All Chapters of 攻略対象は私じゃない! ~腐女子が神視点で推しカプ見てたら、いつの間にか逆ハーレムの中心にいた件~: Chapter 11 - Chapter 20

59 Chapters

第11話:プレゼントの解釈違い

 世界が、ぼんやりと霞んで見える。 意識と現実の境界線が曖昧で、まるで水の中にいるみたいに、耳に届くすべての音がくぐもって聞こえた。 原因は、分かっている。睡眠不足だ。 グループ課題のレポート作成、カフェの新人教育(という名の陽翔くんの恋の応援)、そして、何よりも優先すべき、我が魂の結晶である同人誌原稿の締切。この三つが、私の貧弱なキャパシティの上で、無慈悲なデッドライン・ダンスを踊っていた。「……ジーク……アーク……待ってて、今、最高の、シチュエーションを……うへへ……」 大学の講義中も、私は机に突っ伏し、意識の半分を『Fallen Covenant』の世界に飛ばしていた。時折、自分の口から漏れる不気味な笑い声で我に返るが、数分もすれば、また強烈な睡魔と妄想の波に飲み込まれていく。 周りの学生が、私を「いよいよヤバい奴」という目で見ているのは知っていた。だが、どうでもいい。私には、成し遂げなければならない使命があるのだから。 そんな、ゾンビのようにキャンパスを徘徊していたある日の放課後。グループ課題の簡単な打ち合わせを終え、よろよろと席を立とうとした私を、天王寺先輩が呼び止めた。「月詠さん。ちょっと、いいかな」「ひゃい!?あ、あの、なんでしょうか、先輩!」 突然の王子様の声に、私の脳が無理やり再起動する。ぼやけた視界に、相変わらずキラキラとした、完璧な笑顔が映った。彼は、少しだけ困ったように眉を下げると、すっと一本の小さな瓶を差し出してきた。 金色の、高級そうなラベルが貼られた、栄養ドリンクだった。「……これ。最近、すごく顔色悪いみたいだから。無理、してない?」 心配そうに、私の顔を覗き込む、甘い声。 私の心臓が、きゅっと奇妙な音を立てた。いかん、いかん。これは、私への優しさではない。 私の脳内BLフィルターが、ガコン、と音を立てて作動する。
last updateLast Updated : 2025-10-24
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第12話:倒れた女神(?)と三人の騎士

 目の前が、ぐにゃりと歪んだ。さっきまで見ていた大学の廊下のありふれた景色が、水に落とした絵の具のように滲んで溶けていく。「……あれ?」 おかしい。なんだか自分の身体が自分のものではないみたいに、ふわふわと浮いている感覚。周りの学生たちの声がやけに遠い。すぐ隣を通り過ぎていくはずの雑談も、分厚いガラスを一枚隔てた向こう側から聞こえてくるようだ。 ――ヤバい。 そう思った瞬間、足から力が抜けた。視界が急速に暗転していく。最後に聞こえたのは、誰かの短い悲鳴と、自分の名前を呼ぶ親友の切羽詰まった声だった。◇「――だから! 俺が付き添うって言ってるだろ!」「……どうして君である必要がある。最も長く彼女の側にいたのは僕だ」「はぁ!? 一番心配してるのは俺なんですけど! 先輩たちは黙っててください!」 誰かの声がする。 低く、苛立ちを隠そうともしない声。 静かだが、有無を言わせない強い意志を感じさせる声。 少し高く、焦りと必死さが滲んでいる声。 頭に響くその声が、ひどく不快だ。まるで質の悪いスピーカーで三つの曲を同時に流されているみたいだ。今はただ、この身体を包む柔らかいシーツの感触と、消毒液の微かな匂いだけに意識を委ねていたかった。 私が廊下で倒れたらしいという事実を、まだ夢うつつの中でしか認識できていない。 乃亜からの連絡を受けた天王寺先輩が講義を抜け出して駆けつけ、ほぼ同時に、図書館で私を探していたらしい氷室くんも異変を察知して現れた。そして、たまたま大学に来ていた七瀬くんが、騒ぎを聞きつけて飛んできたのだという。 ――そんな都合のいいこと、ある? まるで、出来の悪い乙女ゲームの強制イベントみたいだ。もちろん、そんなことになっているとは、意識の途切れた私には知る由もなかったけれど。 三人が医務室に殺到したのは、ほぼ同時だったらしい。白いカーテンで仕切られた簡素なベッドで眠る私の姿を認めた瞬間、彼らの間に走った緊張感は、火花が散るようだったと、後から乃亜が呆れ顔で教えてくれた。
last updateLast Updated : 2025-10-25
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第13話:看病戦争、勃発①

 どうやって自分のアパートまで辿り着いたのか、記憶はひどく曖昧だ。 医務室で意識を取り戻したものの、熱は一向に下がる気配を見せず、身体はぐったりとベッドに沈んだまま。結局、見かねた乃亜がタクシーを呼んでくれて、私を家まで送り返してくれることになった。 そこまでは、よかったのだ。 問題は、乃亜が「あんたたち、原因作ったんだから一人くらい責任持って手伝いなさいよ」と釘を刺したことだった。その一言が、新たな戦争の火種となった。「当然、俺が行く」「いや、僕が送る」「俺が付き添います!」 三者三様の、しかし決して譲らないという固い意志のこもった声。結局、誰か一人に絞ることなどできるはずもなく、乃亜は早々に交渉を諦めた。「……もう知らない。全員で来れば」と吐き捨てた親友の顔は、般若のように見えた。 そんなわけで、タクシーの後部座席で、私は三人のイケメンにサンドイッチにされるという、状況さえ違えば天国のような地獄を味わうことになった。右隣の天王寺先輩から感じる高い体温と、仄かに香る上品なコロン。左隣の氷室くんの、触れているわけでもないのに伝わってくる、ひんやりとした静謐な空気。そして、助手席から何度も振り返って「先輩、大丈夫ですか!?」と心配そうに声をかけてくる七瀬くん。 熱で朦朧とする頭で、私はぼんやりと思う。 乙女ゲームなら、ここはスチルが発生する重要イベントのはずだ。ヒロインが熱に倒れ、誰か一人のヒーローが献身的に看病し、二人の距離がぐっと縮まる……。 なのに、どうして私の現実は、三人の男たちの無言の圧力が渦巻く、息苦しい空間になっているんだろう。◇ アパートに着くと、鍵を開けた乃亜が呆れたように言った。「はい、あんたたち、さっさと必要なもの買っておいで。栞の看病に必要なもの。誰が一番役に立つか、ここで決めなさいよ」 その言葉は、まるで闘牛士が赤い布を振ったかのようだった。三人は一瞬顔を見合わせ、火花を散らすと三者三様の方向へと駆け出していった。 数分後。私の狭いワンルームに、三人の騎士がそれぞれの武器を手に帰還した
last updateLast Updated : 2025-10-26
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第14話:看病戦争、勃発②

 瞼の裏が、じりじりと焦げ付くように熱い。 知らないはずの景色が、熱に浮かされた意識の暗闇で、閃光のように激しく明滅していた。 燃え盛る城、天を覆い尽くす黒い翼、そして空から降り注ぐ無数の漆黒の羽根。誰かの、胸を掻きむしるような悲痛な叫び声が、現実の音を遮断して耳の奥で木霊している。 ああ、知っている。これは、私がこの世の何よりも愛してやまないBLゲーム『Fallen Covenant』の、最も胸を締め付けられる悲劇のシーンだ。 そうだ。私は魔王なんかじゃない。私は、この物語の登場人物ですらない、ただの観測者。いつだって安全な場所から、神の視点から、彼らの過酷な運命を見守ることしかできなかったはずなのに……。 ハッとして、まるで溶けた鉛を塗りたくられたかのように重い瞼を、ありったけの力でこじ開けた。 ぐにゃり、と視界が歪む。見慣れたはずの自室の天井が、まるで水面のように不気味に揺らめいていた。喉がカラカラに渇いて、息を吸い込むたびにガラスの破片が突き刺さるような痛みが走る。 その朦朧とした視界の、すぐ間近に、誰かの顔が映り込んでいることに気づいた。 私の顔を、静かに、心配そうに覗き込んでいる。 光を吸い込むような、艶のあるサラサラの黒髪。その隙間から覗く、嵐の前の湖面のように静まり返った灰色の瞳。熱に浮かされた私の肌とは対照的な、血の気を感じさせないほど透き通るように白い肌。 その、現実感を失わせるほど人間離れした美しい姿が、私の魂に深く、深く刻み込まれた最愛のキャラクターの姿と、ぴたりと重なった。 追放された天使、アーク。 神に背き、魔王ジークフリートにその魂と身体を捧げた、哀れで、気高くて、そしてどうしようもなく美しい私の最推し。 いつもどこか世界を拒絶するような悲しみをその瞳に湛え、誰にも心を開かず、ただ一人、主君であるジークフリートだけをその灰色の瞳に映している、健気で愚かな天使。 目の前にいるのは、氷室奏。わかってる。熱で機能不全に陥った脳の、片隅に残った冷静な回路が必死に警鐘を鳴らしている。わかっているのに、心が、魂が、言うこと
last updateLast Updated : 2025-10-27
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第15話:その名はアーク

夢を見ていた。 それは、私が何度も、何度も繰り返し見ている夢。漆黒の玉座に腰掛ける魔王と、その傍らに影のように寄り添う、片翼の天使の物語。 裏切りと絶望の果てに、神に背を向け、たった一人の主君に忠誠を誓った天使アーク。彼は決して笑わない。その美しい灰色の瞳は、いつも深い悲しみと諦念の色を宿している。 私は知っている。彼が本当は誰よりも脆く、愛に飢えていることを。主君の無骨な優しさだけが、彼の心を繋ぎとめる唯一の光であることを。 だから、お願い。 夢の中の私は必死に手を伸ばす。声にならない叫びが、喉の奥でくぐもる。 お願いだから、そんな顔をしないで。 まるで世界のすべてを敵に回したかのような、孤独な顔をしないで。 指先が、何かに触れた。ひやりと冷たい、けれど確かな感触。私はそれを夢中で掴んだ。これが、私の愛するアークの手。失ってはいけない、大切なもの。 熱い雫が私の頬を伝っていくのがわかった。これは私の涙? それとも、彼の涙? もうどっちでもよかった。ただ、この想いだけは、伝えなければ。 「アーク……そんな悲しい顔をしないで……」 か細く掠れた声。けれど、それは紛れもなく私の声だった。 「……必ず、助けに来るから……だから……」 だから、一人だと思わないで。 握りしめた手に、祈るように力を込める。お願い、届いて。この想いが、孤独なあなたの心にほんの少しでもいいから届きますように。 夢と現の境界線が曖昧に溶けていく。掴んでいるのは、本当に彼のなのだろうか。ひんやりとしたその感触は、どこか氷室くんの手に似ているような気もした。 でも、そんなはずはない。だって彼は私の推しカプの一人。天王寺先輩の隣に立つべき人。私なんかが触れていいはずがない。 これは夢だ。熱が見せている都合のいい幻。 そう自分に言い聞かせると、私の意識は再び深い闇の中へとゆっくりと沈んでいった。 ◇ 意識は、深い海の底を漂っているようだった。時折、ふっと水面に押し上げられるように微かな光や音が届いてくる。誰かの話し声。衣擦れの音。ため息。それらは水に滲んで輪郭を失い、またすぐに遠ざかっていく。 でも、私の手を握るその冷たい感触だけは、ずっと消えなかった。まるで私が深い海の底から離れていってしまわないように繋ぎとめてくれる、唯一の
last updateLast Updated : 2025-10-28
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第16話:開幕、秋桜祭!①

「――君が言っていたアークとは、誰のことなんだ?」 氷室くんの、静かだが逃げ道を一切許さないような声が、私の鼓膜を直接震わせた。それは問いというより、尋問に近い響きを持っていた。 彼の真剣な灰色の瞳から逃れるように、私は必死に視線を彷徨わせる。どうする、私。ここで正直に「私が愛してやまないBLゲームの、儚く美しい受けキャラクターです」なんて言えるはずがない。言ったが最後、社会的に死ぬ。それだけは絶対に避けなければならない。「え、えーっと、それは、その……」 錆びついたゼンマイ仕掛けの人形のように、私の脳がぎしぎしと音を立てて言い訳を探す。そうだ、確か中学の時に飼っていた雑種の猫の名前がそんな感じじゃなかったっけ? いや、タマだった。だめだ、ごまかせない。私の貧弱な記憶のデータベースは、この絶体絶命の危機において、あまりにも無力だった。 私の挙動不審な態度に、氷室くんはさらに眉を寄せた。彼の整いすぎた顔が、じり、と音もなく一歩近づいてくる。ひんやりとしたオーラが私のパーソナルスペースを侵食し、まるで体感温度が五度くらい下がったような錯覚に陥った。「月詠さん」「は、はいぃ!」 裏返った、自分でも聞いたことのないような情けない声が出た。もうだめだ。詰んだ。観念して、墓穴を掘る覚悟ですべてを話そうと口を開きかけた、その時だった。「――見つけた。二人で何してるんだ?」 救いの神か、あるいは新たな悪魔か。聞き慣れた、蜂蜜を溶かしたような爽やかな声と共に、天王寺先輩が私たちの間にぬっと姿を現した。その笑顔はいつも通り王子様みたいに完璧に磨き上げられていたけれど、目が、全く笑っていない。特に、氷室くんに向けられた視線は、触れたら凍傷になりそうな絶対零度の冷たさを帯びていた。「別に。君には関係ない」「関係なくないだろ。俺の月詠さんに、何か用だったのかって聞いてるんだ」「君のではない」 バチバチ、と、まただ。またこの二人の間に、目には見えない、しかし肌を刺すほどに激しい火花が散っている。私を、その中心に挟んで。 結局、その場は天王寺先輩が私を半ば強引に、しかしその実、誘拐でもするかのように連れ去る形でうやむやになった。氷室くんは最後まで何か言いたげにこちらを見ていたけれど、その静かながらも執拗な視線から逃げるように、私は先輩の広くて逞しい背中の後ろに隠れ
last updateLast Updated : 2025-10-29
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第17話:開幕、秋桜祭!②

 私の突然の立候補に、教室は水を打ったように、いや、まるで真空状態にでもなったかのようにしんと静まり返った。それまでざわめきで満たされていた空気が、ぴんと張り詰める。クラスメイトたちの視線が、好奇と困惑の入り混じった無数の鋭い針となって、一斉に私に突き刺さった。え、なに、私、今、何か宇宙の真理に反するようなことでも言った?「えっと……月詠さん、だよね? プロデューサーって、具体的に何するの?」 実行委員の一人が、腫れ物に触るかのように恐る恐る尋ねてきた。その問いに、私の内側で眠っていた情熱の火山が、ごう、と音を立てて覚醒する。私はすっくと立ち上がり、胸を張って答えた。それはもはや、ただの説明ではなかった。私の信念を表明する、魂の演説だった。「もちろん、衣装の選定から当日の接客指導、そして何より、この二人……天王寺輝と氷室奏という神が気まぐれに創りたもうた奇跡のカップリングの魅力を、最大限に、いえ、宇宙の果てまで届くほどに引き出すための演出、そのすべてです!」 私の熱弁に、クラス中がぽかーんと口を開けている。唯一、乃亜だけが額に手を当てて深く、深ーく天を仰ぎ、「あー……やっちゃった……スイッチ入っちゃったよ、あいつ……」と絶望的な声で呟いていたが、今の私の耳には届かない。私の脳内は、これから始まる夢のような祭典への期待と、推しカプを公式の舞台でプロデュースできるという、禁断の喜びではちきれんばかりだった。 そして数日後。私たちは、衣装合わせのためにレンタルショップの一室に集まっていた。 ずらりと並んだ燕尾服やフロックコートを前に、私はプロデューサーとして(自称)腕を組み、神妙な面持ちで唸っていた。これはただの衣装選びではない。神の御体に触れる聖衣を選ぶ、神聖な儀式なのだ。「うーん、やはり王道は黒の燕尾服……。しかし天王寺先輩の太陽のような輝かしさを思えば、純白も捨てがたい。いや、待てよ? 氷室くんの硝子細工のような儚さとミステリアスな雰囲気を際立たせるなら、いっそ禁欲的なまでのストイシズ
last updateLast Updated : 2025-10-30
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第18話:プロデューサー月詠栞の暴走 ①

 宣言したからには、やる。 私は腐女子としての全人生を懸けて、この一大プロジェクトに身を投じることを誓った。あの日以来、私の大学生活は「最高のシナリオ執筆」を中心に回っていたと言っても過言ではない。講義中はノートの端にプロットを練り、バイトの休憩中にはスマホにセリフを打ち込み、夜はパソコンの前でうんうんと唸りながら来る日も来る日もキーボードを叩き続けた。「……できた」 数日後。目の下のクマを勲章のようにぶら下げた私は、達成感に満ちた顔でプリントアウトされたばかりの原稿を手に取った。その表紙にはこう記されている。 『シナリオ:秋桜祭執事喫茶 ~二人の騎士と選ばれし姫君(※ただし姫君は概念であり、二人の騎士の絆を深めるための触媒とする)~』 我ながら、完璧な出来栄えだった。 その内容はこうだ。喫茶店に、ごく平凡なモブの客(=お嬢様)が来店する。彼女の心を射止めるべく二人の執事――太陽のように眩しい輝(あきら)と、月のように静謐な奏(かなで)が、甘い言葉とサービスで火花を散らす。しかしその戦いはやがて、お嬢様そっちのけで「どちらがより相手を理解しているか」「どちらがより相手の心を揺さぶれるか」という、二人の間だけのプライドを懸けたものへと変貌していく……という、あまりにも腐女子の願望を詰め込みすぎたストーリーだった。「どう、乃亜! 天才じゃない!?」 翌日の放課後。教室で開かれた第一回読み合わせで、私は親友にシナリオを突きつけ同意を求めた。乃亜は、パラパラと数ページめくっただけでこめかみを押さえて深々と、それはもう深々と天を仰いだ。「……あんた、本気でこれをあいつらにやらせる気?」「もちろんだよ! 私の脳内では、すでにお二人の熱演がミリオン再生されてる!」 私の熱弁も虚しく、クラスメイトたちの反応は微妙だった。「なんか……少女漫画っていうか……」「男同士の友情、熱すぎない?」と、誰もが首を傾げている。 しかし、このシナリオの真のターゲットで
last updateLast Updated : 2025-10-31
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第19話:プロデューサー月詠栞の暴走 ②

 練習は、案の定、全く進まなかった。 私が「お嬢様」として椅子に座った途端、二人のボルテージは明らかに上がった。台本では、まず天王寺先輩が「ようこそ、私のかわいいお嬢様」と微笑みかけるだけのシーン。それなのに。「――ようこそ。やっと会えたね、俺だけの、お嬢様」 天王寺先輩は台本にはない甘いセリフを囁きながら私の手を取り、その甲にキスをするという暴挙に出た。「きゃああああ!」と黄色い悲鳴を上げる女子たち。しかし私の脳内はそれどころではない。 ――アドリブ! 天王寺先輩の、氷室くんへの愛のアドリブが炸裂した! 私の手を「お嬢様」という名の氷室くんに見立てて、その想いを伝えているのね! 熱烈! 私が一人脳内で興奮していると、今度は氷室くんがすっと天王寺先輩と私の間に割り込んできた。「……あまり、この人に触らないでほしい」 静かな、しかし明確な独占欲を滲ませた声で、氷室くんが天王寺先輩の手を振り払う。そしてそのまま私の腕を掴むと、ぐい、と自分のほうへ引き寄せた。「ちょっ、氷室くん!?」「君は、僕だけを見ていればいい」 ――ピシャーン! AGAIN! 出た! 嫉妬! 氷室くんの天王寺先輩への独占欲からくる嫉妬! 私の腕を「天王寺先輩に触れられたお嬢様」に見立てて、その穢れを払おうとしているのね! 純愛! 脳内BLフィルターがフルスロットルで稼働する私の周りで、クラスメイトたちは「え、なにこの展開……」「台本と全然違くない?」「でも、なんか、すごくない……?」と、別の意味で盛り上がっている。 練習は完全にストップし、ただただ二人が私を奪い合う、謎の時間が流れていく。「これは、練習にならないわね……」 乃亜が心底呆れた声で呟いた。その通りだった。これは練習ではない。ただの、公開痴話喧嘩だ。 ――もっとやれ。 そう思ったのは、言うまでもない。 その日の練習は、もはや練
last updateLast Updated : 2025-11-01
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第20話:執事喫茶、炎上(物理的にではない)①

 学園祭当日の空気は、独特の熱気に満ちていた。ざわめきと喧騒、あちこちから聞こえてくる楽しげな音楽、そしてソースの焼ける香ばしい匂い。そんな非日常の渦の中心で、私たちのクラスが運営する執事喫茶『Casket of Sweets』は、オープンと同時に凄まじい熱狂に包まれていた。「お嬢様、お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」 キラキラと光を弾く明るい茶色の髪。完璧な角度で腰を折り、優雅に差し出される大きな手。天王寺先輩が、ただそれだけの仕草で微笑むたびに、入り口付近に群がっていた女子たちから絹を裂くような悲鳴が上がる。「……っ」そして、その隣。静寂を纏うように佇む氷室くん。彼は言葉少なげに、けれど流れるような動きで椅子を引き、無言のままお客様をエスコートする。そのミステリアスな雰囲気に、別の層の女子たちがうっとりと息を呑むのが分かった。 私はといえば、戦場と化したフロアの隅、キッチンカウンターの内側でひたすらグラスを磨きながら、目の前で繰り広げられる光景に打ち震えていた。(ああ……尊い……!)心の中で、私は滂沱の涙を流していた。太陽と月。光と影。完璧な対比を描く二人の美丈夫が、揃いの黒い執事服に身を包み、お客様をお迎えしている。私が書いた拙い脚本なんて霞んでしまうほど、彼らがそこに存在するだけで、世界は完成された絵画になっていた。 私がこの世に生を受けたのは、この光景を見るためだったのかもしれない。神様、ありがとう。同じクラスにしてくれてありがとう。そして何より、この企画を提案してくれた乃亜、ありがとう……!「栞、あんたさっきから同じグラスしか磨いてないけど。穴開ける気?」すぐ隣で、同じようにメイド服に身を包んだ親友の神崎乃亜が、呆れ果てた声で私の脇腹を突いた。「見てよ乃亜! あの完璧なシンメトリー! 天王寺先輩の陽のオーラと、氷室くんの陰のオーラのコントラスト! まさにジークとアークの受肉! 現実が二次創作を超えてきたわ……!」「は
last updateLast Updated : 2025-11-02
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