表情を変えず、軽く会釈で返した。紗友里は露骨に顔を背け、フンと鼻を鳴らして嫌悪感を露わにする。その時、司が席を立ち、紗友里に場所を譲った。紗友里が卓に着くと、信行はようやく顔を上げ、淡々とした声で真琴に声をかけた。「今夜は残業なしか?」「ええ」真琴は素っ気なく答え、紗友里の隣に腰を下ろした。麻雀は賑やかだったが、拓真は真琴を気遣い、スタッフに軽食や飲み物を用意させると、隣接するティーラウンジに誘って話し相手になってくれた。話題はもっぱら、真琴の仕事のことだ。卓を囲みながら、信行は時折ラウンジの方へ視線を走らせた。真琴が拓真と楽しそうに話し、その目を三日月のように細めて笑っている。それを見て、思わず上の空になってしまう。かつて、あの晴れやかな笑顔は自分一人だけのものだった。今となっては、彼女は誰に対してそう笑おうとも、自分にだけは決して笑いかけてくれない。信行が上の空になっている隙を突き、紗友里は連戦連勝。笑いが止まらないほどのご機嫌だ。ティーラウンジで真琴と拓真が話し込んでい
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第129話

廊下の薄暗い照明が、対峙する二人を照らし出す。由美の笑顔は完璧で、つけ入る隙など微塵も感じさせない。その社交辞令を、真琴は浅い笑みで受け流した。「どういたしまして」そして、事務的に切り上げる。「由美さん、他に御用がないなら、私は部屋に戻ります」「ええ、もう大丈夫よ。一緒に行きましょう」そう言って、由美は真琴に並んで部屋へと戻った。日付が変わる頃。ティーラウンジで真琴が船を漕ぎ始めたのを見て、信行はようやくお開きにすると言い出し、卓を離れた。それを聞いた紗友里は、大きく伸びをしてから点棒を数えるふりをし、今夜は負けたと言い出した。信行は彼女の守銭奴ぶりを見て、引き出しに入っていた現金を全て彼女にやった。優に四十万円はあるだろう。渡された金を受け取り、紗友里は一気に機嫌を良くして笑った。「ありがとう、兄ちゃん」紗友里の礼には何も言わず、信行は大股でティーラウンジの方へと向かう。両手をズボンのポケットに突っ込み、ソファで微睡む真琴を見下ろした。頭が左右に揺れ、不意にガクンと落ちそうになった瞬間、信行は反射的にポケットから右手を出して、その顎をさっと支えた。その背後。信行を追ってきた由美の足が、ぴたりと止まった。彼女はその場に立ち尽くし、目の前の光景を凝視する。その瞳から光が消えていく。信行がこのところ、真琴のことをひどく気にかけていることに気づいてしまった。家に帰ることだけじゃない。彼は無意識のうちに、彼女を目で追っている。ティーラウンジで、不意に顎を支えられ、真琴の意識が浮上した。ぼんやりと目を開け、顔を上げる。目の前に信行が立っている。彼女は気だるげに尋ねた。「……もう打たないんですか?」まだ寝ぼけていて、信行に顎を支えられていることにも気づいていない。真琴が目を覚ましたのを見て、信行は手を引っ込め、何事もなかったかのようにポケットに戻した。「ああ、お開きだ」それを聞いて、真琴は椅子から立ち上がり、紗友里の方へ歩き出した。信行は振り返り、その背中を一瞥する。真琴の態度は、ますます他人行儀になり、距離が開く一方だ。ホテルのエントランス。真琴は当然のように紗友里の隣を歩き、彼女の車へ向かおうとした。すると突然、紗友里が振り返り、由美を見て言った。「行
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第130話

背後からの声に、紗友里はぱっと振り返り、真琴に告げた。「私は由美を送っていくから、真琴を乗せるのは無理よ。兄ちゃんと一緒に帰って」「……」真琴は言葉を失う。由美を送るというのは、こういう意味だったのか。少し余計なお世話ではないだろうか。自分と信行はもうすぐ離婚するというのに。結局、紗友里のかき回しによって、彼女は由美を連れ去り、信行が真琴を連れて帰ることになった。たとえ二人が離婚するとしても、紗友里は由美を甘やかすつもりはないし、彼女が片桐家に入り、自分の義姉になることなど、死んでも認めるつもりはない。白いポルシェの中。ホテルを出ると、紗友里はハンドルを握りながら無表情で由美を一瞥した。「言っとくけど。兄貴は芦原ヒルズの家、真琴に譲っちゃったわよ。権利書ごとね。それに、お爺様とお婆様に、来年には『ひ孫の顔を見せる』って約束もしたわ」助手席で、由美は紗友里の言葉を気にする様子もない。優雅に髪を耳にかけ、余裕の笑みで返した。「紗友里ちゃんはずっと、信行と真琴ちゃんが一緒になるのに反対だったでしょう?信行が真琴ちゃんには不釣り合いだと思ってたはずよ。だから、私が帰ってきたことに感謝すべきよ。私が戻ってきて、真琴ちゃんを解放してあげたんだから。今の状況なら、真琴ちゃんはこれ以上、他の女たちの相手をする必要もないでしょう」そのあまりに身勝手な論理と図太い神経に、紗友里は思わず横を向いて彼女を凝視した。驚愕の眼差しで。由美はそれを見て、落ち着き払って注意する。「紗友里ちゃん、前を見て」言われて、紗友里はようやく我に返り、ハンドルを握り直した。乾いた笑いが漏れる。「はっ……あんたすごいわ。そのメンタル、最強ね」その面の皮の厚さ、鋼のような神経。呆れるのを通り越して感心するほどだ。由美が口を開く前に、紗友里は釘を刺す。「でもね、片桐家に入りたいとか、私の義姉になりたいとか……そんな夢は見ないことね。ありえないわ。天地がひっくり返っても無理よ」由美を送ったのは、この警告を与えるためだった。だが由美は怒りもせず、涼しい顔で微笑んだ。「それは紗友里ちゃんが決めることじゃないわ。信行さえ同意すれば、それでいいのよ」言外に、両親や祖父母が全員反対しようと無駄だと言っている。信行さえ頷け
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