All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 401 - Chapter 410

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第401話

「つよい、キノコ」「じゃあ、お姉さんは?」女の子は大きな瞳をパチパチさせて答えた。「きれいなキノコ」「どうして、あなたはつよいキノコなの?」女の子は口をへの字に曲げ、消え入りそうな声で言う。「そうしたら……だれにもいじめられないから」詩織の胸がずきりと痛んだ。酸っぱい果汁を絞ったような切なさが広がる。そっと手を伸ばし、女の子の服の裾に指先で触れてみる。拒絶されるかもしれない、という怖さを抱えながら。女の子はビクリと身を竦めたが、逃げ出そうとはしなかった。詩織はそれ以上踏み込まず、優しい声で語りかけた。「ねえ、お姉さんも、もっとつよいキノコになっていいかな?そうしたら、あなたのこと守ってあげられるから」女の子はじっと詩織を見つめ続けた。長い沈黙のあと、こくりと頷く。「うん。……もっとつよくて、きれいなキノコになって」百合子が迎えに来たとき、女の子――小春(こはる)は、詩織のベッドですやすやと寝息を立てていた。その光景に百合子は目を丸くし、一体どういう魔法を使ったのかと詩織に尋ねた。なにしろ、自分が小春の信頼を得るまでには、およそ一年近い歳月を要したのだという。詩織から事の顛末を聞き、百合子は感嘆の溜息を漏らした。「本当に……あなたには敵わないわね」しかし次の瞬間、百合子は表情を厳しく引き締め、ピシャリと詩織を叱りつけた。「でも、ドクターになんて言われてるの?安静にしなきゃダメじゃない。もっと自分の体を大事になさい」詩織はシュンとして、借りてきた猫のように大人しくなった。それを見ていた密が、ここぞとばかりに茶々を入れる。「いやあ、やっぱり百合子さましかいませんよ、詩織さんを操れるのは。私が何言っても全然聞かないくせに、百合子さまの一言でこの通りですからね。ホント、毎日来てくださいよ」「……」詩織は黙り込んだ。反論の余地がない。百合子が小春の手を引いて帰ったあと、密は待ってましたとばかりに身を乗り出した。その瞳はゴシップへの渇望でギラギラと輝いている。「詩織さん詩織さん、特大スクープっすよ」詩織は心底どうでもよさそうに、気のない返事を返す。「あんたのスクープなんて、どうせ大したことないでしょ」「いや今の私を信じてくださいって!マジでヤバいんですから」密はもったいぶるように声を張り上げた
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第402話

詩織はさりげなく視線を送った。そこには、足早に歩く柊也と志帆の一行があった。志帆は帽子を目深に被り、サングラスとマスクで顔を完全に覆っている。うつむき加減で、ひどく怯えているようにも見えた。その隣を歩く柊也の片腕は、黒いアームスリングで吊られている。重傷なのは見て取れた。それでも彼は、無事なほうの手でしっかりと志帆を庇い、守るように寄り添っている。視線を感じたのか、ふと柊也がこちらを向いた。一瞬だけ、二人の視線が空中で交錯する。本当に、瞬きするほどの短い時間。そこには恐ろしいほどの冷淡さと、他人行儀な静寂しか漂っていなかった。詩織は表情ひとつ変えず、何事もなかったかのように視線を外した。そして踵を返すと、同行者たちと共に別の出口へと向かっていった。翌朝、詩織は港湾プロジェクトの現場へ向かった。安全検査チームの視察を迎えるためだ。意外だったのは、そこに賢の姿があったことだ。詩織が挨拶しようとするより先に、賢が彼女の異変に気づいて口を開いた。「怪我してるけど、どうしたの。顔色も悪いよ」彼は少し間を置いて、痛ましげに目を細めた。「それに……ひと回り痩せたんじゃないか」半月会わなかっただけで、彼は彼女の変化を敏感に察知していた。「G市の出張中に、ちょっとね」詩織は言葉を濁した。賢の表情が曇る。「ひどいのか。医者はなんて?」「大丈夫、もうほとんど治ってるから。心配かけてごめんなさい」「それならいいんだけど……」賢は安堵の息を漏らした。二言三言交わしたところで、検査チームの本隊が到着した。詩織は急いで出迎えに向かったが、先頭を歩く責任者の顔を見て、思わず眉をひそめそうになった。柏木長昭だ。しかし、すぐに実業家の顔に戻り、長昭たちと握手を交わす。長昭の態度は一応礼儀正しいものだったが、詩織の頬のかすり傷に目ざとく気づいた。「江崎社長、お怪我ですか」「もうずいぶん良くなりました。お気遣い痛み入ります、柏木部長」詩織はビジネスライクに応じた。あくまで公務であるため、長昭もそれ以上は突っ込んでこなかった。検査は順調なようでいて、どこか底意地の悪さを感じさせるものだった。基本方針に問題はないものの、些細なミスを次々と指摘してくる。明らかに「重箱の隅をつつく」ようなやり方だ。時間
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第403話

「いや、君は十分なくらいやってるよ」それは慰めではなく、賢の本心だった。彼は努めて明るい声で続ける。「そう気負うなよ。微細な指摘事項なら、ちゃんと是正期間が設けられるはずだから」「ありがとう」「少し休むといい。顔色が本当に良くないからな」賢は去り際にも、くれぐれも体を休めるように念を押していった。彼が部屋を出ていくと、密が身を乗り出して詩織に囁いた。「ねえ詩織さん。今の篠宮室長、絶対詩織さんのこと好きですよね?見てました今の目?なんというか、ビーム出そうなくらいキラッキラしてましたよ」詩織は報告書に目を落としたまま、さらりと返す。「彼はウルト○マンじゃないんだから。目からビームなんて出るわけないでしょ」「……はぁ。詩織さんって、ホント情緒がないっていうか、恋愛回路が焼き切れてるっていうか……とにかく鈍感すぎません?」……午後に差し掛かると、雲間から太陽が顔を出した。江ノ本市特有の、肌を刺すような強烈な日差しだ。炎天下での視察は、詩織の体力を容赦なく削り取っていく。病み上がりの体、繰り返される頭痛、そして過酷なスケジュール。限界を迎えるのは時間の問題だった。視界が白く明滅し、強烈なめまいと共に、地面が消失したような浮遊感に襲われる。意識がプツリと途切れた。次に気づいたとき、詩織は誰かの腕の中に抱き留められていた。視線を上げると、心配そうに覗き込む長昭の顔があった。「江崎社長、大丈夫ですか」周囲には人だかりができている。「いやあ、柏木部長の反射神経のおかげですよ。とっさに支えなかったら大怪我するところでした」「本当ですよ。この段差から落ちてたらと思うと……」口々に安堵の声が漏れる。長昭は落ち着いた様子で詩織の体を起こすと、自身の秘書に短く指示を出した。「車を回せ。江崎社長を病院へ」病院で検査を終えても、しつこいめまいは治まっていなかった。それでも詩織は、痛む頭を押さえて身を起こし、礼を言おうとした。「無理しなくていい。今は養生することが先決です」長昭は手で制し、少し思案するような間を置いてから付け加えた。「今回の検査の件ですが……あまり思い詰めないように。大きな問題はありませんから」「……お気遣い、ありがとうございます、柏木部長」詩織は内心で大きく安堵した。長昭は長居
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第404話

その問いに対し、志帆は長いこと答えなかった。夜になり、柊也が病室を訪れた。佳乃は気を利かせて席を外そうとしたが、志帆が母親の手を強く握りしめ、頑として離そうとしない。二人きりになるのを避けているようだった。佳乃は仕方なく、柊也には体を休めるよう促して帰し、自分が付き添って泊まることにした。一方、点滴を終えた詩織は、病室の空気が澱んでいるように感じて、気晴らしに廊下へ出た。本来なら密が付き添う予定だったが、詩織が無理やり帰らせたのだ。体調はそこまで悪くないし、これ以上誰かの世話になるほど重症ではない。それに、詩織の怪我のせいでG市での滞在が延びたことで、密のプライベートに亀裂が入っていた。密は何も言わなかったが、彼氏と電話口で揉めているのを耳にしていたのだ。「もう別れる!」なんて不穏な単語も飛び交っていた。気を遣わせるわけにはいかない。夜の病院は静まり返っていた。心地よい夜風が吹き抜け、病室の蒸し暑さを忘れさせてくれる。詩織は中庭のベンチに腰を下ろすと、スマホを取り出して未処理の案件を片付け始めた。プロジェクトチームには、再三にわたって徹底的な修正を指示する。検査チームにつけ入る隙を一ミリたりとも与えないために。送信ボタンを押した直後、智也からメッセージが届いた。【倒れたって聞いたけど、本当か?】大したことはない、と返信したが、智也は引き下がらなかった。どこの病院か教えろ、今すぐ見舞いに行く、と畳み掛けてくる。詩織が渋っているのを察したのか、「教えないなら小林さんに電話して聞き出すぞ」と脅し文句まで添えてきた。観念した詩織は、仕方なく病院の位置情報を送った。智也からは【これから紬と一緒に向かう。紬が心配して大騒ぎしてて、顔を見ないと納得しないんだ】と返信があった。そろそろ部屋に戻ろうと、詩織は腰を上げた。エントランスへ向かう途中、自動ドアが開いて、中から出てくる人影と鉢合わせた。足早に歩いてきたその人物――柊也は、詩織の姿を認めた瞬間、足を止めた。詩織の視線は彼の上を素通りし、冷ややかなほど無感情に逸らされた。そのまま院内へ入ろうとする。すれ違いざま、柊也が口を開いた。その声に感情の色はなく、まるで天気の話でもするかのような淡白さだった。「病気か」詩織は完全に無
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第405話

その真心を無駄にはできず、詩織はスープを二杯平らげた。片付けながら、智也が尋ねる。「今日も点滴があるのか」「ええ、その予定よ」彼はわずかに言い淀んでから、切り出した。「付き添いがいないんだろ。よかったら、私が残ろうか。誰かいたほうが安心だし、何かと便利だろ」「本当に大丈夫よ。たかが点滴だもの、一人でどうにでもなるわ。昔から一人で済ませてたし」詩織は何気なく答えたつもりだったが、その言葉は逆効果だった。智也の眉が痛ましげに歪む。「……それは昔の話だろ。今は、そんなに強がらなくていいんだ」その一言に、二人の間に沈黙が落ちた。気まずく、けれどどこか温かい沈黙。それでも結局、詩織は智也を会社へ追い返すことにした。二人が共同で進めているAIプロジェクト「ココロ」のIPO準備が大詰めで、彼が現場を離れるわけにはいかないからだ。智也が立ち去ったのと入れ違いに、今度は譲が病室に現れた。その腕には、抱えきれないほど大きな向日葵の花束を抱いている。いったいどこから入院のことを嗅ぎつけたのか、詩織には見当もつかなかった。「空港に着いてすぐ聞いたんだ。その足で飛んできた。……それにしても、どうしてこんな酷いことになったんだ?」譲は眉を寄せ、痛ましげに詩織を見下ろした。「G市で、ちょっとトラブルがあって」詩織は言葉を濁した。それ以上語る気がないのを察したのか、譲は深く追求しようとはせず、ただ養生するようにと言い聞かせた。「何をするにも、体が資本だからな」見舞いはこれで終わりだろうと詩織は思っていた。ところが譲は帰るそぶりも見せない。あろうことかソファに腰を下ろし、慣れた手つきでスマホをいじり始めたではないか。しばらく沈黙が流れた後、詩織はたまらず口を開いた。「……忙しいんじゃないの?」「忙しいよ」譲は画面から目を離さずに即答する。「だったら、仕事に戻ったほうがいいんじゃなくて?」「いいんだ。どうせ仕事なんて山ほどあるし、終わらない。点滴が終わるまで付き合うよ」詩織は絶句した。……あまりに遠回しすぎただろうか。実のところ、譲は詩織の意図など百も承知だった。あえて気づかないフリをしているだけだ。女性を口説くには、まず面の皮を厚くすること。嫌がられようが何だろうが、とにかくへばりついて離れない。そう
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第406話

ただでさえ譲が一人いるだけでも気詰まりなのに、そこに京介まで加わったのだからたまらない。そもそも、この人たちは暇なのだろうか?腐っても大企業のトップだろうに。しかもこの二人、どうやら互いに張り合っているらしい。片方が果物を剥き始めれば、もう片方はすかさずお茶を淹れて差し出す。詩織が何かを取ろうと手を伸ばせば、二人が同時に身を乗り出して「手伝おうか」と声をかけてくる。少し身じろぎしただけでも、「どこか痛むのか」「医者を呼ぼうか」と矢継ぎ早の質問攻めだ。互いに一歩も遅れを取るまいと、ピリピリとした空気を放ちながら牽制し合っている。その息苦しさに詩織が頭を抱えそうになった時、新たな見舞い客が現れた。この時ばかりは、あの太一の顔が救世主のように見えた。太一は父・厳の命を受けて詩織の見舞いに訪れたのだが、まさかこの病室で京介と譲に出くわすとは思ってもみなかったらしい。彼は首を傾げ、不思議そうに譲に問いかけた。「あれ、譲。何とかサミットに出席しに行ってたんじゃないの?昨夜電話で誘った時は、あと半月は戻らないって言ってたじゃん」嘘がバレても、譲には悪びれる様子など微塵もない。「急用ができて、予定を切り上げて戻ったんだ」太一はますます訳が分からないといった顔だ。「業界サミットより大事な用事って何だよ?」太一の素朴な疑問に対し、譲は聞こえないフリを決め込んだ。太一は矛先を変え、傍らの京介に視線を向けた。「あと京介兄貴もさ、なんでいきなり定例役員会を中止にしたんだよ?俺、わざわざ衆和銀行まで行ったのに、そこで初めて中止って聞かされたんだぜ」「急用が入ったからな」京介は何食わぬ顔でサラリと言ってのけた。「だから、役員会すっぽかすほどの大事な用事って何なんだよ?」京介はそれには答えず、話を逸らすように問い返した。「お前も、ここへ見舞いに来たのか?」言われてようやく思い出したように、太一が手を打った。「あ、そうそう!親父が江崎社長の入院を聞きつけてさ、くれぐれもお大事にと伝えてこいって言われて来たんだ。一日も早い回復を祈ってるって」「ありがとうございます。お父様によろしくお伝えください」詩織はビジネスライクな笑顔で丁寧に答えた。太一は長居しなかった。どういうわけか、詩織を前にすると妙に緊張してしまうのだ。
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第407話

その言葉を聞いた瞬間、志帆の瞳が冷えた。ほんの僅かな変化だったが、太一が詩織を庇うような口ぶりだったことが、彼女の胸に微かな不快感を広げていった。それでも志帆は、努めて冷静な口調で言った。「私はただ、友達として警告しただけ。あとはあなたが自分で判断すればいいわ」昨夜、従妹の美穂からメッセージが届いたばかりだった。詩織が再び江ノ本市の⼥性長者番付のトップに返り咲いたという知らせだ。志帆の名前は、彼女の下に甘んじている。あの花火大会での事件の影響で『エイジア・ハイテック』の株価は暴落を続け、資産価値は縮む一方だ。詩織との差は開くばかり。『アーク・インタラクティブ』も訴訟と賠償の山に直面しており、西川では公訴まで提起されている……とにかく、何もかもが泥沼状態だ。ネット上では「彼女は一生江崎詩織を超えられない」などと書き立てられている。志帆の胸の奥で、ドス黒い炎が燻り続けていた。その熱がじりじりと彼女を焦がす。……大丈夫、まだ負けたわけじゃない。私にはまだ柊也がいる。確かに江崎詩織には商才があるかもしれない。でも、それだけだ。あの女の生まれや学歴じゃ、どう足掻いたってこれ以上高い場所へは行けない。だから、仕事の能力以外は、何ひとつ私に勝てる要素なんてないのよ。会話が途切れ、二人の間に重苦しい沈黙が流れた。耐えきれなくなった太一が「疲れてない?そろそろ部屋に戻ろうか」と水を向けた。志帆はそれに頷き、太一に押されて病室へと戻っていった。遊歩道の反対側にある小さな人工池は、多くの人で賑わっていた。通りすがりにふとそちらへ目を向けた志帆は、すぐさま京介の姿を見つけた。彼は芝生の上に落ちていた帽子を拾い上げると、丁寧な手つきで芝や土を払い落とし、足早に誰かのもとへと歩み寄っていく。志帆の視線が、無意識に彼の後を追う。そしてその先で――彼女が一番見たくなかった人物を見つけてしまった。志帆の瞳の奥に、冷ややかな嘲笑の色が走る。彼女はすぐに視線を逸らし、太一を急かした。病院の入り口に差し掛かったところで、賢と鉢合わせした。彼もまた手土産を提げており、見舞いに来た様子だった。志帆は笑顔を作って声をかけた。賢は礼儀正しく会釈を返したものの、その反応はどこか素っ気ない。志帆がさ
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第408話

宗一郎の手際は鮮やかで、すぐに返事があった。すでに誰かから根回しが入っているとのことだったが、それが誰なのか具体的な名前までは明かされなかった。いずれにせよ問題は解決したのだ。賢はすぐさまその足で詩織のもとへ駆けつけ、彼女を安心させるべく結果を伝えたというわけだ。確かにこれは朗報だった。詩織は賢に感謝の意を伝えた。だが、賢の視線は詩織ではなく京介に向けられていた。男としての値踏みをするような、鋭い眼差しだ。京介もその視線に気づき、静かに視線を返す。二人の目が合った瞬間、無言の内に火花が散り、見えない戦いの火蓋が切られたかのようだった。もっとも、詩織の手前、二人はそれを表には出さなかった。互いに紳士的な仮面を被り、平然とした態度を崩さない。懸念材料が一つ消えたと思ったら、詩織にはまた別の悩みが降って湧いていた。譲と京介の二人だけでも頭が痛いのに、そこに賢まで加わったのだ。……さすがにこれは、キャパシティオーバーだ。どうしたものかと思案していると、主治医がノックをして入ってきた。部屋の中を見回し、男性陣を一瞥してから厳かに告げる。「患者さんには静養が必要です。あまり大人数でお騒がせになっては困ります。恐れ入りますが、お見舞いの方はそろそろご退室を」こう言われてしまっては、さすがの三人も反論の余地がない。彼らは大人しく詩織に別れを告げ、引き上げていった。嵐が去り、詩織はようやく静寂を取り戻した。午後になると、松本さんが見舞いに訪れた。滋養たっぷりで豪華な手作り料理を持参してくれている。詩織は、どうして入院のことを知ったのかと尋ねた。松本さんは隠すことなく正直に答えた。「柊也様から聞いたのよ」詩織は柊也の意図を推し量るのも面倒で、それ以上は聞かなかった。しばらく世間話をした後、詩織は松本さんを帰らせることにした。彼女には海雲の夕食を作るという仕事が待っているのだ。帰り際、松本さんは明日もまた来ると言い、「何か食べたいものはある?」と聞いてくれた。遠慮して断っても彼女は引き下がらないだろうと分かっていたので、詩織は手間の掛からないメニューを二品ほどリクエストした。松本さんはそれを聞いて、嬉しそうに帰っていった。太一がレストランでテイクアウトした食事を買って戻ってくると、松本さん
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第409話

昼間は休む暇もなかった詩織だが、今は薬の効果もあって深く眠りについていた。病室は静まり返り、カーテンが夜風に煽られて微かに揺れている。夜が更けるにつれ、外では雨が降り始めていた。真夏の夜の雨は激しい。少しでも隙間があれば、容赦なく室内へと吹き込んでくる。当直の看護師が、各病室の窓を確認して回っていた。詩織の部屋にチェックに入った時、ちょうど鋭い雷鳴が轟き、彼女は目を覚ましてしまった。「大丈夫ですよ、ただの雷です。窓が閉まってるか確認に来ただけですから」看護師は慌てて説明した。「開いてるはず……午後は少し蒸したから、空気の入れ替えに開けたままだもの」詩織はそう言いながら、ぼんやりと窓の方へ目をやった。そして、言葉を失った。窓はしっかりと閉められていたのだ。看護師もそれに気づいたようで、「ああ、きっと他のスタッフが閉めたんですね。失礼しました、おやすみなさい」と言って部屋を出て行った。病室に再び静寂が戻る。詩織もまた、別の看護師が閉めてくれたのだろうと思い、それ以上深くは考えなかった。再びベッドに身を沈めようとした時、エアコンの設定温度が「26度」になっていることに気づいた。それは彼女が一番快適に感じる温度だ。午後に窓を開けた際、外気が入る分もっと低く設定していたはずだが……寝る前に戻し忘れていたのだろうか。おそらく、窓を閉めてくれた看護師がついでに温度も調整してくれたのだろう。この病院のスタッフはみんな気が利くから。翌朝、詩織は早朝から検査の予定が入っていた。そのため密も早くから駆けつけ、検査に付き添ってくれた。「詩織さん、昨夜はよく眠れました?」「ええ、それなりに」「よかった。昨日の夜はすごい雷雨だったから、目が覚めたりしなかったかなって心配してたんです」まだ早朝だというのに、検査科の前にはすでに長蛇の列ができていた。「詩織さん、そこの椅子に座って待っててください。私が並びますから、順番が来たら呼びます」密は手近な空席を確保すると、そう言って列に向かった。詩織が腰を下ろした直後、ふと列の中に柊也の姿を見つけた。かなり前のほうに並んでいる。ずいぶん早くから来ていたらしい。詩織はすぐに視線を逸らし、スマホを取り出して仕事のメールチェックを始めた。二、三件処理したと
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第410話

翌朝、すべての検査結果が出揃い、詩織の退院が決まった。誰にも連絡はしなかった。知らせれば、またあの面々が大挙して押し寄せかねないからだ。荷物をまとめ終えた詩織はロビーへ降り、そのままタクシー乗り場へ向かって会社へ直行するつもりだった。正面玄関には、誰かを待っている様子の柊也がいた。まさかの鉢合わせだ。柊也の視線が詩織を捉える。だが詩織は彼を見ようともせず、赤の他人のように前を通り過ぎていった。「柊也くん、お待たせ!」ちょうどその時、志帆と母の佳乃が出てきた。声を聞いて、柊也は詩織から視線を外し、二人の方へ歩み寄った。佳乃の手から荷物を受け取る。「いや、今来たところだ。車はあっちにある。歩けるか?」「ええ、もちろん」志帆は上機嫌だった。母娘は柊也の後に続いて車へと向かう。柊也がトランクに荷物を積み込んでいる間、佳乃は道端でタクシーを待っている詩織の姿に気づいた。彼女は肘で志帆をつつき、目配せした。志帆は冷ややかな目で詩織を一瞥した。退院だというのに迎えもいないなんて、惨めなものだわ。志帆の口元に、微かな嘲笑が浮かぶ。佳乃もまた、鼻で笑って小声で囁いた。「かわいそうにねぇ」志帆も同感だった。昨日はあれだけ京介が甲斐甲斐しく世話を焼いていたから、少しは本気なのかと思っていたけれど。結局、退院の日すら顔を見せないなんて、所詮はその程度の遊び相手ということだ。京介の心には忘れられない人がいる。詩織なんて、ただの暇つぶしに過ぎないのよ。志帆が視線を戻そうとした、その時だった。一台の黒塗りのロールスロイスが、滑るように詩織の目の前に停まった。志帆は怪訝な顔で動きを止める。後部座席のドアが静かに開く。最初に現れたのは、一本の杖だった。続いて、車内から海雲が姿を現した。その光景を目にした瞬間、志帆と佳乃の顔から血の気が引いた。詩織もまた、海雲の登場に目を白黒させていた。「おじさま……どうしてここに?」「松本から今日退院だと聞いてな。迎えに来たんだ」運転席から降りてきた鈴木さんが、慣れた手つきで詩織の荷物を受け取り、トランクへと運んでいく。昨日、松本さんが食事を届けてくれた際、いつ退院するのかと聞かれたのを思い出した。その時、詩織は「たぶん明日になると思います」と答えてい
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