とあるオフィスで、何やら言い争うような声が響いていた。 声の主は三十代半ばの男と、その上司である。上司に対しても一切遠慮のない強い口調で、男は眉間に皺を寄せ、言葉を放つたびに目がキッと吊り上がる。その鋭い眼光は、どこか闘犬のような気迫を帯びていた。「課長、いくらなんでも営業、プレゼン未経験のやつを同伴だなんて、冗談ですよね?」「まぁ、落ち着け。言いたいことは分かるが……」 上司がなだめようとするも、男の声はさらに大きくなる。 広々としたオフィスフロア。だが、デスクの間隔は広く、人の姿もまばらだ。社員たちは皆、黙々とパソコンに向かい、キーボードを叩き続けている。騒ぎに気づいていながらも、誰も視線を向けようとはしない。 今の時代、職場での小さな衝突は、チャットツールの中で済ませるのが主流になっている。直接声を荒げるのは、珍しい光景だった。 この会社――ベクトルユー株式会社は、システム構築やネットワーク運営を主な事業とする中堅企業である。全国に支店を持ち、社員数も増え続けていた。 しかし、いまの本社はどこか閑散としている。リモートワーク制度が導入されてからというもの、オフィスに姿を見せる社員は半数以下に減った。 会議も打ち合わせもオンライン。チャットやクラウドで仕事が完結する環境は、一部の社員からは「働きやすい」と好評だったが、同時に人間関係の希薄さを生んでいた。 その静かな空間の中で、声を張り上げていたのは営業担当の古田。 社内でも一、二を争う売上成績を持つ敏腕営業マンで、鋭い観察眼と巧みな話術を武器に顧客を落としてきた。だが、その反面で気性が荒く、思ったことはすぐに口に出してしまうタイプでもある。「いや、私も不安なんだよ。ただな、先方からの要望で、なぜか鳩森にも来てほしいって言われたんだ。彼の提案を詳しく聞きたい、と」「なぜ鳩森の意見が……? まぁ、SEとしては腕は悪くないですけど、あいつ根暗で、人前だとまともに話せないですよ。ビデオ会議でも終始挙動不審ですし……」「しょうがないだろ。相手がそう言ってるんだ。君がメインで喋ればいい。鳩森はただの同伴だ、ああ……」 課長が言いかけたそのとき、ふと二人の視線が一点に向かう。 そこに立っていたのは、鳩森寧人(はともりよしと)――件の人物である。 ヨレヨレのスーツに、くしゃくしゃの髪。シャ
Last Updated : 2025-10-21 Read more