All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 421 - Chapter 430

492 Chapters

第421話

それでも、奥の部屋から響き渡る高村教授の大げさな悲鳴は、遮る壁を突き抜けて聞こえてきた。「江崎社長?」その時、不意に名前を呼ばれて顔を上げると、そこには太一が立っていた。父である厳の薬を受け取りに来たらしい。彼は詩織の姿を見て、驚いたように目を丸くした。「ここに来るってことは、どこか具合でも悪いのか?」「いいえ、付き添いです」「あ、そう」太一は詩織に対して妙に萎縮しているところがある。挨拶を交わすのが精一杯といった様子で、詩織の方も長話をする気はなかったため、二人は会釈をしてすぐに別れた。太一は受け取った薬を持って厳の病室に戻ると、詩織に会ったことを報告した。すると厳は、呆れたように息子を睨みつけた。「馬鹿者が。なぜその足で江崎社長を食事に誘わんのだ」「だから、付き添いだって言ったろ?」「相手は誰だとか、どこの重鎮だとか探りは入れたのか?こちらからもお見舞いに行くべき相手かもしれんだろうが」矢継ぎ早の質問に、太一はげんなりした顔で答える。「親父、頼むから余計な気を使わないで大人しく寝ててくれよ」「まったく、お前という奴は!今後、江崎社長に食わせてもらうつもりなら、もっと機転を利かせんか」「はいはい、わかったよ」父の小言を適当に聞き流し、太一はソファに寝転がってスマホを取り出した。SNSを開くと、タイムラインに志帆の投稿が上がっているのが目に入った。どうやら柊也と一緒にゴルフ場にいるらしい。太一はすかさずグループチャットを開き、二人にメンションを飛ばした。【柊也、志帆ちゃん、水臭いぞ。ゴルフなら俺も誘えよ。病院に缶詰でカビが生えそうだ】すぐに志帆から返信が来た。【今から来ても間に合うわよ。まだ始まったばかりだから】【了解、すぐ行く!】スマホをポケットに突っ込むと、太一はそそくさと身支度を始めた。「親父、ちょっくら志帆ちゃんたちとゴルフしてくるわ。夜には顔出すから」言い捨てて病室を出ようとした太一の背中に、厳の鋭い一喝が飛んだ。「待て!行くことはならん!」「なんだよいきなり」「ならんと言ったらならん!何度言ったらわかるんだ。あの柏木志帆とは距離を置けと言っただろうが。お前の耳は飾りか!」昂ぶった感情に呼吸が追いつかず、厳は激しくせき込んだ。太一は慌てて引き返し、父親の背中をさする
Read more

第422話

――賀来柊也。ろくな用事じゃないに決まっている。詩織は無視を決め込み、着信音が鳴り止むまでデスクの隅に放置した。案の定、二度目のコールはなかった。ふと息をついたのも束の間、今度は高村教授から着信が入った。権田がゴルフ中に足をくじいてしまったらしい。担当の風間医師に連絡を取り、ホテルまで往診に来てもらえないかという相談だった。時計を見ると、すでに診療時間は過ぎている。風間は時間に厳格で、オフになると携帯の電源すら切ってしまう徹底ぶりだ。だが、詩織には奥の手があった。以前、顧客のために必死で調べ上げた彼の自宅住所を知っているのだ。詩織は迷わず車を走らせて風間の自宅へ直行し、彼を乗せて権田が滞在するホテルへと急行した。スイートルームの扉が開くと、そこには予想外の人物がいた。柊也だ。柊也は入ってきた詩織を一瞥したが、すぐに興味なさげに視線を逸らした。詩織の方も彼には構わず、ベッドに横たわる権田の足元へと急ぐ。患部は見るも無惨に腫れ上がり、足首の形が変わってしまうほどだった。風間が慣れた手つきで触診を始める。長年の経験に裏打ちされた指先が、的確に患部の状態を探っていく。「骨に異常はないですね。ひどい捻挫です。まずはアイシングで腫れを引かせて、湿布を出しておきます。急性期が過ぎてから鍼を打てば、三、四日もあれば歩けるようになるでしょう」その言葉に、部屋にいた全員が安堵の息を漏らした。詩織は風間の指示を待つまでもなく、素早くルームサービスに連絡して氷とタオルを手配していた。そんな詩織の機転の良さを、風間は気に入っているようだった。彼は権田の足を冷やしながら、世間話のように切り出した。「そういえば江崎さん、以前の彼氏とは別れたんだったね?」唐突な問いに、詩織は虚を突かれた。よりによって「元カレ」である柊也の目の前で、そんな話題を振られるとは。気まずさを隠しつつ、彼女は短く答えた。「……はい」「今はフリーかね?」「ええ、そうですけど」「だったら一人紹介したい男がいるんだがね。うちの病院に海外から招聘した優秀な医学博士がいるんだ。若くてイケメンだし、君にはお似合いだと思うよ。どうだね、一度会ってみないか?」どうやらお節介な仲人癖が出るのは、どこの年長者も同じらしい。「今は仕事が恋人み
Read more

第423話

「ええ、おかげさまで」詩織は曖昧に微笑んでやり過ごした。「せっかくだ、ついでに脈も診ておこう」風間はそう言うが早いか、詩織の手首を掴んだ。拒否する間さえ与えない強引さだが、そこには医師としての親切心が溢れていた。彼は静かに目を閉じ、脈拍に意識を集中させる。「ふむ……まあまあのようだな。気血の巡りは以前より改善している」だが、すぐに表情を曇らせた。「しかし、食事療法だけでは限界があるな。あの時あれだけ体に負担をかけたんだ、やはり薬できちんと根治させた方がいい」詩織の心臓がドクリと跳ねた。忘れていた。風間は、彼女が流産した過去を知っている数少ない医師の一人だということを。全身が強張り、反射的に柊也の方へと視線を走らせる。彼はスマホの画面に没頭しており、こちらの会話には無関心のようだ。――いや、そうだ。あの人は昔から、私の体調になんて興味がなかった。皮肉にもその無関心さに救われ、詩織は密かに胸を撫で下ろした。風間もその場の空気を読んだのだろう。未婚の女性のプライバシーに関わるデリケートな話題だ、これ以上詳しくは言及しなかった。「近いうちに病院へ来なさい。改めて診察して、薬を処方しよう」最後に彼は、重々しい口調で釘を刺した。「いいか、自分の体を軽んじるんじゃないぞ」「……はい、わかりました」詩織は素直に頷いた。彼女が風間を見送ろうと立ち上がると、柊也がそれを遮った。「俺が送ってくる」彼は詩織に向かって顎であしらうような仕草を見せる。「君は残って、その湿布の使い方を権田さんに教えてやってくれ」「……ええ」二人が部屋を出て行くと、詩織は早速処置に取り掛かった。処方されたのは特殊な生薬を配合した黒い膏薬で、湯煎して柔らかくしてから患部に貼る必要がある。足の不自由な権田を制し、詩織は手際よく準備を進める。「座ったままで結構ですよ。私がやりますから」「すまないね、こんなことまでさせてしまって」恐縮する権田に、詩織は柔らかな笑顔で応えた。「お気になさらないでください。困った時はお互い様ですから」もともと高評価だった詩織の株は、この一件でさらに上がったようだった。権田はすっかり心を許し、雑談に花を咲かせた。話題が真田源治と進めている次世代チップ開発プロジェクトに及ぶと、彼は興奮気味に身を乗り出
Read more

第424話

「痩せたな。ちゃんと食ってるのか?」柊也の声は平坦で、そこに労りの色は感じられない。ただの社交辞令のように聞こえる。だから詩織は、その気まぐれな問いかけには答えなかった。答える気もしなかった。閉まりかけた扉をすり抜け、さっさとエレベーターに乗り込む。柊也も無言で後に続いた。箱の中を沈黙が支配する。途中、柊也のスマホが何度か振動した。誰かからのメッセージだろう。彼は画面に目を落とし、熱心に見入っている。詩織はこの時ばかりはエレベーターの遅さを呪いつつ、何気なく階数表示を見上げた。磨き上げられたステンレスの壁面が、鏡のように中の様子を映し出している。そこには、二人の姿と、柊也が見つめるスマホ画面がぼんやりと映り込んでいた。一瞬、視界の隅に馴染みのあるアイコンがよぎる。あれは間違いなく、志帆のものだ。一階に到着するや否や、詩織は振り返りもせずに足早にロビーを出て行った。柊也も少し遅れて後に続く。その入れ違いで、ホテルの車寄せに一台の車が滑り込んだ。神宮寺悠人だ。権田に会うためにやってきたのだが、車を降りるなり、彼の目は釘付けになった。ホテルから出てくる詩織と、そのすぐ後ろを歩く柊也の姿を捉えたからだ。悠人の足が止まり、眉間に深い皺が刻まれる。ホテルという場所柄、『密会』を疑うなという方が無理な話だ。数秒の逡巡の後、悠人は志帆に電話をかけた。「先輩、今どこにいる?」「家よ」志帆の声は明るかった。悠人は喉まで出かかった言葉を飲み込み、当たり障りのない話題に切り替えた。「江ノ本に来たんだ。近いうちに飯でもどうだ?」「明日なら平気よ。また連絡するわ」「ああ」手短に通話を終えると、悠人は再び詩織が去っていった方向を睨みつけた。その瞳には冷たい侮蔑の色が浮かんでいた。これまでは偶然や誤解だと思っていた。だが、今のはどうだ。他人の婚約者を狙って、ホテルから一緒に出てくるなんて。もはや「誤解」では済まされない。あれは、明らかな略奪行為だ。翌朝、詩織が出社するなり真田から電話が入った。今すぐ経済ニュースをチェックしてほしいという。PCを起動すると、デスクトップの右下に速報のポップアップが表示された。――【エイジア・ハイテック、半導体業界のドンと
Read more

第425話

詩織は反射的に通話ボタンを押した。「はい、江崎です」……一方、志帆の機嫌は最高だった。今朝のニュース報道をきっかけに、風向きは完全に変わった。不祥事以来低迷を続けていたエイジア・ハイテックの株価はV字回復を見せ、今もなお上昇トレンドを描いている。志帆の手腕に懐疑的だった古参株主たちも、手のひらを返したように沈黙を守った。さらに、昨日門前払いを食らわせた例の町田部長からも、猫なで声で電話がかかってきた。「いやあ申し訳ない。急な出張から戻りましてね。昨日わざわざ足をお運びいただいたと聞いて、慌てて連絡した次第です」白々しい言い訳だとわかっていても、志帆はそれを咎めたりはしない。大人の余裕を見せつけ、あえて食事に誘ってやった。町田は二つ返事で快諾した。志帆は少し考え、ついでに悠人にも連絡を入れた。昨日の約束を果たすためだ。町田のような小物が志帆を見下していたなら、その目の前で悠人のような大物とのパイプを見せつけてやればいい。自分の背後には強大な人脈とリソースがあるのだと、骨の髄まで理解させてやるつもりだ。母の佳乃も同様だった。昨日あれほど冷淡だった婦人会のメンバーから、次々とお茶の誘いが入っている。もっとも、坂崎悦子の名前はその中になかったが、今の佳乃にはどうでもいいことだった。彼女は上機嫌でドレスアップし、出かける準備を整えた。ちょうど玄関を出ようとしたところで、夫の長昭が帰宅した。「あら、明日の戻りじゃなかったの?」「仕事が早く片付いたんでな」長昭は小脇に二冊の経済誌を抱えていた。妻の派手な装いを見て眉を上げる。「出かけるのか?」「ええ、少しお茶会にね」佳乃は鏡の前で髪を整えながら答えた。「行ってくるわ。夕飯は家政婦さんに頼んでおいて」「わかった」長昭は靴を脱ぐと、そのまま二階の書斎へ直行した。デスクの上に、持ち帰った雑誌を置く。表紙を飾っているのは、詩織だ。彼はゆっくりとページをめくり、彼女のインタビュー記事だけを熟読した。読み終えると丁寧に雑誌を閉じ、皺を伸ばしてから立ち上がる。本棚の書物を一度取り出し、新しく買った二冊をその最奥へ滑り込ませた。そこには既に、数冊の雑誌が隠されていた。どれも表紙は詩織だった。彼は再び分厚い専門書を前に戻し
Read more

第426話

母に言われるがまま、志帆は国内最大手のニュースサイトを開いた。トップに配信されていた記者会見の動画を再生した瞬間、権田の肉声が飛び込んできた。「今朝の一部報道は事実無根です。私共がエイジア・ハイテック社と提携するという事実は一切ございません。もちろん、エイジア社が優れた技術と市場を持つ業界のリーダーであることは認めますが……」それは、志帆の顔面に泥を塗るに等しい公開処刑だった。業界事情に通じている人間なら、今朝の記事が観測気球……いや、志帆による既成事実化を狙った飛ばし記事であったことは容易に見抜けるはずだ。彼女があんな無茶な手を打ったのは、「この業界でエイジア以上のパートナーはあり得ない」という絶対の自信があったからだ。あれはニュースという名の、権田に対するラブコールであり、同時に逃げ道を塞ぐための強要でもあった。権田が断れるはずがないと踏んでいたのだ。ところがどうだ。朝に記事が出たその日の午後に、当人がわざわざ会見を開いて「フェイクニュースだ」と断言したのだ。これを恥と言わずになんと言う。ネット上がどんな嘲笑で溢れかえっているか、想像するだけで吐き気がした。志帆の血の気が引いていくのを、悠人は見逃さなかった。「先輩、どうしたんだ?」心配そうに覗き込む彼に、志帆は真実を告げることもできず、凍りついたような表情で立ち上がった。「……ごめんなさい。今日はこれで失礼するわ。食事はまた改めて」「ああ、気にしないでいい。何かトラブルならすぐに行ってやってくれ」悠人は穏やかに頷き、さらに付け加えた。「会計は僕が済ませておく」「ありがとう」志帆は短く会釈すると、逃げるように個室を出て行った。残された悠人は、彼女の背中を見送りながら眉を曇らせた。あんなに取り乱すなんて、一体何があったのか。問い詰めることさえ憚かられるほどの切迫感だった。志帆と佳乃が帰宅したのは、ほぼ同時だった。志帆のランチは途中解散、佳乃のお茶会も険悪なムードで早々に散会したのだ。ダイニングでは、長昭が一人で夕食を始めようとしていたところだった。「あれ、二人とも食べてくるんじゃなかったのか?家政婦には私の分しか頼んでないぞ」その言葉を聞くや否や、佳乃は持っていたブランドバッグをソファに放り投げた。「食べてられるわけないでしょう
Read more

第427話

『江ノ本商工連合会』の年次総会を三日後に控えたある日、海雲の秘書が華栄キャピタルの詩織のもとを訪れ、招待客リストを提示した。リストの中にあの見慣れた名前を見つけても、詩織の視線が留まることはない。彼女は表情一つ変えず、そのまま淡々とリストの最後まで目を通した。「こちらは本会員様の招待リストになります。同伴者様のリストにつきましては、後ほど改めてお届けにあがります」時を同じくして――柊也もまた、志帆に総会へ出席する旨を伝えていた。志帆の目が輝く。見せられた招待客リストに名を連ねているのは、財界の大物ばかりだ。それはつまり、そこには無限の人脈とビジネスチャンスが転がっていることを意味していた。どうやって同行をねだろうか――そう志帆が言葉を選んでいた矢先、柊也の方から声をかけた。「午後にでも『Belle Fleur』のアトリエに行っておいで。自分用に、とびきり綺麗なドレスを選ぶといい」その言葉に胸を打たれ、志帆は甘く潤んだ瞳で柊也を見つめた。外野が何と言おうと、どんな事態になろうと、世間がどう噂しようとも関係ない。この人だけは、いつだって毅然として私の隣に立ってくれる。連日降り注ぐバッシングのストレスも、柊也の揺るぎない態度を前にして、嘘のように消え去っていった。この絶対的な偏愛こそ、詩織が七年かけても決して手に入れられなかったものだ。だから――勝負はすでについている。もはや江崎詩織など、眼中に置く価値すらないのだ。志帆が『Belle Fleur』のアトリエで有頂天になりながらドレスを選んでいる頃、詩織の手元には二通目のリストが届いていた。同伴者欄に志帆の名を見つけても、詩織は眉一つ動かさない。想定の範囲内だ。確認を終えると、彼女は親友のミキにビデオ通話をかけた。ドレス選びの助っ人を頼むためだ。重要なパーティだと聞くやいなや、ミキは胸を叩いて請け負った。「任せて!会場の視線を独り占めするような、最高の一着を選んであげるから!」「そこまで張り切らなくていいわよ。あくまで海雲おじ様の代理で出席するんだから、主役より目立つのはマナー違反だわ」「ちぇっ。じゃあ、シックで上品な路線ね」ミキのファッションセンスは抜群だ。詩織も全幅の信頼を置いている。むしろミキの方が、ドレスよりも別のことを懸念
Read more

第428話

外野がどれだけ騒ごうと、二人の絆には傷一つつけられない。柊也がどれほど彼女を大切にしているかを見せつければ、周囲の評価もおのずと改まる。くだらない噂など、一瞬で吹き飛ぶはずだ。会場には、譲と太一の姿もあった。二人が到着すると、太一が陽気に手を振ってくる。隣にいる譲は軽く会釈だけして、すぐに太一との会話に戻った。最近の『サカザキ・モータース』の勢いは凄まじい。自動運転車の市場投入を成功させた譲は、その功績でグループの役員入りを果たしたばかりだ。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いである。志帆は、この機を逃すまいと関係構築を目論み、二人の元へ柊也を促した。近づいた瞬間、譲が太一に尋ねる声が耳に入った。「で、今日は詩織さんは来るのか?」本来なら地方の工場で生産ラインの指揮を執っているはずの彼が、わざわざこの総会のために戻ってきたのだ。その目的が詩織であることは明白だった。ただ一目、会いたい。言葉を交わせなくとも、その姿を見るだけでいい――そんな切実さが滲んでいる。太一は首を横に振った。「さあな、俺の知ったことかよ」譲が呆れたように眉を寄せる。「彼女、今やあんたの上司だろ?少しは上司の動向くらい気にかけたらどうだ」太一は少し黙ってから、ぼそりと答えた。「あいつは上司っていうより、生活指導の鬼教師だぜ。好き好んで生活指導に会いに行く生徒がどこにいるんだよ」「……」譲も言葉に詰まる。確かに、一理あるかもしれない。太一は口にこそ出さなかったが、本音では詩織を避けて回りたかった。気にかけるどころの話ではない。詩織が『衆厳メディカル』の役員に就任して以来、彼女の容赦ない業務改革の嵐が吹き荒れているのだ。適当にやってきた太一のような『お飾り役員』にとっては、地獄の日々だった。提出する書類、報告書の類はことごとく突き返され、修正の山。句読点の位置一つにすらダメ出しが入る徹底ぶりだ。おかげで最近は、出社を考えるだけで頭痛がする始末だった。志帆は愛想よく挨拶しようと口を開きかけたが、二人が詩織の話題ばかり口にすることに苛立ち、瞳の奥に冷たい光を宿した。彼女は冷ややかに言い放つ。「この前、柊也くんに招待リストを見せてもらったけど、江崎さんの名前はなかったわよ」一拍置いて、さらに念を押すように付け加え
Read more

第429話

志帆は柊也の腕をさらに強く抱き寄せた。完璧で自信に満ちた笑みを浮かべ、彼と共に会場のVIPたちとの社交の輪に入っていく。私は誰よりも輝いている――そう信じて疑わなかった。現在の江ノ本市におけるビジネス界での柊也の地位を考えれば、向こうから挨拶に来るのは当然の流れだった。その隣に控える志帆もまた、自然な流れで数多くの有力者を紹介されることになる。誰もが名を知る重鎮ばかりだ。志帆が会話に花を咲かせていたその時、会場の入り口付近が俄かに騒がしくなった。人垣の中から、誰かの驚く声が漏れ聞こえる。「あれは……権田先生じゃないか?」「えっ、隣にいるのは華栄キャピタルの江崎詩織か?どうしてあの二人が一緒に?」志帆の顔に張り付いていた完璧な笑みが、瞬間凍りついた。今まで彼女を取り囲み、愛想よく話していた人々が一斉に手のひらを返したように向きを変え、権田と詩織の元へと押し寄せていく。あっという間に、志帆の周りには数えるほどの人間しか残らなくなってしまった。志帆は唇をきつく噛み締め、人だかりの中心にいる詩織を睨みつけた。詩織は権田の腕に手を添え、余裕のある笑みを浮かべて挨拶に応じている。「おいおい、なんでまたあの二人がセットなんだ?」いつの間にか近寄ってきた太一が、不思議そうに首を捻りながら呟いた。「どっちが招待客で、どっちが同伴者なんだ?」志帆は冷ややかに鼻を鳴らし、吐き捨てるように言う。「決まってるでしょ?」たった一言だが、そこには強烈な侮蔑が込められていた。「そりゃまあ、権田先生が招待客だよな。影響力が違いすぎる」そこは太一も納得のご様子だ。腐っても『半導体の帝王』であり、ハイテク業界の生ける伝説だ。つまり、詩織は権田氏のパートナーとして、この場に紛れ込んだというわけか。「にしても、どうやってあの権田先生に取り入ったんだ?」太一の興味はそこに尽きるようだ。志帆はさも馬鹿にしたように言い放つ。「あなた、彼女との付き合いも長いくせに。あの女がどういう人間か、まだわからないの?」太一は言葉を失った。かつて彼らが詩織を徹底的に嫌悪した理由――それはまさに、彼女の『そういう』部分だったからだ。それまで黙って様子を伺っていた柊也が、ふいに口を開いた。「おかしいな。招待リストに権田氏の名前はなかったはず
Read more

第430話

「実は今朝、権田先生に会いにホテルへ行ったんだけど……江崎が手土産を持って、先生の部屋へ入っていくのを見かけたんだ」言葉を切り、意味深な間を置いて続ける。「二人がホテルを出てきたのは、午後になってからだったよ」志帆の唇が歪み、嘲るような笑みが浮かぶ。やっぱり、という顔だ。江崎詩織という女は、どこまで底辺を這いずれば気が済むのだろう。この総会に出席するためとはいえ、まさか自ら体を差し出すとは……悠人もまた、皮肉な笑いを噛み殺していた。ここ二日間で、詩織が別々の男とホテルから出てくる現場を目撃するとは。しかも相手の振れ幅が広すぎる。権田など、彼女とは親子ほども歳が離れているではないか。よくもまあ、そんな枯れた相手に……呆れを通り越して滑稽ですらある。悠人の中で、詩織に対する軽蔑の念が一層深まった。それと同時に、志帆への尊敬の念が強くなる。彼女のように、自分の実力だけで一歩ずつキャリアを積み上げてきた女性こそ、真に尊い存在なのだと。柊也が戻ってくる気配を感じ、悠人は紳士的に身を引いた。「では、僕はこれで」敬愛する先輩の幸せな時間を邪魔するわけにはいかない。柊也はすぐに戻ってきた。志帆が密かに安堵したのは、彼が詩織と一切言葉を交わしていなかったことだ。それどころか、視線すら合わせようとしなかった。柊也は、江崎詩織を完全に無視したのだ。その事実は、志帆の心を満悦感で満たした。彼女は戻ってきた柊也の腕に再び自分の腕を絡ませ、甘えるように尋ねる。「ねえ、おじ様はいつ頃いらっしゃるの?」「聞いてみる」柊也は志帆のこととなるとマメだ。すぐにスマートフォンを取り出し、海雲に電話をかけた。しかし、コール音だけが虚しく響き、応答はない。「私が聞いた話だと、おじ様、会議の冒頭でスピーチされるらしいわ。だから焦らなくても大丈夫。スピーチが終わってからご挨拶に行きましょう」皆の注目が海雲に集まるその瞬間、彼の隣に寄り添うことができれば、「柏木志帆は賀来家に認められていない」という忌々しい噂を一撃で粉砕できる。「ああ、そうしよう」柊也は頷き、再び志帆をエスコートして社交の輪へと戻っていった。彼女のために、さらなる人脈を紹介するために。その光景を遠巻きに眺めていた悠人の胸に、言いようのない喪失感が
Read more
PREV
1
...
4142434445
...
50
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status