All Chapters of 手遅れの愛、妻と子を失った社長: Chapter 71 - Chapter 79

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第71話

「じゃあ仕事に集中して。わざわざ私のために帰ってこなくていいよ」玲奈は目的を果たしたので、気を遣うように一言を添えた。「大したことじゃないし、少し休めば平気だから」「わかった」遥真は無理に突っ込んではこなかった。二人はあと少し世間話をしてから電話を切った。時也は遥真と柚香、そして玲奈の間の複雑な事情を知っていたが、彼がここまで非常識な行動に出るとは思っていなかった。「玲奈が嘘ついてるのは分かってるだろ?」「何が言いたい」遥真の奥が読めない目には、感情が浮かばない。「簡単に言うとだな」時也は少し身を寄せ、言葉を選んだ。「玲奈さんってさ、いわゆる『あざとい系』、いま流行りの『ぶりっ子』ってやつだぞ」遥真は落ち着いた調子で、頷く。「うん」時也「?」――うん、で終わり?「先に仕掛けたのは玲奈さんのほうだぞ?柚香さんがわざと絡んだわけじゃない。君、柚香さんとちゃんと話し合うつもりはないのか?」時也は、彼の心の奥に残った良心を引っ張り出すように言った。遥真は、モニターの前で手術室の方向を緊張しながら見つめている柚香に視線を戻し、いつもの淡々とした声で言った。「今日俺を初めて知ったのか?」「いや、でもさ、身内をかばうのにも状況ってもんがあるだろ」時也は言いたいことを飲み込みながら続けた。「今回の玲奈のやり方は、正直かなり問題あるぞ」「筋を通すのは法律の世界のことだ」遥真は薄く口を開いた。「俺は、自分の大事な人だけ守れればそれでいい」時也は言いかけた言葉を飲み込んだ。遥真が身内をかばうタイプなのは分かっている。前に柚香がひどい目にあったときも、経緯を聞く前から彼女の味方をし、「俺は彼女の盾になるために来た。君らと正論を語りに来たんじゃない」と言い放ったくらいだ。そのときは、遥真が頼もしい男だと思った。けれど今は。ただ柚香が離婚を切り出しただけで、玲奈がいつの間にか「自分側の人間」扱いになり、柚香に非があるかのように責める。筋としては一貫してるのかもしれないが、どうにも腑に落ちない。「正直に言えよ」時也には一つだけ心当たりがあった。「君、そういう『あざとい系』好きなのか?」遥真はちらりと視線を向けたが、答えなかった。彼は「あざとい子」が好きなわけじゃない。たとえ相手が、かつて恩のある玲奈であっても。た
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第72話

遥真の、冷え切った視線がそちらへ向いた。時也は即座に口をつぐむ。「……今の、忘れてくれ!」遥真は昔から、彼ら全員より頭の回転が速かった。ただ、あることに関しては異常なほど思い込みが強い。誰が何を言っても聞く耳を持たないほどに。それから三十分ほど経った頃。手術室の扉が開いた。モニターに映る柚香は、真っ先に立ち上がって駆け寄る。目には隠しようのない焦りと心配が浮かんでいた。「高橋先生、お母さんは……」「手術はとても順調でしたよ」高橋先生はマスクを外し、安心させるように穏やかに微笑んだ。「これから毎日、声をかけてあげてください。話しかけたりしていれば、長くても二ヶ月以内には目を覚まします」「ほんとですか?!」柚香の瞳が一瞬で明るくなる。高橋先生はうなずき、はっきり返した。「ええ、本当です」「ありがとうございます!」柚香はこみ上げる思いのままに、先生と手術に関わったスタッフ全員に深々と頭を下げた。「本当に……本当にありがとうございます」柚香の母は病室へ運ばれていく。緊張がようやくほどけ、頭の上にぶら下がっていた刃がすっと消えたようだった。看護師たちは母をベッドに移し、各種の注意点を説明する。ひと通り終えると、高橋先生が言った。「では、少しお話があります。こちらは彼女たちに任せて大丈夫ですから、私のオフィスでお話ししましょう」柚香は看護師に礼を言い、高橋先生の後をついていった。高橋先生は椅子に腰を下ろし、手元のカルテを開く。さっきより表情がわずかに暗い。その変化に気づいた柚香は、不安が一気に押し寄せて落ち着かなくなる。「……お母さんの病状に、まだ何か問題があるんですか?」高橋先生は一度立ち上がり、コップに水を注いで柚香の前に置いた。その気遣いが逆に不安を煽る。「病状に問題はありません。あとは目を覚ますのを待つだけです」そう言う先生の目の奥は、どこか言いにくそうに揺れていた。柚香は身を乗り出す。「じゃあ話って何ですか?」「手術前にもお話ししましたが……手術費は一千万です。しかし術後の費用については、まだ予測がつきません」高橋先生は彼女のまなざしを受け止めながら、ゆっくりと言葉を選んだ。少しでも重さが和らぐように、声の調子まで気を配っていた。「覚えていますね」柚香は頷いた。「はい、覚えています」高橋先生は
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第73話

そう思った途端、柚香の気持ちはこれまでにないくらい軽くなった。プレッシャーが大きいのも、疲れているのもわかっている。それでも、目の前には希望がある。「病院の方は、私がしっかり見ておきますよ」高橋先生は、感情をぐっと押し込み、医者としてできる限りの安心を与えるように言った。「君は自分のやるべきことに集中してください」「ありがとうございます」柚香は丁寧に頭を下げた。もう他に話すこともなさそうで、彼女は席を立ち病室へ向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、高橋先生が顔を上げ、呼び止めた。「橘川さん」振り返る。「はい?」整った眉と澄んだ目元は、まっすぐで、以前のような従順でおとなしい雰囲気はもうない。短い間に芯の強さが宿り、まるで別人のようだった。高橋先生がじっと見てくるのに気づき、柚香はドアノブから手を離した。「どうかしました?」「いや、なんでもないです」高橋先生は、むしろ今の彼女の変化を良いことのように思いながら続けた。「ただ……忙しくて来られないときは、ひとこと教えてくださいね。私の方から君のお母さんの様子を見に行くから」「……はい。本当にありがとうございます」柚香の声はまっすぐで、感謝がはっきり伝わった。微笑みを返すと、彼女はそのまま病室を出ていった。足取りは速く、迷いがなく、その歩き方には静かな決意がにじんでいた。病室に戻ると、柚香はベッドの傍に座り、母の手を取って自分の頬にあてた。ベッドに横たわる母を見つめるその瞳には、優しさと揺るぎない愛情だけがあった。彼女は母・安江にたくさん話しかけた。この間の出来事を話し、未来の計画を語り、会いたかったことを伝えた。そのひとつひとつを、パソコンを見ている遥真は、驚くほどはっきりと耳にしていた。話を聞けば聞くほど、彼の周りに冷気のような空気が漂い始め、横に置いていた手がじわりと力をこめて握り締められた。柚香の描く「未来」には、陽翔がいて、安江がいる。ただひとり、彼だけがいない。時也は彼の変化に気づき、ノートパソコンを閉じながら言った。「お義母さんの手術、成功したんだしさ。下に行って様子見てきたら?」「弘志は?」遥真の目は深く、底が見えない。「……グラス洗ってる。バーで」時也は何でそんなことを聞くのかわからず、首を傾げる。「数日したら、柚香の住所を『うっか
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第74話

柚香はちらっと遥真を見ただけで挨拶もせず、陽翔の手を引いてそのまま歩き出した。「ちょっと待て」遥真が呼び止めた。柚香の足が止まる。彼女が口を開くより先に、車のドアが開き、遥真が脚を伸ばして降りてきた。落ち着いた大人の空気をまとい、彼女の前に立ちふさがる。「何の用?」柚香はそっけなく言った。そのよそよそしい態度は、はっきりと表れていた。遥真の視線が、彼女が陽翔の手を握るその手元に一瞬落ちる。声は淡々としていた。「少し来てくれ。話がある」柚香は動かない。呼ばれたら素直についていけるとでも思っているの?何様のつもりだ。「陽翔に聞かれてもいい?俺は別に構わないけど」すれ違うように彼女へ近づきながら、耳元で低くつぶやいた。柚香は唇をきゅっと結ぶ。陽翔が小さな顔を上げる。「ママ、どうしたの?」「なんでもないよ。ちょっとここで待ってて」柚香は彼の頭を優しく撫で、安心させるように微笑む。「パパとちょっと話してくるね。終わったら帰ろ」陽翔は素直にうなずいた。「うん」柚香は人差し指を軽く曲げて、彼の鼻先をそっとこすり、それから遥真の方へ歩き出した。二人の姿が離れていくのを見て、陽翔は自分のスマートウォッチを操作し、数回タップしてメッセージを一つ送信した。そのことを知らない柚香は少し離れたところで足を止め、遥真を見た。まるで他人に対するように距離を置き、冷たく言った。「で、何?」「玲奈の額の傷、君がやったのか?」遥真の黒い瞳がまっすぐ彼女を射抜く。柚香は一瞬固まった。最初は反論して、また言い争おうかとも思った。けれど、彼の身内をかばう性格を思い出し、これ以上言うのも面倒になり、素直に認めた。「そうだよ。復讐でもしたいの?そこに石ころ落ちてるし、それ拾って私の額にでも投げたら?同じくらいにはなるんじゃない?」遥真の視線は彼女に注がれた。たった数日でこの気の強さ。「明日、玲奈に謝れ」彼は言った。「私が悪くないのに?なんで謝らなきゃいけないの?」柚香は言い返す。彼がこう言うのは想定内だった。「一晩考える時間を与える」遥真は目的をはっきり示す。以前のような優しさや忍耐はない。「明日の昼までに水月亭に行って直接謝らなかったら、君の居場所を、君の父親に知らせる」柚香の瞳が大きく揺れる。遥真は淡
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第75話

「何をする気?」柚香は胸がぎゅっと縮むのを感じ、振り返って警戒した目で彼を見た。遥真の視線がぶつかる。表情は変わらず穏やかだ。「別に。ちょっと日常の話でもしようかと思って」柚香の手はじわじわ強く握られ、爪が掌に食い込み、治りかけの傷口がまた開いて血がにじむ。痛いはずなのに、まるで何も感じないみたいだった。「彼女が私の前ででたらめなことを言ったから、手を出したんだよ……」仕事も生活もこれ以上かき乱されたくなくて、柚香は感情を押し込めて説明した。遥真はゆっくりと言い返す。「昔、君をかばったとき、俺が他人の言い分なんか聞いたことがあるか?」その一言で、柚香が用意していた言葉は一瞬で崩れた。街灯が彼女の顔を照らし、表情がすべて浮かび上がるのに、その背後の影は深く沈んでいて、まるでこれからの人生みたいに先が見えない。「もし彼女が可哀想に見えるなら、病院の時みたいに十倍でも百倍でも、返してあげればいい」血の滲む手にぎゅっと力をこめ、最後のプライドを守るための言葉を吐き出す。でも相手は遥真。自分にも他人にも容赦しない男が、彼女の望みどおりに行動するはずがない。彼が不快なら、彼を不快にした者もまた、不快でいなければならない。「十倍、百倍返ししたいなら、止めはしない」遥真が一歩近づく。深く澄んだ瞳で、彼女をじっと見つめた。「でも、謝罪は別だ」「どうしても?」柚香の心は粉々に砕けていく。「選ぶのは君だ」遥真はすでに決めていた。自分に甘えて謝りたくないと言ってくれれば、それで終わりにするつもりだった。しかし、柚香は彼の思う通りにはならなかった。彼女は気持ちを整え、生活のために、一時的に自分を抑えて屈することを強いた。「私が玲奈に謝れば、私の住所を父に教えたり、最終面接に干渉したりしない……それでいい?」原栄ゲームと遥真は直接関係ないとはいえ、彼が本気で一言言えば先方も断らざるを得なくなる。権力者の機嫌を損ねてまで、無関係の一人を守る人なんていない。「ああ」その一言を口にした遥真の目は、薄い黒い靄をまとっていた。「分かった」柚香は安定した生活のために従った。「明日、玲奈に謝る。その時は約束は守って」遥真の目はさらに冷たくなった。本心に反して謝ることはできても、ろくな言葉は一つもかけない。ますます人を怒らせる
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第76話

柚香は陽翔の頭をそっと撫でた。「大丈夫よ、痛くないから」「こんなに大きな傷なのに、痛くないわけないでしょ」怜人はそう言いながら彼女を見て続ける。「昔はちょっと転んだだけで、泣き声あげてた人が誰だったかね」柚香「……」二人があまりにも自然で親しげに話す様子を見て、遥真の目は夜の闇みたいにどんどん深く沈み、まとう空気はどんどん冷めていく。周囲の雰囲気が一気に冷め込んだようだった。その気配に気づいた陽翔は、小さな体をくるりと向けて彼を見る。「パパ、ママにふーふーしてあげないの?」「陽翔がしてあげれば十分だよ」遥真は柚香に視線を向け、数秒じっと見つめてから陽翔へ視線を落とすと、後半の言葉を続けた。「おいで。パパ、ちょっと聞きたいことがある」陽翔は戸惑いながらも、素直に彼のそばへ歩いていった。ふたりは少し離れたところで立ち止まる。陽翔はぱちっと目を瞬かせて聞いた。「聞きたいことってなに?」「どうして怜人を呼んだ」遥真は気持ちを抑え、彼の前にしゃがむ。大きくて温かい手を陽翔の肩に置き、できるだけやわらかい声で尋ねた。陽翔はとぼけたふり。「ん?」「ごまかさないの」遥真がすぐ見抜く。「パパがママを守れないなら、僕が新しいパパを探してママを守ってもらう」陽翔は真剣で、幼い声で言った。「怜人おじさん、いい人だし。彼が新しいパパになってもいいよ」遥真「……」わざと怒らせようとしてるのはわかっていても、さすがに少しムッとした。「ママを捨てて別の人を選ぶのはパパの自由だよ」陽翔はさらに追い打ちをかけるように言う。「パパも、僕が自分で新しいパパを探すのを邪魔しないで」「わざとパパを怒らせて楽しい?」遥真は陽翔のぷにっとした頬を軽くつまむ。陽翔は幼いけれど、頭はしっかりしている。「パパが先にママを怒らせたんだもん」「いつママを怒らせたっていうんだ」遥真は理屈で返そうとする。「さっき」陽翔は堂々と言う。「ママ、パパを見つける前は笑ってたよ。パパと話したあと、目から光が消えてた」そこまで見ていたことに遥真は少し驚く。「目から光がなくなったのも、俺のせい?」陽翔は小さくうなずく。「うん」「世の中って、正義なんてないの?」遥真は陽翔の小さな頭を軽くつついたが、その目の奥の愛しさはむしろ深まる。陽翔「ママこそ正義」
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第77話

ブブッと二度、スマホが震えた。陽翔からのメッセージだった。【パパ、おやすみ】何度も見慣れた短い文字なのに、今日ほど胸に刺さったことはない。遥真は指先で画面を二度なぞり、しばらく考えてから返した。【おやすみ、陽翔】陽翔はそれを見て、そっと唇を噛んだ。車に戻ったあと、怜人はまず柚香の手当てをし、処置が終わってから二人を楓苑マンションまで送った。母子がマンションに入り、階段を上がっていくのを確認してから、怜人はスマホを取り出し、柚香にメッセージを送る。【傷は水に触れないように、ちゃんと気をつけてね】柚香は陽翔を寝かしつけてから、そのメッセージに気づき、【うん】と返した。怜人はすぐに返信してきた。【今日、ちょっと元気なかったよね。遥真がまた何かした?】【今日は全部うまくいったんだもん。元気ないわけないでしょ】心配させたくなくて、嘘をついた。面接も順調で、母の手術も無事に終わった。夜のあの件さえなければ、本当に「全部順調」だった。「何年友達やってると思ってるの。元気かどうかくらい見れば分かるよ?」怜人はそのまま音声メッセージを送ってきた。「言いたくないなら追及しない。でも何があっても、俺と真帆は味方だからね」柚香は短く返した。【知ってる】その晩、なかなか眠れなかった。二十数年の人生で、間違っていないことに対して頭を下げたことなんて一度もない。結婚前は何があっても両親がいて、誰も自分を強く迫ったり、いじめたりできなかった。結婚後は遥真がいて、外で少しも悔しい思いをさせることはなかった。でも今は、自分だけだ。始まったばかりなのに、生活をこんなにめちゃくちゃにしてしまった。母が目を覚ました時、自分に落ち度がないのに謝ったことを知って、自分を責めるだろうか。柚香はいつ眠ったのか覚えていない。ただ、アラームが鳴った瞬間、頭がぐらぐらして目も開かず、それでも早起きして朝食を作った。遥真のいない生活では、全てが自分でやらなければならない。一日三食、家の掃除、日常の雑事。でも、こういう生活は不思議と落ち着く。簡単に身支度を終え、陽翔に朝ごはんを食べさせて学校へ送り出してから、ようやく彼女は車に乗り、水月亭へ向かった。途中ずっと心の準備をしていた。玲奈に謝るなんて、正直、死ぬほどつらい。でも人生ってときどき、生きてる方がつらい
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第78話

玲奈は思わず遥真の袖をつかんで、説得するように言った。「もういいんじゃない?私、大したことないし。わざわざ頭を下げる必要なんてないよ。それに昨日の状況は、柚香だってわざとじゃなかったんだから」「わざとかどうかなんて関係ない。傷つけたことは事実だ」遥真の声は冷たく、微動だにしなかった。玲奈の全身の血が、その瞬間すっと冷えた。彼は柚香を五年間、あれほど甘やかし続けてきたのに、別れてまだ数日で、こんなにも冷たくなれるの?もし後で、自分が嘘をついていたと知ったら……そのとき彼は、どんな反応をする?考えるだけで、ぞっとしてしまう。柚香の表情は変わらなかった。来ると決めた以上、こうなる覚悟はとっくにしていた。彼女はあらためて玲奈のほうを向き、深く頭を下げて言った。「本当にごめんなさい、桐谷さん」呼び方も、声の調子も、態度も、どの点を取っても非の打ちどころがない。誰が見ても、彼女は心から謝っていた。そもそもここまでさせているのは遥真なのに、実際に彼女が玲奈に頭を下げた瞬間、胸の奥にぶわっとわけのわからない怒りが湧き上がってきた。その次の瞬間。誰も予想していなかった行動に出た。遥真が柚香の手首をつかみ、そのまま強引に彼女を引きずってガレージへ連れて行き、車の中に押し込んだ。「遥真!」玲奈が追いかけようとして足を踏み出す。「柚香と少し話す。先に家に入ってて」遥真は振り返りもしなかった。玲奈は引き止めたかった。けれど、このところの彼との距離感を思えば、追えば彼の機嫌を損ねるだけだとわかっている。結局、「わかった……夜は早めに戻ってきてね」と返事をした。それ以上追わず、胸のざわつきを抑えながら部屋に戻っていった。柚香は、遥真のことを本当にどうかしてる、と心底思った。振り払おうと何度も手を動かしたが、彼の力は強すぎて、手首が赤くなるだけで逃れられない。「まさか柚香さんが、ここまで腰が低いとは思わなかったな」遥真が身をかがめ、後部座席に押し込んだまま動けないようにしてくる。「言われたら素直に謝るなんて」「プライドより現実でしょ」柚香は、彼の言葉をそのまま返した。その声には、さっきの強がりはもうなかった。「これ、あなたが私に言った言葉でしょ?」遥真の手に力がこもる。長いあいだ彼に守られて、彼の前で頭を下げたことなんて一度もなか
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第79話

「ちょっとあなたの思い通りにならなかったら、それって全部『意地』なの?」柚香は彼の冷たさを帯びた目を見つめ、静かに言った。「あなたの望みどおりに動かないだけで、すぐ怒るんだね」遥真が彼女を抑える力が次第に強くなっていく。痛かった。けれど柚香は声ひとつ漏らさない。「遥真、もう少し大人になったら?」柚香は、彼が子どもみたいだと本気で思った。「ここ数日、俺が君の面倒をどれだけ片付けたか知ってるか」遥真は手を放さない。「弘志や、あの個室にいた連中が二度と君に近づかないのは、全部俺が先に処理したからだ」柚香の表情が、一瞬固まった。遥真は告げる。「君が言うことを聞かなくても、余計なことで疲れさせたくなかった」彼は怒っていた。言うことを聞かない、従わない、頑固な彼女に。それでも、守りたかった。ぶつかって傷ついて、最後には自分のところへ戻ってくると、そう思って。「じゃあ聞くけど、あなたが『片付けた面倒』より、あなたが私に持ち込んだ面倒の方がよっぽど多いって考えたことある?」柚香は押さえつけられながらも、身を任せるように落ち着いて言った。遥真の目がわずかに深くなる。「あなたが手を出さなければ、指輪は高く売れてた。すぐに仕事も見つかった。父に絡まれたって、真帆がすぐ助けてくれたはず」柚香は続ける。「今よりずっとマシに生きられたし、あなたからいつ仕返しが来るかなんて怯えなくて済んだ」「……そう思ってたのか」遥真の手の甲に浮いた血管がくっきりする。だが、それ以上力は加えない。柚香は迷わず答えた。「そう思ってる」「俺に守られなかったらどうなるか、考えたことある?」遥真の声は低い。「ないよ」柚香は、誰にも頼れない生活をしたことがなかった。「でも、今よりはマシだと思う」その言葉に、遥真はふっと手を離した。柚香はすぐに車を降りた。数歩分距離を取り、彼を警戒するように立つ。遥真はそれを気にも留めず、袖口を整え、いつもと変わらぬ落ち着いた動きで二歩近づいた。「行っていい」「まだ返事をもらってない」柚香は約束の返事を求めた。「最終面接には口を出さない。君のことも弘志にも言わない」遥真の声は淡々として、先ほどよりずっと距離がある。「これで満足か」「ありがとう、久瀬社長」柚香はそう言った。遥真の目が、さらに冷えた色を
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