京平市市立病院。「院長先生、私、自ら志願して海野市の分院へ赴任させていただきたいと思います」院長は驚いたように顔を上げ、しばらく沈黙した後、慎重に口を開いた。「晴子さん、本当に決心したのか?ご実家は京平市のはず。あの分院への異動は、少なくとも五年は戻って来られないが」「はい、覚悟の上です。今、海野市は開発の真っ最中と聞いています。ですから……そこに行きたいんです」明かりの下、神原晴子(かんばら はるこ)は瞳の奥の苦みを必死に隠し、力強くうなずいた。院長はまだ躊躇い、言葉を続けた。「……福井先生やご家族とは、相談したか?」福井横生(ふくい よこお)の名を聞いた瞬間、晴子の胸奥がきゅっと締めつけられた。彼女は院長に、穏やかな嘘をついた。「はい、家族とも話し合いました。皆、私の決断を理解し、応援してくれています」「そうか……ご家族に異存がなければ、早速人事に手配させよう」礼を言って院長室を出ると、廊下で看護師長の佐藤麗(さとう れい)が待っていた。彼女は目に涙を浮かべ、晴子の手をしっかりと握った。「本当に一人で行くの?お腹の赤ちゃんはどうするの?」「たとえ一人でも、この子はきちんと育てられるわ」晴子はまだ目立たないお腹に手を当て、静かに微笑んだ。「それに、分院には新しい医療機器が導入されると聞いている。もしかしたら、この腕の古傷も治せるかも。そうすれば……もう一度、執刀できるかもしれない」その言葉に、麗の目が悲しみに曇った。晴子の腕の傷は、かつての医療紛争で患者家族に切りつけられたものだ。病院には「神の手」と称される二人の俊英がいた。一人は横生、そしてもう一人が晴子。三年前のある手術で、横生がわずかなミスを犯した。激昂した患者家族がメスを振り回したその時、当直だった晴子が彼の前に立ちはだかり、深い傷を負ったのだ。その後、患者は無事回復し、横生の過失も問われず、彼は依然として病院の看板外科医として君臨し続けた。ただ一人、晴子だけが、執刀医としての未来を失った。横生はその恩義に報いるため――彼女を妻に迎えた。結婚して三年、横生は惜しみない愛情と優しさを注いだ。二人は周囲からは羨まれる、理想の夫婦に見えていた。しかし、それが真実ではないことを知っているのは、晴子ただ一
Baca selengkapnya